修羅幼女の英雄譚   作:嵯峨崎 / 沙城流

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6 『似た者同士』

「討伐対象が原罪の獄禍……貴様、正気か?」

「呵々。そりゃあ狂気も、ちィとばかしあるだろうがよ。だが耄碌するまでは生憎と時間があるようでな。こと『根絶』討伐に関しちゃ大真面目よ」

 

 ソルはいよいよ口角の尖りを抑えられなくなる。

 英雄愛好家として、その単語は見過ごせなかった。

 

「そうでもなければ、帝国の辺境くんだりまで来るものかよ。この地には原罪の獄禍のうち『根絶』が通りがかる。その情報を元にマッターダリの山脈を越えてきたのだが……鞍部を越えるだけで一苦労だったわい。帰りのことは考えたくもないわ」

「貴様たちは、そこまでしてかの獄禍を──」

「ああ、討伐するつもりだとも」

 

 大陸に七体存在する、原罪の獄禍。

 彼らは災厄の象徴である。大陸上から竜が滅びた現代において、彼らに比肩する生物は存在しない。その暴威の熾烈さたるや、歴戦の英雄たちをも寄せつけないほどだ。観測されて以降、討伐できた者はいない。

 ソルの知る英雄譚で原罪の獄禍は倒されない。

 彼らが登場する場合は、例外なく英雄が敗走する姿が描かれる。最古の原罪の獄禍が数百年前から観測されていたことを踏まえれば──その間に一世を風靡した英雄たちですらも、この七体の怪物に歯が立たなかった事実が浮き彫りになってしまう。

 国家を丸ごと焦土に変えた記録すら存在する。

 それが、原罪の獄禍と呼ばれる怪物たちだった。

 

(……改めて思えば、背筋の凍ることじゃのう。そんな怪物が現在も、我が物顔で大陸を闊歩しておるとはのう。討伐を目論んだ国家は過去にもあったが)

 

 歴史上、討伐に名乗りを上げたのは三ヶ国。

 そしていずれの国家も惨憺たる結末を迎えた。

 

(財政的に破綻した国家が三ヶ国のうち一つ。それは討伐隊に血税を注ぎ込みすぎたことが遠因じゃった。しかし、あとの二ヶ国は単純な力負け(・・・)。掻き集めた英雄も、魔導具も、そのすべてが跳ね除けられて、一週間足らずで国家が滅んだ。かの獄禍たちは、対国家で論ずるべき存在じゃ)

 

 ──彼らに触れば(さわ)る。

 原罪の獄禍は、まさに節理のない禍殃だった。

 立ち向かう。そう思惟すること自体が愚かしい。

 無闇に近寄る者には周囲から白眼視が向けられる。

 現代の常識に照らし合わせれば、彼らの討伐を目論むことは、夢見ると形容されてしまう。それはたとえば「地震や嵐は危ない。だから根絶やしにしてしまおうと考えている」と屈託なく語るような滑稽さに、限りなく似ていた。大真面目に提案すれど笑い飛ばされる。そんな妄言の類でしかないのだ。

 そんな夢物語に財をなげうつ馬鹿はそういない。

 

(この暴威を相手取るには生半可の備えでは不可能じゃ。僅かばかりの勝算を得るためにも、人材も、資材も、あらん限りのモノが要る。そしてそれは、間違いなく隙となる。隣接国から侵略される恐れを無視できんがゆえ、この数十年間、大陸の国家で討伐隊を組織したところはないはずじゃ)

 

 だが、ハキムは不敵に笑って軽々と言ってのけた。

 ──そんな、手の施しようのない怪物。

 ──そいつを狩るために俺たちがここにおると。

 

(それは、なんと……素晴らしい響きじゃろう)

 

 これは、いつかいつかとソルが願っていたことだ。

 帝国上層部が望む、予定調和の怪物退治ではない。

 歴史上でも類を見ない、前人未到の怪物退治だ。

 華々しい英雄譚の章立てにはお誂え向きの浪漫。

 つまり、本番に相応しい怪物退治に他ならない。

 心を躍らせるソルに、老爺は目を細めてくる。

 

