修羅幼女の英雄譚   作:嵯峨崎 / 沙城流

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10 『背水の剣戟2』

 ナッドは模擬戦の趨勢に目を奪われていた。

 棒立ちのまま瞬きも忘れて、歯で情動を噛み潰す。

 帝国小隊の命運は暗夜を行く小舟のようだ。

 単なる航海ではない。嵐に襲われる最中のそれだ。

 一秒後には黒い海に飲み込まれるのではないか。気を揉みながら、操舵する代表者(ようじょ)の一挙手一投足を見守り続ける。瞳の乾きにも気が及ばない。身体が無意識に瞬きをしたとき、彼はようやく我に返った。

 息苦しさのあまり胸元を撫でる。どうやら自分は唾を飲み込むことにすら難儀していたらしい。喉元に凝固したそれを押し込み、こわごわと息を吐き出す。

 この場に満ちた緊張感だけで窒息寸前だった。

 ナッドは身体の強張りを解しつつ、現状を思う。

 ──帝国側は劣勢である。それも一方的に、だ。

 船首の先の暗闇に勝機という陸地は見出せない。

 彼は悲喜混じる想念を、手負いの幼女に馳せた。

 

(少尉……)

 

 ──討伐隊と帝国小隊の人垣で成した舞台。

 円心から離れた端に、白い矮躯があった。

 その前傾姿勢は不退転の決意の表れだろうか。

 澄んだ黄金色の双眸には闘志の灯が点じている。

 ナッドにはそれが眩く思えた。その瞳の輝きだけが帝国小隊の暗夜航路を照らす唯一の光なのだ。実際には蝋燭の火のように儚くとも、縋らねばならない希望だった。容赦のない現実から目を逸らすために、そこだけを見て、信じたかった。しかし、鎧われていない凄惨な姿によって脆くも打ち砕かれてしまう。

 開始から六分現在、幼女は傷だらけだった。

 

「ふ……はぁ」

 

 陶器めいた素肌には青痣と血液が目立つ。

 幸いなことに、骨折まで至ってはいない。だが、すり剥いた膝頭や上腕、脇腹からは包帯の繊維で濾された血が這う。その無残な有様から目を背けたくなる。

 特筆すべき患部は右手首だろう。度重なる殴打を浴びて腫れ上がっている。彼女がいまも剣を握れている事実が奇跡的にすら思えるほどだ。果たして触覚が生きているのか。神経が麻痺していないのか。

 傍観者の立場からは心情を汲み取るしかない。

 あの、理解の及ばない幼女の意思を──。

 

「ふっ……!」

 

 小さな吐息とともに矮躯が消えた。

 ナッドは視線の行き場を失くし、咄嗟に影を探す。

 だが、白髪の束が居場所を明らかにした。撓んで丸まった毛先が舞い上がり、反り返った瞬間から身体に追い縋っていく。うねるように颶風を泳ぐと、地面に漸近していく。海中に潜る鯨の尾ひれさながらだ。

 幼女は、地に限りなく身を預けて駆け抜けていた。

 傷口は多かれど、俊敏な身の熟しは健在である。

 そう安堵めいた感慨を抱いたのも束の間だった。

 

「少尉……またっ」

 

 舞台中央に直進するソルは手を伸ばす。

 前方にではなく、下方の地面を払うようにする。

 それで進路が左方に逸れた。なんと不可解な迂路だろう。横回転を帯び、肩甲骨付近で接地する。慣性のままに転がって右肩口で跳ね上がると──ひと挙動で体勢を立て直し、地面を両脚で滑っていく。

 時に跳ね、時に駆け、時に動作を止める。

 不規則な動きは単純に捉えどころがない。彼女は意図して律動的な動きを排していた。一見すると無軌道にも思えるそれが『黎明の導翳し』を惑乱させる手立てだったのだろう。丸みを帯びた軌跡は先を読ませずに、緩急のつけ方は妙技と言える円滑さだった。

 さりとて、それで突破できるほど甘くはない。

 

「ぐぬ……ぅ!?」

 

 唐突だった。幼女の右半身が後方に逸れる。

 肉を打つような音が空の彼方まで響く。

 苦悶の滲んだ声を残して大きく弾き飛ばされた。

 だが、浅い打撃だったのだろう。かろうじて踵から着地できていた。砂粒が撒き散らして余勢を削ぐと、間髪入れずに以前と違った道筋で仕掛け始める。

 そのとき、ナッドの隣から嘆息が零れた。

 

「……もう、見ていられないわ」

 

 息の主は、白けた表情のマジェーレだった。

 彼女は俯くと腕組みを解き、片手で目頭を押す。

 朝暮を問わずに倦怠感を漂わせていた少女は、それを掻き消すほどの苛立ちを張り出していた。

 

「マジェーレお前……どう思う」

「どうってなに。あの子の正気のこと?」

「違う。わざと言ってんだろ。勝つ機会のほうだ」

「あるわけないでしょう」

 

 ──模擬戦は幕開けから膠着状態が続いていた。

 構図は変わらない。幼女が果敢に攻め立てるも『黎明の導翳し』の不可視の防衛に弾かれる。すべてがこの繰り返しだった。見飽きた予定調和がくるくると空回り続けている。ただ厳密には、戦況に進展がないだけで膠着自体はしていない。着実に後退している。

 時を経るごとに幼女の生傷は増えていく。

 その呼吸は乱れて、動作は鈍っていく。

 マジェーレは「まあ」と正面から目線を逸らす。

 

「闇雲に動いていないのは素直にすごいことよ」

「……無茶苦茶に攻めてるわけじゃない、のか」

「全く違うわ。あの子は『黎明の導翳し』に弾き飛ばされるたびに流派を取り(・・・・・)替えているの(・・・・・・)。握り方から運動の起点となる部位、重心の位置に至るまでね。次の行動を見切られないためにでしょうけど、凄まじい小細工。……これだけの数をどこで覚えたのやら」

 

 呆れ混じりの言葉にはただ瞠目するばかりだ。

 確かに士官学校で暗記した流派もあった。

 とは言え、彼に判別できたのは披露された一割にも満たない。たとえば有名な構えや足運びとして、帝国の誇る剣術流派たる『以遠無想流ナナキ派』と『剣聖伝流=エンヴィロア』、かつて掟破りの流派とも呼ばれた『ジーク流』がわかる程度だ。基本的にナッドは国を跨いだ剣術や、傍流のものには明るくない。

 しかし、度肝を抜かれるには十分の事実だった。

 通常、流派は一戦闘中に変えるものではない。それは攻防形式を体系化したものだ。当然ながら定石や思考法の差異は細大ともに存在し、身体に染みつくほどでなければ咄嗟の判断を見誤ってしまう。

 それをソルは服を着替えるように取り替える。

 ともすれば、剣術のお披露目会と紙一重の曲芸だ。

 だが、相手を撹乱しつつ勝利を見据えるなら──。

 

「口が裂けても『理に適っている』なんて言えないけれどね。非効率的よ。あれだけの型を完璧に使い分ける労力があれば、もっと他にもできたでしょうに。絵面的に見れば地味、技術的に見れば派手。価値を示威するようでせず、勝利を追うにしても半端。やることなすこと、すべて噛み合っていない箱入り娘さんね」

「いや、それは少尉に対して言いすぎだろ……」

「逆にあなたが擁護しすぎなのよ。だって、いままで好き勝手してくれた『修羅』さんよ? それこそ『黎明の導翳し』さんとの戦いを楽しむためだけに、曲芸紛いのことをやっているのかもしれない」

「……まさか、そんな。怖いこと言うなよ」

 

 肩を抱き、足元に絡みつく寒気を蹴散らす。

 たとえ冗談でも笑えないことが何より恐ろしい。

 

「でも、目的には適っているわ。限りなく淵にあるとは思うけれどね。だからあの子の勝機が『あるわけない』と言ったのは撤回する。言葉が過ぎたわ」

「そっ……そうだよな。あるよな」

 

 ナッドの杞憂を保証するような言葉に安堵する。

 ただマジェーレは仏頂面のまま続けた。

 

「まあ、真正面から勝つのは無理よ。あの曲芸仕立ての手法はこの通り通用していないでしょう? でも、私たちには時間制限がある。あの子の並外れた頑丈さを信じれば、もしかしたら耐えきれるかもしれないわ。そうなれば模擬戦の勝利条件を達成できる」

「おい……だいぶ消極的じゃないかよ」

「一応、勝てるのならいいことでしょう?」

「……そうだけど。まだ諦めるには早いよな」

 

 ナッドは無理に口角を上げて、両拳を握った。

 暗澹たる辛気に沈まないために言い聞かせる。

 模擬戦は勝利条件さえ満たせればいい。勝ち筋がどうあれ命を繋げられる。もちろん、先を見据えるならば真に認められるだけの価値を示さねばならない。しかし『黎明の導翳し』を相手取って、時間切れまで耐えていれば十分に示したと言えるはずだろう。

 それでも、虚ろな不安感は影のように付き纏う。

 諦観の滲んだ声色が、少女の唇を割る。

 

「まあ、時間まで粘るのも無理かもだけれど」

「……やっぱり防具がないのは大きいか?」

「それもあるわ。でも問題点はあっちの副官さんのときと同じ。流派を矢継ぎ早に替えるなんて、体力を度外視しすぎている。あと数十秒は速度を保てるでしょうけれど、鍍金が剥がれるのも時間の問題よ……少尉はどうあっても遅滞戦術を取りたくないのね」

 

 少女の着眼点は幼女の呼気に移る。

 曰く「呼吸する一瞬、人は無防備になる」。

 息を吸い、吐く。その移り変わる刹那だけは、張り詰めていた筋肉が弛緩してしまうらしい。謂わば『呼吸の盲点』である。そこを突かれれば数瞬ほど反応が遅れてしまう。ゆえに呼吸を悟らせない技術、及び呼吸を読む技術が重要視されるのだという。

 手練れの剣士であれば隠す術に長けている。

 または呼吸を誤認させることで駆け引きする。

 

(けど、いまの少尉にはそれだけの余裕がない)

 

 ナッドの目から見ても明らかだった。

 血に塗れた幼女の表情は熾烈極まりない。

 黄金色の瞳は眼窩一杯に見開かれている。眦は表情筋に吊り絞られ、額から落涙跡のように垂れる紅色が相貌の凄味に拍車をかけていた。おそらくは相当な痛痒に苛まれているのだろう。そこには、これだけの距離を挟んでも圧倒されてしまう迫力があった。

 対する『黎明の導翳し』は綽然と佇んだままだ。

 二又の紫紺は風の悪戯めいた手指で乱れる。翩翻と揺れる髪は、触れるに能わぬ狼藉者を嘲笑うようでもあった。だが、その主の表情は嘲弄と対照的だ。

 手櫛で梳かれ、露わになった彼女の顔は──。

 

「──……」

 

 柳眉を八の字に傾げ、深青色の目を伏せていた。

 きっと、瞼裏に眠らせた情動の名は慈悲心だ。

 彼女はこの舞台に君臨する主役である。立ち位置たる『中央』が指し示す通りだ。そこに片鱗を覗かせる絶対者の余裕があればこそ、譲歩して模擬戦に臨めたのだろう。直前に交わしていた問答を思えば、果然として足掻く者に手向けるものは想像できる。

 上位者の傲慢に裏打ちされた、同情だ。

 

「現在、七分経過です」

 

 進行役を務める男が、無情な現実を告げた。

 折しも、局を結びかねない打撃音がする。

 ソルは呼吸の盲点たる一瞬に腹部を突かれ、中空に打ち上げられて──藻搔いていた。おそらく受け身を取るための姿勢制御を行っているのだろう。彼女は満身創痍でありながら、いまだ足掻いている。

 だが、墜落する途中で追撃が加えられた。

 矮躯は空中を二度、三度と跳ねる。球遊びの要領で行き交い、最後は放り捨てられるように吹き飛ばされた。受け身の状態すら取れず、地面と鋭角に右肩口が打ち据えられる。もはや呻きもせず、俯せに沈む。

 ナッドは足下が崩れていく幻聴に囚われた。

 脈拍音は頭蓋奥まで響き、舌根も干上がった。

 ──やはり少尉も帝国小隊も、終わりなのか?

