修羅幼女の英雄譚   作:嵯峨崎 / 沙城流

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第二章. 幸せな怪物の墓標
1 『舞い込んだ怪物退治』


「おっと、よく来たねえ。お嬢ちゃん」

 

 幼女が大扉を開くと、柔い低音が出迎えた。

 そこは帝国第二駐屯地、唯一の執務室。

 小さな頭を動かさないまま、視線を巡らせる。

 蔵書庫のように、落ち着いた雰囲気の一室だ。

 壁際の書架には本が敷き詰められ、天井からは年代物の照明器具が吊り下げられている。少なくとも、広々として豪奢──という言葉からはかけ離れた内装だ。小部屋の中央を陣取るのは、弁柄色の椅子が二脚のみ。背は低く、談話に適したものと言えた。

 そして室内で最も目を惹くのはその奥側の机。

 幼女は訛りの薄い、暗記した文言を舌に乗せた。

 

「失礼致します。ラスチッ……マイン中将殿」

「っ…………っと。あー何だ。まあ、楽にしてくれ」

 

 気の抜けた男の返事は、笑みを含ませて続く。

 

「おじさんの名前、ちいっと言いづれえだろ? 公的な場所でもなけりゃあ、名前で呼んでもいいさ。ロズベルンでも、愛称みたいにベルンだけでもねえ」

「……では、ロ、ロズベルン中将殿とお呼びさせていただくのじ……いただく」

 

 すぐさま口の紐を引き締める。

 早速、ボロが零れるところだった。

 開口一番、噛んだ時点で手遅れかもしれないが。

 彼女──ソルはあらかじめ指導を受けていた。言葉遣いと『のじゃ訛り』矯正だ。指導監督はナッド・ハルト。商いの家柄で培った彼の礼儀作法が、小さな頭に叩き込まれた。なお成果自体は芳しくない。

 執務室の奥側から一つ、笑い声が転がる。

 

「いい、いいさ。慣れてないなら、敬語も『無し』でいい。俺のことも『おじさん』って呼んでくれていい。孤児院のちっこいのたちに、ずっとそう呼ばれてるからねえ。お嬢ちゃんにならしっくりくる」

「いえ、そんな……」

「なあに、咎めるような奴はここにゃいない」

「いえ! 憧れの大英雄殿の前で礼を失したくないのじゃ。……失したくないのじゃ、です。ですのじゃ」

「っ……すまんなあ、もう面白くなっててうっかり。そういうところも、仔犬ちゃんにそっくりだ」

 

 山積した羊皮紙の向こう側から、男の顔が覗く。

 瞼をきゅっと締めた笑みは、どこか苦笑いに近い趣きがあった。それは取り繕うことにさえ失敗したソルへの一般的な反応なのか。それとも、彼の苦労人然とした顔の彫りによる錯覚なのかは定かではない。

 『六翼』ロズベルン・ラスティマイン。

 服装は以前に病室で一瞬見たときと同様だった。

 帝国軍服を羽織った姿であり、その下から白銀の鎧が覗いている。彼は奥の椅子に座したまま、浮かべていた笑いを自分の咳払いで追い払う。

 彼は「悪かったね」と改めて微笑みを湛える。

 

「ようこそ、第二駐屯地『獄禍』討伐隊へ。臨時編成についての返事はもらったのは随分前だけど、改めて歓迎させてもらうよ。色良い返事に感謝してる……どうやらお嬢ちゃん──いや、ソル少尉も、怪物退治に興味深々だったみたいだねえ」

「それはもう……!」

 

 ソルは思わず、爛々と黄色い目を輝かせてしまう。

 偉人を前にして萎縮するより、興奮を覚えていた。

 英雄と同じ空間で、同じ空気を吸っているのだ。

 うっかり気を抜くと鼻血が垂れそうになる。

 だが「そうなれば本当に失礼」という常識は弁えているつもりだった。つもりというだけだが。「いい歳して興奮のあまりに必要以上の大声で返事する」という恥ずかしさも、承知しているつもりなのだ。

 英雄が再び浮かべた苦笑の意味に気づけていない。

 幼女は顔を引き締め、己の昂りを抑えつけていた。

 

(さて、ナッドは何と言っておったか……)

 

 欲望を生唾とともに流し込んで、ひとつ思案する。

 ここに至った経緯を簡略して思い返した。

 この発端は、先日の人事部からの通達だった。

 

 ──怪物退治の依頼。

 

 それはソルに舞い込んだ、立身出世の機会だった。

 依頼を見事に成し遂げれば、英雄としての名前に箔がつく。『怪物退治』という字面の衝撃は、現代でなお大きい。そして何より単純(・・)である。

 敵方の戦略を考えず、ただ打倒することだけを考えればいいのだから。「名を広める機会として見るならば、術数が渦巻く戦争にて屍を重ねるより、遥かに気楽で効率的だ」という合理性からして、怪物退治の誘いを受ける判断ができる。できる、のだが。

 そんなことが脳裏をよぎることもなく──。

 