「……その顔、知っとるぞ」

「なにを言うのじゃ貴様」

「首を突っ込みたくて仕方ないといった面だ」

「────」

「頬に手を当てて確認するな。まったく」

 

 ハキムは愁眉を開き、枯れた唇から嘆息を漏らす。

 

「……お前さんは変わらんなあ」

「なにがじゃ」

「相も変わらず、夢に一途だと言うておるだけだ。思い出すわい。今も昔も、お前さんは餌を吊り下げられれば、馬のように走るやつだと言うわけだなあ」

「そうか。馬は速いのう」

「……おい、返答が適当になってきておるぞ」

 

 いよいよソルは気もそぞろだった。

 真正面で苦笑する老人すら視界に入っていない。

 手元に転がり込んだ浪漫に目を奪われたままだ。

 討伐不能と目される怪物を討伐すること。

 これがもし達成できたなら、喰いつくのは詩人や作家に留まらない。名立たる歴史家たちですら筆を執るに違いない。なにせ、原罪の獄禍を打倒せしめる偉業は、いまだかつて樹立されたことはないのだから。

 ──羨ましい。本音を言えば非常に羨ましい。

 だが、それを胸中に押し込めに押し込める。

 

(わしは、末席と言えど帝国小隊の長。どれだけ魅力的かつ甘美な浪漫を前にしようと、それが敵国の軍隊に与することになるならば、選んではならぬ。先ほどまで散々後悔したはずじゃ。それが長としての責任という奴じゃなからんか)

 

 理屈はわかる。後悔も骨身に染みている。

 苦虫を噛んだ挙句に吞み下したような顔で俯く。

 彼女にも立場がある。口惜しくも唇を閉じ──。

 

「一枚噛ませてもらおうかのう」

「いや、もはや本心を隠す気もないだろうお前さん」

「こんな生涯に一度の好機を棒に振れるものか。わしの一番は夢。義務と秤にかけるまでもない」

「……俺には何のこっちゃ分からんが」

「単純な話じゃ。端的に言えば、いま貴様の絡んでおる『根絶』討伐の話に、わしの持てるすべてをなげうつ覚悟があるということじゃ」

 

 ただ、獄禍討伐には不明瞭な点が多々ある。

 

「しかし、原罪の獄禍を倒す術があるのかのう。あれは規格外中の規格外。そのうち『根絶』は如何なる英雄も寄せつけず、不可触とまで呼ばれた怪物なのじゃ。そもそも近づくことも(・・・・・・)できぬ(・・・)と聞いたことがある。どうやって討伐するというのじゃ」

「こやつ、もはや一枚噛む前提で話しとるのう」

 

 加えて、討伐時期も理に適っていると言えまい。

 

「たとえ原罪の獄禍を討伐するにしても、なぜこの時期、この地理を選んだかも見えぬ。ビエニス王国と帝国は戦争の真っ最中。そして、この場所は王国側から軽々と来られるところでもない。この条件で討伐に乗り出すなど……輪をかけて無謀に思えるが」

「そうさな。俺も最初は半信半疑だった──が、時期的には今しかないようでな。なにせ、うちのビエニス王のお言葉だ、間違いはなかろうよ。討伐手段もまァ、用意しておる。勝算はあるワケだ」

 

 ハキムの口ぶりは依然、飄然としていた。

 その軽さにはしかし裏打ちされた堅さがある。

 それはおそらく、王への信頼によるものだろう。

 

(ビエニス王。ビエニス王国の頂点に君臨する存在)

 

 その王国では王位継承権すら勲章と同義だ。

 条件として血縁の有無や出身、性別を問わない。

 必要なのは、ただ力量、器量、知力、統率力──。

 王座に就くには、それらあらゆる物差しで測られた上で、かつ現国王を凌駕したと民衆に認められるだけの能力がなくてはならない。つまりビエニスの王位継承の形は、王国内で最も秀でた者が王位継承権なる勲章を得て、国家の舵取りをするという形なのだ。

 当代のビエニス王は国祖以来の人傑と聞く。

 此度の獄禍討伐が、その認可を得たものなら──。

 一応、明確に成算があることには違いない。

 

