修羅幼女の英雄譚   作:嵯峨崎 / 沙城流

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13 『未だ無銘の英雄譚』

 3

 

 

 

 夕陽は平等に一面の荒野を照らす。

 陰影を生んでいるのは、積み上がった屍の数々。

 橙色の光を映さないのは、渇いた血痕だけだった。

 この屍山血河の風景が焼かれる様は、さながら火葬場のようですらある。骸となった人々は、光のなか骨を晒している。ふと、焼かれるのは物理的な何かだけではない、と思った。焦燥感と緊張感とで焦げついた心も、夢も、最後は滅されて痕跡も残らないのだ。

 ソルフォートも一時はここで命尽き果てた。

 『人類最強』の女に斬り捨てられ、儚く散った。

 いまは、最強を名乗る存在と対峙している。

 

(果たして、何十分が経ったのか。それとも何時間が経ったのか。何日が、経ったのか)

 

 沈まない夕陽は、正常な時間間隔を狂わせた。

 ソルフォートには見当もつかない。蓄積した疲労が感覚を鈍らせているのか。血を滴らせた両拳を握り締めて、弛緩しかかる筋肉を叱咤する。たとえ延々と一方的な戦闘が繰り広げられようとも、まだ終わるわけにはいかない。幾度も血が舞い、幾重にも呻吟を重ねて、幾多の勝機が粉々に砕けようとも、まだ──。

 嗚呼、とソルフォートは思い直して誤謬を正す。

 これは、戦闘とすら呼べる代物ではなかった。

 児戯同然だ。子どもが小虫を弄ぶかのようである。

 もちろん、虫に喩えたほうが己自身だった。

 

(出し惜しみはこれ以上、無意味かッ……!)

 

 ──間近で対峙する、ただ二つの影。

 それだけが、この地における生者だった。

 しかし、力量差は両者の間に厳然と横たわる。

 絶対の溝が、一切の肉薄を阻んでいた。

 

「はッ──!」

 

 ソルフォートは体内を循環する魔力を意識する。

 この幻想世界は、現実の身体を引き継いでいない。

 幼女とは違って老人の身。正確に言えば、彼の最期と同じ状態なのだろう。身体のオド上限は低空に引かれ、保有魔力量は微々たるもの。力の総量としては筋力が九割ほどを担い、魔力の影響は一割程度だろう。

 改めて思う。幼女と比べて、なんと重い身体か。

 経年劣化の軋みは、さながら錘子のようである。

 だが、現実世界の身体を引き継ぐよりはいい。

 あちらは、ボガートとの戦闘の末に限界寸前だ。

 彼は、たらりと左目に垂れてきた血液を拭った。

 

(何にせよ、儂の為せることは限られておる)

 

 ──魔力(オド)放出に乗じた加速術で刈り取る。

 格上に対する勝利法は、唯一その秘術だけだ。

 小細工が通用しないとは承知している。度重なる抗戦で、身体は悲鳴を上げている。堂に入った『最強』の名乗りから、幾らか時は過ぎている。全身の鎧は残らず粉々に砕け、左腕も利かなくなりつつある。

 だから、いまのうちに札を切らねばならない。

 これ以上の戦力温存を選ぶような相手ではない。

 如何な型、角度、緩急の妙技が通用しない(・・・・・)のだ。

 

(これに、すべてをッ……)

 

 膝を曲げる、腰を落とす、前傾姿勢をとる。

 一本の竿がしなるように滑らかな予備動作を辿る。

 そうして約半量の体内魔力を捻出、消費──放出。

 真正面に、飛ぶ。吹き抜ける疾風と一体化する。

 

(懸けさせて、もらう……!)

 

 気づけば、迫る目標は眼前にあった。

 無防備にも手をぶらつかせた、黄金の女だ。

 股下から右肩を撫で斬るように、斬撃を叩き込む。

 雷撃と見紛わん剣閃。覚悟を乗せた強烈な一撃。

 だが、その剣筋は目標を斬り裂く前に、止まる。

 空中のある一点で、微動だにしなくなる。

 

「……ッ!?」

 

 ソルフォートは現実に面して、瞠目する。

 鋭利な弧を描く剣閃は受け止められていた。

 女は、宙に舞う花弁をつまむようにしていた。

 親指と(・・・)人差し指の(・・・・・)側面だけ(・・・・)で刃を掴んでいた。

 

「……それで、終わりかい? 貴方の全力は」

 

 拍子抜けしたような語調で、口端を上げる。

 ──渾身の一撃を、二本の指で呆気なく止めた。

 絶句。彼にはにわかには信じがたい光景だった。

 いままで幾多の戦場を渡り歩いてきた。当然、遥か格上の英雄たちと矛を交える機会も相応にあった。それでも加速術による一撃を敢行されれば、誰もが回避を選択していた。真っ向から受け止める者と出会ったことはなく、だから彼は、加速術による一撃の威力という側面において、一端の自負があったのだ。

 自信という名の砂山を上手く固めたつもりでいた。

 それが、砂である摂理通りに崩れ去ってしまった。

 その瞬間に生まれた感傷に、思わず頷きたくなる。

 

(これが、戦闘と呼べる代物のはずがない)

 

 それを尻目に、女は片方の口端を吊り上げた。

 

「さあて、と。全力の反撃をしてもらったからね。相応の返礼をするのが、礼儀というものだろう」

 

 ──紅が散った、刹那の記憶は朧げだ。

 自慢の双眸でさえ彼女の影も捉えられなかった。

 ただ、己が左腕が奇妙な方向に曲がった。

 ソルフォートの瞳にはそれだけが焼きついた。

 

 

 

 4

 

 

 

 凡人の悪足掻きは一切の意味を為さなかった。

 対峙する黄金の前で、無駄な抵抗は儚く散った。

 ──ソルフォートが繰り出す四連斬撃、薙ぎ払い。

 避けもされずに、皮膚だけで受け止められた。

 ──動作に外連を織り交ぜ、直撃させた膝蹴り。

 彼女は微動だにせず、あくび混じりに反撃された。

 ──体内魔力を半分消費した加速術による一撃。

 彼女は呆気なく、指二本で受け止めた。

 

(すべて、使い果たした)

 

 反面、黄金の攻撃の悉くは身体に突き刺さった。

 その拳は鎧を砕き、足技は骨を砕いた。ただ彼女が剣を佩いたままだったことは幸運と言えた。きっと剣を抜けば、その刹那に彼の肉片も残らないはずだ。大陸に名を轟かす『人類最強』とはそういう存在で、最強を名乗ったウェルストヴェイルも同様だろう。

 だから一種、彼にとっては不幸と言えた。

 謂わば、無用な拷問を受けているようなものだ。

 

「ぁ、が、ぁ……」

 

 ソルフォートは満身創痍だった。

 夕陽色に染まる地上に、ついぞ背中を打ち据える。

 そうして仰向けで動くこともままならない。胸部が乱れる呼気のままに上下する。そのたびに砕けた小骨が臓器を突き刺す感覚。喉奥から血液が込み上がり、咳き込んでは撒き散らす。不随意の息が漏れる。

 口内は乾き、唇の端からは胃液が零れ出る。

 鼻奥につんとした痛みが刺す。上唇に垂れてきた液体は鼻血。束ねた白髪は草臥れて、褪せた色合いの外套は血に塗れ、破れた裾が風にはためく。

 痛覚はまだ生かされていた。死なない程度に、嬲り殺しされているのは明白と言えよう。口元に付いた砂の味を噛み締めつつ、ソルフォートは呟いた。

 枯れた喉からは、声が掠れ気味に吐き出される。

 

「なぜ、止めを刺さぬ」

「特別ボクは斟酌を加えているつもりはないよ」

 

 そう言って無傷の美貌が視界端に映ってくる。

 ソルフォートは、辛くも見上げることができた。

 終始笑みを崩さない女。邂逅した当初から変化はない。混じり気のない純金の髪、双眸は澄んだ海色に表面を輝やかせ、誉れ高い白銀の鎧が眩しいばかりだ。

 否、出会った当初と比べると明確な差異があった。

 髪や鎧、頬に花弁のごとく血飛沫が散っている。

 もっとも、そのすべてがソルフォートのものだ。

 

(儂は、掠り傷ひとつ……負わせられなかった)

 

 ウェルストヴェイルは疲労を噯気(おくび)にも出さない。

 冷酷な碧瞳が、見上げる黄金の視線と相打つ。

 見つめ合うこと暫し。ふと悪戯っぽく笑みを零す。

 

「殺しはしない。正しくはできない(・・・・)と言うべきだが」

 

 彼女はやにわに右膝を上げ、軍靴を大きく上げる。

 ソルフォートの顔の直上でぴたりと、止めた。

 ずしりと踏み締めるように踵から乗せていく。

 顎の肉が、鷲鼻が、眉間が、額が、圧し潰される。

 