(怪物退治。心躍る文言じゃ、うむ。英雄譚には必須とも言えるのう。断れるはずがない)

 

 したり顔で、英雄譚の王道を語るソルだった。

 憧れのエイブロードには悪竜を倒す逸話がある。

 現代において竜は絶滅したものの、大いなる怪物を倒すのは浪漫である。自らの英雄譚を紡ぐならば『怪物退治』は外せない事柄のひとつだ。少なくともソルは必須事項のひとつに数えていた。ゆえに、この出向要請は渡りに船以外の何者でもなかったのである。

 療養を終えたソルは英雄譚の王道をなぞるがまま、すぐこの第二駐屯地に移動してきた。手荷物は、剣とウェルストヴェイルの破片などが入った巾着袋のみ。

 ──軽装、というより軽率な装備だな……。

 ナッドには呆れられたが、来たものは仕方ない。

 彼も「取りに戻れ」とは言えないようだった。

 

(それでこの、第二駐屯地に着いたのじゃったな)

 

 ガノール帝国、西方方面軍第二駐屯地。

 帝国中央よりやや東に位置する──バラボア砦から北東に進んだ方角にある──そこは他国に隣した城塞のなかでは「最も安全な場所」と言われていた。

 その理由としては立地に関係がある。

 ここはマッターダリ山脈の麓まで近い。大陸を分断するように連なった尾根が、他国の侵略を止める防波堤なのだ。「山頂には神々が御座す」という眉唾な噂が立つほどの標高によって他国と隔絶されている。

 そして今回、ここに怪物が姿を現したわけだ。

 

(……が、単純に楽しみにしておられんかったな。なにせ帝国の大英雄に会うのじゃ。戦場でもなし、無作法者のわしとて、身嗜みを整え、立ち振る舞いも身につけねばならんかった)

 

 立ち振る舞いはすべてナッドの入れ知恵だ。

 曰く『型通りの敬語が不慣れなら、必要以上に喋らないほうが吉だ』。曰く『のじゃ禁止』。曰く『公的なこと以外は、聞くな頼むな大人しく』などなど。ナッドからはきつくきつく言い含められていた。

 礼を失して、無用な不和を呼ぶのは本意ではない。

 そのときは幼女も殊勝に頷いたものだった。

 今回、彼の言う通りの態度と格好で臨んでいる。

 もちろん、この言葉の語尾にも『つもり』が付く。

 

(入念に湯浴みもした。衣類も貰ったばかりじゃ、問題ない。ここまでロズベルン殿から指摘もされとらん、問題ない……はず、じゃが)

 

 ソルの、腰まで流れる髪は新雪のごとく白い。

 あどけなさが拭えない顔立ちも、本人的には引き締めているつもりだった。ただ容姿が容姿だ。糊の利いた軍服は絶望的なほどに似合っていない。

 幼女と軍人は不釣り合いな組み合わせである。

 おそらく対義語に限りなく近い単語だ。傍目には滑稽に映ってしまうとは、途中で擦れ違った人々の反応で散々知ることになる。直前まではそう思っていた。

 しかし道中、周りのことなど気にならなかった。

 大英雄と会う。そこから湧き上がる興奮で、まともな認識能力が吹き飛んだのである。なにせ人生初体験なのだ──改まった場で、尊敬する著名人に会うことは。幼い老人はどうしても舞い上がってしまう。

 熱狂的な英雄好きは老いてもなお変わらない。

 

(前回の邂逅では無様を晒したのじゃ。ここでは転ばぬ。じゃが、実に惜しい。ロズベルン殿の武勇伝や他の『六翼』について訊けぬ。歯痒い、歯痒いのう。欲を言えば稽古づけまでして貰いたいのじゃが、やはり多忙な『六翼』。そこまで無理な駄々は捏ねられんわい。……ナッドからも釘を刺されとるからのう)

 

 人生は実にままならない。幼女は唸った。

 しかし、それは表には出さない。日夜夢見る大英雄の一人である『六翼』の御前なのだから。ロズベルンはソルフォートの享年から見れば若造だが、尊敬という尺度において年齢は度外視するものだ。生前に戦場で出会っていれば、即した礼儀を払っただろう。

 敵味方の線を挟めば、尽くす礼儀は死力である。

 いまは違うのだから一般的なものに即すのみだ。

 ロズベルンが手で示す通りに、ソルは執務机の前まで歩み寄る。

 

「さってえと、これで招集した獄禍討伐隊の戦力はここに揃った。入れ替わりの激しい部隊だからねえ、短い期間になるだろうが、よろしく頼むよう」

「世話にな──よ、よろしくお願いします」

 

 もはや言葉遣いはボロボロだった。 

 それをロズベルンに面白がられながら、本題に移っていく。彼は物腰柔らかな態度を崩さずに「当たってもらう事の、その発端について触れておこう」と、机の書類をあらかた退かせると紙を大きく広げた。

 帝国軍が作成した、山脈周辺の地図のようだ。

 正真正銘の軍事機密である。ソルは「ここから先は無駄口を叩くまい」と、紐で縛るように口を引き結んだ。そのまま静かに地図へと視線を向けると、中央付近にはこの『第二駐屯地』の文字を発見した。

