修羅幼女の英雄譚   作:嵯峨崎 / 沙城流

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5  『夢』

 1

 

 

 

 ──随分と古い夢を見た。

 記憶という本棚。その隅で埃を被った一冊。

 これはソルフォート・エヌマの人生の一幕。

 時の流れで風化しかかった残滓である。

 

『さっきはありがとう。助かったよ。いやあ、傭兵さんは優しいんだねえー……まさかまさか、捕まった僕のためにそこまでしてくれるなんて』

『……別に。世辞は止めてくれ、これが仕事だ』

『ご謙遜を。普通のニンゲンはここまで命がけでしないって。ほら、打たれた手首真っ赤になってる』

『……触ってくるな。鬱陶しい』

 

 中天の太陽を臨む一面の荒野。

 ローブ姿の八人組は競うように足跡をつけていく。

 彼らは頭巾を目深に被った所属不明の集団だ。そのうち先頭を行く青年同士が言葉を交わしていた。透き通るような瞳をした男がひたすらにはしゃぎ、もう片方の男が仏頂面でいなす。この後者こそがソルフォート・エヌマ。のちに幼女となってしまう男である。

 彼の身長は同年代よりやや低め。全身を覆う枯葉色のローブからは、短剣めいた鋭い双眸が覗く。そこには若草ゆえの攻撃性が見え隠れしていた。

 ソルはそれを俯瞰視点で見下ろしていた。

 

(そうか、昔の夢じゃ。この場面は確か傭兵団に入って数年経った頃合じゃろうか……初めて戦場に立って数年ゆえか、わしの態度が無意味に刺々しいのう)

 

 明晰夢のなかで時系列を把握していく。

 これは夢との距離を自覚し始めた頃合いだ。狭い村からは出たものの、憧れた英雄の姿を目にしてちっぽけな自信が打ち砕かれてしまった。決して多いとは言えない心の空白が慢性的な焦燥感と無力感で埋め尽くされ、他人にまで心を割く余裕がなかった。

 当時の彼が無愛想を極めている理由はそれである。

 彼は母親譲りの眉を渋めて『そもそも』と続ける。

 

『この程度のこと、傭兵ならば当たり前のことだ。傭兵稼業とは信用が命だ。それが揺るがされるのなら、たとえ命を賭してでも守るのは当然だ──』

『って、んな訳あるか阿呆が』

『……貴様。周囲の警戒はどうした』

 

 赤毛の同僚に横合いから小突かれ、睨み返す。

 睨まれた当人は呆れたように嘆息する。

 

『いや、何だ。お前さんの無茶なハードルに合わせられる同業者のこと考えると不憫でたまらず……それより魔術師サマ、雇い主だってのにすみませんなあ。こう堅苦しくカッコつけられては敵わんでしょう。こいつ、俺たちの間でも浮いておりましてな』

『……まったく気味の悪い。貴様が兄弟子面するな』

『似たようなモンだろうがよ。お前さんの尻拭いすんのは俺なんだから』

 

 その同僚は、無愛想なソルフォートを見兼ねて口を挟んできたのだろう。肩甲骨の辺りまでの赤毛を揺らして、可愛げのない凡人の頭を押さえつけようとするも──それを機敏に躱されてしまう。同僚は『こいつ本当かわいくねえなあ』と呟くと、またひとつ嘆息。

 そして色素の薄い青年魔術師の瞳に目礼をする。

 

『本当すまんなあ、魔術師サマ』

『あはは、とんでもない。僕たちが命を拾えたのは彼がそれぐらいの堅物だからだろうしねえ』

 

 青年魔術師はあっけからんと笑い、手で制した。

 依頼を引き受けた発端は確かにそうだった。

 

(これは、いまから四十年ほど前の記憶じゃ)

 

 帝国の十年戦争の遥か以前。ソルフォートは『とある魔術師五人の護衛』として雇われた。彼らは大陸最高峰の魔術の学舎と名高い、セレスニア大学からの逃亡の助力をして欲しいということだった。

 傭兵職ゆえに事情は詮索しなかったが『奇妙な依頼だ』とは思っていた。この疑念に答えが出るのは数年後のことである。しかし、それはまた別の話。

 いまはただ流れゆく記憶が再生されるだけだ。

 同僚が赤毛を揺らし、耳打ちしてくる。

 