「ぅッ、ぐ……」

「この世界が優しいからだよ。ここは目眩(めくるめ)く夢の世界だ。冷酷な現実とは違い、死なんて粗忽者はいない。時間なんて不粋な概念もない。それにボクは我ながら理性的な性質(たち)でね、必要外の争いは好まない」

 

 言葉と裏腹に、端正な顔が嗜虐的に歪んだ。

 脚には、頭蓋ごと踏み抜く力は込められない。

 軍靴の固い感触が、砂塗れの顔面を乱暴に撫でる。

 

「ボクだって鬼じゃない。その反抗的な目を変えてくれれば、野蛮な暴力に訴えやしないよ」

 

 そう嘯き、さも責めるように足裏を擦りつける。

 それが白々しい響きを持つのは口振りのせいか。

 

「貴方には不思議だっただろうけれどね。ボクが答えをはぐらかさず、素直に情報を渡しているのも、ボクなりの優しさと受け取ってくれよ。みっともない無価値な悪足掻きは見るに忍びないからね。ほら、結末が見えているお話を無意味に引き延ばされることほど、気が滅入るものもないだろう? ねえ」

 

 ウェルストヴェイルは気軽に賛同を求める。

 反して、腕を右膝に置き、人を見下す姿勢だった。

 だが、あまりに無防備だった。『六翼』の白銀の鎧は軽装鎧。彼女は重装騎士やボガートのように、分厚い装甲で隙間なく身体を覆っているわけではない。胸を含む胴体と臀部を保護するに留まっている。

 ソルフォートは右腕を跳ね上げる。複雑骨折した腕の筋力が為せる技ではない。魔力放出。消費量を絞って右肘から噴射することで急襲をかけたのだ。だが、体内魔力を用いた繊細な調整は利かない。勢い余って一割程度を費やしてしまうが、この奇襲に威力が加算されるぶんには好都合だ。形勢逆転を狙う。

 斬撃は、左腿の付け根を斬り落とす軌跡を描いた。

 脚部の付け根。人体の関節で最も可動域が広く、英雄たちが防具での束縛を嫌いがちな箇所である。英雄同士の戦闘は互いの機動力が物を言う場面が多い。ゆえに一定以上の武力を持ち始めると、関節部を自由にすべく、あえて装甲を配しない軽装する傾向がある。

 大陸の英雄たちの頂点『人類最強』は例に漏れず。

 その姿を取ったウェルストヴェイルも同様だ。

 

「安易だよ、凡人」

 

 この鋭い奇襲は、途中で左手に割り込まれる。

 刃は見事に拿捕され、握られる。ソルフォートは剣閃を止められた反動で瞬時に動けない。その間に力尽くで剣を奪い取られ、下手投げの要領で遠くに放り投げられた。大事な剣が──唯一の武器が遠ざけられてしまった。もはや彼には対抗する術が消え失せた。

 と、相手方が思っている隙こそが最大の好機だ。

 彼は、右手指の間隙を埋め、手刀をつくる。

 中空で止まった右腕、その肘から魔力放出を──。

 

「……ッ!」

「知っているよ。だから足掻きは無駄だ」

 

 いつの間にか右脚を上げ、手刀を踏み躪っていた。

 ソルフォートは目を剥いた。明らかに後出しだったにもかかわらず、加速術の乗った拳に追いついたとでもいうのか。負けじと魔力放出するも、足裏は微動だにしない。右腕は片足一本で地面に縫いとめられる。

 軍靴が、ぎしりと枯れ枝めいた腕を軋ませる。

 複雑骨折した腕に、更なる荷重が加えられてゆく。

 

「貴方が齢二十一の頃だね。貴方は身体能力を戦闘力の土壌とするため、拳術を学んだ経験がある。それを知っていれば、いまの行動は隠し球に為り得ない。そもそもの話だが……この世界は貴方の過去を模しているのだから、創り上げたボクが貴方のことを知悉していないはずがないじゃないか」

 

 彼女は知識をひけらかすようにして、笑った。

 

「ボクと貴方では、立っている舞台の高さが違う」

 

 金の長髪を手櫛で漉いては、言葉を舌で遊ばせる。

 

「ボクが登場する英雄譚。その主人公たちは、ボクの存在で名声に傷がついた。この幻想世界を恐れ、尻尾を巻いて逃げ出したからだ。そして目下、大陸最強の名を轟かせるこの──『人類最強』の看板を地に落とす予定だった話を聞けば、貴方の行動がどれだけ無意味なのか、無謀なのか、わかってもらえるかな?」

「どう、いう……看板を、落とす……?」

ボクの主(ボガート)の所属する強襲部隊の目的だよ。あれは本来『人類最強』を討伐するため、王国が内々で結成させたのさ。主がボクを使って、彼女をこの幻想世界に閉じ込めるために。次点で、彼女がボクを恐れて逃げ出した場合、名声を地に落とすためにね」

 

 ──まあ結局、それは叶わなかったんだがね。

 ウェルストヴェイルは肩を落として、嘆息する。

 だが仕草とは裏腹に、さほど嘆いていないようだ。

 彼女曰く「ボガート率いる強襲部隊の目的とは、帝国軍常勝の象徴『六翼』の失墜。特に、彼らのうち最強の名を冠した女を討ち果たすこと」だったようだ。

 ソルフォートは息を呑む。最終的に強襲部隊の作戦は急転し、バラボア砦強襲に向かったようだが、もし成し遂げていれば大陸で続く十年戦争の分け目になり得たはずだ。否、確実に趨勢は変わっただろう。

 大英雄たちが抜け出た事実のない、幻想の箱庭。

 如何に『人類最強』とは言え、突破できることか。

 まして、老いた凡人に成し遂げられることか。

 

「わかるかい? 元よりボクは貴方の目標の上だと」

 

 ──もはや勝利する像すら浮かばない。

 傷を負わせることすら困難だった。ここまで圧倒的な力量差は誰を相手取ったとして体感しなかった。喫緊で言えば、ボガートにも覚えたことのない壁。如何に抗っても押さえつけられる幻影が見えるようだ。

 その理由は、すぐにでも結論が導き出せた。

 真正面から踏み躙られているからだ。ウェルストヴェイルは遠距離攻撃もせず、体型差も厭わずに、すべて受け、一切揺らがない。戦闘で用いるすべての項目が、自分では追従もできないほど優れている証拠だ。

 ソルフォートの拳は解け始め、指先が地に触れる。

 歯を噛み締めると、砂利を潰す音が鳴った。

 

(勝て、ぬ)

 

 だが勝てねば、幻想世界から永久に逃れ得ない。

 それは、つまり現実世界での死を意味している。

 それは、つまり己が夢想の果てを意味している。

 何の因果か死から舞い戻ったというのに、だ。

 

(どうする。どうすればいい)

 

 女は、あっさりとその解法(・・)を口にする。

 

「簡単な話さ。諦めてしまえばいい」

 

 紡がれた選択肢は、ソルフォートの人生の否定。

 彼が六十余年歩み続けた道程を「間違いだった」と今更ながらに認めることだった。

 

「世界にごめんなさいするんだ。才能、環境、身体。自分に降りかかった理不尽を世界のせいにして、恨んで、嘆いて、でもそれは貴方が身の丈に合った生き方をしなかったからだ。白昼夢に囚われていたからだ」

 

 いっそ甘やかなまでに、新たな選択肢を用意する。

 

「勘違いしないで欲しいけれど。現実世界で諦めることは自己否定ではない。むしろ自己肯定だよ。身の丈に合った自分を認めるということだ。本来の自分を肯定するということだ。だから、もうその肥大化した大望、大願、英雄願望を降ろしなよ」

 

 彼女は囁く。残る道筋はそれだけだろうと。

 彼女は囁く。ボクを打倒できないなら諦めろと。

 彼女は囁く。幻想世界に溺れることを許容しろと。

 彼女は囁く。現実世界で夢を追うなんて愚かだと。

 ソルフォートは口も利けず、睨むばかりだった。

 対して、女は緩慢に背を曲げて顔を近づけてくる。

 息のかかる距離まで、碧く澄んだ双眸を寄せる。

 

「考えてもみなよ。貴方が諦めればすべて上手くいくんだ。幼女になるなんて悪い夢だった、主の脅威なんてなかった、六十余年の白昼夢の最後に憧れの存在と会えた。それでいいじゃないか。あとは思う存分、この世界で楽しめばいい。ここは謂わば夜の夢。幻想の世界。現実世界で夢を追うなんてことせずに、ここで好きなことを好きなだけ叶えればいいんだよ」

「儂、が」

 

 震えた。か細い呻きに似た音が、空気を伝う。

 

「あきら……める、と?」

「いまだに口だけは強気だね。ほら、だったら立ち上がってみなよ。ボクの首に刃を届かせてご覧よ」

 

 自らの白い首を晒して、指でなぞって挑発する。

 妖しい色気が匂い立った瞬間、桃色の唇が裂けるように弧を描いた。

 

「そら、土台無理なのさ」

 