 

(いやっ、まだ……まだわからねぇ。少尉には勝算があるはずだ。『黎明の導翳し』との問答じゃ馬鹿みたいなこと言ってたが、まさか勝てもしない勝負に乗ったとは思えないんだ。……けど、いや、やっぱり)

 

 ナッドは声にならない祈りを熱視線に込める。

 この模擬戦を予定調和に終えてはならないのだ。四大将の一人に挑んだ時点で皆が描いた青写真をなぞれど、価値が認められるはずないだろう。ゆえにこそ一心不乱に祈るしかない。その相手が神であれ、敵方であれ、聞き届けられることはないと知っていても。

 そのとき幼女が動き始めた。剣先を地に突き立て、縋るように這い上がる。幾度か崩れ落ちかけるも、彼女は確と二本足で立ち上がっていた。

 そこでナッドが覚えたものは一握の安堵。

 次の瞬間には数多の感情が混ざり、立ち尽くす。

 

(クソ……クソ、クソが……見て、られねぇよ。残り少ない時間制限で、どうしろってんだよ!? もう七分。いや、まだ(・・)七分……)

 

 手詰まり。客観的な見地ならば躊躇なく言える。

 言えてしまうことで閉塞感が弥増(いやま)しに感じられた。

 きっと『黎明の導翳し』は勝負を詰めにきた。

 それは彼女の慈悲心の発露なのだろう。容赦ない攻め立てとは裏腹に、端正な顔立ちを悲痛に歪ませている。もし常人の感性を持ち得ているのなら、一方的に嬲るような戦闘を続けたくないのかもしれない。

 だから──攻撃は苛烈さの一途を辿るだろう。

 そのとき脳裏に、あり得べからざる未来が過る。

 もしも、ソルの指名段階で撤回に動けていれば。

 もしも、頑是ない振る舞いを制せていれば。

 もしも、自らに相応の力と勇気があれば。

 現在(いま)になれなかった未来(もしも)が惜しまれてならない。

 もしも、もしも、もしも、もしも──いや。

 

(……こんなのは、侮辱だ)

 

 書いては消すを繰り返した絵空事。

 昨晩から続く、ないものねだりは無様だった。

 心の蓋を外せば、本音が隅で膝を抱えていた。

 

(わかってる。わかってんだ。こんな後悔……すること自体が烏滸がましいんだって。力がなくても、勇気を出して少尉を止めることならできたんだ。熱に浮かされて、足元を顧みずに進むだけなら、俺にだってできていた。思考停止は……得意だからな)

 

 ──結局、俺は一歩も動けちゃいない。

 成長したつもりで、斜に構えた嫌な奴のままだ。

 ジャラ村でのハキム戦がその実例だった。

 ナッドはあのとき、ただ衝動を胸に灯していた。

 無策を誇り、碌に考えもせず踏み出そうとした。マジェーレに掣肘されなければ、白昼に死骸を晒していただろう。ソルの勇姿に魅せられて「あれこそが自らの生き方だ」と思考停止して酔っていたのだ。

 現実という冷水を浴びたとき、ようやく解した。

 あの蛮勇は、逃げと同義だったのだ、と。

 

「……半端な奴、馬鹿かよ本当」

「突然どうしたの。あの子への毀誉褒貶が激しいけれど。でも、どうせなら信じてあげなさい。得にもならない不安を誤魔化すだけなら、盲信するのも一つの手よ。もっとも、自分の損が少ない限りはね」

「いや……少尉のことじゃねぇ。自己嫌悪だよ」

「そう。なら、自棄にはならないでね」

 

 少女は興味を失ったのか、模擬戦に向き直る。

 今更ながら以前の彼女の言霊が脳裏に蘇った。

 思えば、あの言葉の刃は見事に芯を捉えていた。

 ──無謀や無茶を押し通すのは『ドン底』のとき。

 ──まず冷静になるの。そうじゃないと。

 ──きっと後には悔いしか残らないわ。

 

(ハキムとの遭遇戦で……冷静な思考能力があればすぐに理解できたことなんだ。英雄を前にした場面で、力不足の奴がハナから突撃を選ぶなんて間違ってる。周囲を検分して、地形を鑑み、使える手札を吟味すれば、幾らでも手段はあったんだ)

 

 つまり少女が言うところの『ドン底』に非ず。

 まだ最適解を探せる段階であって、衝動に身を任せる時機はまだ先だったのだ。だが彼は、目先の危機にばかり囚われて、思考停止をした挙句に、他人の過去の成功例にあやかろうとした。それも成功例の背景を分析せずに表面だけをなぞって、誇らしげに。

 目前の事象を正しく直視して最善策を考える。

 それを放棄した臆病者こそが──ナッドだった。

 谷底に目を凝らしながらの綱渡りができない。

 背後に佇立する現実と向き合えていない。

 

(でも、それは俺だけの話じゃないはずだ……)

 

 これを共有できる相手には心当たりがあった。

 ナッドが目を遣ったのは、右方向に聳える巨体。

 そこを中心として寄り集まる帝国小隊だった。

 表情は一様に厳しい。彼らも崖際で縄に括られた同士である。幼女と少女の奔放な言動に振り回され、その身軽さを恨めしく思っていたはずだ。昨晩の座敷牢から議論に至るまで、極度の緊張と焦燥に当てられていた。溜まり続けた不満の袋は破裂寸前に違いない。

 事態は、線を越えるか否かの淵にあったのだ。

 遂に、模擬戦を黙然と見守っていた大男が動く。

 音もなくマジェーレの側に寄り、耳打ちした。

 

「……マジェ。オメェの目から見てどう思う」

「なに、あなたもナッドと同じこと訊くの?」

「違ぇよ馬鹿。泣き言なワケねぇだろが、オメェ。あちらさんの『不可視の攻撃』のことだ。マジェには実体が看破できてっかと思ってな。せめてアレを攻略できなけりゃ、この模擬戦じゃ負け扱いだろ」

「あなたが前向きな話? とても意外」

「混ぜっ返すな。……癪に障る奴だよオメェは」

 

 ゲラートは目を丸くする少女に青筋を立てた。

 だが、ナッドもその落ち着きぶりは意外だった。

 彼は以前から幼女と少女を痛罵していた。彼女たちの理解不能な言動には常識的な観点から気色ばむことで、小隊員が溜める慷慨の捌け口となっていた。ゆえに模擬戦でも、皆の受けた圧迫感を代弁すると思っていた──が、その激情は眉の動きにも表れない。

 彼から滲み出ているのは純な真剣味のみだ。

 

「なんで、そんな落ち着いて……」

 

 ふと、自分の口から素朴な疑問が零れた。

 大男からは鳶色の視線を煩わしげに向けられた。

 慌てたナッドは身を竦めて黙り込む。いまにして思えば、周囲の小隊員の挙措にも混乱はなかった。硬い表情には焦心が滲みこそすれ、暴発する様子はない。

 彼らはゲラートに代わって口々に答えていく。

 

「そりゃ仕方ねぇよ。表立って何もやれねぇんだ」

「いまは討伐隊に見極められる時間だ。見定められているのは、あの小さな童だけではないのだよ。認められた暁に帝国小隊が討伐隊に加わるのなら、帝国小隊全員だろう。内輪揉めをするべきではない」

「文句あんなら、前に横槍入れとけってなるしな」

「それによ、俺たちは何もナッドとマジェーレみたいに行儀よく応援してたワケじゃねぇのさ。武器が足りないなりにゃ打開策を考えてた。模擬戦に場の注意が向いてる隙を見て、逃げ出せねぇかってな」

「だが……あちらに睨まれてちゃ諦めるしかない」

 

 目顔で促された先は、舞台を隔てた対岸だ。

 そこには四大将副官が椅子に腰掛けている。枯木の枝めいた両手を杖にした剣の柄に重ねて、巌のごとく黙しているのだ。彼は顔を伏しながらも戦況を眺めているのだろう。ナッドがそう推測したのも束の間。老爺と視線が交わった瞬間、その誤りに気づいた。

 ただ模擬戦を見ていれば、目が合うはずがない。

 ──いまも自分たちは見張られていた。

 老爺の翳る面相、その眦の皺がわずかに深まる。

 

「っ……!?」

 

 ただそれだけの、十丈も隔てた視線の交わり。

 だが、それだけで脳天まで怖気が駆けのぼった。

 剥き身の殺意が首筋に当てられた。もしもいま下手な小細工を弄して、沙汰から逃げ出す算段を立てていれば──見抜かれた挙句に殺されていた。そんな確信を覚えるほどに、英雄の視線は鮮烈を極めていた。

 ナッドはジャラ村で一度だけ経験した。そのときと同様に小指一本動かせず、精神的にも蹂躙される。この圧力を受ければ、足掻く意志さえ(たちま)ちのうちに揮発し、自らが丸裸にされた心地になる。誰にも見せられないような、いまも心の奥底で葛藤する浅ましい感情のすべてを見透かされているのかと──錯覚する。

 強大な存在とは、存在しているだけで暴力なのだ。

 ゲラートは口許を歪めて、歯軋りを覗かす。

 

「……わかったか、オメェ。俺たちは掛け値なしに終いなんだよ。あのちびっこに模擬戦で価値を示してもらわにゃな。その唯一の突破口も俺たちが吠えたり泣き叫べば狭まっちまう。だから、大人しく戦闘のほうに集中して、せめて気を紛らせようってんだ」

「偉そうに語っておいて、結局は泣き言じゃない」

「マジェ、俺がここで喚き散らしていいのか?」

「ごめんなさい。内省的でいい話だったわ」

 

 ──逃げていたのは自分だけだった。

 そうしてナッドは大きな勘違いに気づく。

 彼らは現実に対し、誠実に向き合っていた。

 マジェーレは常に人知れず頭を絞っていた。古井戸の水面のように淀んだ黒瞳の奥では、損得勘定の物差しによって状況を見極めていた。その末に掴んだ最善策を通すため、如何な針の筵であれど横槍を入れた。

 帝国小隊は紙一重だった。幼女と少女に舵取りを任せきりで、ナッドと同様に絶望感と閉塞感の吹き溜まりになっていた。この明暗を分けたのは『死に抗う真剣味』だったのだろう。彼らは精一杯に向き合い、どこか抜け穴がないかと目を皿にしていた。

 そしてソルは、いまも最前線で身体を張っている。

 彼女の姿勢に教えられ、憧れた──不屈の心。

 ここで誤謬を正す。意味を履き違えていた。

 諦めないとはつまり、真摯に向き合うことなのだ。

 

(そうだ。あのときから俺はそうだった。マジェーレに策を預かったときの使命感も、向き合う役目を委託できて安心したから。座敷牢じゃ活路を探すことから目を逸らして腐っていた。……そして、打開策をこじ開けようとするマジェーレと線を引いちまった)

 

 それではまるで、以前のナッドと変わらない。

 だからこそ痛感する。凡人が心持ちひとつ改めたところで、容易く『自分』は変えられない。いつも薄氷の下には深淵なる過去が眠っている。いつか現実を耐え忍ぶために踏み締めたとき、足は遠からず氷を割って、己の過去が亀裂から顔を覗かせるのだ。

 そこで問われるのは人生を左右する二択である。

 以前の自分に滑落するか、現在の自分を貫くか。

 古いものは馴染みがあっていい。既知の価値観ゆえに自らを律さずとも、身体が動くままに任せればいい。たとえ新鮮味を引き換えにしたとして、生きやすい快適な価値観とは何物にも代えがたい。

 新しいものは遠くにあって眩しい。未知の価値観ゆえに憧れに沿った、誇りの持てる自分を造り上げられる。たとえ安心感を引き換えにしたとして、生きてみたい綺麗な価値観とは何物にも代えがたい。

 だからナッドは選ぶ。ここで意思を決する。

 ──今度は正しい意味で諦めないように(・・・・・・・)

 ──向き合ってみることに、した。

 

「現在、八分経過です」

 

 時刻を知らせる声が、意識を現実に立ち戻らせる。

 ナッドは釣られて人垣の円心に視線を飛ばす。

 『黎明の導翳し』が戦闘開始以来の言葉を紡ぐ。

 

「もう──無意味、です。やめません、か」

「や、やめる……? まさか、なのじゃ」

 

 対する幼女は、毅然と降伏勧告を突き返す。

 だが声は低く掠れていた。息遣いは引き摺るように絶え絶えで、聞き手すら息苦しくさせる。体力の磨耗が臨界点に達しているのだろう。それでも彼女の手は上下する胸を押さえず、剣の柄を握っていた。黄金色の双眸に宿る闘志は依然として燃え滾っている。

 彼女は背を曲げて『黎明の導翳し』を望む。

 その姿は屍兵さながらだ。自らの身体に頓着せず、一心不乱に我が道を突き進む。マジェーレの言う「並み外れた頑丈さ」を悍しいほどに実感できる。

 ナッドもその敢闘ぶりには怖気すら覚えた。

 だが、それは頼もしさの裏返しである。

 

