修羅幼女の英雄譚   作:嵯峨崎 / 沙城流

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12 『ウェルストヴェイル』

「──これで、最後の(ページ)よ」

 

 誰かが優しく語りかけてくる。

 耳朶を打ったのは、なぜか懐かしい声だった。

 

「長い長い、物語の終わり。はたまた新しい物語の始まりでしょうか。エイブロード様が携えた剣の一振りは、ついには皇帝ロログリムの首まで届いたのです」

 

 ソルの意識は徐々に明瞭さを取り戻していく。

 気づけば彼女は、藁葺きの寝床で横になっていた。

 傍にある細い蠟燭の明かりで周囲を把握する。

 ここは、こじんまりとした小屋の一角。森閑とした薄闇が降りた空間には、壁の隙間から差す青褪めた光と、室内を舐め上げるように照らす蝋燭灯の他に光源はない。四隅には暗闇が固まってじっとしている。

 ソルは瞬きを繰り返して、当惑を露わにする。

 

(こ、こは……? ラムホルト殿は……?)

 

 あまりに突然のことで理解が追いつかない。

 あの獅子めいた巨漢は影も形も見当たらない。ここは四方を高壁に囲まれた城砦でもない。更には、常に身体を苛んでいた激痛、そして傷跡さえも夢幻だったかのように残っていない。左肩や脇腹付近にあった火傷、刻み込まれたはずの裂傷と出血、その一切が失せているのだ。意識が眩むような心地にすら陥った。

 この場所にしてもまるで脈絡がない。ソルは、砦壁に張り出した石造櫓から眺めた風景を覚えている。近辺に藁葺き屋根は見当たらなかった。それにこんな掘っ立て小屋など城砦の周辺にあれば、幼女が食事を求めて彷徨っていたときに見つけていたはずだ。

 様変わりした場面に目を白黒させるも、様変わりしたのは自分自身も(・・・・・)と知り、混乱を極めていく。

 

(身体が……これは、わしか?)

 

 闇に呑まれかけた鏡台を見て、愕然とする。

 自らの外見が、あの、蒼褪めた幼女ではなかった。

 

(むかしの、わしじゃ)

 

 歳は幾許かの頃のソルフォート・エヌマだった。

 性別は男性。栗色の髪は首筋に触れないほど短い。

 身を包んでいるのは、薄汚れた布地を切り貼りした簡素な服だ。華奢な手足はほんのりと小麦色に焼けていて、厚手の布を何枚も重ねたような煎餅布団に横になっている。間違いなく少年期の自分である。積み上げた年数に記憶が埋もれてしまっても、それだけは認識できた。さりとて不可解さは益々深まるばかりだ。

 ──ここはどこか、あの一瞬で何が起きたのか。

 決して冷静さは手放すことなく、状況把握に務めなくてはならない。

 

「こうして、長い物語はおしまい。英雄エイブロード様の旅は幕を下ろしました。厳しい戦いでした。傷ついた仲間はたくさんいました。倒れた仲間も数えきれないほどでした。けれども、彼は長年の戦いの末、ようやく悪の帝国を打ち倒したのです」

 

 ただ、大胆な行動を起こす気にはなれなかった。

 生来の慎重さに端を発した行動、ではない。意識は余白をつくり、夕陽めいた曖昧な暖色で灼かれる心地がしたからだった。ここは世界のどこよりも安全な場所だと、摩訶不思議な確信が身体に染み入ってくる。

 いまは、この優しい声色に耳を傾けねばならない。

 胸のうちから湧き上がる感情が、そう思わせた。

 

「彼が仲間たちとともに自国に帰ると、盛大な拍手と笑顔が出迎えます。『よくやってくれた!』『この国の誇りだ!』『英雄エイブロード様!』くちぐちに民衆は声を上げました。しかし、彼が帰ったことを誰よりも喜んだのは、宮廷で待つシサ姫でした。そう、彼女とは以前に結婚の契りを結んでいたのです。『もしも戦いが終われば、あなたと結ばれましょう』その言葉は、違えられることはなかったのです。のちの二人の結婚は、生まれ変わった大シャルティエ王国の門出にふさわしく、華々しいものになりました」

 

 優しい語調で、聞き覚えのある御伽噺が紡がれる。

 内容は誰もが知る英雄譚だ。真偽が判別のつかない童話とは違い、完全な創作ではない。五百年以上前の実話が基になっている。それにしては衒いのない筋立ての物語だ。小国の英雄エイブロードが仲間を集め、悪逆無道の帝国を下す。そして最後、大きくなった自国の姫と婚姻を結び、彼が王となって物語は終わる。

 いまや陳腐とさえ言える、喜劇的な幕切れだった。

 ソルとしては郷愁の情が洶湧してくるばかりだ。それこそ、子供の頃に聞いたこの御伽噺に魅せられ『剣使い』という存在に憧れたのだから。謂わば、ソルフォート・エヌマの原風景であり、始発点である。

 記憶の底ですっかり色褪せ、だが風化しない物語。

 それを紡いでいたのは、否応なく情を揺さぶる声。

 世の誰よりも慈愛に満ちた、微睡みを誘う声色。

 それは、消えようのない追慕の念を呼び起こす。

 

「これで、おしまい。……あら」

 

 ぱたん、と染みだらけの本が音を立てて閉じた。

 子どもの頃から好きな響き。古ぼけた紙片の束が鳴らす、温かみを持った音には相反する寂寥感と達成感が同居していて、徐々に入り混じっていく。

 その心地よさをソルに教えてくれたのは──。

 

「まだ眠ってなかったの? ソルフォート」

 

 いまもずっと、寄り添ってくれていた女性。

 いまもずっと、英雄譚を聞かせていた女性。

 見紛えなどしない。できるはずがない。

 たとえ数十年前、死に目に会えなかった人でも。

 

(母、さん……?)