 そうして、老爺の喉奥からは呻吟が漏れた。

 もはや童子同然。無力感に奥歯を噛み締める。

 彼は身体中の骨が折れており、寸鉄すら帯びておらず、体内に巡る魔力量は三割をすでに切っている。意識を保てているだけ奇跡的なのだ。今更、立ち向かうだけの気力を掻き集めることも困難だった。

 ウェルストヴェイルは鼻先で笑って、言い放つ。

 

「そもそも、貴方の夢が、固執するに値しない無価値だと気づくべきだよ」

 

 刹那、すっと彼女の瞳に影が差す。

 滲ませる情念は、どことなく寂然としていた。

 

「主を引き合いに出すわけじゃないけれどね。ボガートや強襲部隊は王国のため。戦火に咽ぶ民のためにここに立っている。現行の作戦行動であるバラボア砦奪還は、周辺の連合軍にとって枢要でね。取り返せば、マッターダリ戦線の回復による時間稼ぎができるわけだよ。山脈を境に戦線を膠着させれば、連合を組む国々から戦乱の火を遠ざけることができる」

 

 ──貴方はどうだ? まるで薄っぺらじゃないか。

 静かに語り出したのは、ソルフォートのこと。

 ソルフォート・エヌマの人生のこと。

 

「舞台に立つには資格がない。英雄を志すには、あまりにも凡人だった。貴方だって本当は、夢を諦めたかったんだ。貴方は意地を張っているだけだ。挫折するには遅すぎた。定めた針路から引き返せば、きっと何も残らないから……前に進むしかなかっただけだ」

 

 ──夢に捧げた時間が無意味と認めたくないから。

 まるで、見透かしたような言葉が羅列される。

 否、事実、見透かしているのだ。この幻想世界はソルフォートの昔日を舞台に織り成されている。彼の過去を彼以上に熟知しているのかもしれない。ゆえにこそ、ソルフォート自身でさえいままで振り返ってこなかった、六十余年の道程について口にできるのだ。

 自分。ソルフォート・エヌマ。ソル。

 凡夫であることは、自身含め誰もが知るところだ。

 才能なる不確かなものの輪郭を、あまりにもちっぽけゆえに早々と悟ったにも関わらず──それでも諦めきれなかった男。一言で彼の生涯を表現すればそうなる。しかし、その夢に向かう長い道程で、年相応の葛藤や、諦観がなかったと言っては、嘘になる。

 ひとつを望み続けていれば、年数が背中を押す。

 人生の懸崖に近づく重い足取りを、助けるように。

 未来の転落を知っていて、なお続けた理由に、惰性や自棄の兆しはなかっただろうか。

 

「貴方の夢が固まる経緯だって歪んでいた。人生の貧しさと閉塞感に苦しんだ母上の、歪んだ妄信(・・・・・)を一身に背負わされたんだ。もちろん、最初は子供らしい憧れだっただろう。だが、それならば本来、捨てられていたはずだ。子共らしい憧れは、大人になるまでの限定品。そのはずだった。だから、この夢は貴方だけの責任じゃない。貴方の母上にも、大きな非がある」

「な、にを……!」

 

 それは、聞き逃せない台詞だった。

 足裏の噴出口を想像して体内魔力(オド)放出。

 一割消費し──背中で地面を滑りながら離脱する。

 土塊が割れて舞い、砂埃も合わせて口内に入る。

 

「頑張るね。虚しいばかりだよ」

 

 ウェルストヴェイルの靴底からはあっさり外れた。

 人を釘づけにするほど力が籠っていなかったのか。

 それとも不測の脱出方向だったのか。ソルフォートは意想外に思いつつ、放出余勢の方向を変える。憤慨を力に換えて、思いきり右肘を叩きつけた。身体が内部崩壊しかかるほどの痛みが、思考を微塵に千切る。

 だが、彼は半ば無意識のままに二本足で立った。

 亡霊のように佇んで、数秒後に意識を取り戻す。

 震える。質量が重い。空気が重い。肺が重い。

 

(勝てるか、ではない。勝利の可能性なぞ元から零じゃ。抉じ開けねばならぬ。何にせよ徒手空拳では立ち向かず、大立ち回りを演じるだけの体力も残っておらん。そもそも、正攻法では勝ち目がないやもしれぬ)

 

 たとえ浅見と軽んじられど、この手に武器は要る。

 女に遠ざけられた剣はソルフォートの後方だ。具体的な位置は把握できていない。余所見ができない状況下では目視を行えない。そのため、彼は踵を地面に擦りつけるようにして微速後退を続ける。ここはあの日の戦場。もしや目ぼしい武器が拾えるかもしれない。

 一方、ウェルストヴェイルは眉尻を落としていた。

 警戒心めいた内心は秋毫の微すらも感じ取れない。

 追撃も行わず、ただただ冷淡な視線を向けてくる。

 

「本当はさ、気づいているのだろう?」

 

 ソルフォートの脚が止まる。意識的ではない。

 女の視線に槍のように貫かれて、縫い止められた。

 その穂先に塗られた感情は、鮮烈。

 それは、彼の幼少期の真実を穿っていたのである。

 

「貴方は、貴方の母上を過剰評価しているよ」

「抜か、せ」

「彼女は立派な人間ではないよ。彼女は、貴方の味方だったことは一度もない。夢追人に対する応援に聞こえていたとしたら毒されている。あれは『助けて』の叫びだった。極寒の吹雪に襲われるなか、手元の蝋燭の頼りない炎に見る──都合のいい幻覚に似ている」

「儂は、とかく……母、さんを愚弄……」

「いい加減に目を醒ましなよ」

 

 急な重々しい声色に負けて、押し黙ってしまう。

 

「考えてもみなかったか? どうして母上は夢にすべてを(なげう)つような真似を許し続けたのか。どうして寒村で、それも裕福ではない環境にあって、貴重な労働力である子供を自由にさせ続けたのか。ひとえに家族の情か? ひとえに彼女の慈愛か? 断じて、否だ」

 

 ──母さんは大丈夫よ。貴方は貴方の夢を追って。

 母が、ソルフォートの夢を応援し続けた理由。

 我が身を顧みない邁進に水を差さなかった理由。

 母の応援は尋常なものではなかった。生活を犠牲にしていた。どんな食料を口にしても、味がするだけいいと思える経験を思い出す。母子ともにひもじさを抱えて、やつれた顔のまま草を食んだ日を思い出す。

 痩せ衰える身体。冷たい手。皮脂の油。溜まる垢。

 それは、父が家から去ったことに端を発す。

 

「母上は少しばかり夢見がちだったね。いつか夢は叶うと信じていて、貴方が御伽噺の英雄になりたいと話すと、我が事のように笑うような人だった。育ちのせいか、現実世界から目を背けたかったからか。そういう気質は元からあって、それが、父上が出ていって悪化した。貧しい生活は人を狂わせる。男手もなしに安泰な日々を営めるほど、寒村は優しくない。なにせ、夫にも逃げられ、貴重な労働力である子供を遊ばせていたんだ。日に日に病んでいくのも道理な話さ」

 

 ──立派だわ、村一番の剣士になったのね。

 ──私の信じてた通り。やっぱり努力は実るのよ。

 

(そうじゃ。母さんは少女のように笑っておった)

 

 ──ふふ、貴方が英雄様になるのも遠くない……。

 ──母さんを楽にしてもらうのもそう、遠く……。

 

(笑っておったのじゃ)

 

 ──えらいわ、経験を積むために傭兵になるのね。

 ──コツコツした努力は決して裏切らない。

 ──貴方がまたひとつ大きくなって、次に帰ってくるときが楽しみ……待っているわ。

 

(最後に聞いたのは『いってらっしゃい』じゃった)

 

 儚げな笑みを背にして、意気揚々と外を目指した。

 その先には、挫折と絶望ばかりが待ち受けていた。

 母の声が残響する。視界内の荒野に場面が重なる。

 頭蓋骨が内側から軋むような頭痛。さながら脳の奥底に埋めていた過去という死骸が、土中から腕を突き出し、這い出してくるようだった。とうの昔に弔ったはずの骨殻だ。果たせなかった約束の墓下からは、止め処ない後悔の念が横溢し、辺りに漂った。

 黄金の女は、慌てたように小さく片手を振る。

 

「ああ、すまない。貴方の過去を否定するつもりはなくてね。ただボクは貴方を救いたいんだ。この数百年を見ても、ここまで極めた人間は初めてだからね」

「きわ、めた……?」

「実に面映いのだけれど、単刀直入に言おうか」

 

 瞳に焼きついたのは、女が頬を指で掻いた残像。

 それが薄れるより先に、彼我の間合いが圧縮した。

 そう喩えざるを得ないほど一瞬で、距離が詰まる。

 ウェルストヴェイルが突如、懐に入り込んだのだ。

 

「ボクは、貴方を少なからず気に入っているんだよ」

 