 彼はそこより、北西にいった場所を指差す。

 ここから二つの森を超え、大河を横断した辺りだ。

 公用語で記された地名を読み、概要に耳を傾ける。

 

「最初の目撃情報は一週間前だ。この、マッターダリ地方の端にあるジャラ村で、獄禍の発生が地域住民から確認された。生き残りは村人が三人。彼らは運良く村外れで山菜を摘んでいて──あとは皆殺しだ。血の雨でも降ったのかってぐらいの有様らしいねえ。調査に向かわせた兵士も、それは確認済みだよ」

「ひとつ、いいですかのう。その獄禍……怪物は、いまはどこにおるの、ですか?」

「ジャラ村に留まっているとの報告だ。やっこさん、そこを自分の城だと勘違いしちゃってるのかもねえ」

 

 ふむ、とソルは頷きを返す。

 地図に示された一点、ジャラ村に目線を落とす。

 怪物が移動していない事実に疑問符がつく。

 目撃から報告、以降いままで相応の時間が経っているはずだ。場所を移動しない理由がわからない。もはや無人と化した村に留まるには、どんな都合があるのだろう。いや、怪物に都合などないのだろうか。

 何にせよ、ロズベルンが断言しているのだ。

 確度の高い情報であることは間違いないだろう。もし彼の目算に誤差があってジャラ村にはいなくとも、周辺から離れてはいないに違いない。

 彼は挑むような視線をソルの目に注ぎ、言う。

 

「今回、ソル少尉に与えられた任務は一つ。ジャラ村を根城にする獄禍の討伐だ」

 

 ロズベルンの眦に寄った皺がわずかに影をつくる。

 ソルは衝動に駆られ、威勢よく口を開く。

 憧れの大英雄の言葉だ。弾けるような声色に、了承の意を乗せて応えたかった。だがソルの桜色の唇は、言葉を紡ぐことができないままだった。

 ついぞ、ゆるゆると閉じて蕾に戻ってしまう。

 

「……ソル少尉?」

「その、です、のじゃ。改めてお返事をと……獄禍討伐、有り難く、お受け致しますのじゃ」

 

 幼女は慇懃に頭を垂れながら、ぎゅっと拳を握る。

 即答できるはずがない。ひとり、嘆息で膨らんだ鼻腔から時間をかけて空気を抜いていく。ゆっくり、ゆっくりと湧いた感慨を肌に馴染ませるようにして。

 心が、震えていた。大英雄から言い渡される任務。

 それはまるで、夢見た英雄譚の一場面のようで。

 

(いかんいかん。まだ始まったばかりと言うのに……我ながら、感慨深くなるにも速すぎるのじゃ)

 

 その後、討伐に必要なだけの情報提供を受けた。

 討伐対象の獄禍の特徴、ジャラ村への行先案内人、同行させる帝国小隊、そして一帯の地図。少し余裕を持たせて、食糧や水も与えられるそうだ。

 厚遇される理由は、ロズベルン曰く「お嬢ちゃんは期待されてるからねえ」ということらしい。邪推するならば、今回の怪物退治は軍から「予定調和の勝利」を期待されているらしいのだ。

 

(帝国の士気を上げるため、わしを担ぎ上げたいのじゃろうな。今回の任務で不満があるとすればそこじゃが、まあ……よい。いつかの日のための鍛錬じゃ)

 

 いままで、戦場を渡り歩くばかりの人生だった。

 怪物退治はソルにとって初体験なのだ。

 あくまで、本番の肩慣らしと思えばいい。

 

「この獄禍討伐を果たせれば、更にソル少尉の力は認められるだろうねえ。広報も随分と息巻いてたから『修羅』って二つ名と一緒に広まっていくことになると思う。……顔が広くなるというのは良し悪しあるけどねえ。ソル少尉の場合は、別の意味でだったか」

「はい……基本的に名が広まることは歓迎ですのじゃ。その二つ名で、なければ……」

「ははは、その様子を見りゃ分かるさあ。そこは諦めて欲しい。なんせ、気合い入れて二つ名は流布されたからなあ。もう取り消しは利かねえんだよう」

 

 頬を紅潮させつつも、苦々しく口を曲げるソル。

 ロズベルンは、からから笑いながら鷹揚に頷く。

 

「じゃあ決まりだな。ただ……出立は急なんだが、明日の早朝になってんだ。本来なら二日ばかり余裕を持たせられたんだけどねえ。色々と都合で早まってしまって、どうにも悠長にはしていられなくなって」

「……急ぎの理由を、お聞きしてもよろしいの……です、か? のじゃ?」

「大した理由じゃあないさ。獄禍があのまま居座られると、帝国が不利益を被ることになる。ただそれだけだよ。だからまあ、迅速な討伐をよろしく頼むよう」

 

 あからさまに茶を濁すような口ぶりだった。

 何やら秘め事があるとは、鈍いソルも勘づけた。

 しかし、ここでの追求には意味がない。剣一筋の人生では舌先の鍛錬など積んでいなかった。そんな無頼者が迂闊に探りを入れて、無事で済むとは思えなかった。ソルは恐る恐る、彼と目を合わせる。