「……凄まじいわね」

「でも、少尉が『不可視の攻撃』の実体を突き止められないと駄目だ。精神力が尽きるまで嬲られる。流石に……制限時間の最後まで受け続けるのは無理だ」

「そりゃ間違いねぇ。向こうもそれは許さねぇだろ」

 

 ゲラートが顎で示したのは討伐隊たちだ。

 その仕草で確信を得て、ナッドは喉を鳴らした。

 事ここに至れば、いままで不安の影を落とし続けてきた事態を確定してもいいだろう。いまだに幼女が骨折まで至っていない理由は、頑丈の一言で説明がつくことではない。絶妙に手心が加えられている。

 当然、討伐隊の面々が容認する範囲内で、だ。

 でなければ、とうにハキムに止められている。

 ──この裁量が見逃されている理由は。

 

「そらオメェ、模擬戦の意義に沿ってるからな。奴らはあの少尉サマの価値を見極めてぇんだ。できるだけ長く観察するんなら……そりゃ、ある程度は手加減しなきゃお話にもならねぇってことだろ」

「生かさず殺さず、どれだけできるかってことね」

「そーそー。君たちにもそれは言えるケド」

 

 背後から突然、同意の声が添えられる。

 慌てて振り返れば、予想外の二人が立っていた。

 一人は、小さく片手を振るローブ姿の少女だ。

 頭巾の縁からは小さな紅玉一揃いが輝く。その虹彩が妖しい色合いを醸す所以は、薄汚れた格好や時機に反した、底抜けの明るさによる不協和音だろう。

 その隣では腕組みした青年が仁王立ちしている。

 紅蓮の髪が微風で棚引く。横髪の尾が嫋やかに隠そうとするのは碧色の双眼である。強固な意志を秘めた瞳に曇りはなく、鏡のように帝国小隊の困惑顔を映していた。これを二つ収めた表情の屈託のなさには、危うく疑心や毒気を抜かれてしまいかける。

 マジェーレは胡散臭そうに手でひらひら扇いだ。

 

「……デュナム公国の代表者がお揃いで何事?」

「えっとねー。君たちが楽しそうな話してるのが聞こえてねー、それでハキムのお爺ちゃんに『ちょっと見てこいやー』って言われたから来たよっ! だから」

「うむ。オレたちには構わず、話を続けてくれ!」

「構わず……つってもな。どうするオメェら」

「どうするも何も、なあ」

 

 ──そのとき、背中で這い回る視線に気づく。

 ナッドは寒気にも似た感覚に身を震わせた。

 身体が硬直しながらも横目を向けば、知れる。

 帝国小隊全員が、討伐隊による品定めの視線に晒されていたのだと。不躾な意識の束の先端で舐られる不快感に、各々が頬を痙攣(ひきつ)らせて、あるいは眉間を狭めて、言外せずに意地で耐えていたのである。

 価値を見極められる対象は小隊長だけに非ず。

 その言葉の意味がナッドにものしかかってくる。

 

(たぶん……この二人の目的は監視か、立会人みたいなモンなんだろう。どれだけ俺たちが使えるか。どれだけ考える頭があるか。こいつらに俺たちの話を聞かせて判断するつもりかもしれない。ハキム・ムンダノーヴォ直々に差し向けられているようだし)

 

 ──何にせよ考えすぎってことはないはずだ。

 最初に二の句を継いだのはマジェーレ・ルギティ。

 澄ました調子をすぐ取り戻し、黒髪を弄る。

 

「いいんじゃない? 気にしないでってことなら、気兼ねなく行きましょう。別に疚しい話をしていたわけではないのだし。ねぇ私たちは『不可視の攻撃』に対する考えを話し合うのだけれど、問題ない?」

「うんうんっ、むしろドンドンやってほしいな! イルルたちは君たちの話に興味津々なんだから! 頑張ってだまーって聞いてるからね、ほら」

「露骨すぎる誘導だなオメェ……」

「いやいやー、そんなことないんだー」

 

 両手を合わせ、鷹揚に頷いたあとに口を噤む。

 帝国小隊一同は視界の端にそれを収めると、互いに目配せを送り合う。彼らもまたナッド同様にデュナム公国二人の目的を察しているようだ。相手方も不必要に隠し立てするつもりもないのだろう。少女の白々しい言動を庇うでもなく、誰もが口を閉ざしている。

 ならば、とナッドたちは誰にともなく頷き合った。

 ──見定めたいなら、好きに見定めればいい。

 

(俺たちの出番が回ってきたんだ。俺たちにもできることが。本当の熱の使い所が。なら……集中だ。ここでやれなきゃ少尉に顔向けできねぇ。少尉はあんなになってもまだ諦めてねぇんだ)

 

 ナッドは一人、静かに拳で胸板を叩いた。

 そして深呼吸する。自らの散漫な集中を一点に掻き集めていく。さながら手で地面を擦って砂を集めていくように。不慣れゆえ幾許か取り残される砂粒を、丹念に浚っていく。自分の精一杯を形作っていく。

 幕開けの音頭を取ったのは当然、帝国小隊副長だ。

 解れた黒髪を手で遊ばせながら、咳払いした。

 

「……あの正体について考えましょう。そもそも『黎明の導翳し』の戦闘法は特徴的。観察していれば当て嵌まる技を特定できるはずよ。もちろん、あちらが文言を違えず、公平に臨んでいるなら、ね」

「前提条件が飲めねぇと論にならねぇぞオメェ」

「なら、そういう仮定で進めましょう。でもまあ」

 

 ──結論を言えば、正体は木剣による斬撃ね。

 まず前提として彼女は規則に縛られている。小道具や魔導具、直接の魔力使用を禁じられて、唯一の得物は木剣のみだ。消去法で答えはひとつである。だが間合いは明らかに剣身の範疇に留まっていない。

 ナッドは目を眇め、目測で二人の距離を割り出す。

 約三丈。これが無限遠にも思える道程だった。

 密やかに考え込んでいる間、小隊内で話が進む。

 

「じゃあオメェ、その斬撃はどう飛ばしてんだよ」

「斬撃を飛ばすってことなら一つあるよな。『六翼』の席次一位のグリーシュ大将。かの御方が師範代を務めていた流派にそんな奥義があったって話」

「そりゃ帝国の流派じゃねぇか。違ぇんじゃねえの」

「あるいは、凄まじい剣圧で吹き飛ばしてるとか」

「んなワケあるか。少尉の傷を見りゃわかるだろ」

「今回に関して言えば、魔力によるものよ」

 

 そこで機を逸さず、少女が冷静に分け入った。

 漆めいた黒瞳には紫紺の大英雄を映している。

 

「朝日のせいで視認は難しいけれど、木剣にかすかな光──魔力光を確認したわ。おそらく剣身に魔力を通して、それ自体を伸長するように『不可視の刃』を伸ばしている。厳密には違うのでしょうけど、既存のもので言えば、魔力結晶化に近い技術でしょうね」

「その意見には賛成だ。光、俺にも見えた」

「……へえ、あなたも?」

 

 ナッドは顎に手を当てながら頷いた。

 目線の先で『黎明の導翳し』は木剣を軽く振るう。

 傍目に見れば、奇妙の一言に尽きた。だがその蝿を払うような素振りと同時に、三丈先の矮躯が吹き飛ぶのだ。ここからまず挙動と衝撃の同期性が窺える。

 だがここで満足せず、目を凝らし続ける。

 すると──彼女の剣身は確かに色づいていた。

 それは、ぼけた薄膜にも似た花緑青の燐光。

 

(確かに、あれは魔力光で合ってるはずだ)

 

 士官学校で学んだ知識を引っぱり出す。

 魔力光。それは魔力が作用した一瞬、物質から漏れたそれが光に変わる現象。原理の共通したものを言えば『魔導具に魔力を流し込んだ際に聖文字が発光する現象』が挙げられるだろう。魔導具とは『何らかの魔術を為す回路を刻んで、魔力を流せばそれが作動する物品』だ。聖文字とは魔術回路を為す言語である。

 それが魔力を注がれた端から発光するのだ。

 マジェーレは目をあちらこちらに彷徨かせる。

 

「広範囲斬撃とその不可視性。この二つは木剣に流し込んだ魔力の作用なのでしょうね。なにせ『黎明の導翳し』の持つ属性は例外中の例外。そういう特性があっても不思議じゃない。そうよね、ナッド?」

「まあ『魔力の影響』ってことは間違いないはずだ」

「……俺の目じゃ見えねぇけど、ホントかオメェら」

 

 少女は、ゲラートの訝しげな態度に肩を落とす。

 

「気にすることないわ。節穴の目には風の通り道以外の使いどころがないものね。仕方がないのよ」

「オメェ……そういうトコはもう尊敬モンだわな」

「ありがとう。で、デュナムのお二方はどうなの?」

「すごいって思うよ! 大正解だもんっ」

 

 イルルは両手の指でそれぞれ丸をつくる。

 その屈託のない笑みに、ナッドは胸を撫で下ろす。

 一方、隣のホロンヘッジは緩く首肯すると。

 

「ああ、そういうことだったのか……ッ!」

「いやオメェは何も知らなかったのかよ」

「ホロンくんにはそういうの大丈夫だからね」

「うむっ! オレの仕事は堂々としていることだ!」

「……そんなに胸を張ることかしら?」

「つーか、大丈夫って何が……?」

 

 ──斯くして『不可視の攻撃』の種は明かされた。

 だが、ナッドは血を吐くように本音を零す。

 

「……だからどうしたって話なんだよな、クソッ」

 

 目前では、満身創痍の矮躯が息を切らしている。

 いま立っているのは『境目』の上だった。

 その線引きとはつまり、幼女が手を替え品を替え挑むも、いまだに立ち入れない『不可視の斬撃』の間合いである。彼女自身の奮闘が実を結んで明確化された不可侵領域。手痛い歓迎を受けてしまう境界線だ。

 しかし、ソルは気負う様子もなく踏み入った。

 そこに躊躇いは窺えないが、足取りは頼りない。

 もはや剣術の型にも沿っていない。正気を削り取られた果てに血迷ったのか。敵方の土俵に上がった自覚がないのか。そう受け取りかねない暴挙だった。

 当然、目では見えない斬撃に襲われる。

 

「がッ──ぁ」

 

 軋み。その呻きは人体の軋みだったに違いない。

 ソルが右腕を咄嗟に動かした瞬間、宙に浮く。

 きっと胸部付近を突かれたのだろう。刺突の衝撃が背後まで突き抜けていく。その場に一丈の距離が生まれると、余剰威力が波状に伝播して錐揉み状に吹き飛んでいくも、かろうじて両脚で着地に成功する。

 だが、すでに彼女は上体も起こせないようだった。

 頼りない小さな背が浅い上下を繰り返している。

 それでも気絶に至っていないだけ奇跡的だ。どうやら先の剣撃は直撃しておらず、剣先が掠っていただけのようだ。さしもの『修羅』と言えども死屍同然である。もろに受けてれば地面に果てていただろう。

 ──何にせよ、あと一撃でも喰らえば幕切れだ。

 そんな確信めいた想像の影に思考が覆われる。

 ナッドは唇を噛んで、拳を握った。

 

(俺たちはまだ、問題の本質に辿り着いてないのに)

 

 済ませたのは大前提たる『現状の解明』までだ。

 ナッドは歯を鳴らして、苦虫を噛み潰す。

 

「……肝心要はあの斬撃への対処法だ」

「オメェ、そりゃ簡単じゃねぇぞ。つまり『透明で、しかも全長がわからねぇ剣撃を避ける方法』を探さにゃならんワケだからなぁ。それも真正面から倒すんだとしたら、残りわずかな制限時間中に」

「……ちょっと、時間的に無理がある、か?」

「いや、もう……厳しいだろ」

 

 その、誰かの正直な呟きがすべてだった。

 この場の誰もが拭いきれなかった不安の代弁。

 ゆえに抗弁が見当たらず、言葉を失った一瞬。

 ナッドは思考放棄しかける思考に喝を入れた。

 

(諦めねぇぞ俺はッ……変わるんだろ、今度こそ!)