 そこで見せた機敏さと反した速度で、手が伸びる。

 優しさすら感じ得る手つきで、腹部に触れた。

 その瞬間にソルフォートはえづいた。水中で溺れる感覚。泡ぶくを吐き出すのが止まらない。地上でこの感覚に陥る場合について経験がある。内的に負荷をかけられたことで、胃の内容物が喉元まで駆け上がってきているのだ。だが今回は眩暈がするほどに強烈だ。

 内容物どころか胃諸共、吐き出しかねなかった。

 女は、崩れ落ちる老躯の横腹を膝蹴りした。

 

「が、ぁ……!?」

「だから、貴方には貴方自身で折れて欲しいのさ」

 

 中空を飛ぶ。声ならぬ絶叫が脳天を突き抜ける。

 そうして最後は、築かれた屍山の一角に直撃した。

 

「せめて後腐れを残さないように自分の意思で、ね」

 

 ──成長するとはこういうことだよ、凡人。

 背筋まで突き抜ける衝撃。背中側から広がる鈍痛。

 胃液が競り上がり、乾いた唇から吐き出された。

 余勢によって屍山は倒壊する。泥遊びで固めた山を崩すときのように、ぼとりぼとりと力を失った人体が雪崩を起こしていた。さりとて、この緩衝材のおかげか、ソルフォートの背骨が砕かれることはなかった。

 その代わり、砕かれたのは闘争心という心柱。

 それこそ精神面では背骨のように大事なものだ。

 

「これは貴方の成長痛代わりだと思ってくれ。足りない自分を受け入れるんだ。ほら、子供時代に済ます必要がある通過儀礼ってあるだろう? 人体に実際に罹る病もあるけれど、同じように精神にもある。子供から大人になるには痛みが伴う。そうでなければ、まだまだ子供だということだ。貴方のようにね」

 

 ──貴方は、謂わば老いた子供なんだよ。

 ソルフォートは山の側面からずり落ちていく。

 遅れて、地面が尻を打ち据えた。体重落下の負荷が尾てい骨を震わせる。この振動がとどめ。両手指の器で掬う程度だった体力は飛沫となって散った。視界は霞みがかり、身体すべてが空洞化してしまったかのように、暈けた感覚器官の叫びが体内に木霊している。

 体前屈の姿勢のまま、指一本として動かせない。

 いま傍らには、夕陽色に濡れた剣が所在なさげに転がっているというのに。

 

「もう喋れもしないようだね。まあでも、まだ喋れたとしたら貴方は『知ったような口を利くな』と言うかもしれない。客観的に見れば、ボクの言葉は押しつけがましい台詞だからね。わかってはいるよ。でも、立場が違うがゆえにこういう物言いしかできないんだ」

 

 軍靴の鳴らす足音は緩慢に、確実に、近づく。

 一歩、二歩。心なしか時間を伸びやかに感じる。

 それを、絞首台までの階段を登るような心地で聞き届ける。

 

「ボクは貴方のことをよく知っている。それこそ、貴方自身以上にと、そう胸を張って言える程度には。まあでも、先ほどの『気に入っている』というのは言葉の綾だね。誤謬を糺そう。ボクなりの誠意をもって表現すれば、ボクは貴方に、並々ならない同情(・・)を抱いていると、そう言ったほうがいいかもしれない」

 

 矜恤憐憫の情感が、目線の温度だけで知れた。

 ソルフォートは項垂れたまま、視線だけを上げる。

 掠れた瞳を通して、夕陽を背にする女を認める。

 逆光のなかで断言したのを見て、合点がいった。

 

(そうか。儂を指して極めた人間(・・・・・)と称したのは、つまり愚かしさを(・・・・・)極めた人間(・・・・・)という意味じゃったか)

 

 先ほど耳にして、首を傾げてしまった表現だった。

 彼には、人生で極められた事柄などなかったから。

 

「物事の価値とは幕引きの瞬間に決まる。どんな物語もそうであるようにね。それは、人間が喪失感の尺度でしか価値を測れないこともそうだが、何より、結末を迎えるまでは価値が変動する可能性を残しているからだ。夢を叶える可能性を残しているからだ。それまでは一概に、無価値と決めつけることができない」

 

 ──諦めなければ夢は叶う。ひどい言葉遊びだよ。

 赤茶けた視界の先に、帝国軍の軍靴が現れる。

 頭上からは声。空洞化した全身に反響する。

 

「貴方にはわかるのかな? 失ったときの落差でしか物事の価値を測れないのだとしたら。命を落としたときにこそ、その価値を知ることができるのならさ」

 

 ──ねえ、貴方に千鈞の重みがあったかい?

 そう独りごち、ひと時だけ憂いの表情を覗かせた。

 屍山に体重を預ける老爺の正面で、佇んだまま。

 

「ソルフォート・エヌマ。貴方の生涯は徒労そのものだった。子供時代の他愛ない夢を骨髄まで信じ込まされて……でも、それはあくまで夢想であって、現実世界の身体がついていくかはまた別の話。例え話をするならば、貴方は、宵越しの夢でひとたび空を飛べたからと言って、起き抜けに試してみたんだよ。しかし一向に飛べず、毎日試し続けた。その結果、鳥気取りの滑稽な墜落が貴方の人生のすべてになってしまった」

 

 飛べない者が、腕をバタつかせ続ける生涯だった。

 その過程には幾つもの枷がつき、腕を重くした。

 己の才能、周囲からの蔑視、年齢、身体の衰え。

 

(身に余ることを、成し遂げようとしたのじゃ)

 

 だから、夢に向かう道中は虚しさすら覚えた。

 横にいた同年代は、易々と彼を置いて先に行く。その背に追い縋ろうと我武者羅に走ってみたところで、追い越せた者は誰一人いない。応援代わりに愚者の烙印と嘲笑を投げつけられながらも、ただ前に進んだ。

 若き才人たちが羨ましかった。彼らは背後から事もなげにソルフォートを抜き去っていく。あまりに次々と越していくものだから、うっかり自分の足取りを見返して、安堵混じりの落胆を覚えたことがある。

 ──本当に自分は一歩でも前に進んでいるのか?

 不安と焦燥に襲われたのは一度や二度ではない。

 

「幾度も心を殺してきた。自分が見えていない大法螺吹きは、どうしたって貶される運命にある。ほら、いまも村人たちの嘲る声が思い出せるだろう?」

 

 ──無駄な努力だ。

 ──あれなら土弄りを覚えた方が利口に違いない。

 

「傭兵仲間の蔑みが、瞳に焼きついているだろう?」

 

 ──口にするだけなら簡単だ。

 ──実行するには、足りない物が多すぎる。

 

「そして『人類最強』の手向けの言葉は無情だった」

 

 ──貴方は、半端者だ。

 

「貴方はどこに行こうと鼻摘み者扱い。誰よりも焦がれて努力して、けれども貴方を評価する者はただ『哀れ』と思った者ばかりだった。貴方が欲していた評価や名誉は、そんなに安っぽいものじゃなかったのに」

 

 滾る情熱には冷水、気力にはヤスリをかけられた。

 優しい言葉は冷やかし以上になり得なかった。

 

「父上だって、その夢を疎ましく思って出て行った」

 

 ──呆れた。お前の話は現実味に乏しい理想論だ。

 ──ガキの戯言に付き合わされるのは御免被る。

 

「最初は疎ましげにしていたものの、子供の遊びと思って見過ごされていた。それが、生活に困窮してもなお仕事より鍛錬に身を入れるソルフォートに、それを微笑ましく話す妻に、どうしても我慢ならなかったのだろうね。……まあ、当然の帰結だよ」

 

 父は、母子のみすぼらしい家から出ていった。

 聞く話によれば、元より母には愛想を尽かしていたらしい。常に呑気で、いまだに少女の感性でいる彼女が、生活を共にするにあたって目障りな存在でなかったはずがない。血の繋がったソルフォートとも会話した覚えはない。父子の交流は視線だけだった。

 そんな家族が決定的に断絶した瞬間を覚えている。

 ぎゅっと掴んだ裾の感覚が、まだ手に残っている。

 父は「一銭にもならない夢に投資するなど、そんな夢想家にはなれん」と吐き捨てた。そして以前からつくっていたという愛人の家に移り住んだ。

 両手を外套の隠しに突っ込んだ姿は遠のいていく。

 傷だらけの広い猫背は、一度も振り返らなかった。

 それを、家の軒先から母と二人して見送った。

 

「それからのことも覚えているよね? 元より歪な家族が壊れたあとの話だ。貴方は一度、剣を振らなくなったよね。父上が出ていったのは自分のせいだと思って、そのまま家に帰った。そのことを正直に話すと、母上は激昂した。『わかっているの!?』とね」

 

 ──あの人が出て行ってしまったのよ。

 ──貴方の夢は叶わなくてはいけないわ。

 ──大丈夫、きっと夢が現実になれば帰ってくる。

 

「あれが、彼女の取り乱した姿を見た最後だった。でも、あのとき以来、貴方はいつも通りの母の微笑みが別物に感じられるようになってしまった」

 