 ロズベルンの瞳は澄んだ色味のまま。

 それが途方もない巨大迷宮のようにも思えた。

 攻略可能だと勘違いできるほどの隙も窺えない。

 

(瞳を見るだけで、人の心のうちを推し量ることなどできるはずもない。それでも、ロズベルン殿は別格じゃな。秘め事で生まれる『蔭』が見当たらない。踏み入れても、果たして這い上がってこられるか)

 

 あれは『底なし』だ。じっとり手のなかが蒸れる。

 経験則から警告を発していた。思い返すことすら憚られるような過去──傭兵仲間に謀られ、身ひとつで穴蔵に閉じ込められた──あれも、無駄ではなかったということなのだろう。きっと不慣れな腹の探り合いをしても、ロクな未来は待っていない。

 そもそもロズベルン中将は同じ帝国軍人だ。

 同胞を不幸に追いやっても、利益が肥やせるとは思えなかった。少なくともソルの持つ情報にはない。

 ならば、することは決まっている。

 

(軍隊に入るとはこういうことなのじゃろうな。わしの死角では、無数の計略が蠢いておるわけじゃ……それでも、やることは変わらん。わしがやれることは、剣を握ること。それだけなのじゃから)

 

「ああ……そうだった。俺もねえ、これからバラボア砦のほうに向かわなきゃならない。ビエニス・ラプテノン軍の動きは沈静化したんだけどねえ、歯止めとして。だから、ソル少尉の見送りは『無し』ってことで……すまんねえ。慌ただしくて」

「いいえ。『六翼』は帝国の支柱ゆえ、お忙しいことは重々承知しておりますのじゃ。わざわざ時間を取らせてしまって──夢のような時間でした。ありがとうございました。のじゃ」

「これはご丁寧に。陰ながら俺も、ソル少尉の武運を祈ってるよう」

 

 名残惜しくも、英雄との談合は終わりを迎えた。

 ソルが最後に一礼する。ふうっと息を吐いた。

 絨毯の模様を見つめ、この談合の自己採点を行う。

 

(なかなか、上出来だったのじゃなからんか)

 

 序盤は緊張と興奮が収まらず、それはそれは見るに堪えない有様だっただろう。しかし、本題の怪物退治に移ってからは堂々と振る舞えたように思う。脳内のナッドも「よくできました」と言わんばかりだ。しきりに頷いている。きっと大丈夫のはずだ──。

 挨拶もそこそこに執務室の扉を閉める。

 区切りをつけようとした直前、顔を引き締めた。

 ソルの耳は、ぼそりとした独り言を捉えたのだ。

 

「やれやれ。嫌な時代だねえ、全く」

 

 

 

 ※※※※※※※※※※

 

 

 

「うむ。……今日も良い天気じゃ」

 

 そうして一夜明けた、今日。

 ソルは城塞の入り口から遠方を望む。

 山脈の尾根からひょっこりと顔を出した朝日。

 その眩しさに目を焼かれつつ、深呼吸をする。

 清澄な空気が舌を掠めて、口腔を通っていった。

 これは早朝のご馳走だ。日課の鍛錬後の空気の味は格別である。なにせ、重ねた努力がよく染み込んでいるのだ。美味くないはずがなかった。まるでその心地に共感を示すように、からんと腰元から音が鳴る。

 腰に帯びた、愛剣入りの鞘のものだ。

 

(帝国軍から『急な出立ゆえ準備をせよ』と言われたのじゃが、こんなものでよいのじゃろうか)

 

 ソルは首を回しつつ、心許ない装備を見直す。

 バラボア砦に居座っていた頃と大差ない。焦げ茶の外套の下には軽く丈夫な胴丸を着用している。手甲に膝当て、軍靴。どれも軍の支給品だ。変わったことと言えば、新しく拵えた装備のために傷ひとつ、変色ひとつないことだろうか。砦防衛戦のときのものは、ボガートとの苛烈な戦闘の末に砕かれていた。

 腰紐には、私物を入れた巾着袋を下げている。

 あとは小隊を引き連れて、現地へ赴くだけだ。

 

(何とか、オド量も以前までの分が戻ってきたしのう……腕が鳴るのじゃ)

 

 軽く跳ねてみる。身体の調子は良好だ。

 療養中も鍛錬を怠らず──あえなくナッドに見つかり、病室に連れ戻される毎日だったが──勝負勘や、元のオド量を取り戻している。ナッドには随分と迷惑をかけた。だが、自らに怪物退治の話が舞い込んだとあれば、寝過ごすわけにもいかなかったのだ。

 改めて驚嘆したのは『オドが溜まる速度』だった。

 

(わしのこの身体は、実に恵まれておる)

 

 幼女化以前とは比べるまでもない。

 同等の鍛錬を課したとて、生まれるオドの嵩は数十倍もの差があった。それを感じたとき、地を這う凡人が上空に仰ぐ、現実という巨影を見た。突き抜けるような蒼穹は徐々に塞がっていく。翳る心地は薄ら寒く、身体にじっとりとした湿気が覆い被さる。