 

 途端に心底から熱が噴き出した。

 勢いあまって、つい口を突いて飛び出してしまう。

 ──まだだ、と。

 

「……まだ終わってない。そうだよな」

「ええ。方法がどこかに必ずあるはずよ」

「まぁ……乗りかかった船だ。最後まで考えるぁ」

「それお前もずっと乗ってた船だけどな、ゲラート」

「しかも現在進行形で沈んでいってるがな」

「うるせぇぞオメェら! さっさと考えやがれ!」

 

 ──俺の声をきっかけに停滞が動き出した。

 だがナッドは湧き上がった感慨に蓋をする。

 噴き上げた熱も一緒に自分の殻に閉じ込め、背を向けた。いまは目前の現実と真摯に向き合うときだ。冷静に『不可視の斬撃』の突破口を見出す。だが、漠然と考えていても思考が上滑りするだけだ。

 ゆえに物事の見方を単純化してみることにした。

 紫紺の大英雄に目を凝らし、細分化して捉える。

 つまり『透明かつ長大な剣を振り回す剣士』として見ずに、まずは彼女の『魔力を結晶化させ、剣身を伸ばす剣士』という側面だけを見るのだ。この場合、厄介なのは間合いの広さや長さ、ではない。

 その真髄は、魔力で剣身が変幻自在という点だ。

 これが剣身の透明化と噛み合ってしまう。

 

(……そうか。もしかして少尉が型を次から次に取り替えてた理由は、透明な剣身の間合いを探るためだったのか? 色んな角度から攻めることで割り出そうとして……それで失敗した。それは『黎明の導翳し』が常に一定の間合いにはしなかったからじゃ)

 

 直感的な閃きを得て、その理不尽さに臍を噛む。

 ナッドは自分の導いた結論を口にする。

 

「……たぶん『黎明の導翳し』の最も厄介なところは、間合い以上に剣身が視認できないことにある。透明だから、形状をどう変えられてもわからない」

「そう……そうね。私もその見解で間違いないと思うわ。なら攻略法は明快よね。剣身が見えるようになればいい。それも一度だけじゃなく逐次、または恒常的に。いつ間合いを変化しても対応できるようにね」

「確かにっ! でも……それ、どうしよっか」

 

 言を継いだ少女に頷いたのは、敵方の少女だった。

 その鷹揚ぶりを無視してゲラートが手を打つ。

 

「オメェ、斬撃が通ってるってこた、伸張した剣身は見えないながら実体があるってことだろ。それだったら方法は幾つもあるぜ。なぁオメェらよ」

「すっげぇ無茶振り。俺は特に思いつかないぞ」

「あれは? ほら、地面を使うのとかさ。砂煙でも起こして、砂でも付けられりゃいいんじゃないか」

「こっちは魔術ありなんだよな。なら土属性の魔術でもそういうことできるしな、炎属性の魔術なら火を起こして煙を出せる。色々とやりようはあるな」

「通り雨でも来れば雨粒で実体がわかるであろう」

「こんな森奥なら霧も出るかもしれねぇよな」

 

 帝国小隊内では次々と意見が飛び交った。

 しかし、マジェーレが纏めて鼻で笑い飛ばす。

 

「……どれもこれも浅知恵の域を出ないわね」

 

 ──ほとんど、この場この時間では使えないわ。

 マジェーレは無表情のまま、直上の空を指差す。

 そこは雨雲の影どころか白雲ひとつない青空だ。

 辺りを見回せど、霧がかる気配も見受けられない。

 地面に視線を落とすと落胆が募った。砂煙を起こすには適さない地質だと一目でわかった。地面が硬すぎる。大きめの砂粒が表面を薄く覆っており、乾燥した微細な土砂──柔らかい土砂は見当たらない。空気中に漂わせて、付着を狙うには不向きだと言える。

 あとは、ソルの魔術属性に期待する他ない。

 土属性か炎属性の適性があれば切り抜けられる。

 確かにこれらの魔術が初級程度にでも扱えれば、土埃や煙を起こせるだろう。だが魔術とは学問の一種である。ナッドのように学舎で机を並べないのなら、誰か心得のある者に手解きを受けなければ扱えない。

 ソルは箱入り娘として村で育ったという話だ。

 

(……英才教育として受けさせていた、とかじゃない限り、それはないだろうな。そもそも俺は少尉がマナを使用した場面を見たことがない。入院期間だけとは言え、数ヶ月は一緒にいて一度もない。だから)

 

 ナッドは導き出した結論に下唇を噛み、俯く。

 結局、この焦燥感が解消されることはなかった。

 ──盤面は一方的なまま終局に向かう。

 

「もう、降参と……認めてくださ、い」

 

 舞台には「現在、九分経過です」の声が響く。

 幕切れまでは残りわずか。もはや価値を魅せる刻限は尽き果てる寸前である。だが依然として、戦況の天秤は限りなく討伐隊側に傾いていた。主役(シャイラ)は悠然と君臨し、這い蹲る端役(ソル)は呼吸を静めることに躍起だ。

 開始当初から代わり映えのない構図である。

 『黎明の導翳し』の整った美貌がかすかに歪む。

 きつめに唇を引き結び、切なげに。

 

「もう、とっくに──限界のはず、です」

「……ま、だ。じゃ」

 

 幼女は血反吐を漏らして、途切れ途切れに言う。

 赤々と染まった相貌に片手を当てながら──。

 緩慢に、緩慢に、膝を持ち上げて──。

 踵を地面に静かにつけると──。

 右手で剣を引っかけ──。

 

「勝た、ねば……未来が、ないのならば」

 

 ──まだ、膝を折る、わけには……いかん。

 血染めの髪を揺らして『修羅』は立ち上がった。

 その様には、彼女側の小隊員でも表情が引き攣る。

 

(は、はは。これは、あれだ。手心がどうとかいう枠の話じゃない。あれだけの斬撃に打たれて、倒れない理由なんか最初から決まりきってた、よな)

 

 確かにあれは木剣。決して真剣の刃に非ず。

 加えて、絶妙な手心も乗せられた斬撃だ。されどその使い手は大英雄である。常人ならば一撃で気力ごと刮ぎ落とされたはずだ。ナッドが自分自身をソルに置き換えてみても、三撃目を浴びる頃には「口端に泡ぶくを漏らして気を失っていた」と確信すら持てる。

 ここに至ってはむしろ気絶こそが唯一の救いだ。

 まず痛覚が定量を越えれば身体の制御ができない。

 擦過傷や打撲痕は、時を経るほどに気力と体力を削り取っていく。そして熾烈な攻勢に晒されれば『立ってしまえば、また斬撃の標的にされる』という本能的な恐怖が影のように付き纏い始める。これは確固とした道筋のない暗中模索であるほどに色濃くなる。

 制限時間はすでに焦燥感を覚える要因にすぎない。

 

(何か隠し球があれば、こうもボロボロになる前に使っていたはずだ。手傷を負っていいことはない。少尉が出し惜しみするとは思えない……なら、いままで少尉も打つ手なしのまま耐え続けていたことになる)

 

 幼女はあの黄金の瞳に何を映しているのだろう。

 立ち塞がる絶望を女形に象った大英雄だろうか。立ち並ぶ討伐隊の厳しい面構えだろうか。あるいは帝国小隊の真摯に模擬戦と向き合う姿だろうか。少なくとも、気力の源になるような突破口はないはずだ。

 ゆえにナッドは驚嘆を越えた戦慄に身を震わせる。

 彼女が立つ主力燃料は己が精神力に他ならない。そこには、狂気じみた、と言い添えねば語り得ない執念がある。客観的な観点に立てば疑いようもない。まさしく不撓不屈。正気の沙汰とは思えない魂だ。

 しかし、現実には根性論だけで抗えない。

 

「……降参と、言ってくだ、さい」

「こ、とわ──る」

「なら……仕方、ありませ、ん」

 

 閑寂を湛えた大英雄は、そう小さく呟いた。

 ついぞ憐憫一色に染まった眼差しを瞼で覆う。最後まで捨て去れなかった情理を切り離すように。そして慈悲を跳ね除けた愚者を見放すとでも言いたげに。

 白い右手が鎌首をもたげるように動いた。

 横薙ぎ一閃。木製の剣身が空を切る。そこから伸びた剣身は今度こそ幼女を沈めるだろう。ナッドは駆けつけたい衝動を必死に押し留めて、喰い入るように凝視する。定められた命運の行く末を見つめた。

 ──斯くして模擬戦には幕が引かれる。

 ──帝国小隊の道が断たれる結末のまま。

 

「これで、終わりかッ……!」

「いや、ここで見切るのは早計のようだぞ」

 

 頭を抱え、歯を食い縛った帝国小隊。

 その渦中で一人、青年が平然と首を振った。

 紅蓮の髪がしなる。さながら稲穂が風紋を刻むように揺れていた。それは焦慮や虚勢とは縁遠い挙措である。本心を一切の衒いもなく言葉にしたからこそ、純粋な想念の乗った声色は殊更よく響いたのだろう。

 その男──ホロンヘッジは大胆不敵に微笑んだ。

 彼は、形のいい顎を片手で軽く掴んで。

 

「あの少尉。オレには何かを掴んだように見える」

 

 

 

 1

 

 

 

『でぇ……『黎明』のことが訊きてぇって?』

『単刀直入に言えば、そうじゃ』

 

 それは、数年前の出来事だった。

 ソルフォート・エヌマが傭兵家業の合間に訪れた酒場には、ひどく泥酔している男がいた。最初は気にも留めなかった。知己の間柄でもなし、見るからに風采のあがらない酒客を気にかけるわけがない。

 その泥酔した男は、赤ら顔を卓上に伏して、一本しか残っていない腕で酒を呷るばかり。口休め程度、酒場の主人相手に愚痴を吐いていた。ソルフォートがそこを通りがかるとき、ひとつの単語が耳朶を打った。

 それがビエニスの『黎明』の名だった。

 一気に興味を惹かれた彼は、つい尋ねてしまった。

 

『先ほど『黎明の導翳し』と聞こえてのう』

『……盗み聞きたぁ、趣味の悪い爺さんだ』

『すまぬ。興味深い話でな。訊いてよいか?』

『図々しい……が、まぁ構わねぇさ。誰かに話したい気分じゃなきゃ、こんなトコで無愛想な店主を相手にしてねぇってぇことよ……か、か』

 

 ──とりあえず、まず言いてぇのはな。

 ──悪ぃこと言わねぇからやめとけってことだ。

 ──あれに関わってもロクな末路にゃならねぇ。

 その呟きには、苦味に満ちた響きがあった。

 琥珀色の液体を喉に流し込んだ後、語り始める。

 彼はどうやら帝国側に雇われた傭兵の一人らしい。

 この酒場には戦帰りの道中に立ち寄ったようだ。先の戦場で『黎明の導翳し』と対面し、彼の所属部隊は壊滅。だが、彼だけ拠点まで逃げ戻れたらしい。その際に利き腕を失ったことで戦力外通告を受けたものの、命があっただけでも大した幸運だと言える。

 しかし、精神状態に深い爪痕が残ったという。

 寝ても覚めても、瞼裏にあの惨劇が蘇るのだ。

 一陣の風とともに部隊が壊滅した記憶が──。

 

『なあ、爺さん。人が肉塊になる瞬間を見たことあるか? 剣刃の針鼠になった旧友は? いつの間にか腕に得体の知れねぇ刺傷があった経験は? 思い出すだけで震えが止まらなくなる経験は? 俺ぁさ、目ぇ閉じるたびに瞼裏にさあ、あんときの赤が、あんときの光が、ずっとこびりついて離れねぇんだよぉ』

 

 男は、両目を見開きつつ呟く。

 唇をひくつかせ、片手で右目を覆う。五本の指を眼窩に突き立て、さも目玉を抉るような仕草だった。彼は焦点の合わない瞳のままに、卓上でこめかみを擦りつける。そして抑揚のない声音で話を再開した。

 彼の語る『黎明の導翳し』はまさしく怪物。

 曰く「剣鬼ならぬ、剣怪(けんかい)と呼ぶべき女」。曰く「血煙の向こう側に立つ羅刹」。曰く「同じ地に足をつけた。その事実だけで敗着の理由に足りる」。曰く「努力の英雄と言うには語弊のある理不尽」。曰く「ああ……確かに名の通り太陽を翳す(・・)女だよ。信じてた綺麗事をブッ潰す怪物さ」。曰く「現四大将のなかで最も残忍かつ慈悲のない英雄」等々。

 男は酒器の水面を見つめて、独りごちるように。

 