 言葉の雨垂れが耳朶を打つ。

 薄壁の向こうでそぼ降る音を聞く心地になる。

 

「貴方が夢を追う根源は植えつけられた恐怖だ。義務感だ。惰性だ。そして人としての成長がなかったからこそ、貴方の夢はからっぽのままなんだよ。中身がない。大義がない。質量という奴がない。不相応に膨らんだ夢だけ抱えても、虚しいばかりだ」

 

 ソルフォートに背負うものは何もありはしない。

 夢、家族、恋人、友人、恩人、あるいは国の命運。

 本来、人が背負うべき何かが欠如している。唯一持っているかに見えた夢すらも、まさしくからっぽ。幼稚な夢を御大層に抱えてきて絵空事を言っているだけだ。まるでそれは、子供の頃に好きなものだけ詰め込んだ宝箱のようである。大人になって箱を引っ繰り返せば、いつかの宝箱の正体はガラクタばかりのゴミ箱同然の代物だったと知れるのだ。無価値な物体がどれだけ詰めてあろうが、ないのと変わらないのだから。

 彼女は言う。膨れ上がった夢だけを抱えて、報われないまま、ここまで我武者羅に駆けてきて、疲れたはずだと。もう諦めてもいいと。惰性で続けてきた夢に引きずられる、もうその必要はないんだ──と。

 ウェルストヴェイルは乞うような口振りだった。

 

「見切ってしまえ。こんな夢に、価値はないよ」

 

 そう、締め括るようにして言い切られた。

 老人は視界不良のなか「そうか」と腑に落ちる。

 ソルフォート・エヌマの人生。

 それは、英雄に憧れた瞬間に歯車が狂ったのだ。

 

「ねえ、ソルフォート」

 

 それは、黄金の英雄の声色ではなかった。

 いつか寝覚めに感じた毛布の温かみを心に添える。

 如何なる場所であれど、繭のように居心地のいい空間に塗り替えてしまう、声がする。

 

「だから、お家に帰りましょう?」

 

 視界にあった軍靴は、藁編みの草履になっていた。

 端々が剥げた足指の爪と、固くなった皮質を見る。

 

「私は知っているわ。貴方の思う人生最良の日々。貴方が叶えたかった夢は、違う。英雄になるなんてものじゃなかった。ただ私と二人で、あの小さな家で、平和に暮らしたかったのよね。あの人が出ていって本格的に狂ってしまう前の、あの微睡む日々で……」

 

 夕陽に染まるその脚と影は、記憶を惹起する。

 剣術道場の帰り道、畦道を手を繋いで歩いた。

 夢があって、帰る場所があった、あの頃。

 空がどこまでも高く見えていた、あの頃。

 やれば何でもできると思っていたあの頃。

 

「ほら、一緒に帰りましょう」

 

 ソルフォートは霞んだ瞳を開いて、見上げる。

 母が、右手をこちらに差し出してきていた。

 いつの間にか、夕景は戦場のそれではなかった。

 鼻孔を擽るのは土の匂いだ。黄昏の波打ちを見せる稲穂の群れの頭上を、蜻蛉たちが気儘に飛び交っている。鈴虫の調べが高い空に響いていた。郷愁の念が身体を絡め取る。ここは、帝国僻地にあった故郷だ。

 ソルフォートが背を凭れているのは屍山ではない。

 いつも鍛錬を続けていた、木造の廃墟だった。

 

「ずっと一人で剣を振っていて倒れたんでしょう?」

 

 母は困り眉で、怒るに怒れないような口調だった。

 それは、心から身を案じてくれている証左だった。

 だが、最後には包み込むような笑顔を向けてきた。

 

「ここまで頑張って……お疲れ様」

 

 ──疲れて立てないでしょう? ほら手を取って。

 ソルフォートは言葉が見つからない。黙り込む。

 母の背後には、人々の透けた虚像が遠目に見えた。

 そのなかに見覚えのある男の後ろ姿があった。バルドー伍長、という名が口元まで登ってくる。彼は歳幾許かの子を背負って、小柄な女性と手を繋ぎながら帰り道を辿っている。談笑の内容は聞き取れないが、三人は楽しげに、幸せそうに、彼らの家に帰っていく。

 ソルフォートは眩しく感じて、目を細めた。

 沈黙のうちにウェルストヴェイルの意図を悟った。

 ──この機会を逃したくなくば、手を取れ。

 そう、これは再び訪れた二度目の好機なのだ。

 だが幼女に転生したときとは真逆の意。夢を諦める好機だ。ソルフォート・エヌマの生涯ではついぞ逃してしまったそれは、陽だまりで微睡みながら、誰かと穏やかに茶を啜るような幸福を享受できる道である。

 不思議な確信があった。きっと三度目はない。

 おそらく、この夢と希望で舗装された地獄の道行きから逸れる、最後の機会なのだ。

 

「さあ、行きましょうか」

 

 ソルフォートは、かすかな呻きを上げる。

 

「それ、で」

「……え?」

「終わりか」

 

 母は固まってしまって、瞬時に問い返さなかった。

 その駘蕩とした微笑みに向ける言葉は短かった。

 

「……何を言っているの、ソルフォート」

「すまぬ」

「もうすぐ夜よ。もう帰らないといけないわ」

「その手は……取れぬ」

 

 固まったウェルストヴェイルと目が合う。

 そして、言った。

 

「儂の生き様に、間違いなど、なかったのじゃから」

 

 

 5

 

 

 

「間違いが、なかった……?」

 

 母の似姿は、ソルフォートの言葉を舌で転がした。

 黄昏時の光が照りつける。幻想世界では代わり映えない色彩のはずが、心なしか光量を増したように思えた。さながら多く水分を含んだ絵筆で重ね塗りしたようであり、彼女の輪郭を赤々と輝かせる。それが内部で膨れ上がっている激情の発露にさえ感じ得た。

 ソルフォートはその果てに紡がれる言葉を待たず、立ち上がろうとする。

 

「ぬしが……語ったのは、確か、に。儂の人生じゃ」

「そうでしょう? だって」

「じゃが、それゆえ……見落として、おる」

「見落、とし?」

 

 母の似姿は、ソルフォートの言葉を繰り返す。

 それはまるで飴玉を執拗に舐めるようだった。口内で言葉の外殻を溶かして、裏に隠された意味を絞り出さんとするようである。そうして、淡々と一言だけ呟いたあと、じきに不愉快げに眉を寄せてゆく。

 ソルフォートはそれを正視できず、視線を下げる。

 心が咎めたのだ。きっと目の錯覚だろうが、いまの彼女の表情が、泣く寸前の幼子のように見えてしまったのである。母の顔貌が歪む様を積極的に視界に収めたくはない。そもそも、彼女を演じているはずのウェルストヴェイルがそんな表情をするはずがない。

 いま視線の先には、差し出された右手がある。

 まだ彼女は、差し出した手を引っ込めていない。

 傷だらけの、その頼もしくも美しい手を──。

 

「儂が、研鑽を重ねた、理由じゃ」

 

 ──取らず、ソルフォートは両膝に力を込める。

 廃墟の壁に背を擦る。左右の背筋で登攀する要領で上体を這い上がらせる。いまにも崩れ落ちそうに身体が震える。だが、せめて膝は折るまいと苦心し、全身の筋肉に意志の熱を灯す。天から授かったオド容量の低きを嘆いて、鍛え続けた己が筋肉そのもので立ち上がらんとするも、そのたびに意識が明滅を繰り返す。

 鋭利な骨の破片によって筋繊維が切れる感覚。

 ぶつり、ぶつりと明確な音をもって意識が途切れかかっていた。

 

「何だ、そんなこと……先も言ったはずよ。見落としてなんていないじゃない。貴方が夢を追い続けた理由は、幼い頃に植えつけられた恐怖心。使命感に似た強迫観念。そんな呪縛が生涯貴方を離さなかったのよ」

「それは、確かに……が」

 

 ──それだけではない。わかっているはずじゃ。

 壁面で不恰好にのたうちながらも、二本足で立つ。

 背を壁から離した。同時に前のめりに倒れ込みかかるものの、背筋を張って引き留める。緩慢に身体が揺れるたびに、脚も膝も悲鳴を上げた。折れ曲がった左腕からは依然として身体中に鈍痛が響き渡る。

 眉間に刻まれた皺は、苦痛を覚えるだけ深みが増す。

 舌と口内には、鉄錆めいた味が染みついている。

 それでも、立ち上がれた。一人で立ち上がれた。

 

「儂が、続けてきたこと、が……」

 

 彼は、息も絶え絶えで母の似姿(ウェルストヴェイル)の手落ちを突く。

 

「好きで、やっておったと……見落として、おる」

 

 彼女の語った生涯はソルフォートの人生だった。

 ただ、俯瞰的に見た人生観である。その最中に起きた出来事や感情の取り上げ方には、ウェルストヴェイルの主観が入り混じっていた。ゆえに目から鱗が落ちる心地だった。彼自身も意外なほどに、自身が体感したソルフォート・エヌマの人生との乖離があった。

