修羅幼女の英雄譚   作:嵯峨崎 / 沙城流

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4 『笑う修羅と無慈悲の竜』

 ──竜。あるいは龍。

 いつか、大陸にはそう呼ばれる生物がいたらしい。

 とうに滅びた種族だ。太古の英雄譚にばかり名が残る、かつての覇者たちである。その姿は、蜥蜴や蛇に翼を持たせたように描写されることが多い。時には異形としての特徴を有すと記され、個体ごとに目や腕、翼の数、体表を覆う鱗の組成がまるで異なっている。

 たとえば、九十九個の目を開けた沼地の竜。

 たとえば、溶岩を固めたような鱗を持つ深紅の龍。

 幼い頃にナッドもよく空想した──大陸の伝説。

 目前のそれ(・・)からは、その暴威の片鱗が垣間見えた。

 

「吼えろ『濁世を(ボロス)穿つ上(=ウル=)古の竜(ヘーグル)』」

 

 老人の嗄れた低音で言葉が紡がれた。

 おそらくは彼が握る、赤銅色の魔剣の名だ。

 口上に呼応するように、螺旋を描く聖文字の羅列が加速を続けた。遂には文字列が融け、光帯のように変わり、風の唸りが増す。まるで文字が空間を削っているかのような──削岩音めいた大音響が辺りを席巻する。それは、心胆まで震わす獣の咆哮にも似ていた。

 否、この音の暴虐は竜の咆哮とも言うべきか。

 

「ぐッ……!」

 

 音、音、音、空間で一気に膨張する圧力。

 ナッドは咄嗟に奥歯を噛み締め、耳を押さえた。

 だが、鼓膜の奥は問答無用で揺さぶられる。

 手で塞いだはずの外耳道まで、圧力の洪水が押し寄せ、三半規管にまで飛沫が舞う。ナッドは朧に広がる眩暈を覚えた途端、重心の位置を見失った。

 下半身が脱力すると同時に、膝の皿は瓦礫につく。

 ──立ってなどいられるはずがない。

 

(いや……でも、地面に伏せる、わけ、には……!)

 

 震える唇をこじ開ける。緩慢に空気を吐く。

 怯えた心胆を宥めるため、ではない。

 管を通すような呼吸でなければ、喉を通らない。

 頭も、喉も、胸も、腹も、足も、すべてが音によって圧迫されているようだった。呼吸の出入りはもちろん、手指の一本一本にまで力を入れなければ、べこんと音を立てて人体が外側から潰されてしまうだろう。

 ナッドは呼吸のため口を開くたび、一抹の不安に駆られる。もしや、震え上がった心臓がこれ幸いと逃げ出しやしないか。そんな突飛な夢想が、笑い飛ばせないほどの真実味を帯びているように思えた。

 身体が強張り、萎縮するように足が竦む。

 視界が揺らぐ。伏し目がちに瓦礫の頂上を仰ぐ。

 

(ちくしょう、でも、相手から目を離すのだけはッ)

 

 圧倒的な音は聴覚を備えた生物を鎖に繋いだ。

 だが──音の鎖を引き千切った者が一人いた。

 さながら風のように、幼女がナッドを追い越す。

 すれ違う刹那、幼い横顔の口許を捉えた。

 

(少尉……なに、笑って)

 

 背筋をなぞる冷たさを覚えたのも束の間だった。

 次の瞬間に小さな背中は遠退いた。

 そこで、滑らかに白髪が跳ねる。

 

(な……なんで動け、いや、それより、真正面から一人で突っ込むのは無謀じゃ……!)

 

 内心の悲鳴を他所に、幼女は老人へと迫る。

 瓦礫の山の尾根を滑るようにして駆け上っていく。

 その先、頂上で待ち構える老人は俯いた。

 彼の乾いた唇は何事か紡ぐと、薄く笑みを返す。

 まるで──いい度胸だ、と言っているかのように。

 

「少尉……ッ!」

 

 ナッドは本能的な恐怖に駆られて叫ぶも、遅い。

 すでに幼女は戦の舞台に飛び入っていた。

 彼女は、まず頂上の淵をなす瓦礫を蹴った。勢いのまま中空に身を預けたまま、右手に握り込んでいる剣を抜き放つ。迅速かつ滑らかな所作。切っ先の辿る線は居合術のように美しく思えた。繰り出された剣閃は、ハキムを斜に裂くような軌道を描く。

 馬鹿正直な剣撃だ。ナッドの口角が引き攣る。

 

(あれじゃ脇腹でも狙われたら一瞬だ……!)

 

 間合いを詰めて、斬る。

 剣術とは、これを如何にこなすかを突き詰めるものである。相手取るのが物言わぬ木偶ではないがゆえ、あらゆる手法で、どう有利な距離感を保ち、どの機に乗じて斬りかかるかを案じなければならないのだ。

 真っ当な剣術家ならば、構えや足運びを中心に手法を組み立てる。戦場に立つ剣士ならば、装備、魔術、あるいは小道具を材料に加えるだろう。

 だがソルの行動と言えば、ただ近寄って斬るだけ。

 あれでは、急所を差し出しているのと変わらない。

 

(少尉、本当になに考えてッ!?)

 

 しかし、事態は彼の想像を覆す。

 ソルの剣閃はハキムを鋭角に捉え、止まった。

 否、遅れると言うべきか。幼女の腕の動きが停止しただけであり、身体にかかる慣性のまま刃は宙を滑っている。その軌道上には、老人の平手があった。

 まさか、刃を素手で掴まれるのではないか。

 心臓が跳ね上がるも──違う、と目を瞠る。

 ソルの身体よりも、刃が遅れていく(・・・・・)

 弧を描いていた軌道は乱れ、剣が手から離れる。

 当然、待ち構えていた老人の手は空を掴む。

 

(な──ッ! 武器を手放した……!?)