『あれが剣に纏わる英雄ってのは知ってはいたんだ。けど、違ぇんだよ。全然違ぇのさ。帝都で『剣聖』の戦闘は見たことあった。けど別物だァありゃ。だって、ありゃ剣技の粋を集めた剣豪って奴じゃねぇ。きっと剣士ってモンからすら離れてんだよ。ただ武器が剣なだけなんだよ、あの怪物は……か、か。武芸百般を見渡して、あれをそれに当て嵌めること自体が、武芸自体に対する冒涜なんじゃねぇかって思うぜ』

 

 男は訥々と喋り終えると酒器に手を伸ばした。

 それを口元に運び、とくりとくりと喉を鳴らす。

 ソルフォートは見た。器を摘んだ手が小刻みに震えているのを。あれは彼自身が酒食に溺れることで、夜毎に悪夢の姿として現れるという『黎明の導翳し』から逃れようとした痕跡だろうか。それとも極単純に畏怖の証明だろうか。いずれにせよ彼女絡みだろう。

 すべてを聞き届けた老爺は最後に頷いた。

 

『なるほど、のう。そこまでの御方か』

 

 ──いつか手合わせ願いたいものじゃ。

 老爺の口からは無神経とも言える一言が漏れる。

 その言葉を受け、男は一瞬すべての動きを止めた。

 一拍遅れて、ぱくぱくと口を数度だけ開閉させる。

 その後にようやく、絞り出すような声を出す。

 

『……死に場所なら他で見つけろぉな、爺さん』

『生憎、死に急ぐつもりはない』

『か、かか……勝つ手立てでもあるってのかい。俺ぁ見たのは、あの怪物のほんの一端だった。でもさぁ、それだけでも、対処法を確立すんのは難しいって爺さんも思った……だろ? たとえば、あ、あいつらが肉塊になった──見えない剣とか、どうする気だ』

『一度でも通用すれば幸運、程度のものじゃが』

 

 老爺はひとつ、自らの思いつきを語った。

 

『たとえば。見えざる剣が振るわれるならば──』

 

 

 

 ※※※※※※※※※※

 

 

 

 ──そうして、現在に立ち戻る。

 ──解き放たれた不可視の一閃に対して。

 

(……こう、じゃな)

 

 幼女は、確信をもって左に避けた(・・・・・)

 決して俊敏とは言えない動きだ。立ち眩みでふらついたようにも見えただろう。だが事実として剣撃を回避できていた。一瞬で駆け抜けた熱が右肘に擦過し、白磁の肌を切り裂くも──いまだ幼女は健在だった。

 身体を揺らし、短い歩幅で一歩の距離を詰める。

 

「よ、し……」

 

 大英雄の間合い、その線を越えたのだ。

 しかし、誰もこの偉業を気に留めた様子はない。

 それは相対する『黎明の導翳し』も同様だった。

 この状況自体はさほど珍しいことではない。前例は模擬戦中にも三度ほどあった。両者の意図せぬ外的要因により、結果として不可視の剣筋から外れたにすぎない。皆はそう解釈しているがゆえに動じないのだ。

 世間一般的に、幸運とはいずれ尽きるものだ。

 だが、それが幸運以外の要素を孕んでいれば──。

 

(……あちらこちらに負傷が響いておるがのう。まだ身体は動く。まだ意識を保てとる。まだ時間も、残っているようじゃ。これなら上々の首尾と言えよう)

 

 外野の静寂に合わせ、心身を研ぎ澄ます。

 シャイラの戦闘法は以前に聞いていた通りだ。

 ソルには最初から種が割れていた。酒場で男から得ていた情報と、模擬戦で遵守せねばらない文言とを照らし合わせれば、彼女が『不可視の広範囲斬撃』で迎え撃つと推察できる。もっとも、その情報は数年を経た過去のものだ。彼女が似て非なる現象を起こす剣技を身につけている可能性も捨てきれなかった。

 ゆえに幼女は惜しみなく身体と時間を行使した。持てるだけの剣術を費やし、嵌め絵遊びの要領で可能性を潰していった。それぞれの型に対する処理法を組み合わせて、ひとつの答えに収束させる。

 苦心惨憺の末、確証を得たのが──三分前。

 模擬戦の肝を真に理解したのも──三分前。

 

(……道程の険しさは、想像を遥かに超しておった)

 

 意識が朦朧とする。身体から五感が遠のいていく。

 視界は水彩。瞳に映るすべての色が滲み、輪郭から溢れてしまうような錯覚を覚える。鼓膜が捉えられる音は少ない。届いたはずのそれが無意味な喧騒として素通りし、気づけば風景に自分一人だけが取り残されたような感覚に陥る。鼻孔の粘膜は乾き、嗅覚は出入りする空気に蹂躙され、摩滅してしまった。とうに味覚のほうも麻痺している。血液が口腔に絶えず噴き上げ、溜まることで鉄錆の味が張りついてしまった。

 もはや触覚は石壁を一枚隔てたように遠い。

 右手や足裏の感覚もどこか他人事のようだった。

 ソルは、それら五感を辛うじて気力で繋ぎとめる。

 

(じゃが実感が、ない。まだ見える。まだ聞こえる。まだ匂える。まだ味わえる。まだ触れられる──しかし、気力の一切を抜くことは許されんッ! 一瞬の気の綻びで、これまでの蓄積が水泡に帰す……!)

 

 『不可視の斬撃』とは鋭利さを持たない。

 ゆえに負傷が素肌に表出しにくい。その代わりに皮膚や肉を通して臓腑を痛めつける。身体内部ではあらゆる痛覚が共鳴し、反響し、数十匹の百足の匍匐めいた痛痒が内外問わずに這い回る。それらは激痛の波浪と化して脳内まで辿り着くと、押しては返し、思考回路の岩場を削り取っていく。だが抗わねばならない。

 考えねば戦えない。考えねば為す術がない。

 考えねば──きっと立ち上がれない。

 

(彼我の直線距離は……十秒ほどか)

 

 ──否、剣を届かせるだけなら八秒時点でいい。

 ソルは蹌踉とした足取りで距離を埋めていく。

 その最中、短い思考を継ぎ剥ぐ。向かい風に目を見開きながら剣撃を潜り抜けていく。時として転進は蛇行めいて、また時として身を漂わせる。身振りは最小限。移動はすべて重心移動を起点に行う。剣速に身体を追いつかせるには無駄を排する必要があった。

 これは、自らの向学心によって編み出した回避術。

 蛇のように泥むまま、見出せた副産物だった。

 安い買い物、破格の取り引きじゃ──と笑う。

 諦めなければ、諦めないだけ試行回数を増やせる。

 

(そう、駑鈍なるは我が身。何事も生身でぶつかり知る他なかったのじゃ。その結果が窮余の一策にすぎんとは言え、突き詰めて正解に辿り着く方法論というのは、わしの肌に合っておるな)

 

 シャイラの右腕に必殺の威力が込められ、動く。

 否、そうではない。増える(・・・)と形容すべきだろうか。

 視線の先で、白い細腕を二重に幻視した。彼女が木剣を左方向から払うように振るっている──が、同時に右方向から流すように袈裟斬りしてもいる。これが残像だと気づけど、同時多発的な斬撃による挟み撃ちは凶悪極まりない。天運任せでの回避はできない。

 迫る剣身は、景観と同化して目で捉えられず──。

 

「……っ、また……?」

 

 薄らぐ視界の奥で、大英雄は目を瞬かせた。

 いや、訝しげに眉が寄ったのはこの場の総員だ。

 至近まで迫った不可視の二撃。幼女はこれを萍水のごとき身の熟しで躱したのだ。緩い動きながら右脇を絞って前傾姿勢になったかと思えば、続けざまに首を縮めながら右脚で横に三歩だけ逸れる。その挙動途中で左頬と右腿が浅く裂けるも、彼女は倒れなかった。

 再び、斬撃を回避したことは明らかだった。

 一度だけなら、天運と勘所の両面で説明がつく。

 二度も続けば、まだ偶然の範疇に留まる。

 だが三度目があるのなら、何かがあるのだ。

 

「……そう」

 

 紫紺の大英雄は深青色の瞳を思案に揺らす。

 その寸間に幼女は距離を詰める。引き摺り出した底力を二足に漲らせ、決定打を叩き込まんとする。この回避術の発想は平凡極まりないものだ。程なくして思い当たるだろう。果たしてそれは次の瞬間だった。

 シャイラは引き結んだ唇を、わずかに解いた。

 風に揺蕩う紫紺を払うと──得心したように。

 

「──音、ですか」

 

 ソルは胸中で「正解じゃ」と解答する。

 言うなれば、風とは木目のようなものだった。

 流れる方向があるゆえに横切れば音が鳴る。爪を立てて木目から木目を渡れば音が鳴る。その高低と数で形状を察知できる。幸いにも不可視の剣身は模擬戦の意義上、木剣に準じているために空気抵抗が大きく、風切り音を聴くのに難儀しない──が、攻略法としては精妙さに欠ける。聴覚情報だけでは判断猶予が瞬間的すぎて、場当たりで躱すのにも限度があるのだ。

 ゆえに斬撃の軌道類推には他の要因を合一する。

 それは、可視範囲にある木剣とシャイラの所作だ。

 斬撃の繰り出される瞬間自体は視認できる。彼女の衣装の特徴として、木剣を操る腕は大胆にも素肌が晒されているのだ。その下で蠢く筋肉の躍動を目で捉え、剣の軌跡を推測。これで大まかな高さ、角度を弾き出すことができれば回避率は飛躍的に上昇する。

 幼女は笑う。笑いながら、目を酷使し続ける。

 小さな風切り音は、暗中にて一筋の光明となった。

 

「すごい。立派……です、ね」

 

 だが──大英雄は口振りに焦燥を滲ませない。

 常軌を逸した観察力で突破した幼女を称える。

 それはつまり、脅威と見做していない証左だった。

 負の感情が微塵も宿らない称賛には一銭の価値もない。同じ土俵に立つ相手の心よりの賛辞であるならば尚更である。なぜならそれは、互いの土俵の違いを際立たせる、あるいは自らの影も踏ませないほどに力量の差がある、と言外に見縊られたも同然だからだ。

 もっとも、後者の理由は紛れもない事実だった。

 シャイラは腰を捻ると、左膝を緩く撓ませる。

 諸手で握った木剣を、己の左脚に流すようにした。

 剣尖をやや下向きに構え、重心を腹底まで落とす。

 

「……でも。ハキムさんは言いまし、た」

 

 弛ませた左膝を張り、脚力が右脚に流れ──。

 

「『制約のなかで本気で戦え』って、だから」

 

 ひしゃげた。地面が(・・・)ひしゃげた(・・・・・)

 シャイラの右脚が地面を踏み抜いたのだ。放射状に黒々とした亀裂が走り、それはソルの足下を越して模擬戦の舞台の端まで広がっていく。その罅入った隙間から砂塵が噴き上がる。さながら黄土の緞帳か。旭暉を拒む暗幕が立ち昇って総員を呑み込んでいく。

 幼女の背筋が凍る。本能的な畏怖に竦動しかかる。

 咄嗟に腕で目元を庇った直後に、硬質な砂粒の嵐が吹き荒れる。熾烈な土砂の暴威は身体中の傷口に塩を塗り込むような苦痛を与えた。幾千もの砂粒が生身を穿ち、蝿の羽音めいた音が周辺を席巻する。

 もはやこの嵐の最中で従来の回避術は使えない。

 どれだけ耳に神経を集中させようと──不可能。

 捉えた風音を合図にするのは──不可能。

 これぞ、莫大な体内魔力量の為せる技である。

 

(しかし、こんな小事で終わるはずがないッ!)