『ソルフォート、そろそろソラリオに着く。セレスニアの待ち伏せの可能性がある。荒事にはしたかねぇが、準備はしておけよ。まあ十中八九、追いかけっこになるだろうがな。念のためだ』

『わかっている。……望むところだ』

 

 わずかに顎を引き、腰に帯びた剣に触れた。

 

『ええとその、赤いほうの傭兵さん? ソラリオっていうのはマティウス王国の北端の都市だったかな?』

『おう、俺たちの庭だ。マティウスは拝金主義の楽園でなあ。特に、ソラリオみたいな国境付近ともなれば、俺たち戦争屋に相応しい根城ってワケよ。そこまで逃げ果せたら、ひとまず小休止ってとこかあ?』

 

 ──ああ、そうだ。この記憶は。

 夢の最中に悟る。これはすべての始まり。

 あるいは彼の、人生の後日談の原因だ。

 赤毛の同僚が離れるのを見計らって、青年魔術師が近寄ってくる。

 

『傭兵さん、名前はソルフォートさんだったかな?』

『何の用だ。……手短に話せ』

『いやあ、後日のお話なんだけどね。無事に人材登用課から逃げ延びられたら、個人的にお礼をしたいんだよ。もちろん、取り決めた報奨金も払うけれど……そう、これがニンジョウという奴なんでしょう?』

 

 柔和に微笑む青年は睫毛の長い瞼を瞬かせ。

 あまりにも容易く。あまりにも柔らかな口調で。

 その、始まりの言葉を口にした。

 

『なにか願い事はあるかい? 僕はね、恥を忍んで言うならば『最高の魔術師』と自負していてね──』

 

 

 

 ※※※※※※※※※※

 

 

 

 伏せられていた長い睫毛が、震えた。

 そしてゆっくりと持ち上がる。

 

(夢、か。随分と昔のものだった気がするのじゃ)

 

 幼女が初めに瞳に映したのは暗い天井だった。

 ぺたりと手を置き、のっそり上体を起こす。

 

(あれは、自称『最高の魔術師』に二つ目の身体を願ったときのものだったか。それはともかく)

 

 ふと頭痛を覚える。緩慢に頭を振ることで、意識にのしかかる眠気を振り払った。埋没したそれを露わにすると、五感からの情報が流れ込んでくる。

 したたかに咽せた。迂闊に口呼吸をするものではない。喉奥にまで空気中の埃を吸い込んでしまった。鼻腔のほうにカビ臭さが貼りついている。長らく人の手の入っていない廃墟の香りだ。郷愁さえ呼ぶ。

 ごふごふ咳き込みながら、胡乱な視線を巡らせる。

 薄く埃が積もる床、奥行きの暗がり……。

 ここは、どうやら石造の住居の一室らしい。

 

(うむ……まったく見覚えがないのじゃ)

 

 ──まさか死後の世界というわけでもあるまい。

 唯一の光源は見上げた先にある。

 格子つきの窓が、塞がれた四方のうち一方の壁に穿たれていた。ソルが背伸びしながら跳ねて、ようやく下辺の縁に手が届くような位置にある。そこから蒼褪めた月明かりが仄かに差し込んでいた。

 つまり時刻はとうに宵を迎えているようだ。それが当日の宵か、数日後の宵かは断定できないが──湿り気も帯びた空気がじっとりと肌に纏わりついていた。

 日中の灼熱に比べれば、冷涼な空気は歓迎だった。

 されど身を震わせ、再び視線を巡らせる。

 すると、否が応にも現状を理解させる物を見た。

 窓の対面に寂寞と並ぶ、鉄格子だ。

 

(ここは座敷牢、か?)

 

 月光を受け、錆を浮かせている様が目についた。

 

(ならば、わしは捕虜ということになるが)

 

 改めて、自分の身体を見下ろす。

 ほぼ全裸だ。身を包んでいた鎧や携行品は剥かれ、代わりに包帯を巻かれている。頭、手、腕、腹、太腿、脹脛、足首──見晴らしのよい双丘も例外ではない。さらしのごとく覆われ、なけなしの厚みを嵩増していた。ソルはそこに無造作に指を突っ込み、首をひねる。ここに怪我はない。にもかかわらず丁寧に巻かれていることを考え、数秒遅れて悟った。

 ともあれ、白尽くめの格好は布地面積が少ない。

 