 

 ソルは慣性の向くままハキムに肉薄する。

 幼女は丸腰。対して老人の手には、なおも大気を轟かす魔剣がある。もしや、瞬きの前後で一人の生死が分かたれるのではないか。ナッドは瞼を押し上げ、人間がものの刹那で肉片に変わる姿を幻視してしまう。

 だが、ソルは躊躇いなく右腕を伸ばす。

 剣を手放したおかげで空いた右手を使って、差し出される形になったハキムの手首を掴む。それを支点にぐるりと空転、真上に矮躯を投げ出した。

 太陽を翳すようにして幼女が舞う。

 その閉じた太股に、先ほどの剣が挟まっていた。

 

(曲芸じみてる)

 

 ナッドが唖然と見守る先で、ソルは落ちてゆく。

 ぐるり。幼女は縦回転を帯びたまま、鞘のように太股から剣を抜いた。そして彼女は重心を僅かな挙動で制御しながら、身体を回転させることで全体重を剣身に乗せ、ハキムの頭部を狙って振り下ろされる。

 彼は黙然と俯くと、魔剣を片手で緩慢に掲げた。

 音に満ちた『音のない世界』で二閃が交わる。

 

「──ッ! ────、──!」

「──……」

 

 そう、二人が間近で鍔迫った瞬間のことだった。

 荒れ狂っていた咆哮が、唐突に止んだ(・・・)

 

「ッ!? ぐ、ぅ、ふう……! はぁー……!」

 

 ナッドは、音の呪縛から解き放たれた。

 耳を塞いでいた圧力が消え、肌を押していた圧迫感も霧散する。自らが押し潰されないよう、無意識のうちに全身に込めていた力も抜けた。まるで水中深くから水面まで浮上したかのような感覚だ。

 衝動的に視線を地面にぶち撒け、両手をついた。

 額には熱い汗が滲む。口をこじ開けても、荒い呼吸は収まりそうにない。身体は空気を貪欲に求め、咳き込んでしまう。音に締められていた喉が、堰を切ったかのような空気の激流に戸惑っているようだ。

 解れた思考の紐を紡ぎ直しながら、類推を重ねる。

 

(あの魔剣──あの、音の能力は剣身に接触すれば止まるものだったのか……? だったら、少尉の無鉄砲な突撃は正鵠を得た行動だったってことか……? いや、ハキム・ムンダノーヴォ自身が止めたって可能性もあるが……クソ、思考がまとまらねえ……!)

 

 ナッドは呼吸の荒さをそのままに片膝を立てる。

 いまだに足元は覚束ないが、立たねばならない。

 それが、ソルの姿勢から学んだことだった。

 

(それより、少尉は──)

 

 瓦礫の上では、剣戟の音が鳴り響いていた。

 度重なる金属音。風の悲鳴。瓦礫が軋む音。

 幼女と老爺。彼ら二人は幾十もの剣を合わせる。

 間合いは、ほぼ常に至近距離が維持されていた。白の矮躯は腕や膝のバネを用いた伸びやかな動きで、旋回しながら刃を差し込む。対して、浅黒の老躯は正中線を動かさず、大木を思わせる佇まいで迎え撃つ。戦闘の最中で立ち位置は変われど、この構図自体は変わらない。こちら側が圧倒的に攻め立てている。

 そして、ナッドは攻防戦の半径にもたじろいだ。

 あんなに狭くては、横入りしようにも無理がある。

 土属性の魔術による援護はまず不可能だろう。

 

「──────ッ」

「────?」

 

(何か、喋ってるのか?)

 

 小さな遣り取りが二人の間で交わされている。

 だが、ナッドの鼓膜までは届かない。

 幼女の風纏う一閃と、老爺の風切る一閃。

 再び二つは対になるがごとく交差し──。

 

「ぐッ……!」

 

 ナッドは目元を腕で庇って、轟く風圧を耐える。

 両足に力を込め、凌ぎきると再び視線を戻す。

 そこでは、二人が動きを止めて対峙していた。

 

「──、──そうか。だが、変わらんぞ」

「望むべくもないのじゃ。元よりそのつもり」

 

 軽く遣り取りする二人は、酷薄に笑い合う。

 一人は、老いた醜顔を喜悦で歪めるように。

 一人は、幼い顔立ちを口端で凶悪に裂くように。

 

「俺は目前の餌を喰らうのみよ。歯応えがあれば文句はなかったが……呵々、その身体では期待できんか。さて、この一振り──無慈悲の竜を果たして越えられるか。『武』でそいつを問わせてもらおうかのう」

「踏破してみせよう。人の枠から外れることのできなかった人間が、この剣で、貴様を越えてみせよう」

「……ほう。生か死か、その手に掴んでみせい」

「掴むは勝利、ただ一つじゃ──」

 

 この交差を皮切りに剣戟は熾烈を極めていく。

 切っ先が互いの命を求めて揺らめき、貪り合う。

 

(もう目で追うのもやっとだぞ……!)

 

 傍目に見て──ソルの技量は目を瞠るものだった。

 跳躍、加速、減速。四肢を自在に駆動させ、老いた英雄を翻弄している。矮躯を存分に活かした挙動は驚嘆に値するものだ。その機動力と精確さで、至近距離を保ったままの打ち合いを実現していた。

 だが、幼女はいまだ英雄を捉えられないでいる。

 ハキムは老躯に似つかぬ矍鑠(かくしゃく)とした対応を見せる。

 三次元的な角度から襲う剣撃をいなし、神懸かり的に紙一重で躱し続けながら、的確に刃を落とす。機敏な動作の割りに、最小限の動きで立ち回っていた。老人が幼女を相手取る図は、まるで孫の剣の修練に付き合っているかのようにも見える。

 互いに決定打を欠いたまま、剣舞の演目は続く。

 

「けど、結構……やれんのか」

 

 ナッドは誰にともなく呟いた。

 ソルがビエニス王国の英雄相手に拮抗している。

 常識を照らし合わせれば「ありえない」と言わざるを得ない。ナッドは、尊敬の対象であれど盲信はしないつもりだ。数週間前のボガート戦を思い返しても、ソルにあのような大立ち回りを演じられるだけの実力が秘められているとは思わなかった。

 まさか短期間で飛躍的に実力を伸ばしたのか──?