 

 直感的に悟る。これは前兆にすぎない、と。

 ソルの胸に去来したのは氷のような悪寒だった。

 不意にシャイラを縛る規律を思い出す。そのうちのひとつが移動制限の枷だ。彼女が肩幅程度に脚を開いたまま『一歩たりとて動かずに勝利せよ』という文言を遵守し、斬撃を見舞い続けた姿はやはり異様の一言だった。あれでは足裏の把持力のみの力しか蓄えられず、重心移動に乗じた力の運びが不完全だったろう。

 しかし、このときをもって存分に力を発揮できる。

 いま彼女は右脚で地面を踏み抜いた。

 杭を打ちつけたように軸足を固定化したのだ。

 

「あなたと私。似たもの同士、ということな、ら」

 

 ──少しだけ、本気でやれま、す。

 彼女の姿と呟きは熾烈な風塵に掻き消える。

 その瞬間に渾身の一閃が放たれたのだろう。

 その一瞬。──黄土の遮光空間は切り裂かれた。

 その一瞬。──確かに意識が晦冥に没した。

 

「ッ──ォ、あ……!?」

 

 全身に衝撃が駆け抜け──声も、出ない。

 視界のすべてが喪神の闇に呑まれる。眼窩の縁取りから闇が瞬時に滲み出していき、最後には中心一点の光のみが残る。それすらもぷつんと消えれば、瞼を開けているはずが黒一色。人体から色彩や陰影の概念が取り払われてしまったかのように錯覚した。

 その最中に全身の触覚が断末魔の叫びを上げる。

 もしも光のすべてが灼熱の温度を有していれば、もしも空気の悉くが強酸の性質を含んでいれば──ソルを襲った感覚が体感できるだろうか。この衝撃には身体の内外など意味を為さなかった。感覚器官は軒並み渋滞を起こし、それらを認知するだけの余裕が奪われると、五感は競り上がるような空白の洪水に沈む。

 そう見当識を失っていたのは何分、何時間か。

 幼女は気づけば晴天の下、仰向けに倒れていた。

 意識の歯車が噛み合わない。手足は痙攣、五臓六腑は沈黙。ただ鈍重に伸縮を繰り返しているような実感があった。喉を震わせてみれば、一文字にも満たない呻きとも呼吸とも取れない音が喉奥から発される。

 ソルは口も動かせないまま、先の正体を看破した。

 

(た、ただ、力業で突破しおった、とは)

 

 シャイラの示した解法は簡潔にして明快。

 音頼りで躱されるのなら、音すら置き(・・・・・)去りにする(・・・・・)

 音速の壁を越えた剣撃。否、それで生じた衝撃波。

 それがソルの無防備な総身を打ったのである。

 

「ぁッ……ぁ」

 

 酒場で管を巻いていた男の言葉が腑に落ちる。

 武術における速度とは心理的なものだ。相対的とも言い換えられるだろう。あくまで対戦者に「速い」と認識されるにすぎない。予備動作を消して、影に隠して、技の起こりを悟られないよう立ち回る。敵方の斬撃速度を上回る必要はないのだ。ただ隙を見せず『斬撃に至るまでの心』より先に動ける程度あればいい。優れた武術家同士ではその探り合いが主となる。

 だが戦場では違う。英雄相手では、違う。

 武術家の尺度と英雄の尺度は全くの別物なのだ。

 優れた英雄は、果たし合いに理を持ち込ませない。

 彼らは大概の物事を力業で切り抜けられる。凡夫がどれほど狡猾な糸を張り巡らせ、策謀を練り、綺麗に罠に嵌めようとも──覆せてしまう。むしろオド容量が常人を遥かに上回る英雄たちにとって、武術など狭苦しい籠でしかないのだろう。ゆえに戦場で大いに羽を伸ばして、同等のものたちと鎬を削っている。

 ソルフォートが戦っていた土俵はそういう場所だ。

 ソルが望んだ土俵は、そういう場所なのだ。

 

「……よかった。千切れて、なく、て」

「シャイラ嬢。お前さん、些かやりすぎだ」

「ご、ごめんなさっ……でも。本気で──って」

「イルル的には大丈夫だったから問題なしー!」

「うむッ! 万事滞りなし、という奴だ! 我らが討伐隊にはこれしきの衝撃波で狼狽える軟弱者などいないから。ちなみに帝国小隊の皆はオレが守っておいたからなッ! 怪我はないよな、皆!」

「ホロンくーん!? 大柄な人が吹き飛んでるよ!」

「ああッ──すまない! 身長が足りなかった!」

「本当、間の抜けてる人たちね。哀れゲラート」

 

 こんな掛け合いも耳鳴りに掻き消され、遠い。

 ただひとつ理解できたのは、きっとソルの気絶は束の間の出来事だったということ。会話の内容は解せずとも、音の手触りだけでわかることもある。

 また意識が、海中に没するように薄らいでいく。

 視界には海面を思わせる青色が広がっていた。朝の斜光が昊の画布たるそれに、刷毛めいた線を引いている。その線の束が天幕のように揺らめいては遠退いていく。これが自らの意識が下方へ下方へと落ちていく証左なのだと、ソルは本能的に理解する。

 唇の端から唾液を漏らしつつ呻吟した。散漫な意識を五指に集め、動かそうと四苦八苦する──が、さしたる成果はない。必死に庇った右手には依然として剣がある。しかし、無理を通して身体を繋いでいた気力が断ち切られてしまったのだ。勝機の見えぬ現状において、再び立ち上がるだけの力は込められない。

 目前は遂に水彩めいて、もはや為す術もない。

 視界の端で、二藍に滲んだ陽炎が見える。

 そんな色の揺らめきが唇を噛んだ後に呟くのだ。

 人知れず──ぼそり、と。

 

「あとは私が、何とかしま、す」

 

 それが幻聴だったのかどうかは定かではない。

 いつかのような、膝を折らせようと促す言葉。

 いつかのように、それは鼓膜を揺らした。

 あの、幻想剣のなかで戦った『最強』と重なる。

 

(確かに……もはや足掻くのは徒労なのやもしれぬ)

 

 この模擬戦の大前提が今更になってちらつく。

 これはあくまでも価値を見極める舞台だ。

 極論、ソルが勝利を収めなくともいい。シャイラの協力さえ得られれば沙汰自体は乗り切れるだろう。彼女は『黎明の導翳し』。討伐隊のなかで最上位に就いている。帝国小隊の価値を認める、と無理にでも押し通せば、表立って否は唱えられないかもしれない。

 だからこそ、彼女は幾度も手を差し伸べてきた。

 ──あなたをできる限り傷つけたくない。

 ──だから、早く白旗を上げて欲しい、と。

 

(ようやく確信を得た……のう。ベクティス殿の心は模擬戦前から変わらず、というわけか。その言と反して、わしがここまで滅多打ちにされたのは、往生際の悪く足掻いていたがゆえと。なるほど)

 

 シャイラの甘言の内容を理解することはできた。

 だが、ソルはそれを是と頷けなかった。

 それは、決して認められたわけではないから。

 それは、己の実力が勘定に入っていないから。

 

(前言を翻すことになるのじゃ)

 

 シャイラがここまでソルを慮る義理とは何か。

 その答えは至極明快で、ハキムの孫だからだ。

 彼女と幼女を繋ぐ線はそれ以外に存在しない。なぜなら、彼女が知る情報はあとソルが帝国兵であることのみ。到底、便宜を図る理由にはなり得ない。ゆえに己の副官の孫を贔屓するつもりだと、延いては昨晩の鼎談内容を反故にするつもりだと知れる。

 ソルの歯奥からは砂粒が潰れる音がした。

 舌に溶けたのは、幾度も舐めた辛酸の味だった。

 目前で厳然たる事実が大口を開け、問うてくる。

 ──威を借りて、ここを生き延びるつもりか?

 ──それで、憧れた大英雄と轡を並べると?

 

「……お笑い種じゃ」

 

 ぽつり、と本音の欠片が零れる。

 大英雄の視座からすれば、ソルの実力は矮小だ。

 そんなことは百も承知だった。それでもなお模擬戦に臨んだ理由。その側面を切り出せば「胸を張りたかったから」とも言えた。誰かにではなく自分に。この場で幾つかの枷はあれど『頂』と対峙し、その価値査定を潜り抜けることで、怪物退治という夢に全力を尽くすために、一切の呵責を捨て去りたかったのだ。

 力量に目を瞑られること自体は詮方ない。

 

(大英雄相手に実力伯仲などと冗談でも言えんわい)

 

 だから、ソルも納得できたはずなのだ。

 真正面から挑み、完膚なきまでに叩きのめされ「貴様程度の存在など塵に等しい」と鼻先に突きつけられれば、まだ呑み込めたのである。どれだけ身体を振り絞れど、討伐隊の末席に加えてもらえるだけの力量が出せなかったのならば、いっそ己を恨めた。

 だが、あの大英雄はすべてを踏みつけにした。

 ハキムの心情のみに忖度して、価値を見極める判断すら放棄した。それはソルの覚悟を限りなく貶める行為であり、彼女にとっては何よりの琴線(・・)でもあった。

 ──目線を合わせて、手を差し出されて。

 ──その綺麗な手を取るだけで夢に届くとして。

 ──それで掴む夢に価値を見出せるのか?

 ──そんな自分を果たして許せるのか?

 連なる問いの先には、ここまで至った凡人が一人。

 幼女は四肢を投げ出したまま、答える。

 

(意固地と言えばその通り。捨て去るべき無用の矜恃と言えばその通り。しかし、己の針路を夢に合わせたときから、少なからず気持ちが勝ってきた)

 

 ずっと夢に手を伸ばし続けてきた──過去。

 何もかもを失った凡人はきっと許すまい。

 ソルフォート・エヌマ。夢に恋焦がれた男。その輝きに目を焼かれた亡霊。人生という夜霧に爛々と鬼火のような眼光を残し続けた子供。その戯言を後生大事に抱えたまま、潰えた夢の破片が散らばる荒野を素足で渡り続けた愚か者。たとえ意固地と笑われ、無用の矜恃と切り捨てられど、自らの信念を曲げられない。

 ならば、現在の自分ならばどうだろうか。

 ずっと夢に手を伸ばし続けている──現在。

 再び機会を与えられた凡人なら許せるだろうか。

 投げやりに渡された幸運を拾った自分ならば。

 夢へと手を届かせる機会を受けた幼女ならば。

 

「……お笑い種じゃとも」

「…… 帝国小隊長、さん。降参の言葉、は?」

「言うた、ことを」

 

 身体は地にあって、なおも口角を上げる。

 

「曲げるつもりは──ないの、じゃ」

 

 幼女は頑として首を縦に振らない。

 シャイラの手を取るつもりにはなれない。

 それはいつかの幻想剣の『最強』と同じく──。

 

(我ながら七面倒な男じゃのう。自らが納得できねば素直に受け取れんなど。頑固爺じゃとハキムにも笑われてしまう。……わしには素直さが、足らん)

 

 いまだ凡人が目指す舞台は遠い。

 夢の地平は、人の領分や身の丈を越えた遥か先にある。この境目は分水嶺だ。只人と屍を区分する明確な一線。それを踏み越え、夢に向かうだけの屍と化せども、何かを成し遂げようとしたとき、そこに暗然とした感情が宿る。それが執念と呼ぶものだ。

 部外者の理解を拒む毒々しい感情の澱。

 そういった意味ではソルフォートも純真ではない。

 凡人自身が自負している。純真など、素直さなど、加齢に従って朽ちてしまったと。生涯で変わらず手に残ったのは剣のみと。夢への幼稚な想いなどは、ここまで携えてくる最中に手垢で色褪せたと──だが。

 英雄譚を初めて読んだとき、抱いた感情だけは。

 原初の色だけは、幻想剣のなかで取り戻した。

 それだけでも、褪せずして胸にあるならば。

 ソルに、諦めるなんて選択肢なぞ存在しない。

 しかし、現実はこの瞬間の想いを断つように。

 

「なら……やります。けど、でも、大丈夫で、す」

 

 シャイラのかすかな声色が鼓膜を叩いた。

 幕引きの台詞を晏然とした口調で吹きつけられる。

 

「少しだけ──我慢して、くださ、い」

 

 だから運命とはいっそ機械的ですらあった。

 如何に懸けた一瞬であれ、足りなければそれまで。

 ソルは目前にある海のような蒼穹を想う。身体から薄れていく実感とともに視界を埋める雲霞が、さながら口から溢れて浮かんでいく泡沫めいていた。それが己の存在価値を喩えているようで、見つめてしまう。

 所詮、貴様のすべては泡影程度にすぎないと。

 外気に触れた途端に弾ける泡のようなものだと。

 慈悲深い強者の同情を前に、潰れてしまう。

 

「痛くはしま、せん。から」

 

 そのとき耳に響いた言葉も幻聴だったのかどうか。

 最後の最後まで彼女は幼女を気遣っていたのか。

 こうした慈悲は、無慈悲にも振り下ろされる。

 幼女のちっぽけな身体に振り下ろされる。

 いままで、ソルはずっとずっと──。

 

「……ああ」

 

 ── このときを(・・・・・)待っていたのだ(・・・・・・・)

 

(自らの直線上に倒れている相手に、長い間合いを持つ武器で攻撃を加えるとき。それは必然的に縦に振り下ろす形になる。そして、その狙いは──)

 

 時間制限のなかで掻き集めた数多の情報たち。

 ソルはそれらを組み合わせ、嵌め絵遊びの要領で勝利の青写真を浮かび上がらせようとした。そしてここに至って最後のひと欠片を手に入れた。『剣撃が加えられる箇所』の確信を。これを隙間に嵌め込んで、完成直前だったそれは遂に一枚の(げんじつ)となる。

 打ち放たれた剣撃の先は、狙い通りに右手首。

 心理的な側面からの確信だった。いままでシャイラは至極頻繁に、剣を握る手に攻撃を加えていた。これは繰り返しになるが、シャイラの模擬戦前からの言動や度重なる降伏勧告、音速の剣撃を振るったにもかかわらず衝撃波を当てるに留まった理由を追えば、彼女の念頭には常に、ハキムの孫をあまり傷つけたくない──という想いがあったと推測できる。

 きっと最後も同情をもって剣撃を放つだろう。

 果たしてシャイラは右手首に狙いを定めた。

 その慈悲が、その不誠実が、足を掬う。

 

(さあ、ここから数秒はわしの領分ッ!)