(道理で肌寒いわけじゃ。特に床……尻が冷えて敵わぬ。じゃが、かくも包帯で気を遣われていることを考えれば、わしの待遇は悪いわけではないようじゃな)

 

 ふと、数ヶ月前を思い出す。

 バラボア砦での一件を終えたあとも、ソル曰く『墓所から這い出た兎の死体』として寝台に縛りつけられた。つまりこれは怪我の処置を受けた痕跡だ。傷跡が深い箇所だった腹部や腿では、包帯の白に濃淡のある赤色が滲んでいる。そして露わになった脇腹の、陶器のような白肌には青痣という文様が描かれていた。

 そこから、気絶前の敗北が脳裏に蘇る。

 

(ジャラ村で、ハキムと出会して、そして……)

 

 ビエニスの英雄との真正面からの果たし合い。

 勝ちの目が存在しない、とは承知の上だった。

 だが、一縷の望みをかけざるを得なかった。全霊を発揮しなければ小隊員──あの場のナッドとマジェーレが喰らわれていただろう。腐っても小隊長に据えられた責任。ソルはその重みに自分なりの術で応えようとした。人の上に立つ術を知らない彼女が知る、責任の取り方とは身体を張ることだけだった。

 そうして飛び込んで惨憺たる結末を迎えた。

 地力が違いすぎた。やはり手も足も出ず、最後は剣すらも指から離してしまった。ハキムの本領発揮を待つ前に、意識を刮ぎ落とされた。それは「基本的な剣技の巧拙ですら劣っていた」ということだ。

 だが、何より悔悟の念を抱くのはそこではない。

 

(ハキムがナッドを狙ったあのとき、わしは冗談でなく虚を突かれた。つまり、初心を忘れておった。小隊員を守ること、小隊長としての責務を果たすことを、失念しておった。少しずつ慣れていけばいい、とは軍曹も言っておったが、その矢先にこれでは……)

 

 まるで、彼女が忌む異名通りのようだ。

 ソルは頭を振って憂愁の影を払う。

 

(ともあれ、じゃ。わしは完膚なきまでにハキムに打ち倒された。敗北を喫したことで、わしはビエニス王国の虜囚扱いになった──という流れならば納得がいく。が、そうではなさそうじゃのう)

 

 捕虜という可能性を砕いたものが、足元で光る。

 そこには一振りの剣が寄り添っていた。見紛うはずもない。ソルフォート・エヌマ時代をも道程を共にした、三代目の愛剣である。丁重に布袋に収められたその横には、携行品を入れた小袋も置いてあった。

 中身をあらためても紛失物はない。

 これは決定的である。ビエニス王国に生きる者が、投獄した者にわざわざ反逆の機会を与えるとは思えない。彼らは産道から顔を出したときから苛烈な競争を強いられ、それでも生き抜いてきた猛者ばかりだ。敗者に慈悲を恵むほどのお人好しでも、傲慢でもあるはずがない。少なくとも()は違うと知っている。

 加えて、やや紳士的な応急処置を見ればわかる。

 とりあえず捕虜よりは良い位置にあるらしい。

 

(その割に室内の様相が座敷牢じゃが、他に有力な考えも浮かばぬ。……頭を冷やすかのう)

 

 そう結論づけると、ソルは剣の柄をなぞる。

 すり切れた包帯の毛羽立った柔さ。

 所々の裂け目で剣の硬さ、冷たさが指先から伝う。

 この仕草が思考を純化させてくれる。

 剣と己を共鳴させるのだ。呼吸を合わせ、心拍を合わせ、脳内の夾雑物を排除。感覚を研ぎ澄ましていく。嗅覚を始めとする五感の調子を取り戻していく。

 そして、いまも肌を刺す視線の座り悪さも、だ。

 このまま無視を決め込んでも得はないと判断する。

 ソルは大儀さを隠さず、金属柵の向こうを睨む。

 

「それで、どういうつもりじゃ」

「どうもこうもあるまい。お前さんの現状がすべてを物語っておろうに。なあ『修羅』よぉ」

「……その名で呼ぶな」

 

 ソルは白髪を逆立てて不快感を露わにする。

 この威嚇には喉を鳴らす音だけが返ってきた。

 呵々、と。断続的な音は鉄格子の暗がりからだ。

 目を凝らせば、視界の正面に椅子があることが知れる。そして紗幕にも似た平面的な暗闇に、椅子に座っている人影が砂絵のように浮かび上がってくる。

 彼はさながら街角に居座る銅像だった。声をかけるまで微動だにせず、さりとてまんじりもせず、深く腰掛けている。その存在感に月光が怯える。室内で朧に散じる青白のそれは、彼に届かず途絶えていた。