 そんな期待は、横合いからの言葉に切り裂かれる。

 

「馬鹿じゃないの。あれは死を早めているだけよ」

「マジェーレ……!」

「あのままじゃ戦況は悪化するだけなのに。そこまでは馬鹿だと思いたくはないけれど」

 

 ナッドが隣に目を遣れば、そこに少女の姿がある。

 彼女は仏頂面のまま、左手で乱れ髪を弄び、右手と右肩で蛇行形状の魔導具を支えている。ハキムの魔剣の影響を感じさせない、涼しげな佇まいだった。

 ナッドは明確な反感を覚える。誰かが奮戦している脇で、賢しい傍観者を気取って、さも他人事のように構えている。そんな彼女の態度が気に喰わない。

 何も今回だけではない。似た経験は幾度もあった。

 ジャラ村に着くまでの道中、癇に障らなかったことのほうが少ないくらいだ。最終的にソルの前で爆発してしまうほど、彼女に感じる鬱憤は度を越していた。

 なぜ、このろくでなしが気に障るのか──。

 いま思えば、理由はごく単純だった。

 

(ああ。こいつの斜に構えた態度、俺に似てんだ)

 

 そう腹落ちした途端、平静さを幾らか取り戻す。

 すると、少女のわずかな変化にも気がついた。

 気怠げな面差しには、一筋の緊張が張っている。

 

「とりあえず……口論は後だ。それよりお前、さっきの『死を早めてる』ってのはどういう意味だ」

「単純よ。いま、あなたの目に優勢に見えるのは、あの子が後先考えずに全力を出しているから。少尉には無駄な動きが多い。そして、ハキム・ムンダノーヴォがあしらい方を心得ているから」

「あっちが手を抜いてるってことか」

「語弊があるわ。なにも少尉を慮ってのものじゃないから。戦い方を知っているってことよ。そして少尉のほうは悪手を取り続けている」

 

 マジェーレは表情を変えず、端的に状況を明かす。

 戦闘とは理路の通った駆け引きだ。ゆえに冷静さを欠けば、その時点で敗北が決まってしまう。単純な力比べだけで戦闘が終わるときは、それだけ特殊な状況下の場合なのだ。もしくは、それだけ双方の実力差が歴然だった場合だということになる。

 つまり、格上相手なら搦め手を取らねばならない。

 真っ向勝負は当然、避けるべきなのだ。

 

「自分より強い相手と戦う場合、急所を狙った攻撃というのは悪手よ。最初から全力というのも悪手。強力な一撃で勝ちを奪おうという魂胆そのものがド素人。見え透いた軌道は、格上相手なら必ず気取られる」

 

 それは、至近距離で戦うソルへの批判であり──。

 

「戦術としては長期戦が望ましいのよ。手数を重ねて、慎重に勝利へ寄せていく。……たとえばの話よ。自分の体力を温存しつつ、軌道が読みづらい『急所から外れた箇所』に傷を蓄積させていき、相手の動きが精彩を欠き始めたら、乱れた攻撃にあわせて大きな一撃を入れるの。これだけでほぼ勝負が決まるわ」

「おい……その話って」

「ええ。いま、あの老いた英雄がしていることよ」

 

 ──あまりにも明確な、最悪の未来予想だった。

 眼目を置いて考えるべきは体力なのだ。

 戦闘では、勝利という目標地点まで全身全霊で駆けることは正しい。しかし、走るための燃料が底をついたときのことを忘れがちになってしまう。置き去りにしたものが追いついてくることを、忘れてしまう。

 少女は眉間を撓ませ、己の魔導具を肩に乗せる。

 

「少尉、思ったより体力の消耗が激しそうね。このままだと長期戦になる前に、喰われるわ」

「ぐ、ぬ……!」

 

 少女の言を裏づけるように、幼い呻きが耳に障る。

 蒼穹を背にした二人の剣舞は均衡を崩していた。

 依然として地を滑り、跳ねるように駆ける白い影。

 そこに、滲むような紅色が彩りを加えていた。

 

追いついた(・・・・・)、なあ?」

「ッ!? が──」

 

 瞬間、幼女の全身に幾条もの線が走る。

 その線からは血潮が噴出。空に紅が、散る。

 紅は空中で身体を丸めて珠をなし、落ちていく。

 ナッドは戦慄する。いままで『(うま)(はや)く』を実現していたソルが、体力の限界で一瞬だけ拙速に落ちた。その一瞬。たったそれだけでハキムの剣撃に追いつかれた。もちろんこれだけで留まるはずがない。

 ──傷を負えば、速度は更に落ちるのだから。

 

「遅いのう、これでは追い越してしまうぞ」

「あ、が──ッ!」

 

 ハキムの周囲で夥しい鋒鋩が煌めく。

 張り巡らされた糸のような轍。それが彼の剣筋の残光だ。ナッドは言葉を失う。刃の軌道が転回する刹那でなければ、視認もできない速度である。

 細い轍が煌めくたび血飛沫が空に舞う。さながら、紅い薔薇の花びらを一枚ずつ千切って放っているかのようである。あの燃えるような色合いは、正しく命の燃える色という証左なのだろう。

 最後──剣は振り抜かれ、(みね)が水平のまま止まる。

 そのときソルは、ハキムの傍から飛び退いていた。

 もはや、間合いの維持は不可能だったのだろう。

 

「小童ァ。宣言した『踏破』は程遠いなあ、おい」

 

 老人は剣を振って鮮血を払い、歯列を覗かせる。

 対する幼女は、頂上の淵に踵をつけていた。

 瞳に灯る戦意は健在だ。獣のような前傾姿勢は、いまだ勝利を追う気概の表れのようである。だが、わずかに上下する小さな身体は、正直に「限界だ」と根をあげていた。脇腹付近の胴丸は壊され、外気にさらされた肌には、血の滴る線が無数に引かれている。