 

 ソルの行動は迅速かつ常軌を逸していた。

 なけなしの心の燃料に火をつけ、気炎を上げる。

 身体から離れつつあった五感が再び収まっていく。

 まず右手に僅かながら熱が戻る。気力による繋がりが絶たれて人形のように力を失っていた指先まで、意思の火が宿る。この一瞬で彼女が為したのはひとつ。

 剣撃が放たれた瞬間に、腕の位置をずらした。

 狙われる右手首の位置に右肘を置いたのである。

 

「がぁッ……!」

 

 須臾の後に右腕が暴れた。全身が、暴れた。

 意思に反した動作。それは電流のごとき衝撃が肘を起点に迸ったからだった。脳髄から足先まで駆け抜ける痺れ。取り戻した五感を恨むほどの重み。もはや痛苦の感覚は薄く、重量の多寡と喪失感の丈だけが限界までの距離を知らせていた。否、限界からの距離と言うべきか。その線はこの瞬間すでに飛び越していた。

 だが、この機会は逃がすまい逃がすまい──と。

 断絶しかかる意識を気力だけで繋ぎ止める。

 

(少しだけのッ! 我慢じゃッ! さすれば!)

 

 この待ち望んだ好機を逃すわけにはいかない。

 もしも横に薙がれていれば吹き飛ばされていた。

 だが、縦に振り下ろされれば地面が身体を支える。

 ゆえに──こんな芸当が可能性の視野に入る。

 振り下ろされる剣身を腕で閉じ(・・・・)挟む(・・)という。

 

「えっ……?」

「つか、まえた──!」

 

 あのとき、ソルフォートは酒場で男にこう言った。

 ──たとえば。見えざる剣が振るわれるならば。

 ──物理的に掴んでしまえばいいのやもしれぬ。

 文字通りに掴み取った突破口。ほんの思いつきだった昔日の与太話は、思いがけずして実現の機会に恵まれたというわけだ。開始当初から執拗に打たれていた右腕を自然に庇いつつ、真の狙いは隠して、情報が出揃うのを待ち、虎視眈々と勝利を見据え続けてきた。

 たとえば、流派の早着替えがそれに当たる。

 この狙いは二重にあった。ひとつは情報収集。もうひとつは勝利の道筋を誤認させるためだった。あれだけ果敢に攻めておいて、そのすべてをまさか窮鼠猫を噛む一瞬に込めているとは──大英雄とて思うまい。

 ただ模擬戦の終盤における、風音の回避術。

 これはあくまで情報収集する過程での副産物だ。

 反撃の糸口としては弱く、間もなく看破された。

 しかし、目眩しとしては上々の結果を齎した。

 ──それらがあって、ここに隙が生まれた。

 

(最後の最後だけは、博打じゃったがッ……!)

 

 それは、一天地六の出目次第という意味に非ず。

 五分五分未満の戦いに挑み、天運の丈を比べ合うことにも非ず。集めた情報を統合し、推測の輪郭を明瞭にした上での賭けだ。積み上げた徒労はついぞ雲にも届いてみせた。これで手にした隙を無駄にはすまい。

 幼女は『不可視の剣身』を身体全体で挟んだ。

 胸に抱くと言うより、顎と胸骨の隙間を使って喰らいつくと言うべき凄烈さで。寸前に左膝を立てていた彼女は地面を蹴り上げて身を空転。剣身を手繰るようにして右回転を纏う。そうして中空で不可視のそれの下敷きとなった右腕を引き抜き、左手で掴む。

 感触通りに『不可視の剣身』は木剣に準じていた。

 否──ソルの想定とは裏腹にそれは見えていた(・・・・・)

 かすかな黄土がこびりつき、一筋の道として──。

 

(衝撃波で舞い散った土砂が空から降って……!)

 

 ──それはまさに望外の幸運に他ならなかった。

 幼女は即座にその頼りなげな道筋に右脚を乗せた。

 そうして蹴る。黄土(ふかし)道筋(けんしん)の上を一直線に飛ぶ。

 可視化された剣身は複雑怪奇の一言だった。形状は曲がりくねり、半端な箇所から幅広の三叉に分かれ、それらが蛇のように蜷局を巻き、集約された一振りが先端まで続いていた。これを放たれた矢のような速度をもって、剣を流して構えつつ駆け上がっていく。

 全身の筋肉は怨嗟と悲鳴を上げ、苦痛に唸る。

 それを、喉奥を裂きかねない声で掻き消す。

 そして──大英雄のがら空きの正面に、躍り出る。

 

「おおおおお──ッ!」

「あ、……え」

 

 舞台上に君臨し続けた『黎明の導翳し』。

 木鶏そのものだった大英雄の態度が剥がれる。

 驚きで延べられた深青色の瞳。彼女の弓形に絞られた蛾眉は内面の動揺に即していたのだろう。剣身を引き寄せられたままに身体を泳がせ、周章狼狽の有様はさながら年若い物知らずの少女のようだった。

 ソルは造次のうちに斬り捨てるべく距離を詰める。

 白髪は一直線に伸び、陽光で銀に色を弾かせた。

 

(これでッ、わしの価値(かち)とせんッ)

 

 音高く、力強く、足裏を叩きつけた。

 止まらずに駆け抜け、一閃を叩き込まんとし──。

 

だめ(・・)()()……っ!」

 

 ──その刹那、瞳に映ったのは繊月だった。

 シャイラは頭を下げて背筋を曲げていた。垂らす紫紺の髪が展翅めいて宙に広がり、弧を描いた。その先端が翻ったときにソルが細い月と見紛った──わけではなく、目を疑うような光景は(そら)にあった。

 視界の上部で数十もの白月が輝いている。

 幼女には瞬きの時間すらも要らなかった。直後にあの正体が()だと看破する。曲線を描く白刃が日光を照り返す有様、それが月に似ていたのだと。それらが自ら意思を持ったように射出され、降り注ぐことも。このままでは串刺しどころか針鼠にされることも。

 しかし、時間は人の都合で止まってはくれない。

 剣尖の驟雨がこちらに向けて殺到する──。

 

「ちィとばかし邪魔するぞ、お前さんッ」

 

 その声色は、ちょうど横合いから聞こえてきた。

 白刃煌めかす剣群の前に黒影が飛び入ってくる。

 それは剣呑さを秘め、血相変えた魚面の老爺。

 彼──ハキム・ムンダノーヴォは身を翻すと、分厚い軍靴の踵でソルの剣刃を受け止めた。威力の乗っていない斬撃は易々と勢いを削がれ、蹴られたときには身体の推進力まで殺されていた。突如として空中に放り出された矮躯は、そのまま地面に尻餅をつく。

 幼女は虚を突かれ、瞼を見開き凝視した。

 刃を足場に飛んだ老爺は鞘から剣を抜き放ち──。

 魔剣『濁世を(ボロス)穿つ上(=ウル=)古の竜(ヘーグル)』を開放する。

 

「【媚び諂え】【此れなるは願いを踏み躙る竜】」

 

 空を薙いだ刃は、竜の伝承を想起させた。

 日華に煌めく、口元に揃った牙のような剣身。

 それが振り抜かれると、鼓膜に余響が染みついた。

 多重の金属音は煙のように天まで揺曳した。

 ソルの目前で、一、二、十、二十──と。

 魔剣に弾かれた剣たちが地に突き刺さっていく。

 

「……骨が折れる。これぞ間一髪という奴よなあ」

 

 ハキムは片手で腰を叩き、得物を鞘に仕舞った。

 かん、という乾いた音が静寂に響き渡る。総員が絶句する模擬戦の舞台には大小様々な剣が突き立ち、散乱していた。この空間に漂う異質な雰囲気も加味すると、剣士たちの墓場さながらの惨憺たる有様だった。

 そこに立つ老爺も流石に無傷とはいかない。

 わずかに撃ち漏らした剣が右腕を穿っていた。厚目の旅衣からは刃が突き出ている。常人であれば重傷だったはずだ。だがその隙間からは血液が滴らず、当人も一瞥すらしない。ただ吐息に安堵を混ぜていた。

 ゆえにソルは真っ先に問うべきことを問うた。

 

「貴様。なぜ止めた」

「時間切れだ。模擬戦は規定通り終了する。これ以上の追撃は文言に抵触するゆえに……横槍を入れさせて貰うたワケだ。結果的に助ける形になったがのう」

「手出し無用の約束は守っておる、と?」

「……ああ。そう捉えるのは実にらしい(・・・)なぁ」

 

 呆れ気味の台詞の裏で、からんと音が鳴った。

 幼女はハキムの身体を避けつつ、目を遣る。

 その先にいる音の主は知れていた。だが老爺の股越しに見えたのは、絶対的な大英雄が両膝を屈する場面だった。蒼白い両手を緩く開いて、木剣を足元に転がしている。そして腰を抜かしたようにへたり込んだのち、顔を伏せて二房の紫紺を戦慄かせ始める。

 呆然──と、その言葉が似つかわしい姿だった。

 ソルは唖然とするも、間もなく首を捻った。この場の誰もが疑問符を浮かべる状況下で、最も狼狽えているのが彼女自身。実に不可解極まりない。彼女は瞠目した深藍の瞳をこちらに向け、老爺に向け、地面に散らばった剣たちに向け、と順番に見回すばかりだ。

 それは自らの所業に困惑した様子にも見えた。

 

「ベクティスど……」

「イルル! 救護班!」

 

 老爺はソルの呼びかけを遮って声を張り上げる。

 張り詰めた静寂が決壊し、円周からローブ姿の少女と女性隊員数人が飛び出してくる。彼女たちに介抱するよう指示を飛ばすと、小柄な少女が出鱈目な敬礼をし、皆でシャイラの身体を抱えて人垣の向こうへと消えていく。その間際まで紫紺の彼女は声ならぬ声を漏らして、こちらに力なく手を伸ばしていた。

 幼女は状況が掴めず見送り、訳知り顔に問うた。

 

「貴様……これは、何じゃ」

「一目瞭然だろうがよ。シャイラ嬢は焦ったのさ。お前さんの無茶に狼狽え、思わず文言を踏んでしまったワケだ。姿勢を崩されるばかりか、あまつさえ魔力を剣身に通さず行使し、ついつい魔力を百ほど剣形に編み上げ、近づいた外敵を排しようとした」

「ならば、ベクティス殿のあの様子は一体……?」

「……お前さんが心配せずともよいことだ」

 

 ハキムは周囲の喧騒に埋もれる程度の声で答える。

 討伐隊の面々は沸騰したように騒いでいた。内心の動揺が音として流露し、辺りに横溢する。彼らの視線は唯一残った模擬戦の演者である幼女に注がれた。傍に立つ老爺にも向けられているものの、彼が健闘を称えているように見えているのだろう。旧友二人の距離感に対する猜疑的な気配は感じなかった。

 声だけを潜めれば、人目を忍ばず喋れるようだ。

 

「だから…… 俺が保証しよう。そう心配せずとも模擬戦の勝敗は決しとるわい。この十分間で皆も腹を決めたはずだ。お前さんの価値は、揺るがん」

「そう、か」

 

 ソルはようやく脱力し、大の字に寝転がる。

 全身の筋肉が休息を訴えかけていた。視覚化された倦怠感が墨色となって目前を埋めていく。肺は不随意に収縮を繰り返して、口が勝手に酸素を貪った。暫し取り戻した五感はまた身体から離れていき、末端から自我が薄らぐ。茫洋とした身体感覚は膜越しの鈍痛相手に蝸角の争いを繰り広げていた。

 そこで老爺は物のついでという口振りで続ける。

 