 彼こそは、ジャラ村で立ちはだかった男──。

 ビエニスの英雄にして四大将の右腕──。

 ──ハキム・ムンダノーヴォがそこにいた。

 

「貴様、灯もないところで何をしておるのじゃ」

「お前さんが目醒めるのを待っておったに決まっとろうがよ。ああ……どうしても起きんかったときのため、頃合いを見計らって接吻の準備はしておった。口を水でゆすいでな。どれ、見てみるか?」

「腐り果てろクソジジ──っぐむ」

 

 ハキムが歯列を剥いたとき、思わずだった。

 口から暴言が飛び出て、慌てて自ら口許を塞ぐ。

 あわや下手を打つところだった。周囲の暗がりにビエニス王国側の余人が潜んでいる場合、これはよろしくない発言である。現状が不明瞭な今、無闇な敵対的言動は避けるべきだ。口を手で塞ぎながらせめてもの抵抗を込めて、ジト目を送るに留める。

 だが、彼はただ愉快げに醜貌を歪めるだけだった。

 

(ハキムがここにおる理由……はわかる(・・・・)。じゃが、わしの置かれた現状が不明瞭にすぎる。あのあと小隊の皆がどうなったかも気にかかる)

 

 夜目にも、老爺の風体は日中同様とわかる。

 浅黒い頭皮には赤毛混じりの白髪が寂しげに散っている。皺の渓谷に嵌め込まれた双眸はぎょろりと魚類めいていた。装いも変わらず、頭部以外の素肌を見せない旅衣。肌寒い夜半にはむしろ羨ましい恰好であった。もしやこの寒気を見越したものだったのか。

 彼は、杖代わりに魔剣を立てて顎を乗せている。

 幼女の湿気を帯びた視線が元か、指で柄を叩くと。

 

「ここには俺だけだ、安心せい」

「もう少し早く言え」

「すまんすまん、つい忘れておった」

 

 老爺の悪びれない様子に幼女は眉間に皺寄せた。

 ただ、情報を引き出すには絶好の機会だ。

 ソルは、最も気がかりだったことを舌に乗せる。

 

「……ナッド、いや、帝国小隊はどうしたのじゃ」

「別の座敷牢で休んでもらっておるよ」

「無事、じゃろうな」

 

 そして幼女は老人の双眸をしかと見据えた。

 真摯な瞳で、虚飾を貫き、真実を見通さんとする。

 彼はそれに応える形で、しかし語り口は軽く──。

 

「無論だとも。不可抗力で火傷は負っておるが、無傷に近ェよ。処遇はそう悪いものにしておらん。……俺が皆を説き伏せた苦労、忘るるなよ? 机に二柱三柱と金貨積まれたァて軽いぞ」

「それには……感謝するのじゃ」

「呵々。存外にも値千金が返ってきたなあ、おい」

 

 ──だが、彼の言葉が真実だと信じられた。

 ソルは安否が知れると、肺底から息を吐き出す。

 対ハキム戦で恐れたのは小隊員の暴走だ。

 

(ナッドと軍曹に説明をする時間もなければ、建前も用意しておらんかったからのう)

 

 幼女が先制を取るのは必須事項だった。

 一方で、説明や統率を投げ出し、突撃したことが裏目に出る可能性はあった。たとえばナッドが情報不足のまま幼女の後追いなどしていれば、幼女の賭けが潰えていただろう。そして結果的には次善が掴めた。ハキムに聞いたところ、小隊員の怪我の具合は、一人だけ無傷、他全員がわずかな火傷のみだという。

 一計を案じた(・・・・・・)甲斐があったというものだ。

 

(それを含めても、あの場に軍曹がおったのは僥倖じゃった。小隊を握っておるのは彼女、統率経験もわしの遥か上を行く。ゆえにハキムの元へナッドを向かわせん、とは信頼しておった。仕事に真剣な彼女ゆえに背中を任せられたのじゃ。感謝したいが……)

 