 口から漏れる、ひゅうひゅうという不恰好な喘鳴。

 幽かなはずのその音が、妙にナッドの耳につく。

 そのとき、胸の奥に()が灯る心地がした。

 

(この感覚は、前にも、あった)

 

 あれはバラボア砦でのことだった。

 ナッドが臆病風に吹かれ、ただじっと上から幼女の死闘を眺めていたとき。空中に生み出した土塊を飛石伝いに駆けているとき。孤軍奮闘する幼女がついぞ英雄の手にかかった瞬間に、心が発した熱。それは病的なまでに熱く、いまにも折れてしまいそうな膝に、一歩踏み出す勇気を与えてくれるものだった。

 同じように、彼は衝動のまま一歩を踏む。

 

「少尉! いまから、何とか俺が──」

「まあ、少尉はせいぜい数十秒といったところね」

「なに傍観者面を続けてやがんだ……! 少尉の援護に行かなきゃだろうが! お前も、ほら、来いッ!」

 

 思考を熱に冒されたまま、少女の手首を握る。

 時間がない。舞台では第二幕が上がっている。

 阿吽の呼吸で繰り広げられる、剣と剣の求め合い。

 空の彼方まで響くかに思える音が気を急かす。

 

(策自体は……まだ思いついてない。そもそも、ビエニス王国の英雄に勝利するってんなら『六翼』に比肩する戦力がないと駄目だ。マジェーレのオド量はソルのそれより多いが──流石にあれ相手じゃ無理だ。けど、このままでいたって少尉がみすみす討ち取られるだけ。なら、無謀でも何でも、行くしかない……!)

 

 対して、彼女は冷めたように鼻を鳴らすと──。

 力任せにナッドの手を振り払った。

 

「死にたいの? 割って入れるわけないでしょう」

「なッ……!」

 

 喉まで出かかった言葉が急に石と化す。

 腹に自由落下。衝撃は着弾とともに伝播していく。

 一瞬、少女が何を言ったのか理解できなかった。

 そして浮かべている表情が、嘲笑と認識するまでに数秒を要した。理解が実感に溶けていく過程で──腹底で加熱された怒りが沸点を越える。

 ナッドは衝動のまま少女に詰め寄り、肩を掴む。

 

「お前、少尉より強いんだろうが! しかも散々、散々、煽り散らしておいて、お前、お前ッ!」

「ええ。でも、わかっているでしょう? あのご老体ほど私、強くないの。たとえ行ったとしても死体が増えるだけよ。無策のまま突っ込むのは御免だわ」

 

 マジェーレはナッドの腕を無造作に払う。

 軽い動作だったはずである。しかし、槌でも振るわれたかのような重さが伴っていた。ナッドは痛みに顔を歪め、寸瞬だけ竦む。だが少し思い直して、敵意を込めた睨みを投げつけるに留めておく。

 こんな分からず屋に構ってなどいられなかった。

 ソルは刻一刻と身体を刮がれているのだ。糠に釘を打つ暇はない。それにナッドは「マジェーレが素直に頷くはずがない」とは心の底では知っていた。

 ──過去の俺なら間違いなく断ってただろうしな。

 

(だったら、俺だけで行くしかない)

 

 ナッドは視線を振りきり、瓦礫に向けて駆け出す。

 弱音を握り潰すようにひとつ拳をつくった。手が震えるのは力を込めているからだ。そう自分自身に見栄を張って、死闘を繰り広げる舞台にのぼっていく。

 頼れる手持ちは少ない。否、ハキムと相対することを考えると、どれも御守り代わりの代物だ。なにせ、未熟な剣術と、ようやく手に馴染み始めた剣、あとは実践的ではない土属性の魔術だけだ。

 疾走している最中の時間は粘性を帯びる。

 ただただ厳かに、死へと向かう覚悟を問うてくる。

 ──お前は、暗夜の海に意味なく飛び込めるのか?

 それを「うるせぇ」と一喝して、突っぱねる。

 ──俺が行っても無意味ってのはわかってんだよ。

 

「けど、それでも、やらねえと駄目なんだよ……!」

 

 喉から絞り出した声は、苦渋の色が強い。

 ナッドは精一杯の意志を手に宿し、剣を握り直す。

 わざわざ目前に突きつけられるまでもない。

 これが無謀だと知れている。無茶だと知れている。

 だが、この熱にだけは嘘をつきたくなかった。

 

(バラボア砦の一件。熱に突き動かされたとき、ただ無力で、何もできなくて。だが、最後は一助くらいにはなれたんだ……! だから、今度だって)

 

 あのとき成し遂げられた。なら、今度だって。

 幾度も唱えて、己を奮い立たせる。

 

(今度だって……今度だって! 馳せ参じるだけの勇気を出して、それで少尉の助太刀ができたら、きっと、俺はそのときようやく変われたって自分自身に胸が張れるんだ……!)

 

 ナッドは眦を決し、顎を上げて頂を仰ぐ。

 そんな無防備に晒した腹を突き刺すように──。

 褐色の脚が、追い越しざまに飛んでくる。

 

「な……っ!?」

 

 踵が横薙ぎに迫り来る。

 何者かが回し蹴りを仕掛けてきたのだ。

 弧を描く脚先には、帝国軍の軍靴があった。

 その踵は鈍く光を跳ね返している。帝国では対人戦を見越して、分厚い鋼鉄で覆うように製造されるのである。生身で喰らえば骨も砕けてしまうだろう。

 果たして、この不意打ちに対応できるか。

 否、ナッドはそれほど反射神経を備えていない。

 打撃は、胴に巻かれた鎧に確と打ち込まれる。

 

「ごあ……ッ!?」

 

 口が堪らず開いてしまう。

 岩盤に穴を穿ったような音と衝撃。

 一撃で臓腑が潰れたと、思った瞬間だった。

 ナッドの視界は逆流する瀑布で占められる。全身を舐める風を感じながら現状を悟る。目前を流れていくものが水流などではなく、石礫や建物の残骸であることを。そして、自分が俯せで滑空していることを。