「……時にお前さん。最後に駆け出した理由は何だ」

「駆け出した……とは、剣身を掴んだあと、か?」

「すでに決着はついておったはずだ。あのとき手繰られた瞬間、シャイラ嬢は一歩踏み出しておった。元よりお前さんの狙いは、文言を違えさせること。いま思えば、最初の立ち回りも荒削りながら──」

「話の焦点を、ずらすな……余計なこと、を」

「呵々、すまんのう。年月を数えるたびに口数は多くなる。ついついお前さんの肩を叩いてやりたくなってなあ。俺が見とらんうちに背丈を伸ばし……」

 

 ソルは瞼の向こう側で不穏な気配を察知した。

 きっと老爺が側に屈み込んだのだ。顔を覗き込むような姿勢なのかもしれない。如何なる意図が秘められているのだろうか。不思議と額の辺りに微熱を覚えたが、それと関係があるのだろうか。しかし身体の自由が利かず、抵抗できることはない。幼女は甘んじて受け入れながら瞼裏という簾の先を想像する。

 そんなとき、不意に別の感覚が頭頂部にあった。

 くしゅくしゅ。脳天に柔い感触が行きつ戻りつ。

 五秒遅れて、頭を撫でられたのだと気づき──。

 

「っ……っ!?」

「随分成長したなあ。親友として祝福してやろう」

「な、ぁ、き、さま」

「わかった。動くな動くな。もうせんわい」

 

 そうして半笑いの声が手とともに遠退いていった。

 この男はからかい半分で頭を撫でたのである。

 同年代の老人への態度として不適切極まりない。

 中身を知った上で子供扱い。腹立たしいことだ。

 

「しかし、最後のあれは片手落ちだぞ。あの吶喊は真の考えなしのやることだ。実際、せっかく掴んだ勝機を手放すところだったろうがよ。まァお前さんのことだ。きっと何かしらの意味合いがあったのだろうが」

「勝利に目が、眩んだ。ただ、ただ。それだけじゃ」

「おうおう嘘がわかりやすい奴で助かるのう。まァこれ以上の詮索はよしておくとしよう。何を置いても親友の秘め事だ。秘めるだけの理由があると見える」

「……詮索しない、と言って。よく、喋る男じゃ」

「少尉! よくご無事で──」

 

 そこで聞き慣れた声が鼓膜を揺さぶった。

 ハキムはあらぬ方向に目を遣ると、身を退いた。

 どうやら気を遣ったらしい。ソルと帝国小隊の皆との会話を遮るまいと足早に去っていく。討伐隊に指示を出しながら、周囲の喧騒に溶けこんでいった。

 そうして幼女の側に駆けつけたのはナッドだった。

 茶髪を乱して汗の珠を拭うと、腰を落とし──。

 

「肩、貸します! 立てますか!」

「ナッド……すまんのう。色々と、心配をかけて」

「そんなことはっ……ありますけど。でも少尉が生きているのなら帳消しですよ。これだけボロボロになって矢面に立ってもらって……感謝してるんです!」

「……こそばゆいことを言うでない」

 

 ──実際、己が欲得の発露でもあったのだ。

 座り悪い心持ちで、彼の為すがままにされる。

 

「……のう。少しばかり待てナッド」

「肩を貸すよりも身体に障らない体勢はこれです!」

「じゃが、これは。流石に……」

 

 幼女の右耳はナッドの胸板に擦りつけられた。

 青年らしい太い腕は背の後ろと膝裏に通されて。

 そのまま彼に身体を持ち上げられれば──。

 

「最近の帝都俗語曰く『女帝式抱っこ』です」

「まるで介護されておるようじゃな」

「間違ってはいませんが発想が斜め上すぎます」

「……子供扱いがすぎる、と言うべきじゃったか」

「しかし、少尉の身体に負担をかけない形です!」

「何にせよ気恥ずかしすぎるのじゃ。せめて」

 

 幼女は震えながら降り、ナッドの肩に手を回す。

 覚束ない足で彼の横合いを登り、背後に移動する。

 そうして逞しい背に沿うように身体を預けた。

 

「こちらのほうがまだ長としての体面が保てる」

「少尉が言うのなら……しかし身体の負担が」

「……思えば、これも子供に対する姿勢のような」

「何やら楽しそうなことをしているのね」

 

 ナッドはその、含みのある横入りに反応する。

 

「……お前もこっち来たのか、マジェーレ」

「ええ、大事な我らが隊長様だもの。みんな駆けつけたかったらしいけれど……いまはゲラートの介抱に付いているのよ。それでナッド、飼い主に戯れるのはいいけれど不満そうね。私が来て不都合なことが?」

「別に、そうじゃねぇよ。お前は来るべきなんだ」

「……どうしたの、模擬戦中から。調子が狂うわ」

 

 マジェーレは訝しげにナッドを見つめ返した。

 ソルも珍しく素直な言葉に目を丸くした。

 二人は以前まで険悪だったはずだ。マジェーレの揶揄を含んだ言動の一々がナッドの癪に障り、それを口に出しては皮肉で返されて鬱憤が溜まる。そんな悪循環が見ないうちに解消されているではないか。

 ナッドはそっぽを向くと、取り繕うようにして。

 

「何でもねぇよ。特別なことじゃない。ただお前や帝国小隊の連中に対する見方が変わったってだけだ。俺がまだまだ未熟で、全然周りのことが見えてなかったことがわかって──ちょっと態度を改めようって」

「……コロコロコロコロと。気持ち悪い変貌ぶりね」

「ちょっとだけだ! 俺は少尉のときと違って、全部の非を認めたわけじゃない! お前の考えとか態度とかを全面的に支持するわけじゃねぇ! だから安心してください少尉、心を預けたわけじゃありません」

「……ここでわしに振らないで欲しいのじゃ」

 

 困り果てて、隠れるように彼の肩に顎先を埋めた。

 それをマジェーレが目端に留めると嘆息する。

 

「阿呆な犬を持つと飼い主は大変ね、少尉」

「言ってろ。俺は義を通してんだよ」

「まあ、どうでもいいわ。とりあえず早く──」

 

 少女は言うが早いかソルに顔を寄せてくる。

 こちらの額に手を翳して、そのまま何事か呟く。

 その手に薄青色の曖昧な明かりが灯ると。

 

「……あら? もうあらかた終わっているのね」

「これは……お前、治癒魔術とか習得できてたのか」

「入用でね。応急手当にも満たないような魔術でしかないけれど、気休め程度にはなるから。早目に本職に少尉を引き渡したいところだけれど……どうにも、まだ舞台裏に引っ込むわけにはいかないようね」

 

 ──ねぇ、四大将代行さん。そうでしょう?

 少女が首を向けた先には黒肌の老爺が立っていた。

 どうやら三人の話の切れ目を窺っていたらしい。

 ハキムは視線に重々しく首肯し、一歩踏み出した。

 彼が為したのはそれだけ。ただそれだけで彼の下にこの場の言動の優先権すべてが収束する。朗々と静粛さを促さずとも立ち姿ひとつで空気を緊縮させた。

 そうして宣言するように総員に問いを投げかける。

 

「ここに力は示された。皆の者、値打ちは眼底にまで焼きついたろう。価値を問う模擬戦はここで幕としたいが、さあどうか。この小さな勝者に異論を挟みたい者はおるか。此度の『根絶』討伐において力不足と詰る者はおるか。四大将に臆さず、常に前を見続け、貪欲かつ強かに勝利を狙った、彼女を謗る者は──?」

 

 彼らは、老爺の紡ぐ問いかけを黙して見守った。

 声は上がらない。賛同も罵声も飛ぶことはない。

 腕組みのまま塑像のように動かない大男。ただ言葉を待つ女。にたにたと微笑む小男。目尻に皺寄せ、こちらを痛ましげに見る者──反応は十人十色だ。

 この結末に誰もが納得したわけではないだろう。

 並ぶ顔触れには腑に落ちない表情の者も当然いる。

 シャイラが本領の片鱗を裾だけでも覗かせれば、数秒と経たずして決着がついていた。手心に手心を重ねられ、紙一重で勝ち取られた結末を手放しで歓迎できるかと言えば「難しい」の一言に尽きるだろう。

 至極当然の話だが、彼らにとって帝国は仇敵だ。

 受け入れられないと拒絶することこそ自然である。

 それでも表立って難色を示さない理由は、四大将副官の御前ゆえか。否、おそらく徹底した実力主義が根底にある『ビエニス』という土壌の賜物だ。実力や価値、実績を前にしたとき、いつだって彼らは寛容だ。

 嗄れた声色が保たれた沈黙を破るように響き渡る。

 

「四大将本人は不在ながら、全権委任された四大将代行として──そして価値を見定めた者として──ハキム・ムンダノーヴォが宣言しよう。これにて帝国小隊の処遇は決定したものとし、然るべき談合の後に御璽をもって契約を結び、栄光ある我ら討伐隊の一員として名を連ねることを約束する!」

 

 断言したあとに──ひとつ、拍手が鳴った。

 その主は紅髪の青年ことホロンヘッジだった。

 したり顔で頷きながら大仰に手を広げ、音高く叩いている。続くようにして勢いは徐々に増した。顔の古傷が目立つ強面の男女は静かに拍手を、柔和な優男は調子よく口笛を鳴らし、短く称える声も上がった。

 白の幼女は背負われながら、それを眺めていた。

 ぼうと。凪いだ瞳の水面に綺麗に映るように。

 無心のつもりが、透明な感慨で満たされていく。

 

(そう、いえば)

 

 こう、大勢に褒め称えられたことは初めてだった。

 少年時代、凡人は何をやらせても転ぶ子供だった。

 ずっと夢ばかり向いて歩いていたが、目に見えるような才能を持ち合わせていなかった。だから他愛ない段差に躓き、転んだ。遥か空の彼方に背伸びするだけ笑われて、その愚直さを憐まれたことばかりだった。

 傭兵時代、凡人は場違いな舞台に立ってしまった。

 随分と背は伸びたが、手伸ばす先は遥か上空。だから剣術という梯子に登って、戦闘技術という塔をつくり、基礎体力という地層を重ねた。それでも夢の尾は指端にも掠らず、勝利と敗北には分け得ない『凌いで終える一日』を繰り返すばかりだった。英姿颯爽とは背中合わせの生き方では誰にも認められなかった。

 そうして現在、大勢の拍手が送られている。

 

(こういうのは……英雄譚の花形じゃよな)

 

 もっとも人数にすれば三十人程度による祝福だ。

 大勢、という言葉に当て嵌まるか疑問は残る。

 いままでに幼女が見聞きし、憧れ焦がれてきた古今東西の英雄たちとは比べるべくもない。喝采の量や活躍の質に雲泥の差がある。まだ彼らと並べるほどの存在に非ず、まだ空の彼方に煌めく星に手は届かない。

 だが、そのとき確かにソルは顔を綻ばせた。

 まるで見目の通りに幼子であるかのような笑み。 

 

(うむ……うむ。気分は悪くない、のう)

 

 この碧虚の下、また凡人は夢に一歩近づいた。

 幕引きに満座の喝采を送られるようになったのだ。

 余韻嫋々の音色が胸の奥底にまで響いて──。

 

「……おい、おい。忘るるなよ」

 

 そんなときに正面の老爺から目配せされる。

 ソルが胡乱に見返すと隣の少女から小声で「握手のことよ。ほら行きなさい」という助け舟が出た。そのまま端的な説明を耳打ちされたところによれば「衆目の前で手を繋いで、この場の皆に実感を与えるの」とのことだった。それで長としての役割を得心する。

 なれば、ここで撥ねのけるわけにはいかない。

 幼女は負ぶわれたまま大柄な老人と向かい合う。

 身の置き場を失ったナッドは肩身が狭そうだった。

 

「流石と言う他にない。帝国小隊長殿──少尉」

「……どうも。ですのじゃ」

 

 ソルは人前での礼儀を弁え、口調を整えた。

 それを見てハキムは目尻の皺を一層深くする。

 腐れ縁同士、改まって握り合う間柄ではない。

 朦朧としながらも気恥ずかしさは覚えてしまう。

 そして小さな手は老木の枝めいた手指に包まれる。

 

「流石は、俺の孫だなあ」

「え、あ」

 

 ここで、ふと昨晩に交わした会話を思い出した。

 ──帝国小隊の処遇が決まるまで公表しない。

 そう、帝国小隊の処遇が決まるまでの約束だった。

 処遇が決定した現在、それは白紙と化していた。

 勝利の余韻は血の気とともに引いていく。

 この日一番の喧騒のなか、幼女はただ顎を上げた。

 先送りにしていた今後のことを空に馳せて──。

 

 


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