 語られた内容に狂いはない。彼女が語るように、ソルフォートは人生の目標を遂げられなかった。諦めなければ夢は叶う、という決まり文句には幾重もの但し書きが必要だと身をもって証明した。一生涯、煩悶が付き纏い、救う者はおらず、真の理解者がいないという意味で孤独だったのは否定しない。しかし──。

 左目元に垂れ落ちる血液を、右甲で拭う。

 

(きっと、ぬしは儂の人生を場面でしか見ておらん)

 

 それこそ、字面通りに過去を見たにすぎない。

 喩えば、ソルフォートの人生が完全三人称の小説に書き起こされたとして、そこには事実だけが羅列されている。彼女はその文面を読んで、境遇を知り、このときどう考えたか己の物差しで推察したにすぎない。

 彼女自身の言葉通り、同情(・・)するようにして、だ。

 本人の内側。肝心の心情は読み取れていなかった。

 

「好き……ねぇ。ソルフォート、それこそ植えつけられた感情よ。刷り込まれた好意的感情、一方的な押しつけでつくられた紛い物ね。言い方は悪いけれど、貴方はただ親に誑かされただけの、可哀想な子なのよ」

「紛うことは、ない」

 

 曲がることなく進み続けた轍こそが証明だった。

 単純な理屈である。好きでもなければ続かない。

 空を飛ぶことが好きでなければ、誰が両腕を翼に見立てて落ちるものか。

 

「ぬしには……わからぬ話かもしれぬが」

「何のこと?」

「六十五年。人の身に、は……長い歳月で、のう」

 

 ──植えつけられた根元が十分腐りきる歳月じゃ。

 母の似姿はそれきり閉口すると、一歩、後退った。

 ようやく差し出していた左手を戻して、そして。

 

「度し難いね。ソルフォート・エヌマ」

 

 変貌する。言葉遣いが中性的な声色で整えられる。

 透明な絵筆は母の似姿を掻き混ぜてゆく。夕景の黄昏色と混ざり合い、強烈な西日の向こう側に消えるような光景にも見えた。過去の光は眩いばかりで、看取ることもできなかった相手と(わか)つ寂寞感を改めて覚えてしまう。それは口惜しさによく似ていた。

 新たに色づけされたのは、再び黄金の英雄だった。

 アイリーン・デルフォル。海色の双眸が正面から見据えていた。

 

「救えない奴、とはこういう男を言うのだね」

「救って、ほしいなど、と……言った覚えは、ない」

「言ってるよ。貴方のひどい人生が言ってる」

 

 故郷の風景も戦場のそれに様変わりしてゆく。

 夕陽が地を舐めるように照りつけている。

 延々と繰り返された、ソルフォート最期の舞台だ。

 

「ここはさ、貴方の人生の要所であり、あるべき終幕のひとつであり、夢を追い、敗れた屍たちの墓所だ」

 

 静かに彼女──ウェルストヴェイルは言う。

 貴方はあのとき、ここで倒れておくべきだったと。

 黄金の英雄に老躯が斬り捨てられた瞬間、その幼稚な夢ごと捨て去るべきだったのだと。荒唐無稽な夢が何をしてくれたというのか。生涯を使い果たすに飽き足らず、さらに二度目の生まで奪おうとしているではないか。それに死してなお縋りつく姿は見苦しいと。

 彼女は言った。いまだにソルフォート・エヌマという老人は、積み重ねた夢の残骸に深々と腰を下ろしているのだと。両眼を開いて正面を見据えている。その視線の先にある虚空には、真実何もないというのに。

 ──貴方はいつまで、何を見ているんだい。

 

「夢を、見ておる。確かな現実で、夢を」

「間違いだ。何も見えていないんだよ貴方は」

「まだ見えずとも、目を凝らせば、自ずと見え──」

「貴方は……間違いだらけの人生だった!」

 

 激情の籠った声は、遠く、空高くまで響いた。

 

「意地なんか張らずに認めればいいじゃないか! 結局のところ貴方に名誉はなく、目標には遥か届かなかった。孤独で、劣等感で、天与の儘ならなさを痛感し続けただろう! 無知な阿呆のように信じてきた妄言は、泡のように弾けて残らず消えた、なのに」

「ああ」

 

 ソルフォートは力なく、首を振った。

 口元から血反吐を止め処なく溢しながら、呟く。

 

「儂の、人生は……間違って、おらん」

 

 ソルフォート・エヌマはどこまで行っても凡人だ。

 意思が固まらない幼少期、多感な少年期、挫折を経験する青年期。もし母の応援(・・)がなければ、いずれどこかの過程で挫けていたかもしれない。教育の是非が委ねられるのは当事者だけだ。奇しくも、彼は母のことを好意的に受け止めた。それがすべてだ。

 あれがあったから、好きなことを続けていられる。

 皆が捨てるはずの夢を追っていられている。前進するための貴重な動力源に代えられた。だから何も間違っていない。最終的な結論として、伸ばした指先は夢の片鱗にも触れられなかった。それに対しては悶え、叫び出したいほどに後悔の念があるものの──。

 満身を使い果たした。白灰めいた身体のみ残った。

 そんな人生には、一点の曇りもなかった。

 

「結果論だよ。結末が報われないと知っている現在だから、自分を納得させるために記憶を美化しているんだ。他でもない自分の人生を『単なる悲劇』と題されたいはずがない。そうだ、ボクには貴方のことがよくわかっている。過去を飾りつけるのは、過去が消えずに残るからだよ。過去には決して戻れないからだ」

幻想世界(ここ)に、いては……美化の謂れも、ない」

 

 過去の人物と風景が書き起こされた幻想世界。

 過去の轍について、ここで意地を張る必要がない。

 

「ッ……でも、貴方の人生に間違いがないなんて、誤謬も甚だしい表現じゃないか。言葉遊びだよ。事実として、貴方は何も成し遂げられなかった。誰かに勝るために、貴方は何十年を溝に捨てたつもりだよ」

 

 溝に捨てた──否、いままで積み上げてきたのだ。

 人一倍の努力では足りない。だから生涯を懸けて満たそうとしたのだ。露命を繋ぎながら、己のなかに培われる実力の芽を育て続ける。具眼の士は皆、この行いを無意味と断じた。だが、ほんのわずかに過ぎずとも、不器用なりに心血を注いだから得たものもある。

 憧れた英雄同様に、剣を握り、振るえる喜びだ。

 

(剣術道場に入門した頃を思い出すわい。入って一ヶ月は毎日筋肉痛が止まらず、母さんに泣き言ばかり零しておった。剣一本、満足に振るうことも覚束んかったのじゃ。それがいまでは一端程度に振るえておる)

 

 客観的に見れば、ちっぽけな成果にすぎない。

 だが主観的に見れば、偉大な精華に他ならない。

 

(続けることで可能性が繋がる。ああ、そうじゃ)

 

 そのとき自分が抱き続けていた宝物を認識した。

 ずっと夢見る、いまだ存在し(・・・・・・)得ない英雄譚(・・・・・・)を思う。

 それこそ子供の頃から、ふと思い描いた空想のなかにのみ存在する御伽噺──。

 

(いま儂は、憧れと同じ舞台に上がれておる。無論、見る景色は違うのじゃろうがな。青天井に手は届かなくても、子供の背伸びで届かなかった軒先にいまは届くようになった。それだけで、価値のあることじゃ)

 

 震えながら身を屈めて、傍に落ちている剣を拾う。

 馴染んだ手触りだ。かれこれ三十年の付き合いなのだから当然と言えば当然だが、なぜか手元から離れた数分程度の時間を経て、旧友に再会した感覚すら覚えた。瞬間、脳裏を過った様々な影に、相好が崩れる。

 それが実は、不思議ではないことに気づいたのだ。

 柄に巻いた包帯は血に染まり、赤黒く変じていた。

 共に三十年を駆け抜けた(せんゆう)の記憶だった。いままで噛み締めてきた後悔と屈辱と覚悟と、振り返れば地平線まで伸びている自身の轍を証明していた。誰に観測されずともソルフォートのすべてを覚えている、最大の理解者。その事実に気づき、力が湧いてくる。

 これが手元にあるだけで、折れる気がしない。

 

「分不相応な願いに縋ってばかりだった。夢を追う、なんて聞こえがいい言葉だよ。自分が見えていない未熟者が好みそうな言葉だ。貴方には他に、幸福を甘受できる道があったはずだろう?」

 

 分不相応、大いに結構──後に相応になればいい。

 そもそも分相応とは誰が決めるのか。最終的には自分自身だ。生涯における己が成長曲線の収束を見届けるのは、自分ひとりしかいない。線が収束するまで身の丈というものは不確かなままだ。それが全貌を見せるのは、可能性を見限った瞬間である。大器晩成か凡人かを隔てる線は、結果論でのみ確定する。