 恐怖心が芽吹く前に失速、右肩から地に落ちる。

 

「が……ぁッ!?」

 

 余剰の力に乗ったまま転げ回る。

 勢いが削げるのと同時に、身体が削げていく。

 このジャラ村は残骸の海だ。地面には柔肌を引き裂く石片が散りばめられている。ナッドの身体が回るたび、肩や腕が熱を上げていく。だが、受け身はとり慣れている。学舎での鍛錬の賜物だった。結果的に、三丈の距離を吹き飛ばされて軽傷で済んだ。

 そうして着いたのは、通りを隔てた向こう側。

 瓦礫造りのなだらかな丘陵の上で、身体が止まる。

 ナッドは蹲って呻き、咳き込む。気管に粉塵が入った。きっと転げ回った拍子に入ったのだろう。息苦しさに悶えていると、涙で滲んだ視界に影が映る。

 ──誰かが近寄ってきたのだ。

 射殺すつもりの視線を、のろりと地面に這わせる。

 

「な、にを……しやがる」

「差し出口を、挟むつもりじゃなかったけれど」

 

 目前で、華奢としか思えない脚が止まった。

 紛うことなく、ナッドを吹き飛ばしたそれである。

 軍靴の踵部分は派手に破損し、小ぶりな曲線を描く生身の踵が露になっていた。そこから身体を伝って視線を登らせていくと、最後に闇色を秘めた双眸と目が合う。予想通りにマジェーレの仕業だったようだ。

 だが思惑がわからない。威力の加減はされた形跡はあるのだ。踵を叩きつけられたのは、鳩尾を拳一つぶん開いた位置。こうも綺麗に外されては、殺意の存在を否定されてしまう。ならば何のために──。

 少女は有無を言わせず、用件だけを告げる。 

 

「副長命令よ。やめなさい」

「遅ぇだろ……もろ実力行使だったじゃねぇか」

「言葉で止めても聞かなかったでしょう?」

 

 そう言われればナッドは唇を噛むしかない。

 砂混じりの鉄錆味が、滲むように広がっていく。

 

「……これで話ができるわね。私が止めた理由は、あなたが飛び出しても状況は何一つ好転しないと判断したからよ。それどころか悪くなるだけ」

「そんなこと、言われなくてもわかってんだ……!」

「わかっているのならいいけれど。無謀や無茶を押し通すのはドン底のときだけ。まず冷静になるの。そうじゃないと、きっと後には悔いしか残らないわ」

「お前……! なんでそうやって……!」

 

 マジェーレの憎まれ口に、憤りが再燃した。

 ナッドは拳を地面に振り下ろし、睨みつける。

 あまりにも理不尽だった。窮地を打開せんと差し伸べた手を払うだけに飽き足らず、その道を塞ぐように掣肘を加え、見下すように説教を垂れる。いまならナッドは断言できた。「この女は、人の神経を逆撫ですることに関しては天賦の才がある」と。

 少女は、それを聞き流すように瞑目している。

 恨めしげ視線を強めて、ようやく瞼を上げた。

 

「何とでも言いなさい。気が済むのならね」

「済むかよクソ! 邪魔さえしなけりゃ別に俺は」

「駄目。通すわけにはいかない」

「な──何でだよ! このままじゃ少尉が──」

「これがっ……私に任された仕事だからよ」

 

 強い語調で断言され、ナッドは言葉に詰まる。

 らしくない。たかだか三日とは言え、生活を共にし、大まかな性格は把握できていたはずだった。皮肉屋で冷笑的。その枠からはみ出た、マジェーレ・ルギティにそぐわない迫力に面食らってしまった。

 少女は憮然とした表情で息を吐いて、舌打ちする。

 

「……できうる限り、小隊員を生かすこと。それが中将から副長に与えられた仕事。あなたたちに無闇やたらに死んでもらっては困る。それは少尉のことも同じで、見捨てるわけじゃない。わかった?」

「あ、ああ」

 

 気迫に押され、骨のない返事をしてしまう。

 

「あなたには、他にやってもらうことがあるの」

「やって……もらう、ことだと……?」

「そう。大事なお役目よ」

 

 少女は剣戟を一瞥すると、簡潔に案を語った。

 その間に、ナッドはおもむろに立ち上がっていく。

 

「……あなたは一刻も早く第二駐屯地に戻り、この報告をするの。ロズベルン中将は不在だろうけれど、とりあえず軍本部に連絡を回して。四大将じゃないにせよ、その副官の侵入は一大事。もしも、私たちが全滅したときが最悪よ。彼らが野放しになる。それだけは避けなくちゃならないわ」

「ちょ、ちょっと待て……それって、この状況を打開する案じゃないよな。だって、その案は」

 

 ──まるで最悪の事態を回避するための行動だ。

 呟くと「当然よ」と鋭い眼差しを向けられる。

 

「真っ向勝負しても敵わない相手。それなら逃げる一択でしょう。幸い、私はここの土地に慣れているわ。森に身を潜めれば逃げきる自信はある」

「でも、少尉とか、北側に行った連中とかは──!」

「むざむざ死なせるつもりはないわ。言ったでしょう、これは仕事。報酬に直結しているの。だから、少尉とゲラートたちは私が逃がす。責任はもつ」

 

 確かに、無策のまま吶喊するより望みは繋がる。

 提案の有意性を認めて、静かに頷く。

 少女はそのまま「それに」と言葉を付け足す。

 

「まだ、少尉は諦めてないみたいよ」

 

 え、とナッドは思わず声を漏らす。

 彼が視線を瓦礫に向けた矢先のことだった。

 ごろり。その不穏な音は、剣舞が繰り広げられる真下からだ。転げ落ちてきたのは何の変哲もない石片が一つ。それを追いかけるように、二つ、三つと斜面を下る。特に目を惹く異彩はない。ゆえに『崩壊』の前兆は薄かったと言える。──瓦礫同士が擦れる音や亀裂音が、舞台の内部から一気に軋むまでは。