「……もっと『根絶』討伐隊のことが訊きたいのう」

「おいおい、そこまでは欲が深いってモンだ」

 

 ハキムは言い切り、ぴしゃりと好奇心を遮る。

 

「先ほどは見逃したが、一問一答は交互が原則って約束のはずだ。これ以上は欲目が過ぎる。まず俺の手番に回せ、こう根掘り葉掘り訊かれては時間が足りん」

「……それは道理じゃな。すまぬ」

「おお謝れる童は賢いぞ。よしよし、良い子だ」

「まず腕を落とそうかのう」

「やれるものならなあ、小童」

 

 ──ならば望み通りに腕を落としてやろう。

 その瞬間、ソルは衝動に身を任せていた。

 右腕を背後に回す。手を伸ばす先は地面に置かれた小袋。指の感触だけを頼りに、目的物たる短剣を弄り当てる。それを中指と人差し指の隙間に挟み込んだ。

 ソルは横薙ぎに腕を振るう。最中で指を、離す。

 そうして白刃が遠心力を燃料に放たれる。

 鋒が向かうは、狙い定めた通りに鉄格子だった。

 

「なんだ、やはりお前さん」

 

 細い短剣は格子のあわいを抜ける。

 闇に紛れた殺意はハキムの肩口に吸い込──。

 

「少なからず気にしておる(・・・・・・)ワケだ」

 

 ──まれる前に、搔き消えてしまう。

 それはさながら暗闇に呑まれたかのように見えた。

 ソルの喫驚を、しかし唐突な激痛が打ち砕く。

 

「っ……ぐ」

 

 ソルの、座したままの身体が傾ぐ。

 脇腹から鈍痛が広がる。だが痛覚の波は胸部まで届かずに吹き溜まった。身体の芯に沈み込むような衝撃だ。小さな喉仏をわずかに上げ、喉奥から込み上げる胃液を押し戻す。そのとき足元で硬質な音が響く。直感的に目を遣れば、何らかの残骸が落ちていた。

 幼女の手でも握り込める大きさの黒硝子である。

 いや──と、直感に突き動かされハキムを睨む。

 すると、彼はいつの間にか手で弄んでいた銀破片を放り捨てた。座敷牢の暗闇に融けて消えていく。

 その正体をソルは見逃さなかった。

 あれは、先ほど投擲した短剣の刃の部分だった。

 

「……次は、首を、落とす」

「おお、おお、死に急ぐ若者は怖いのう。だが、成し遂げるだけの腕を持ってから言うがよい。もっとも、そうじゃないから冗談になるワケだがなあ」

「わしは冗談じゃなくともよいのじゃが」

「……今更ながら謎よなあ。心優しいお前さんが、どうして俺にだけ、往年の尖りに加え、丹念に殺意を糊塗して向かってくるのか。まあ愉快だから良いが」

「意味などないわ。貴様が、気に食わんだけじゃ」

 

 ソルは言い放つと、赤混じりの唾液を吐き捨てる。

 とうに、このじゃれ合いは形骸化している。こんな遣り取りも幾度となく繰り返したものだ。凡人にしては数少ない、惰性で続けている習慣だった。ハキムと数十年前に果たし合いをして以来、機を見て彼の命を狙うようになった。発端は青臭い話だったが──。

 閑話休題。短剣を戻して、元の位置に座り直す。

 そのとき、ハキムの不躾な視線に気づく。

 

「……なんじゃ、人の身体をじろじろと」

「一問一答は俺の手番だろうがよ。後回しにしておった、その事情を聞こう。どうやらお前さんも割り切れとらんようだから、不随意のまま成り果てたと思うのだが、実際の経緯を知らんからなあ」

 

 ハキムが顎で示したのはソルだった。

 言い換えれば、包帯で巻かれた幼女の身体だ。

 

「この身体について、かのう」

「応。お前さんが何を思って、その幼い身体に収まったのかと興味が尽きぬ。下衆な感情はないと先に明言しておくぞ。旧友として近状を知りたいだけだ」

「……わざわざ明言する辺り怪しいが」

 