 幼女はわずかに苦笑を浮かべる。

 少女の不機嫌な面差しを思い浮かべてしまった。

 彼女のことだ。ソルが真正面から感謝を示せど、舌打ちを添えて突き返してくるに違いない。「そんなつもりじゃなかったわ」という言葉を先に置いて、必然性を滔々と語るかもしれない。いずれにせよ、まともに受け取ってもらえる像は見えなかった。

 ハキムは曖昧に首を揺らし「さあて」と口を開く。

 軽薄な雰囲気は一転、重厚な鉄扉のごとく──。

 

「……一問一答は対等にせねばいかんよなあ」

「ならば、貴様の手番じゃ。何でも言うがよい」

「話が早くて助かるわい。正味、九つほど疑問があるが……まず、言うて置かねばならんことをば」

 

 ハキムは仰々しく前置きし、人差し指を伸ばす。

 そして、強烈な眼光でソルの矮躯を射抜いた。

 たかだか視線。されど視線である。

 視線を感じることは、つまり英雄の認識内に己がいる事実を実感に直結させられることと同義だった。不興を買えば、自分の命の火が吹いて飛ばされるかもしれない。その現実を正しく理解した常人は竦んで動けなくなる。ちょうど蛇に睨まれた蛙のように。

 年輪に縁取られた双眸が、ひとたび細まり──。

「まだ生きておったのか、クソジジイ(・・・・・)。数週間前に訃報が届いたときは、遂にくたばったかと清々しておったんだがな。相変わらずの生き汚なさよ」

 

 ──クソジジイ。

 それは、あまりにも相応しくない呼び方だった。

 第三者が聞けば耳を疑う、矛盾に満ちた言葉。

 しかし、ソルは憮然と鼻息を漏らす。

 

「それはこちらの台詞じゃ、クソジジイ。ようやく本題か。貴様はいつも前置きが長い……気味の悪いことを言うより先に、切り出すべきことがあるじゃろう」

「……呵々ァ、いや何だ。勿体ぶったワケではない。いまに至るまで半信半疑だったのよ。だが、それも確信に変わるわい。その憎まれ口は」

 

 張り詰めた緊張感は一気に霧散する。

 老爺は堪らずといった様子で噴き出した。

 

「懐かしいのう、ソルフォート。お前さんの態度は年老いるたび角が取れていったが、俺にだけは最初と変わらんまま。老い耄れも若返るようだ。いや……お前さんの若返りようには負けるがなあ」

「……なにが言いたいのじゃ」

「まだ実感が湧かんくらいだ。まさか、まさか、あの数十年来の同僚が童になるとは思うまいよ親友(・・)

「誰が親友じゃ、誰が。よくて腐れ縁じゃろうが」

 

 幼女は老爺の軽口に遠慮のないジト目を向けた。

 二人の言は真実である。ソルフォートとハキムは親友で──ソルは断固としてその表現に否定を繰り返すが──少なからず縁があった存在だった。端的に事実だけを列挙するならば、傭兵時代の同僚かつ、数十年ほどともに戦場を駆け回った戦友だった。

 ゆえに、突発的な遭遇には動揺を隠せなかった。

 それは英雄に対する畏敬、その下の驚愕ではない。

 ──あやつがどうしてここに。

 ──どうすれば最悪の結末を避けられる?

 そんな、昔馴染みと偶然出会したときの罰の悪さに根差した驚愕である。

 

「そうは言ってもソルフォート。お前さん、最初から殺意に塗れとっただろうがよ。昔馴染みとの偶然の再会と銘打つなら、もう少し平穏にならんかったのか」

「? 首を取るつもりだったゆえ当然じゃろう」

「可愛らしく無邪気に首を傾けるでないわ」

 

 ハキムは諭すように言って肩から脱力する。

 対して幼女は「全く、馬鹿を言うな」とむくれた。

 

「『好機と兎。一度放せば二度とはかえらじ』。戦場の掟じゃろうが。そも、わしの全身全霊でなければ貴様相手では足りん。勝負の舞台にすら立てんのじゃ」

「悪かった悪かった。臍を曲げんでくれんか」

「……貴様の首級が取れれば御の字じゃったが」

「おい本音がまろび出ておるぞ。口を塞いどれ」

 

 改めて、腐れ縁の友人ハキム・ムンダノーヴォ。

 彼はむかし根無し草で傭兵稼業の身空だった。

 青年期からソルフォートの属する傭兵団に入団。それから彼とともに三十年を過ごす。そして齢五十を境に傭兵から足を洗うと隠居。だが彼ほどの男を鉄火の舞台は離したがらなかったのだろう。隠居から数年も経たずして、彼はビエニス軍に志願していた。