 変化は一瞬。彼らの足元が、崩れる。

 さながら雪崩のごとく舞台は流れ落ちていく。

 

「小賢しいが、悪かないな」

 

 ハキムという英雄は余裕を崩さない。

 足場を失う。つまり戦闘において枢要な、間合いを左右する足運びが覚束なくなるということ。戦闘の継続はおろか、避難ですら相応の能力を要求される。

 それでも老人は身軽に退避行動をとれていた。背中に羽でも生えているかのごとく華麗に後退していく。崩壊を一秒後に控えた部分を的確に踏んで、飛ぶ。

 そう──容易く身動きの取れぬ、空へと飛んだ。

 刹那、対峙する『修羅』は檸檬の瞳を猛らせる。

 

「はァッ──!」

 

 幼女はこれを好機と定め、疾駆する。

 誂えたように崩壊の遅い瓦礫製の道で加速。

 風を破るたび加速。一歩を出すたび加速。

 息を吐くたび加速。空気を吸うたび加速。

 そして、ついぞ頂上の瓦礫を踏み──飛ぶ。

 陽光を翳す影と化した、老人に向かって。

 

やはり(・・・)そうなのか(・・・・・)

 

 蒼穹を背にしたハキムの口角が、にい、と上がる。

 押し殺したが漏れてしまった、と思わせる笑み。

 ナッドはその意味を図りかねた。おそらく足場の崩落を仕掛けたソルを賞賛しているのだろう。彼女は手足を駆使して、瓦礫の山を保っていた平衡状態を乱し、崩壊を起こすように仕組んでいたのだ。それも、目まぐるしい打ち合いの最中に、だ。

 地力が足りないなら、それを補う必要がある。

 彼女はそのために地形を味方に変えたのだ。

 

(俺も、指咥えてぼうとしてる場合じゃない……!)

 

 遅れて垂れてきた鼻血を腕で拭う。

 ナッドは覚悟の紐を引き締め、駆け出した。

 いまの自分には、為すべきことがある。

 

(ああ、視界が開けてるから走りながらでも少尉たちが見えるのか。趨勢を確認できるのはいい。……正直、少尉の様子も気になるしな)

 

 幼女と老人の終幕は間近に迫っていた。

 空での一騎打ち。これで決着がつくはずだった。

 幼女は会心の一撃を放ったはず、だったのだ。

 空に昇る塔を幻視させるほどの──渾身の突き。

 しかし、清冽な響きがそれを引き裂いた。

 

「笑止、小細工なんぞ通用するものかよ」

 

 またしても鋼鉄は接触。火花が散る。

 ソルの鋭い鋒はハキムが峯で弾いている。

 彼は点の一撃を線で受けた。その魔剣の峰は幅広、かつ竜牙を模したような流線が入っていた。その形状は櫛状と呼ぶべきだろうか。あわいに嵌った剣刃を折るためのものに違いない。

 だが、それは鍔迫り合いの最中で可能なこと。

 足場が存在しない彼には、突きによる衝撃を殺ぐことができない。老躯は高々と突き放され──これで戦況はまた膠着状態に戻る。そうナッドは確信した。

 そして終止符を打てないままなら、勝機はある。

 

(もう、大丈夫だ。これならマジェーレの案通りに事が運べば希望は繋がる……!)

 

 ナッドは視線と思考を切って、走りに注力する。

 ソルたちの生死が自分の両肩にかかっているのだ。

 あとは、幼女と少女に任せることとしよう──。

 そう決起したがゆえに、彼は聞き逃してしまう。

 いや、耳を澄ませようが鼓膜に届かなかったろう。

 

「これは手落ちだ。好機こそが陥穽の入り口ぞ」

「わかっておるのじゃ。なれば第三幕に移ろうか」

「……いやはや、残念ながら幕引きの時間だよ」

 

 ──そう、舞台との距離は開きすぎていた。

 ──そして舞台では一騎打ちを続けていた。

 ──だからこその落とし穴。

 

「お前さんが気づかんのも無理はない」

「? そう思うのであればかかって来いと言っておるのじゃ。織り込み済みじゃと証明しよう」

「ああ。お前さん(・・・・)だけだった(・・・・・)なら(・・)、なあ?」

 

 ──どうして都合のいい勘違いをしたのだろうか。

 ──英雄の矛先が自分に向かない、なんて。

 

「な、ァッ……!?」

 

 呻きを上げたのは、ナッドの喉だった。

 純然たる殺意。竦ませる威圧感。息詰まる圧迫感。

 唐突に浴びたのは、そのどれとも言える圧力。

 その源泉は──振り向きざまに見た空にある。

 老人はすべてを従容と見下していた。彼のぎょろりとした双眸は、遠景にすぎないだろうナッドを確かに見据えていた。目が合えば、思考を白紙にされる。

 全身の筋肉は硬直。身体は走り方を忘れてしまう。

 走行姿勢を崩し、瓦礫の海を再び転がる。

 今度は受け身も取れなかった。

 

(身体……動かな……ッ!?)