 ソルは眉間に皺を寄せ、胡乱に目を細める。

 とりあえず、あらましを掻い摘んで説明した。

 老いた凡人ソルフォート・エヌマ。彼は、傭兵稼業から足を洗うハキムを見送るも、相変わらず傭兵を続けていた。そうして齢六十五にして迎えた戦場にて遂に『人類最強』と対峙する。だが、あえなく敗北。ついぞ天命も尽きたかに見えた──が、ふと目覚めると身体が幼女になっていた。ここで原因かと思い当たった『最高の魔術師』との出会いにも触れておく。

 それからは帝国軍の『修羅』ソルの物語だ。

 でっち上げた幼女の経歴から始まり、バラボア砦でのボガート率いるラプテノン強襲軍との一件や、今回帝国小隊がジャラ村の獄禍討伐に赴いた事情、ハキムとの再会までを、懸命に舌足らずで語っていく。

 この間、ハキムは瞑目しながら耳を傾けていた。

 話し終えたのを見計らい、緩慢に口を開く。

 

「なるほどなあ。大筋は理解した」

「それは……意外じゃな。理解できたのか。わしは己の説明下手を自認しておったが──」

「そらァな、お前さんとは肝胆相照らす仲ゆえ……とは単なる軽口だが。俺には事前情報があったんだよ。立場上、帝国の英雄の情報についてはすぐ耳に入るモンで、ちょうど本国を発つときに『ソルという小童の次期英雄』について齧っておっただけだ」

 

 ハキムはたっぷり間を置いて息を吐く。

 

「──まあ、なんだ。ワケがわからんなあ」

「どっちじゃ貴様、理解したのかしてないのか……」

「話の筋は追えたが、中身が解せん。俺の理解が及ぶ範疇だったのは、お前さんがあの『人類最強』と相対して敗れ去るところまでだ。そこまでは『まあそうなるかのう』と頷きながら聞けたわい」

 

 彼は眉間を揉みながら、半笑いを滲ませる。

 

「死したのちに斯様な童に転生? それで帝国の英雄に駆け上がる? いやはや、質の悪い冗談だ……まあ人目を憚らず語っておった英雄という座に少しばかり近づけたことについて、友として祝福するがな」

「どの口が言うのじゃ。貴様、わしの夢を笑い飛ばしておった側だったじゃろうが」

 

 ──英雄になりたいって口にするだけなら簡単だ。

 ──実行するには足りない物が多すぎる。

 これが、ハキムとの初対面で言われた言葉だった。

 

「ああ? あー覚えておらんなあ。いやあ、堪らん堪らん。この歳になると忘れっぽくて困るわい」

「そも、わしの夢に対して、貴様はどちらかと言えば冷笑的だったじゃろうが。いまわしを祝福するほど応援してくれておったのは、貴様ではなく──」

「呵々、呵々。まあ良いではなからんか。年寄りの贅沢だろう。過去を美化するってのは。憂いを残したまま死んじまうってことほど不幸なことはない。お前さんは……いや、訊くまでもないなあ」

 

 ハキムはソルの膨れ面を指差して笑う。

 そして、ぎょろりとした目を瞼で潰した。

 

「ともあれ、お前さんの立場はわかった。だから言えるが、難しい(・・・)ぞ。よくも原罪の獄禍討伐に噛ませてもらおうと言えたモンだなあ」

「難しい、というと立場がか」

「無論だ。討伐隊に紛れ込むどころの話じゃないわい。指折り数えてみい、幾つ紛れ込める……いや、生かされるだけの理由があると思っておる。帝国軍所属の次期英雄ソル殿よ。たとえそれを潜り抜けたとて、周りがその勝手を許すかのう?」

 

 まあその通りじゃな、とソルは俯く。

 ビエニス王国とガノール帝国は敵対関係にある。

 当然ながら、王国軍の結成した討伐隊は帝国に憎悪を抱いているだろう。逆も然りだ。果たして帝国小隊のなかに「王国軍との共同戦線を張ろう」との言葉に賛同する者がいるだろうか。それも見返りなく、ただ「『根絶』討伐の当事者になれる」というだけで。

 ──少なくともマジェーレは許さないだろう。

 