 無論、ソルフォートは死という終結をもって線が確定した。結果論という実線で象られた彼の身の丈は、期待を遥かに下回るものだった。これには我ながら苦笑いと歯軋りを零すしかない。だが、なりたいようになれなくても、足掻き続けたことは誇らしい。

 好きなことに好きなだけ、身を賭せた人生だった。

 

「あ、あ……しあわせ、じゃ」

「……はあ?」

 

 思い至る。自分はなんて幸せな人生だっただろう。

 自分の抱いた夢に相応しい人間は、枚挙に暇がないほどいた。たとえば六翼、たとえば四大将、たとえばボガート・ラムホルト。彼らは、ソルフォートが手をどれだけ伸ばしても届かない星々だ。だが、夜空に向かって精一杯の背伸びをして、いつかあの星の輝きに触れると誓って、あの星のひとつにと決めた──。

 認めよう。自分には彼らほどの適性はなかった。

 だが、自分の居場所はここであると決めたのだ。

 

(ああ、適性はなくてもその道を志せる。幸せじゃ)

 

 ソルフォートの片頬がわずかに上がった。

 

「何を笑っている。狂い果てたかい」

「くる、う。呵々、狂う、か。儂の、何かが狂うておれば、斯くも……まっすぐは進め、まい」

「それが何より狂気の証となぜ気づかないっ。常人じゃ夢に向かって直線で進めない。貴方はおかしい。思惟が足りないんだよ。どう考えたって、この幻想世界で溺れたほうが賢明だっ! 先ほども言ったはず。これは、夢を諦める最後の好機なのだからっ!」

「そう、か」

 

 ──糞喰らえじゃ。

 ソルフォートは数十年ぶりの暴言を口にした。

 

(幼女転生なる、夢を諦めぬ好機(・・・・・・・)を手にしたのじゃ。むざむざその機会を捨てることはできない)

 

 ウェルストヴェイルは身体を震わせ、顔を伏せた。

 その面持ちを窺い知ることはできない。薄らと蒸気めいた蜃気楼が全身から立ち上る。業を煮やした様相は隠しておらず、空気を噛み千切るように口を開き始める。そこから繰り出される言葉たちには、怒りというには優しく、哀しみというには激しい情感がある。

 そんな矛盾を煮詰めた声が、怨ずるように響く。

 

「愚かだよ。頑固一徹の思想だけじゃない。想像力が足りないのかい……貴方がボクの手を拒むのは自由だよ。勝手にしたらいい。だけど、拒めば、幻想世界を脱するためにボクに立ち向かう必要がある。つまり、勝機のない戦いに身を投じようとしているんだよ」

「おろか、とは。否定でき、ん」

「その身体で何ができる。そんな死に体でさあ」

 

 ソルフォートは不格好ながら、剣を正眼に構える。

 精彩を欠いた構えは夕陽の赤に染まっていた。

 ひとつ結びの枯れた血染めの白髪。割れた額、潰れた鼻、無数の傷がついた頬、折れ曲がった左腕、纏わりつく鎧の残骸。墓穴から抜け出した死人と見紛わんばかりの、凄惨な様相を呈している。もちろん戦闘に臨む状態としては下の下。最悪の様態だった。

 対峙するは最強。見据えた先に輝いている黄金色。

 もしや心の奥底どこかでは、勝利不可能と判断を下していたのかもしれない。

 

(儂は、負けん)

 

 そう──勝機の薄い戦、生死が二つに一つの戦。

 思い出せば、そんなもの幾らでも越えてきた。

 今更、臆するものか。抱えた夢を捨てるものか。

 

「最後通告だ」

「聞こう」

「貴方が遠回りし続けた終着点は、墓場(ここ)だ」

「否。ここは、儂の始発点じゃ」

 

 ──ようやく、最初の頁に辿り着いたのじゃ。

 精一杯の息を吸って、自分の思いの限りを吐く。

 

「遠回りして、遠回りして、序章(ここ)に来たのじゃ」

 

 ソルフォートの道程は遠回りばかりだった。

 本人は効率を意識していたつもりだったが、反して空回ることはよくある話である。無知がゆえの遠回りで言えば、村の廃屋での鍛錬方法がその筆頭に挙げられるだろう。無闇に剣を振るうだけの修練では、あまりに効率が悪いと知るまで数年の歳月を必要とした。

 しかし、それも決して無意味ではなかった。

 愚直に剣を振り続けたおかげで筋力がついた。剣という武器そのものに愛着も沸いた。剣を振るうことが好きになった。要するに観点が違うだけだ。すべては糧に変えられる。遠回りであれど先に進んでいることに違いはなく、弛まぬ研鑽すべてに意味があったのなら──その夢は、十分に背負うべき重さを持つはず。

 生涯、己に問い続けた結論はすでに出ていた。

 いまはそれをウェルストヴェイルに聞かせるだけ。

 

「へえそう。からっぽのくせに大口叩くじゃないか」

「儂の、夢は……重い。負けるつもりは、ない」

「ふうん。じゃあ、貴方のそれに何が入ってるの?」

「儂の、この……大好きの、心が、じゃ」

 

 夢。人生の意味。譲れない最大目標。

 それを志したきっかけ。それを誰が望んだか。

 そして、それがどれだけ歪んだ成り立ちか。

 ソルフォートにとってはどれも重要ではなかった。

 必ずしも御大層なきっかけは要らない。必ずしも善人の理解者は要らない。必ずしも祝福に満ちた成り立ちは要らない。夢までの道を血と食んだ泥で舗装してもいい。見窄らしい身なりで英雄を名乗ってもいい。

 ──好きと言えるものは、すべて命に相応しい。

 そんな傲慢な物言いは、思想は、確かに命を懸けたのならば、赦されるだろうか。

 

「そう。そうかい。平行線か」

 

 そうして、ウェルストヴェイルは顔を上げる。

 怒気めいた感情は沈静化したようだ。どこまでも平坦な声色から想像した通り、冷酷なまでの無表情が貼りついていた。海色の双眸の表面は凪いでいる。

 だが、どうやら激情は消えたわけではないようだ。

 

「理解できないよ。貴方は、他人の理解を拒んでいるようにも思える。ボクには貴方が意固地になっているようにしか聞こえない。だから解決策はひとつだね」

「ああ。矛を、交えよう……ぞ」

「阿呆にもわかりやすい手段だ。見果てぬ夢に溺れた愚か者め。子供どころかまるで赤子だよ。夢を諦めるために他者の力を使うなんてね。とても見苦しいよ」

「儂は、うれしい、よ」

「……はあ?」

 

 ウェルストヴェイルは不愉快げに眉を顰める。

 

「初めて、じゃ。ここまで心遣いを頂いた、のは」

「先ほどから何を──何を、貴方は──」

「ゆえに、ぬしには……心からの、感謝を」

 

 ソルフォートは言葉を遮って、吐き出した。

 心底から湧き出る感情をそのまま、感謝として。

 彼女は、曲がりなりにも凡人の生涯を憂い、彼女が考える幸福な選択肢を提示してくれた。後戻りの効かない人生において、駆け出したあと帰る場所を見失った人間に、本来ならば叶うはずのない第二の道を用意してくれたのだ。貴方が駆け出したときの燃料が切れているのなら、生き方を変えることができると。ここで一度、立ち止まって生き方を見つめ直してみろと。

 そして、ソルフォートは初めて立ち止まった。

 そして、自分の好き(・・)が衰えていないことを知った。

 

(ならば、よい。骨が折れ、肉が爛れ、足を砕かれど、もう折れることはない。これ以降、膝は折らぬゆえに、此れより先に敗北はないのじゃ。ああ)

 

 もう、懊悩に暮れるためだけの年月は過ぎ去った。

 慚愧に悶えるだけの時間は終わった。過去からの誘惑を見届け、思い出という麻薬に浸るのはここまでとしよう。これより先は、未来に歩を進める。定めた最大目標に向かって、ただ駆けてゆくのみである。

 この、いまだ枯れぬ情熱を結果に結びつけるのだ。

 ソルフォートが真に報われるための、時間なのだ。

 幻想世界とウェルストヴェイルには、そのために必要な己の最大の武器について学び取った。手数の少ない彼の武器は、剣や眼、経験。そして何より、自らの不足を自覚した上で誇った、確固たる夢。それが夢を追う者にとって最強の武器なのだと身に染みた。

 だから、目前の幻影に手向ける言葉はひとつだけ。

 学びを得た相手に送る言葉は、決まっている。

 

「ありが、とう」

 

 ウェルストヴェイルは無言で応えた。

 表情を消し、肩を鳴らし、金の髪を風に泳がせる。

 もはや問答は無意味と悟ったようだ。総身から発される殺気が濾される。彼女周辺に凝固するそれは濃密さを増してゆく。遂には風すら怯えて凪ぎ、黄金の髪は垂れ下がり、張り詰めた空気が辺りに満ちる。

 そうして、腰の剣に片手を添える。風格は『人類最強』の姿形通り、背筋を凍りつかせるものだ。いままで徒手空拳で圧倒してきた彼女が刃を用いれば、ソルフォートの勝機など生まれ得ないはずだった。