 

 俯せのまま頭を打ちつけ、額が割れる。

 頭がぐらつくなか、ナッドは思いつく。蛇に睨まれた蛙は、捕食者と被食者という理を知り、己が後者から逸し得ないと本能的に悟る。だから顔を青褪め、竦む。諦観製の絶望は口に苦いのだろう。

 それは、英雄に威圧された只人でも変わらない。存在の格の違いを知り、呼吸の仕方も危うくなった。彼にとって諦観製の絶望は鉄錆味の砂粒だった。

 高天の英雄は、地を這う只人を尻目に剣を振るう。

 彼は節くれ立った手を滑らせ、縦に斬りつける。

 すると、中空が破れた(・・・)

 

「お前さんだけだったら、これは陥穽ではなかったのだろうよ。だが、違うよなあ。お前さんには守るべきものがあったはずだよなあ? 戦場から離したのは良かったが、目を離したのは阿呆の誹りを免れんぞ」

「ッ、ナッド! そこから早く退──!」

「間に合わん。所詮、お前さんはそういう奴だよ」

 

 空中に刃を滑らせると、斬撃痕が黒々と残る。

 まるで空間自体を引き裂いたかに見えたが、違う。

 それは、空を焦がす黒炎。桔梗色の炎心は横に伸び、内炎は烏羽玉色に塗り潰されている。蒼天に浮かぶこの異物により、自然的な調和が狂って見える。

 火炎は鋒を追うように一直線に並べられ──。

 ハキムは重力落下しながら、唇を動かす。

 相好を崩して、さも一流喜劇を待ち侘びるように。

 

「さあ小童、どうする?」

「な、あ……!?」

 

 ──波状の黒炎が奔る。

 弧の形に並び、空中を滑ってくる。まるで火の手が油を引いた地面に這うように。しかし、速度は比喩のそれを遥かに凌駕している。呼吸二つぶんの時間でここに到達するだろう。もはや回避の手立てはない。

 直前まで、圧力が身体を地に縫いつけていたのだ。

 魔術を使用するにも、威力と時間が足りない。

 黒光りする閃光を前に、為す術はない。

 

「クソッ……!」

 

 呆然と見上げる先には黒色波濤。

 すべては遅く。すべては遠く。すべては消える。

 視界は黒色に塗り潰され、炎の津波に飲まれ──。

 

(これで、ここで、終わり──?)

 

「馬鹿言って、馬鹿面してんじゃないわ……!」

 

 ──否、黒炎の波濤が横薙ぎに滑り迫る直前。

 マジェーレが薄墨色の髪を流して割り込んでくる。

 間近まで吹きつける炎を、薄浅葱の膜が遮った。

 より正確に言えば、膜ではなく液体状の盾だ。

 表面は波立ち、逆巻く水面が黒炎を押し留める。激しい水飛沫を上げながらも、怒濤の炎を吸収、あるいは弾き返すことでナッドら二人を守る。

 この液状の盾には、蛇行形状の鋼鉄が透けている。

 くるりくるりと緩慢に回って、水車のようだ。

 

(これがマジェーレの魔導具の能力……ってことか。いや──馬鹿が、俺は。突っ伏してるばっかじゃいられねぇってのに!)

 

 本能的な恐怖で竦んだ身体に檄を飛ばす。

 ナッドは、歯を食い縛って満身の力を振り絞る。

 身体の節々を軋ませながら、やおら立ち上がる。

 前方に目を遣る。液状の盾を隔て、黒炎の壁が築かれていた。揺らめく炎が視界を遮断する様は、舞台に降ろされた黒幕のようである。

 その向こう側からは散発的な剣戟音。ソルとハキムの延長戦が白熱している証拠だ。きっと幼女が、かの英雄を押し留めてくれているのだろう。音が続く限りはナッドにまで累が及ぶことはないはずだ。

 無言で感謝を送ると、すかさず脇腹を抓られる。

 

「いっ……! ちゃんと目ぇ覚めてるって!」

「ならいいの。喰い止めているうちに行きなさい」

「ああ、わかった」

「……道順は平気よね」

「来た道を戻るだけだろ、簡単だ」

「なら、よし」

 

 少女はそっけなく言って、前方を睨み据える。

 液状の盾を立てつつ、踏み出した。ナッドからは彼女の表情は見えず、髪が乱れた後頭部だけが視界に居座る。灼熱の壁に対峙しているせいか、影が色濃い。

 ただ、ナッドはこのとき妙な安心感を覚えていた。

 少なからず対立していた相手が、背を任せている。

 そこに、わずかばかりの可笑しさがあったのだ。

 

(ここで、俺だって戦うって言えるくらいに強けりゃ……って、まあ言えるわけない。少尉も、マジェーレも、俺を助けてくれてんだ。だから──全部を無駄にする言葉なんか言えねぇよ)

 

 ──そうね、思い上がらないでボンクラ。

 その小さな背中で、そう言い放たれた気がした。

 少女は、液状の盾のものと思しき名を舌に乗せる。

 

「『レグーネ=ノーツォ』第二階梯──紅蓮の理」

 

 それが合図となって、甲高い音が鳴る。

 瞬く間に液状の盾が燃えてゆく。薄浅葱の水面を渦巻かせていたそれは、急速に茜色へと移り変わる。そしてを蛇行形状の水車は、金属音を打ち鳴らしながら十字型の武器へと変形を果たした。

 少女は交差した部位を握り、無造作に構える。

 その実、乱れはない堂に入った構えだとも言えた。

 おそらく、これで戦闘態勢が整ったのだろう。

 しかし、いまナッドの視線はそこになかった。

 

「……あれ、は」

「竜は越えられず、か。期待しとらんかったが」

 

 その、嗄れた声色は上擦っていた。

 声が響いた途端、燃え盛っていた黒炎の壁が(たちま)ちのうちに消えてゆく。地面から徐々に空気に融けてゆき、数秒と経たずに目前は晴れる。先刻同様の青空が見渡せるようになって、そうして──。

 少女の身体越しに見えたのは、果し合いの結末。

 ナッドはその光景に、釘づけになっていた。

 

十年遅い(・・・・)剣捌きは目に余るわなあ、『修羅』よお」

 

 目に焼きついたのは、先刻以上に崩れた瓦礫だ。

 陽光を浴びる老人は、魔剣を頂に突き立てていた。

 彼はもみ上げを指で擦りながら、ぎょろりとした目で斜面を見下ろしている。

 

 ──そこに倒れ伏す華奢な身体。

 ──見えるのはただ、血染めの髪。

 ──動かない手足。朱に腫れ上がった打撲痕。

 ──屍蝋色の肌からは鮮血が零れ落ちていく。

 ──彼女が相棒と呼んだ剣は手のなかにない。

 ──瓦礫の亀裂に埋まり、輝きは燻んでいた。 

 