(なら、わしだけでも入れるように交渉……というのも現実味がないのじゃ。わしだけでは討伐隊に提供できる利潤がない。そもそも帝国軍本部が見逃してくれぬじゃろうな。露見すれば反逆罪もあり得る)

 

 どうあれ帝国小隊の任務は終えているのだ。

 ジャラ村に巣食った獄禍の討伐。それはハキムの手によってケリがついている。帰還せず、敵国と手を取り合って討伐対象を変える道理はどこにもない。討伐隊側からしても、帝国小隊に干渉する道理はない。

 ソルは肘を太腿につき、手で頬を覆った。

 

「ならば……なぜ、わしたちは生かされておる」

「言ったはずだ、俺が苦労を重ねて時間稼ぎをしてやったのよお。どう思っていたかは知らんが、いまもお前さんたちの処遇は宙に浮いている。俺が、今宵まで待遇を保留にしてやっただけだ」

「……貴様が口出ししなければどうなっていた」

「全員、首だけになっておったろうなあ」

 

 ソルはここでようやく正確に事態を把握する。

 思考が先走りしていた。いま小隊が生かされ、こうして所持品も返されている理由は、小隊の利用価値を認められたからではない。ひとえにハキムの一声で処遇保留、あくまで暫定的な利用価値を見込まれたことで、最低限だが丁重に扱っているだけだという。想像以上にハキムの発言力が大きいようだ。聞けば、彼はこの討伐隊でも重鎮であるらしい。

 小隊の処遇判断は明日の早朝に行われるという。

 そこで価値を示せねば、先はない。

 

「流石に貴様でも、帝国小隊を見逃すところまでは話を押し込められないのじゃな。討伐隊の重鎮とは言え、そこまでの勝手は認められないと」

「おいおい、帝国軍の小隊に露骨な肩入れができるワケなかろう。そも俺は討伐隊の纏め役の一人だが、他に三人おる。度を越した勝手は咎められるわい。これから前人未到の『根絶』討伐に踏み出すというのに、内部分裂を招くような言動をとれるか」

 

 ハキムは額を人差し指で擦り、微笑む。

 

「だから、あとはお前さんたち次第だ」

「……友人のよしみで助けてやった、それからは自己責任。そういうことか。ありがたい話じゃが……気味が悪いくらいに親切じゃのう。何を企んでおる」

「企むなど心外な物言いだなあ。友達甲斐のないやつだ。ただただ俺はお前さんを助けたい。その一心で皆を説き伏せたというのに、と」

 

 途中で言葉を切ると、鼻先に指の背を添えた。

 

「どうしたのじゃ」

「一旦お喋りは中断だ。……来た」

 

 誰が来たのか、と問うだけの時間も得られない。

 こつん、こつん──暗室に靴音が響く。音は段差を降るように間延びして、甲高いながら伸びが籠もっている。この座敷牢の扉を挟んだ空間にある階段から聞こえているに違いない。もしやここは地下に位置しているのかもしれない。そう思って二目と見れば、格子窓越しの月は一段と遠いように感じられた。

 足音が響くことしばし、視界に入ってくる人影。

 手に提げている灯篭がその素性を暴く。

 

「ハキムさん……いま、大丈夫です、か?」

 

 それは目を疑うほどに美しい女だった。

 まず歩く姿勢に見惚れた。彼女は腰まで届く紫紺の髪を二尾揺らして現れ、その場に佇む。身体の線は細いながら背筋は通っている。彼女という存在の奥底に流れる品位を、その歩行と姿勢から容易に見抜ける。

 ソルはただ呆気に取られながらも観察を続ける。

 意思と反した口が、空気を求める鯉のごとく動く。

 

(な、な、な、この方は)

 

 その女は深藍の双眸を控えめに側めていた。

 慎ましい表情をする面差しには、髪型に見合う稚気がある。だが妙齢の美しさも見事に同居していた。年の頃は、女だてらに高い身長、それを取り巻く秘めやかな空気から、二十は越していると推察できた。

 蒼褪めた素肌はソルの陶器めいた白さではなく、彼女自身の羸弱を思わせる。そのように寒色系の綺羅が似つかわしい容貌を持ち合わせていながら──彼女は無骨な軍服を羽織り、軍人や戦士という共通認識の殻で自らの上書きを図っているような印象を受けた。