 自らにできること、できないこと。

 可視化しがたい線が確かに見えた気がして──。

 それでも意地を張って座り込むなどできない。

 

(見据えるべきは、たったひとつだけなのじゃ。わしの憧れる英雄像になること。それ以外は置いていく。固執は身体を重くする。強くなるためには、高みに飛ぶためには、目標以外を切り捨てねばならん……)

 

 だから療養を終え、ひとつの決断を迫られた。

 

(冷静に考えるからこそ、オド消費による加速術は控えねばならん。……この調子では成長が足踏みじゃ)

 

 ソルが元のオド量に戻るまで二週間かかった。

 もちろん、残酷なほどの速度だ。ソルフォート・エヌマが人生のすべてを濾して、ようやく得た力量に、たかだか二週間で追いついたことに等しいのだから。

 しかし、何度も続けるわけにはいかない。

 加速術は成長の足枷だ。せっかく鍛錬で『力』を積み上げようと、オド消費の加速術を使うたび崩され、また一から始めなくてはならない。それは身の丈の遥か上を目指す道中で、捨てねばならないこと。

 あの技術は邪道の極みなのだから、当然だ。

 

(凡人が盤面を覆す。一瞬でもその可能性を掴むための大道芸にすぎぬ。力を持たぬ、命以外に賭せるものがない愚者の技術。……もはや、必要ない)

 

 幼女の身体と相性が悪いことも拍車をかける。

 老人時代──振るう力の大半を筋肉が担っていた時代なら、オド消費の加速術は有効だった。だがいまの姿では外見通り、筋肉は微々たるもので、振るえる力の殆どをオドが担っている。得られる推進力で誤魔化しは効いたが、オド消費は非効率極まりない。

 ソルはそうやって加速術を封印する決断をした。

 

(他の戦闘法は試行錯誤するしかあるまい。なに、良い機会じゃ。以前から、加速術に頼りきりの部分もあった。学んだ他の技術も駆使して、これまで以上に貪欲に、様々なことを磨けばよいじゃろう)

 

 朝日の眩しさに目を細めつつ、遠方を見遣る。

 第二駐屯地は平坦な地形に構えている。顔を正面に向けるだけで、駐屯地の城門から、その遥か先の──霧がかったマッターダリ山脈まで望むことができる。

 その稜線は、バラボア砦で目にした峰より長大に描いている。大自然の壁が蕭条と佇む姿は、なるほど、戦火を遠ざけるだけの威容だと腹落ちする。

 幼女はふうと息を漏らし、やや視線を下降させる。

 石造の門構えの側に、十頭の雄馬の姿を捉えた。

 

(さて、今日の本題じゃが……気重じゃのう)

 

 ソルの辟易の源は、あの逞しい軍馬たちではない。

 彼らは陽光を浴びながらも、粛然と出立を待っている。肢体は静の状態にあっても、生の躍動が感じ取れた。漆黒の双眸は凛々しく切れ長で、しなやかな筋肉は隆々と黒肌を押し上げ、秘められた膂力を垣間見せている。良い馬だ、と一目で理解できた。

 彼らは帝国軍が手塩にかけて育てた軍馬である。

 

(期待を寄せられることは喜ばしいことじゃがな)

 

 幼女の怪物退治のために供与された『脚』だ。ロズベルンの言では「徒歩で向かうには、ジャラ村ってのは遠路も遠路だからなあ」だったか。それで若い駿馬が首を揃えている現状を思えば、帝国軍の『修羅』にかける期待がありありと感じられる。

 ソルはひとり頷くと、そこに歩み寄っていく。

 城門の側では兵装姿の群衆が輪をつくっていた。

 

「おいでなすった。……オメェら、今日が命日って覚悟はしといたほうが良いんじゃねえか? 幼女の姿をした死神が遠目に見えやがる」

「鎌で優しく刈り取ってくれるってんなら、まだマシだろうがよ。俺はあれだ。一個前の討伐じゃあ、御同行を願った英雄様から『トロい』って言われて、胴体が真っ二つになった奴、俺、知ってんだけど」

「上下で真っ二つ?」

「いんや、左右に真っ二つ」

「っひゃー冗談じゃねえなあ。あの次期英雄様は『修羅』なんつー名前なんだからな、ゲラート。馬鹿なこと口走ったら、棺桶が八つくらい必要になるかもな」

「言っても、あのちいっこいの、一応ラスティマイン中将のお墨つきなんだろ? だったら……」

「まあ、下手なことにはなるまい。少なくとも、故意に『事故』を起こす人間性ではなさそうだ」

「そもそもよぉ、あの少尉様が死神なんて存在なわけないだろ。死神──土神アニマってのは伝承じゃ、人々を虜にする魅惑の身体だったって話だろうが。死神が少尉様なら、土神信仰の奴らが報われねー」