「……嘘だ、ろ……?」

「行きなさい」

 

 このとき。ナッドの思考は黒で埋め尽くされた。

 繰り言のような、無意味な言葉が渦を巻く。

 よろめいて、一歩、二歩、と後ずさる。

 

(わかってた、はずだ。なのに。俺はわかっていたはずなのに。二人の実力には隔たりがあるって。さっきまで打ち合えていることが奇跡だって。わかってたはずなのに、何で、俺、こんな。動揺してんだよ、俺。だって嘘。だって、俺は、わかって──少尉が、ソルが、死ぬ。死んでいる? そんな。少尉はそんな。何で。いや諦めたり、なんか)

 

 それが。目に。焼きついて。離れない。 

 

「──早く行け!」

 

 マジェーレの喝破が、ナッドの思考に穴を穿つ。

 そこから噴き出すのは、恐怖の感情だ。

 ナッドはその波に押し流されるようにして、この場から転回、逃げるように駆け出した。事実、ハキムから逃亡を図っているのだが、厳密に言えば否である。逃げ出したのは、受け入れられない現実から。精神的支柱を目前で折られ、芯が崩れたのだ。

 いまや思考は、一切まとまる兆しを見せない。

 

(格好つけてたのが、クソ、なんでこう……ホント俺ぁ……根拠もなく信じて、まさかこんな呆気なくこうなって……! わかっていたはずなのに。これが当たり前だ。これが現実だよな。少尉が見せてくれたものが夢みたいなもので、力がない奴はこうなるのが普通なんだよな。けど、少尉が死んじまって、これじゃ、俺は何のために走って、クソ、考えるな)

 

 身体の疲労以上に呼吸が荒くなる。

 連なる瓦礫を横目に、全速力で十字路を曲がった。

 ひしゃげた建物が尽きると、半壊に留まった村並みが脇を流れていく。目的地はこの先。小隊はジャラ村の西部入り口に、軍馬たちを駐留させていたのだ。辺境にあるこの村から迅速に立ち去るには、そこに向かうしかない。ゆえに持てるすべての力で目指す。

 心臓が跳ねる。腕と胸と腰と脚を連動させた。

 全身の筋肉を伸縮、足ではなく身体全体で走る。

 この一時だけは夾雑物を挟まず、楽でいられた。

 頭に回る酸素が限られるからこその純化。

 

(これが自分にできることだ、最善だ……!)

 

 噛んで含めるように言い聞かせ、疾駆する。

 戦場を一つ乗り越えたからと言って、劇的に強くなるはずがない。心持ちは多少変われど、言ってしまえばそれだけだ。己の実力を理解しているがゆえ、この希望に縋るしかないと信じる他なかった。脳裏に焼きつく、幼い恩人の凄惨な姿を振り払う。

 あの英雄狂いが、あの憧憬の先に立つ剣士が──。

 ああも、あっさり敗れ去るなんて思わなかった。

 

(は、はは……何やってんだ。結局、何も変われてないじゃねぇか。逃げ出して、言い訳して、何も変わらない。結局──理不尽に抗うだけの十分な力を持てるまで、弱いやつはこうしてなくちゃいけねぇんだ)

 

 小隊全滅、の四文字が頭から離れなかった。

 気づけば、ジャラ村の西部の入り口に辿り着けていた。獄禍の被害が薄く、ほぼ無傷なまま村並みが残っている。木造の西門が開け放たれていて、頑丈に組まれた木柵の列が北南に伸びていた。門戸の隙間からは、黒い毛並みの軍馬たちが顔を出している。

 ナッドは気が逸るあまりに飛び乗った。

 馬は身を捩ったが、彼が手綱を操ると静まる。

 

(いや、違う……それでも。それでも、だよな少尉。俺はむかしの俺と違う。あのときの逃走は、ただ苦難から背を向けただけ。でも、これは活路を見出すために走っている。無駄には、できねぇ。たとえ少尉を救えなくても──俺は、託されたんだから)

 

 当然、絶望的な想像は拭い去れない。

 ここから第二駐屯地まで片道三日かかった。全速力で飛ばしたとして、到着まで二日が限度だろう。援軍が間に合う。そう無根拠に楽観できるほど、ナッドは現実を見失ってはいない。だが、託された希望を見据える。自分の手にしかない蜘蛛の糸を握り込む。

 ナッドは額の脂汗も気にせず、馬を操った。

 手綱を強く握り、その太さを強く意識する。

 

(頼んだぞマジェーレ……! 俺が呼ぶ援軍が助けに来るまで、逃げて逃げて、絶対に少尉たちを──)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あー、あー! やっと来たんだ!」

 

 ナッドの願いに水を差したのは、天真爛漫な声。

 聞き覚えなど、あるわけがない。

 急速に背筋が凍る。首を巡らせ、声の主を探した。

 村の入り口、その木柵の影から人影が現れる。

 

「ごめんね? これもオシゴトだからさー」

「待て、待てよ……お前、誰だっ!?」

「まー……ハキムのお爺ちゃんの仲間さんだよ」

「ハキ、ム」

 

 その少女は小柄だった。

 聖職者を思わせるローブを目深に被っている。それから覗くのは燻んだ金髪と、赫色の双眸だ。あどけない顔立ちはソルを二、三、大人びさせたほどか。

 恰好は、乞食のように散々な有様だ。修道服は汚れと煤だらけ。赤が滲んで端々が破れている。どこぞの教会の焼却炉からくすねてきたような代物に思える。

 そして、手には老木めいた長杖が握られていた。

 彼女は杖の先端を、淡く暖色に灯らせると──。

 

「いや、だ」

 

 ナッドは馬を嘶かせ、手綱を引く。

 

「こんな、こんな! 俺はまだ何も報いて──!」

「ホントにごめん、ね?」

 

 ──ナッドは悲痛の言葉を最後に。

 ──視界と意識が、爆炎の彼方に消えていった。

 

 

 

 


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