 しかし、華美に非ずとは口が裂けても言えない。

 ソルの目を惹いたのは襟口を彩る徽章である。

 その紋様は鷹と竜を下敷きに、蘭と太陽をあしらっている。輝く徽章の数は一つながら、それは一等星の光とも伍するほどの価値を秘めている。なぜならその徽章だけで、彼女が実力主義が幅を利かす王国内でどういう立ち位置かを、雄弁に物語っているのだ。

 女は困り眉で、視線を二人の間にて彷徨わせた。

 

「……ハキムさん。あの、定例報告、なので」

「なあシャイラ嬢。忘れとったとは言わせんぞ。俺は確かに『許可なくば、ここに足を踏み入るまじ』と皆に言い含めておったはずだが」

「ご、ごめんなさい。皆が待ってましたから、その」

 

 彼女はすぐに腰を折り、繊細な声色で弁解した。

 この萎らしい態度を前にハキムは一度息を吐く。

 

「何度も言うとるだろう。目上の者が(・・・・・)軽々しく頭を下げるモンではない。取り巻くすべてが安く見られてしまう。シャイラ嬢もあやつらの価値を貶めたくはないのだろうが。できうる限り自重せよ」

「はい……ごめんな、さい」

「……もうよい。ここに立ち入ったこと、シャイラ嬢ならば構わん。一度目は許そう。だが、次からは折檻だ。そのことを理解しておるな?」

 

 ソルの瞳孔が大きく広がる。

 交わされた会話はぎこちない。ハキムの声色には友人との軽口に現れない、歳の深みがある。表面まで威厳を押し出したような口調は新鮮極まりなかった。

 これが四大将副官としての彼の態度なのか。

 

(だとしても、妙に空気が固くないかのう)

 

 おそらく叱責めいた話だからだろうが。

 女は、老爺が言い終わるのを待って「はい」と口にし、遅まきながら彼から視線を切る。そして胸に手を当てながら息を吸い込むと、意を決したようにソルの元へ近寄って──それまで(しき)りにこちらを気にかける素振りは繰り返していた──座敷牢の柵の手前でしゃがみ込んだ。そこはソルの目前である。

 こうして二人は真正面から目が合うこととなった。

 幼女は緊張で硬直していた。喉奥が刻一刻と渇いていく感覚すら鮮烈に思える。女はその様をじいと凝視してくる。その表情は氷が張ったかのように硬く、動きと言えば神経質そうに眉宇をわずかに歪めるのみ。

 宵の湖畔を湛えた瞳で、幼女を捉えて離さない。

 

「あの、この子は……」

「俺が連れ帰った帝国小隊の長だ」

「……そうなんです、ね。本当に、小さいのに──」

「確か、名を何と言ったか。あーソ、ソ……そうだった、ソルというらしい」

 

 華奢な肩越しに、白々しい惚け顔が覗く。

 ハキムはあらぬ方向に視線を遣り、おどけたように唇を窄めて、いまにも口笛でも奏でかねない面持ちだった。平時ならばすでに短剣を三本は放っている。そして返り討ちに遭い、吹き飛ばされているところだ。

 だが、いまのソルに突っ込むだけの余裕はない。

 緊張はもちろん、努めて衝動を押し殺さねば不敬を働いてしまう確信があった。檻越しに彼女の手を掬い上げて、握手をねだりかねないような心境だった。

 彼女は紫紺髪を揺らし、舌で名前を幾度か転がす。

 

「そう、ソル……ソルちゃん、と言うんですね」

「え──は、はい。わしはソル、です」

「あ、その、ごめんなさい……不躾に名前を呼んでしまって……そんな、つもりではなくて」

 

 彼女はわたわたと両手を振って一歩退く。

 その大袈裟な動揺の仕方に面食らう。数秒前までの仮面で覆ったような面構えは面影もなくなり、透徹したような雰囲気は搔き消える。いま目前で慌てているのが、表情に富んだ年頃の娘にしか思えない。