「ま、あのちんまいのに信仰は集まんねーわな」

「オメェら、ちったあ俺の心配しやがれよ。誓いを忘れたわけじゃねぇよな、おい。『俺が死ぬときは全員道連れ』。いつも出立前に言ってるだろうが」

「俺らの誓いっつーか、おめーの座右の銘だろーが」

「ちなみに、ゲラート除く全員の座右の銘は『死ぬときは一人で逝け』だかんな。だからな、早よ逝けな」

「全くね。あなたと同道する気はないから。とりあえず考え方を前向きになさい、多少、いえ、ほんの少しくらいは死に顔が見れるようになるから」

「……お前ら、好き放題に言ってんな……」

 

 どうやら、和気藹々と立ち話に興じているらしい。

 ソルが内容を聞き取れる距離まで近づくと──。

 

「これは少尉殿。こちら、準備完了しています」

 

 気怠げだった彼らは一転、居住まいを正した。

 直立不動のまま。敬礼を向けてくる。

 ソルは驚きつつも礼を返しつつ、それぞれの顔を見回す。髪色、肌色、装備……どれを取っても統一性を欠いていた。幼女に臨む態度も各々、色が違う。

 たとえば栗色の髪の大男。彼は目を合わせながら、揶揄を口角に含んでいる。かと思えば、隣では優男が慇懃に敬礼のまま微動だにしていない。視界の端にいる黒髪の女など、あくびを漏らしていた。

 一見すると、すべてが不統一の集団である。

 共通点と言えば、鄙びた帝国軍服だけだ。

 

(驚いた。やはり帝国兵は礼節がある程度、浸透しておるのじゃなあ……成り上がり者かつ、この姿の上官に対してまともな対応で迎えるとは思わんかった。ならず者の多かった傭兵連中とは雲泥の差じゃのう。無論、わしにも同じことが言えるが)

 

 彼らは、ソルが指揮を執ることになった小隊。

 つまり怪物退治における部下たちだ。ただ少尉の地位に就いたにしては少ない手勢である。しかし、帝国の獄禍討伐隊では珍しいことでもないらしい。これが平時であれど、手の空いた腕利きとロズベルンの手勢を集めて、少人数で回しているという。

 怪物退治も立派な役目だが、帝国は戦争で忙しい。

 国益として、優先されるのは他国との諍いだ。人材が戦地に動員される関係上、万年人数不足に悩まされていると聞いた。当然ながら入れ替わりも激しく、この部隊に留まる人間は稀有であるとまで。

 ソルも例に漏れず、目前の部下とは初対面だ。

 

(即席で編成された部隊……とはのう。人数ばかり多くとも、連携がとれねば烏合の衆じゃろうに。急ぐにしても急すぎるじゃろう。そも、わし自身、指揮官という柄でもないのじゃが……心配事は尽きぬ)

 

「出立準備が整いました、ソル少尉!」

 

 馴染んだ声が、脳裏に過る一抹の不安を拭った。

 軍馬に目を遣ると、巨躯の影から青年が現れた。

 いままで下準備に追われていたらしい。彼は頬に薄く付着した土跡を拭い、敬礼の形をつくる。

 その引き締めた表情は、かの日の頼りない面相から一皮剥けたような印象を与えてくれる。

 

「了解したのじゃ。ナッド」

 

 名前を呼ぶと、ソルは口元が綻ぶのを感じる。

 彼が背筋を伸ばした姿勢は、図抜けて綺麗だった。

 ナッド・ハルト。初対面時の顔つきと照らし合わせれば、精悍に研がれたものだと思う。多少なりとも目つきは尖り、厚くなった口元を引き絞られ、眉間に皺の跡が残っている。癖の強い茶髪が微風に揺れた。商人とは違う、戦士の空気が僅かながら薫っていた。

 ひとつの戦場を越えて、成長を遂げた証だった。

 

(ナッドには療養中、随分と世話になった。言葉遣いに始まり、振る舞い方までのう。怪我が根治したいまからは恩を返していきたいのう。ずっとナッドにおんぶに抱っこでは、本当にただの幼女なのじゃ)

 

 ナッドもまたソルと同様に、討伐隊へ編成された。

 だが、ナッドは本来ならここに来る人間ではない。

 砦防衛を成し遂げ、十分に手柄を立てた。この一件が済んだ時点で帝都に戻り、出世街道を邁進できたはずだ。だが彼はその好機をふいにし、ロズベルン中将に討伐隊への入隊を嘆願したという。

 少尉を放っておけない、ということらしい。

 それについては、悲喜の感情を定めかねる。

 慕われるのは満更でもないが、彼の未来を閉ざすようで心苦しくもあったのだ。

 

「見つめ合ってるトコ悪ぃけど、少尉さんよぉ。このお坊ちゃんから話は聞いてるぜぇ? 前の仕事場が同じだったらしいじゃねえか。だからって、お坊ちゃんを贔屓目で見るんじゃねぇぞ」

「贔屓なぞするつもりはないのじゃ。結果に応じて判断する。……ぬしの名は何と申す」

「ゲラートだ、よく覚えといてくれよ? 俺が手柄を立てたときのために名前を呼ぶ練習もしとくかぁ?」

 