 だが、知っている。あれは『人類最強』ではない。

 あの女に比べて、目前の存在は優しすぎる。

 

(是非は問わず、偽物に違いないのじゃ)

 

 思えば、彼女の言動には訝しい箇所があった。

 疑問点は多い。なぜ、彼女が最強の名乗りを上げる際に「貴方の知るこの世すべて。それらの上」と迂遠な表現を行なったのか。なぜ、母の似姿を取ったとき攻撃を加えてこなかったのか。なぜ、母の似姿による交渉決裂後に『人類最強』の姿と風景に戻したのか。

 なぜ、いま彼女は問答無用で襲ってこないのか。

 なぜ、ソルフォートの望む幻想として故郷を選び、彼が英雄(・・・・)になった幻想(・・・・・・)を見せなかっ(・・・・・・)たのか(・・・)

 

(推測が正しければ、儂に勝機はある)

 

 大事なことは、きっと臆せず両目を見開くこと。

 息を整え、膝を鳴らし、白の髪を中空に泳がせる。

 もはや問答は不要だ。総身から生気を振り絞る。

 そうして、剣同様に最大の武器(ゆめ)を構えて──。

 

 

「そこを退け、儂は、夢の先を見に行く──ッ!」

「見果てぬ夢に溺れろ──ッ!」

 

 

 ──込めた力を開放する。

 右脚で踏み込み、老いた肉体を一気に駆動させた。

 渾身の力はこのときのために。

 疾風のごとく、間合いを詰めた。

 

 英雄と打ち合うだけの強靭な肉体ではない。

 英雄と張り合える、そう自負する腕もない。

 だからこそ、通用する可能性があるのは一撃。

 二の太刀以降に機は訪れない。

 それを期待したが最後、首と胴が切り離される。

 

 老体に残った力を掻き集める。

 握り締めた剣にすべてを懸ける。

 死の概念のない幻想世界だ。全霊を注ぎ込む。

 生涯における血と汗の滲む鍛錬の成果を──。

 見せつけるのだ、この最強(まがいもの)に。

 

 否、ウェルストヴェイルに見せつけるのは──。

 決して目を逸らさぬと誓い直した、己の生き様(・・・)だ。

 

 燈色に染まる戦場で二つの影は交差──決着する。

 ひとつの影が地面に力なく沈み。

 残った片方は、つまらなそうに呟いた。

 

 

「本物とは……比べるべくもなし、じゃ」

 

 

 

 6

 

 

 

 ソルフォート・エヌマは前のめりに倒れ込む。

 身体中に掻き集めていた力がふっと霧散したのだ。

 元より急拵えの活力だった。一瞬でも保ったこと自体が奇跡的だったのだ。それでも倒れ伏すまいと、杖代わりに無銘の剣を突き立てた。縋りつくようにして体重を預ける。持ち直すこともできず、動けない。

 肉体的な疲労は上限擦れ擦れ、頂点に達していた。

 体内魔力量は零。誇張表現ではない。これがもし現実世界であれば、零になると同時に命を喪っていただろう。斯くも啖呵を切っておいて相打ちどころか、その寸前の加速中に自滅していては笑えない。これはあくまで、死の概念がない幻想世界ゆえの暴挙である。

 無論、死が存在していた場合、ソルフォートは幾千回それを体験することになっただろうが──。

 

(だが、あの一瞬だけ、夢見た英雄たちの前に出た)

 

 これにて物語は一区切り。凡人の集大成だった。

 魔剣『幾千夜幻想』の打破。そんな、如何なる古今の英雄譚でも描かれることのなかった偉業を遂げたのである。彼は齢六十五にして初めて、誰の足跡もない地に踏み入ったのだ。その事実が心を潤す。生涯誰かに先んじたことのない男が、ようやく前に出たのだ。

 胸に去来するのは、一種の満足感と高揚感。

 

(呵々……それこそ、現実感がない、のう)

 

 不思議と、肩透かしに似た感慨も湧いてしまう。

 成し遂げた事実に思考力が追いついていない。

 

(儂程度に敗れるようでは、あの『最強』の名乗りはやはり紛い物と言わざるを得んのう。この幻想は出来損ない。この針のひと刺しで、壊れるが道理、か)

 

 そうして、ソルフォートは己の推論を反芻する。

 ウェルストヴェイルの真の特質はきっと単純だ。

 対象者が想像する通りの力量を発揮すること。つまり、対象者が無意識下でも勝利の道筋が想像できなければ──彼女は最強である。だが、勝利の像が明確に浮かんだ上で対峙すれば、決して倒せない相手ではない。認識次第で、彼女自身の言に則れば「貴方の知るこの世すべて。それらの上」になるのが彼女だ。

 なぜ、彼女は母と『人類最強』の姿で現れたのか。

 それはおそらく、精神・武闘の両面においてソルフォートが最も隔絶を覚えた相手だからだろう。

 

(景観も姿も、思考を誘導し、想像を固定するため)

 

 そう、母は精神面において、とても敵わない相手。

 『人類最強』は武において、とても敵わない相手。

 これはソルフォートの意識に刷り込まれている。ウェルストヴェイルはその認識を利用したのだ。輪郭だけをなぞった模造品であれ、それを目にしたとき同等の風格と、背後に過去を想起させる光景が広がっていれば、無意識的にでも同一視する思いが芽生えてしまう。その最中、想像通り圧倒的な力を披露されれば、力量の多寡を吊り上げて見積もってしまう。

 それが勝機から遠ざかる行為とは思いもしない。

 

(慎重な人間であればこそ、この陥穽に陥るのじゃ)

 

 なぜ、母の似姿のとき攻撃を加えなかったのか。

 それは、ソルフォートには彼女が武に優れた認識がないからだ。なぜ、母の似姿による交渉決裂後に『人類最強』の姿と風景に戻したのか。それは、会話での懐柔を半ば諦めて戦闘体勢に移行したからだ。

 だが、そのときにはすでに認識を捉え直していた。

 ソルフォートは目前のウェルストヴェイルが二人の人物像から乖離しすぎた言動を取るあまり、姿を似せただけの別人にしか見えなくなっていた。なぜなら、彼らは彼女ほど優しいことはしない。ウェルストヴェイルは、ソルフォートという只人に情を向けすぎた結果、己の『最強』なる仮面を落としてしまったのだ。

 そうでもなければ、凡人の一閃で沈むはずない。

 

(……いまとなっては、推測の域を出ぬがな)

 

 そう締め括った途端、渇いた地面が大きく揺れた。

 空が割れる。夕陽色に黒々とした亀裂が入る。

 ウェルストヴェイルの幻想世界が崩壊していく。

 彩色された硝子板を小槌で叩き割ったような、不揃いの欠片が剥がれ落ちてくる。さながら、ひとり荒野に立つソルフォートを讃えるかのように降り注いでくる。咄嗟に想起したのは帰郷したときに浴びた白灰だった。だが、いまや老躯に吹くのは橙の紙吹雪──。

 夕暮れの幻想世界は徐々に黒に浸食されていく。

 

幻想の主(ウェルストヴェイル)を打倒すれば、やはりここは消えるのか)

 

 揺れは酷さを増す。だが身動ぎひとつしない。

 一秒前に抱いていた満足感がすっかり消えていた。

 ソルフォートはすでに現実世界で待ち受ける英雄のことに思考を移していた。

 

(儂の状況自体は何も好転しておらん)

 

 魔剣『幾千夜幻想』の術中を抜けたとて、どうか。

 優しい幻想世界とは真逆の世界が待っている。そこには死という概念が存在し、時間という無慈悲な摂理に従って動いている。紛い物ではない英雄はそんな現実世界で依然として待ち受けている。過酷、苛烈を極める戦場が待っている。きっと救いの手はない。

 ソルフォートはその手を振り払って、ここにいる。

 自分の居場所はもちろん、退路は断たれている。

 

「上等、じゃ」

 

 それは虚勢だったが、その笑みは無意識だった。

 ウェルストヴェイルは大事なことを思い出させた。

 それは時計の針が奪えなかったもの。夢を叶えたいのならば見失ってはならないこと。それを知らなければ、目的地に辿り着くのは文字通り夢物語だと承知していたつもりでいて、ここまで来てしまった。ただ、強くなることに夢中で、目標の高さに急かされ、上へ上へと焦りすぎて、つい見落としていたことを──。

 崩れゆく過去の色に満ちた世界で、目を閉じた。

 

「疾く消えよ」

 

 呟く。握り拳を胸に当て、仄かな熱を感じ取る。

 ずっと夢見る、いまだ存在し(・・・・・・)得ない英雄譚(・・・・・・)を思う。

 

「儂自身の英雄譚、その一頁目を刻みにゆくのじゃ」

 

 噛み締めるように言うと、そこで意識は暗転した。

 どこかで、本の頁が捲られるような音がした──。

 


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