 ソルの知る、彼女の正体と乖離した仕草だった。

 そこで響き渡る、見計らったかのような咳払い。

 

「……シャイラ嬢。これも言っておいたが、いまは帝国軍の小隊長の尋問中だ。疾く立ち去ってもらいたいのだが……わかった、追い出さん。追い出さんから、玩具を取り上げられた童のような顔をするな」

「ごめんなさ、い。私、わがままばかり……」

「……よい。そのまま帰せば、そちらの小隊長殿も不服のあまり暴挙に出るやもしれん。文字通りに骨は折れるかもしれんが、共々紹介してやろう」

 

 

 

 ※※※※※※※※※※

 

 

 

「ともあれ、手間はかからんだろ。この方はビエニス王国の誇る大英雄『四大将』が一角『黎明の導翳し』こと、シャイラ・ベクティス嬢だ。いま俺はその右腕を担っておるんだが……聞いちゃおらんな」

 

 ハキムの答え合わせを右から左に聞き流す。

 ソルの目は釘づけになっていた。へたり込む幼女と目線を合わせる紫紺髪の女──シャイラに。彼女を改めて観察すると、やはり衝動が胸に湧き上がる。

 評判通り、美貌は確かなものだ。ひとたび戦場に赴けば、血河に咲く可憐な菫に見えるだろう。ただ手折らんと手を伸ばすことは憚られる。その淑女然とした佇まいは、戦装束でありながら、やんごとなき身分の子女という印象が拭い去れないほどである。

 だが、ソルが喰いついたのは彼女の容貌ではない。

 口内を噛んで緊張を解すと、その場に跪く。

 

「シャイラ・ベクティス殿、武勇はかねがね聞いておりますのじゃ。こうして御目通り叶ったことを天に感謝致します。そこで是非とも、わしと剣を合わせていただけないかと存じなのじゃ」

「え? え、えっと……この子、どういう……?」

「あーシャイラ嬢は気にせんでよい。持病だ」

 

 ハキムはそう言いながら腰を浮かせた。

 座敷牢の戸に近寄ると鍵を差し、開く。幼女は怪訝な顔つきで、とみに動いた彼を見送る。だが彼は厭わずその側に膝をつき、細い首を抱いて背後を向かせてくる。二人だけの鳩首会議に持ち込むようだ。

 乾燥した口元を耳に当て、ボソリと呟いてくる。

 

「……おい、俺のときと態度が随分違ェのう」

「……当たり前じゃろう。貴様は見知った腐れ縁。片やかの(・・)『黎明の導翳し』じゃぞ。どちらに興味を唆られるかなぞ論ずるに値せんわい」

「……それにしちゃあ滅茶苦茶だぞお前さん。藪から棒に──しかも、まだ敬語ひとつできんのか」

「……それはベクティス殿に申し訳ないがのう」

 

 ビエニス王国で『導翳し』の異名は偉大である。

 建国以来の慣習だ。これは王国の四大都市を守護する英雄『四大将』に与えられる異名で、その名は継承はされず一代限り。彼らが代替わりするたびに当代ビエニス王から相応しい言葉をひとつ賜われる。シャイラ・ベクティスの場合、それは『黎明』だった。

 その命名の由来は彼女の人生に由来している。「良家の子女だったシャイラがある日を境に『無能』の烙印を押され、勘当され、王国下層に落とされた。だがそこで諦めずに努力して成り上がり、四大将の座まで手を届かせた」という英雄譚は周知されている。

 彼女は最初から英気に満ちた人傑ではなかった。されど腐らず果敢に、理不尽な現実に挑み、研鑽を積んで、下層を抜け出して、いまや雲の上に辿り着いた。

 努力は無駄ではない。夢を諦めてはいけない。

 そのことを生きて証明した大英雄である。

 

(ゆえにこそ『黎明』。わしら凡人たちの曙光)

 

 深い闇夜を越えて、地平から昇らんとする太陽。

 それを示す『導』を天に翳し、範となる者。

 ソルの尊敬する努力の人こそ彼女である。

 ……という思いの丈を、シャイラにぶち撒けた。

 

「……そんな、こと。私なん、て。大したものじゃないです。努力なんて、皆してるから……」

 