 馴れ馴れしく絡んできたのは、小隊一の大男だ。

 彼も帝国北部の生まれなのだろうか。ギラついた黄瞳と鷲鼻が特徴的だ。髪色も栗色が強く、そこに埋まるように色彩豊かな髪紐が見え隠れしていた。体型は、ボガートを彷彿とさせる巨躯を誇る。見上げなければ、嘲りを含んだ口許すら視界に入らない。

 この体躯があれば白兵戦では無類だろう。

 

(大口を叩くだけの力量はあると見た。軍服越しでも筋肉のつき方が窺えるほどじゃ。ラムホルト殿ほどではなかろうが、意気に相応しい実力を備えておるとすれば……手並みを拝見する機会が楽しみじゃのう)

 

 思わずソルが微笑を零す。

 その反応が気に食わなかったのだろうか、ゲラートは憮然と大きく肩を震わせていた。

 そのあと、黒髪の女が聞えよがしに鼻を鳴らした。

 

「ソル少尉、ゲラートへの対応として『無視』という策を具申するわ。小物臭さ全開の態度に真っ向から対応すると疲れるから、適当に聞き流すのが吉よ」

「……胸に留めておくのじゃ」

「賢い子ね。無駄に刺々しい言葉を聞くのは、お金をもらっても嫌だもの。いい? これが上手な世渡りというものよ。心が貧しい相手は無視。これから流して送る生き方を覚えていきましょう?」

「お前ら……上官に向かってどんな距離感だ……」

 

 見ると、ナッドの口角がぴくぴく引き攣っていた。

 ソルにも理解はできる。彼の性格上──というよりも士官学校で学んだ常識としてだろうが──無作法には滅法厳しい。一連の流れだけでも『目上の人間相手に敬語を使わない』『上官の許しなく話しかける』『友好的とは言えない態度をとる』。どの対応も、ナッドからすれば憤死ものの失礼なのだろう。

 ただ、元傭兵のソルとしては馴染み深かった。

 

(先ほどの敬礼は『最低限の敬意は払う』という動作じゃったのかのう。であれば……うむ、意気込んで上官面を繕わずともよさそうじゃのう)

 

 ナッドが横合いから、睨みを利かせ続けていることには悪いと思いつつも、幾分か気が楽だった。ソルは元々、傭兵という根無し草。「上下関係の線引きを濃くするのは、人間関係を円滑に進めるための条件」とは頭で理解できるが、身についてはいない。

 

(まあ、英雄が幅を利かせる世のなかじゃ。むしろナッドのような常識人が生きづらい時代かもしれんのう。いまは力さえあれば、人間性や常識は蔑ろにされる傾向にある。もちろん、現場のみでの話に限るのじゃが。当然、公的な場では控えなくてはならん)

 

 軍に甘んじている英雄たちが、その証拠と言える。

 名だたる英雄たちは奇人変人が極端に多い。

 常人と違ったから英雄なのか、英雄だから常人と違っているのか。どちらにせよ険しい道程である。平凡な感性では付いていくことも困難だろう。

 大男は舌打ちを落としつつ、横に視線を飛ばす。

 

「なに、ゲラート。文句でもあるの?」

「オメェ……はぁ。モノ知らねぇ少尉さんに変なこと教えてんじゃねぇぞ。名乗れよマジェ」

 

 促されて一歩、前に出たのは小隊の紅一点だ。

 先ほどゲラートに対して茶々を入れた少女である。

 想起したのは、うらぶれた路地に住まう野良猫だ。

 ボサついた薄墨色の髪と、身に纏う鎧の汚れ具合、浅黒い肌がその印象を与えている。瞳の奥を見通せないほど、目に光が届いていない。目を合わせても、内心を窺い知ることはできそうもない。ただ、仕草や声の調子で『怠い』の二文字が浮かんで見えた。

 黒一色の彼女はただ億劫そうに言う。

 

「ロズベルン中将より副小隊長を拝命された、マジェーレ・ルギティ。階級は軍曹よ、少尉」

「うむ、よろしく頼む。……ぬしは道行の案内も兼任と聞いておるが、間違いはないかのう?」

「ええ。大森林も含めて、私の遊び場だったから」

 

 事務的な内容に、彼女は最低限度で応える。

 終われば「用は済んだ」とばかりに一歩退いた。

 その呆気なさに、いささか肩透かしを喰らう。

 

(初対面ゆえ当然じゃが、ゲラートとは質の違う『壁』を感じるのう。彼を弄るときは、わしにも無駄口を挟んできたのじゃが……それよりも)

 

 ソルは、彼女が再び漏らしたあくびを無視する。

 着目したのは、少女が背負う、得物と思しき物品。

 

(どう扱うかはわからぬが……魔導具じゃのう。表面に隙間なく聖文字が刻印されておる……)

 

 一見すると、鋼鉄が蛇行した形状の──赤銅色の棍棒のようだった。直径は少女が十分握り込めるほど細く、複雑な形すべてが均等に同じ太さである。全長は少女自身と等しく、重量は表面の質感から相応に備わっていると推察された。だが、軽々と背負っていることから実情は不明である。そして、もう一つ。