 その入隊試験は国籍も年齢も一切問わない。

 問われるのはただ己の実力のみ。ゆえにビエニス人を含め、様々な理由で祖国を追われた人々も集う。彼らの熾烈な生存競争の果てに、ようやくビエニス軍の末席に座れる。それがビエニス王国の流儀だった。

 曰く、地獄の坩堝。曰く、猛者どもの蠱毒。

 そう呼ばれた場所に踏み入れたハキムは──。

 

(やつの腕は傭兵時代にも名の通ったものじゃ。衰え知らずの剣の冴え、体力、経験、知恵……他の志願者を寄せつけず、ハキムの同期生は零。やつは単独での入団となったらしいからのう)

 

 それから十年ほど経た現在、彼は更に高みにいた。

 ビエニス王国の大英雄である四大将。そこに次ぐ副官の地位を齢六十にして保持し続けている──と、ここまでがソルの知る大まかな経歴だった。

 だが、この程度の情報はいまや価値がない。日銭を拳に握り込んで、酒場にでも行けば知れるものでしかない。無国籍かつ老爺の成り上がり劇はすでに語り草となって、詩人や作家がとうに作品に昇華している。

 つまり彼は自らの英雄譚を打ち立てたあとなのだ。

 凡人の隣にいたはずの旧友。彼は、事もなげに夢の席に手を届かせた。憧れ焦がれる視線の束には物ともせず、いま変わらない態度で凡人と接している。

 だから彼女も以前の関係同様、平常心で喋れた。

 

「次の質問の手番はわしじゃな。ジャラ村での手合わせ、その答え合わせと行こう。これも気になっておったのじゃ。貴様は先手で『咆哮』を使ったな」

「ああ、定石通りだ。剣身に触れてこなければ、範囲内の者は勝手に潰れてゆく。無知こそ罪過。愚者は賢者の真似事をする前に走れと──そういうものゆえなあ。……しかし、なぜお前さんはあのとき動けた?」

「誰が貴様に教えるものか」

 

 ソルの一見、向こう見ずな初撃。

 これは彼の思惟を知悉した上での行動だったのだ。

 彼を相手取る際、先制は必ず取らねばならない。

 魔剣『濁世を(ボロス)穿つ上(=ウル=)古の竜(ヘーグル)』。古の時代の竜を象ったと言い伝わる一振りは、中距離戦で無類の力を発揮する。魔力を用いた能力たる『咆哮』や『黒炎』や『尾』は、近接戦を避けるほどに深々と刺さる。

 ソルが見出した対処法は至近距離を保つこと。

 かつ剣技で圧倒し、能力発揮の暇を与えないこと。

 

(まあ、わしの力では成し遂げられんかったがのう)

 

 幼女は、ぺたぺたと四つん這いで移動する。

 ハキムの顔がよく見える位置に近寄った。

 

「答え合わせの延長で聞くのじゃが……いつ、わしをソルフォートと信じた? いや、判断した?」

「きっかけで言やァ、お前さんが小声で『ソルフォート・エヌマじゃ』と打ち明けてきたときだ。流石に面食らったがなあ。その上で、剣筋や癖、俺に対する立ち回り、そこでようやく大方ってトコだ」

「十分早いのう。ビエニスで登り詰めるだけはある」

 

 これがソルの案じた一計(・・)だった。

 ハキムだけにソルの正体を信じさせること。

 そのためにも、身体を何度刻まれど喰らいついた。

 

「……む、その時点でわしと判断したのか? その割に『黒炎』発動後も、殴られ蹴られ斬り刻まれと、丹念にすり潰されたような気がするのじゃが。意識を失う直前など『ハキムに信じさせられんかった』という絶望に打ちひしがれておったのじゃが」

「それはすまんかった。なにぶん断定できんかったからなあ。剣筋やブレ、癖がぴたり同じでも大陸は広大。『再現者』の可能性もある。あとは弟子の可能性も──いやそれは、まあ、ねェなあとは思ったが」

「おい。どういう意味じゃそれは」

 

 非難の声に「待て待て」という手振りをすると。

 