 シャイラは顔を逸らし、仄暗い笑みを覗かせる。

 

「ご謙遜めされるな。質と量が違いますですじゃ。四大将の名を与えられているのです。シャイラ・ベクティス殿の努力はかの当代ビエニス王も認めたも同然ですのじゃ。聞けば、ビエニス王国とは一度下層に落ちれば、生半な力量では上層に戻ることは叶わぬ場所のようで。そこから這い上がった事実が──」

「……お前さん、尊敬対象相手だと饒舌だなあ」

「好きなことに熱が入るのは当然じゃろう」

「その割に俺への言及はここまでじゃなかったのう」

「そういうことなのじゃろうな」

 

 傍目から見れば、幼女と老人のいがみ合いである。

 年甲斐もないとハキムだけが責められるだろう。

 実際は老爺同士の醜い貶し合いである。

 

「──二人はその、どういう、関係……です、か?」

 

 びくっとソルは飛び上がりかける。

 シャイラは二房の髪を揺らして首を傾いだ。

 彼女からすれば当然の疑問だ。ソルとハキムは対外的に見て、敵対する兵同士である。そのはずが、二人は首に手を回して内緒話を始めたり、無遠慮に小突いたり、貶し合っているのだ。旧識の仲と公言したも同然だった。まともな頭をしていたら気づく。

 不幸にもソルはまともな頭をしていなかった。

 

(迂闊、なんたる迂闊じゃろうか……!)

 

 このざまではハキム共々、阿呆の誹りは免れまい。

 ソルは手遅れと知りつつも平常心を装う。唾液を喉に押し込んだ。畏敬する大英雄の姿を目の当たりにして、浮き足立ってしまったのかもしれない。

 これからどう言い繕うかが問題である。「ハキムとは初対面だったが、尋問中、奇跡的に波長が合って打ち解けたのだ」で押し通せるだろうか。いや、たとえどんな言い訳でも苦し紛れの戯言に聞こえるだろう。

 ソルの演技は並の大根役者に自信をつけさせる。

 その即興芝居ともなれば、如何な惨事になるか。

 事態は早朝を待たずして風雲急を告げていた。

 

「それは、じゃな。その……」

「よいよい、ソルよ。言い辛いのなら俺から話すとしよう。すまんなシャイラ嬢。こやつは口下手でなあ、どうにも舞い上がると言葉が出てこんのだ」

「あ……そうだったん、です、か」

 

 ハキムは片手を滑らせ、言い淀むソルを制した。

 そして悠然と立ち上がるとシャイラに向き合う。

 ソルは口を噤んだ。彼の涼しげな所作には疚しさの陰はない。まるで「想定通り」とでも嘯きそうな堂々とした立ち姿である。背中を見上げるソルにも伝うほどの厳粛な空気にこの場を容易く塗り替えてしまう。

 彼の、振り向きざまの横顔が告げていた。

 ──ワ、レ、ニ、ヒ、サ、ク、ア、リ。

 だから口下手は黙る。いまは彼に縋るしかない。

 

(じゃが、少しだけ安心はしておるのじゃ)

 

 ──こういうとき、この男は下手を打たぬ。

 ハキムはソルフォートよりずっと器用な男だった。

 傭兵時代を思い返す。彼はその傭兵団でも抜きん出た武勇を馳せ、大層持て囃されていた。かつての凡人の態度が寡黙で排他的だったとすれば、その真逆の人柄。顔さえ除けば親しみやすく、陽気で社交的な一面を見せていた。それでいて面倒事をのらりくらりと躱し、いつも凡人たちの側で呵々と笑っていた。

 そんな男が「任せろ」と言っているのだ。

 腐れ縁としては見守る他ない。いま数十年かけて古馴染み同士で育てた信頼という芽が、葉となり、花となり、遂には実を結んだのである──。

 彼は、神妙な顔をつくりながら言い放つ。

 

「実はなあ、今しがた、ようやく確信を得たのだが」

「は、はい。ハキム、さん、その子……一体」

「こやつは俺の生き別れた孫でなあ」

 

 ソルは堪えきれず噴き出した。

 

 

 


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