 推測だが、彼女はソルの実力を凌駕している。

 

(筋肉とは違い、オド量は目に見えない。だが気配で多寡を知覚できるときはある。身体に秘められたオドが莫大だった場合、周囲の人間がピリついた感覚を覚えたり、硬直することがあるのじゃ……確かそれをナッドは、強者特有の気配と呼んでいたのう)

 

 ソルは、マジェーレから一種の圧を感じていた。

 肌が粟立つ。首筋には刺すような痛みを覚える。

 実践ではどうかわからないが、オド量だけで語るならば、英雄級にも手が届いているはずだ。そこに心強さを覚えるよりも、どこか不穏さが見え隠れするのは、彼女の態度が不透明だからだろうか。

 ──これから気を配る必要があるかもしれない。

 ソルは折に触れて、気力の萎えた様子の少女に目を遣りつつ、帝国小隊それぞれの顔と名前の確認を一通り済ませていく。幸いなことに何の変哲もなかった。

 順調に終えると、出立時間に差しかかっていた。

 

「……思いの外、時間を食ってしまったのう。みな、それぞれの馬に跨れ! 出発じゃ」

 

 舌足らずの号令とともに、帝国小隊は動き出す。

 面々の表情は様々だ。生真面目な無表情、不満そうな顰め面、諦観を思わせる呆れ面、マジェーレに至っては、隠れて総計十二度目のあくびをしていた。

 彼らから一様に感じられるのは、侮りの色だった。

 見目によるものか。それを見逃すソルの対応によるものか。きっと両方だろう。上官の立場としては危うい。だが、上段から見下ろし、手勢に命じるような形は望んでいない。それは理想の英雄像とは異なるのだ。

 ソルは理想と実益の板挟みにあっていた。

 

(二つを折衷する関係性の模索が急務じゃのう。しかし、まだわしには人の上に立つ経験が足りぬ。……これからも帝国軍に籍を置くならば、何らかの答えを出さねばならんじゃろうが……)

 

 ともあれ、ソルも出発準備を整えねばならない。

 幼女は各々が乗り込む背中を脇目に歩く。

 俯き加減のまま、目的の場所まで辿り着いた。

 そして、鞍に跨ろうとするナッドの袖を引っ張る。

 

「ん、ん、ん……? 少尉?」

「ではナッド。頼むぞ」

「はい? えっと、どういうことですか」

「……話が、通っておらんのか」

「いえ、特に何も」

 

 当惑する彼を前に、幼女は顔をわずかに逸らす。

 

「どう言えばよいかわからんが……そのじゃな。軍からわしは馬に乗れぬと判断されたようでな……相乗りを、その、頼みたいと、じゃな」

 

 先ほど、軍馬を目にして気重に感じた根源である。

 実を言うと、ソルはこの馬とは初対面ではない。

 昨晩、馬飼い監視の下、幼女の乗馬試験が行われたのだ。一般的に、幼女は乗馬できないのである。帝国側がどんなに駿馬を揃えたところで、乗れないのであれば宝の持ち腐れだ。しかし、幼女は一般的な幼女ではない。積み重ねた六十五年の経験がある。馬の手綱を繰り、街から街を渡り歩いたことはあった。

 ソルは戸惑う帝国兵の前で、事もなげに頷いた。

 

 ──乗馬? 人並み程度には心得ておるのじゃ。

 

 そう豪語し、意気揚々と馬の背に跨って──。

 結果は惨敗。その短い脚では、どうにも(あぶみ)に足が届かなかった。身体の固定化にロープを使う案が出たが、即座に却下された。急を要する事態に陥った場合、対応が遅れるのは致命的なのだ。

 そのあとは侃々諤々と意見が戦わされた。

 距離の関係上、徒歩でジャラ村に向かうことは考えられない。何とか移動手段を確保せねばならなかった。議論の末、折衷案として編み出されたのは──。

 すなわち、誰かの軍馬に相乗りするという方法だ。

 

(思い出すもっ……恥を忍ぶのは慣れておるはずじゃが、なぜじゃ。これは格別に恥ずかしい……本来の姿であれば、そこらの悍馬相手でも乗れたのじゃぞ)

 

 らしくもない言い訳を含羞とともに吐き出す。

 ナッドはぽかんと口を開けていたが「そっか、そうだよな。数えてみりゃ、馬の数が人数に足りてないんだもんな」と呟いて一気にソルを掬い上げる。

 幼女の矮躯は十秒後、すぽんと収まっていた。 

 ちょうど馬首とナッドに挟み込まれるようにして。

 

「こう見ると、わしは完全に子供じゃのう……」

「そりゃそうですよ、少尉。尻の方に乗るのは危険ですし、この体勢なのは勘弁してください……。皆も乗ったようですし、出発しましょう」

 

 幼女の出発の合図はどこか虚ろだったが──。

 ソル率いる帝国小隊は、ジャラ村へと進み始めた。

 


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