「よくよく思い返すでもない。お前さんは弟子を取る柄でもないだろうがよ。それこそ生涯現役という奴だな。後進を育てるために退くなどせんはずだ。少なくとも、それが俺の思うソルフォート・エヌマ像だが」

「否定はせん。……が、何やら腹に据えかねるのう」

「事実の列挙で腹を立てるのはお前さんらしくない」

「貴様に言われなければ誇らしかったのじゃが」

「おお……理不尽。老い耄れを泣かせんでおくれ」

 

 目元を隠した泣き真似に、幼女の耳で幻聴が鳴る。

 ぴきり。それは幼女の額の血管が浮いたような音。

 

「わしも貴様も同年代じゃろうが。何をここぞとばかりに年寄りぶっておるのじゃ」

「いやあ、何だ。舌の足らん声で言われてもなあ、孫とでも話しとる気分だよ。先ほどから所作も可愛らしくなって……実に複雑なんだァ、親友としてなあ」

「法螺吹きジジイめが……口角、上がっておるぞ」

「おっと。すまんなあ、愉快でついのう」

「本音が漏れておるようじゃなあー。口を縫い合わせてやろうかのう」

 

 ──腐れ縁の人間に弱味を握られてしまった。

 ソルは後悔に暮れていた。

 偶発的なハキムとの邂逅。そのとき彼女を懊悩の極みまで追い込んだのは「正体を明かすか、否か」の選択だった。明かせば、面倒事を抱え込むのは目に見えていた。だが、ハキムから勝利を捥ぎ取ること、あるいは逃げ延びることなど、希望的観測にすぎる。

 背に腹は変えられず、正体を明かしたわけだ。

 この判断で鬼が出るか蛇が出るか、と覚悟の帯を引き締めていたが──何ということはない。笑顔の鬼と蛇とハキムが肩を組んで現れたにすぎない。

 ソルは空を見上げ、すべてを忘れたくなった。

 

「しかし、お前さんも分の悪い賭けに出たもんだ。その身体の秘密を明かすたァな。新たな戦争の火種にもなり得るものを敵将の目に委ねるとは。……もしや、俺のことを案外、信頼してくれておったのか?」

「また気味の悪いことを」

「呵々、そういうことにしておいてやろう」

 

 ──この秘密は俺の胸に留めておいてやるさ。

 ハキムは陽気ながら厳かに言いきった。

 それがソルの瞳には眩しく映る。彼との十年以上前の別れ際と重なった。傭兵団から抜ける早朝、彼はいつもの笑みを顔に貼りつけ、さながら今日も朝の鍛錬に行く素振りで凡人の肩を叩くと、敷居を跨いだ。

 ──ちィっと行ってくるわ。

 回想を打ちきって「これで」と視線に力を込める。

 

「わしは問いに答えた、次は問う手番じゃ。すでに答え合わせは終えた。これからは今後の話、あるいは現在の貴様の話をさせてもらうのじゃ」

「応、存分に情報交換と洒落込もうか。お前さん、訊ねたいことは山積しておろう」

「持て余すほどにな」

 

 現状、ソルにとって不明瞭な事実ばかりだ。

 安全とされる帝国領内に如何にして侵入したか。

 ハキムがジャラ村に巣食う獄禍を倒した理由。

 そして彼らがこんな辺鄙な土地を訪れた理由。

 最後に──小隊を口封じで殺戮するどころか虜囚扱いに落とさなかった理由。顔馴染みだとは言え、明確に敵方だったならば彼は容赦しない。ハキムが虜囚扱いに落とさぬために説き伏せたというなら「帝国小隊が有益になり得る」と彼らに思わせたわけだ。

 その理由すらも、いまは検討がつかない。

 ソルは手元の剣を意識しつつ直球で投げかけた。

 

「ハキム、貴様は敵か?」

「さあな。お前さんたちの目的にもよるからのう。そちらの事情は知らんから何とも言えんが、ひとつ言えることは──俺たちは帝国と事を構える心算はない」

「だとすれば……」

怪物退治(・・・・)。お前さんが好みそうな題材だよ」

 

 その言葉で、心臓が、跳ねた。

 ハキムは含みのある口振りで口が唇を歪める。

 

「ああ、村に鎮座しておった、取るに足らん獄禍ごときではないぞ? 俺たちの討伐目標は大物中の大物。大陸に跋扈する七体もの災禍の権化。『原罪の獄禍』の一体──『根絶』ファニマール討伐だからなあ」

 


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