 

 彼女はとても柔和に笑う。

 蝋燭の頼りない光に、ぼうと浮かび上がっている。

 まさしく母の面影そのものだ。不可解なことに、かつて故郷を後にしたときより若々しい顔つきをしていた。それでも一目見て理解できる。彼女は遠い過去に死別したはずのソルフォート・エヌマの母だった。

 深い濃茶の長髪は端々が解れて枝分かれし、黒々とした汚れがこびりついていた。それでも毎日欠かさずに櫛を通して手入れを怠っていないためか、どこか品のよい雰囲気が漂っている。本に乗せられた手は、豆が潰れていて、爪の端々には土が付着していた。

 ソルの思考は一瞬、空白に支配される。

 

(生きて、いたのか? まさか。そんなはずがない)

 

 苦々しい記憶が主張する。母とは死別したはずだ。

 都合のいい妄想に囚われることはない。消えない事実だ。ソルフォートがまだ見ぬ自らの才能と実力、努力量に自惚れた挙句、故郷の村を飛び出して、一介の傭兵に身をやつし、厳しい現実の冷風を浴びたあと、ようやく帰郷した折に出迎えたのは猛烈な紙吹雪。

 否、大量の燃え滓(・・・)が紙吹雪のように舞っていた。

 

(蹂躙された村。生き残りの話は聞いたことがないのじゃ。そもそも生きていたとして、記憶より姿が若返っておる説明がつかぬ。現実とは思えない。ならばこれは、ああそうじゃ、この家はもしや……)

 

 ソルはこの小屋の正体を連鎖的に思い出す。

 故郷の村にあった、ソルフォートの生家だ。

 帝国北西の端にある何の変哲もない村。一言で言えば田舎である。帝都からは遥か遠い、そこが彼の故郷だった。付近の都市に出るにしても峠を幾つか越えねばならない。旅商人も滅多に近寄らない辺鄙な土地だったためか、村民は帝国民である自覚すら薄かった。

 そんな村の隅に、みすぼらしいこの家があった。

 まともな家具は使い古しの机と椅子。そして父親が趣味で蒐集していたという本が数十冊ほど、棚にも置かれず塔を為している。それらは部屋の隅に寄せられており、最上部の本の表紙には埃が溜まっている。

 室内は伽藍としていて冬場には凍えてしまう。

 

(するとこれは、わしの記憶か?)

 

 噂に聞く走馬燈か。死の直前に見る幻覚か。

 覚えのある思考を辿っている。自らが死したのち幼女に転身した際と同じ軌跡を描いている。あのときは幸か不幸か現実だったが、今度はどうか。母の姿、在りし日の我が家、少年期のソルフォートの身体。これらすべてが夢幻であれば、一応説明がつくのだ。

 ならば目前で繰り広げられているのは過去か。数十年前の一夜の場面が展開されているのか。当時の記憶が再現されているにせよ、具体的な記憶は掘り返せない。ただ母による英雄譚の読み聞かせは、毎夜の楽しみだったことは覚えている。

 そんなときソルフォートの口が、勝手に動いた。

 

「ええー、もっとぉ……」

「もう。本当に好きねぇ、何回目よもう」

「ロマニゾフ閣下とか、イヴァ様とかのもぉ」

「はいはい……でも、今日はここまでよ」

 

 ええー、という非難の声が勝手に喉を震わせる。

 それが眠気によって語気の輪郭は()けていた。うつらうつらとしているらしい。ソルの認識が他人事であるのは、実感がないためだった。ソルとしての意識はあっても身体の行動権利は渡っていない。己の身体が自分という意識を閉じ込める檻、という感覚だった。

 慣れたことだ。似た感慨は幾度も受けてきた。

 自意識と現実の乖離が激しければ、誰もが思うものだ。鳥として産まれるはずが土竜(もぐら)として産まれてしまった。晴れた空を翔ける有翼動物を見てしまえば、きっと目が潰れてしまうから夢に見る。時として妬みを向けることもあるだろう。それを何度も繰り返しながら、翼がない身体で、それでも飛べる気でいるのは愚かなことだ。ソルフォート・エヌマの人生のことだ。

 だがその経験が活きて、いま冷静さを保てている。

 

(言うなれば、わしは昔日の自らに憑依したような状態に近いのう。だが……さて、どうしたものか)

 

 ソルの内心を他所に、過去の光景が流れていく。

 母はわさわさと頭を撫でてくる。御伽噺を切り上げられた我が子の不満顔を窘めるように、優しい手つきだった。指の腹が髪を割る。軽く頭皮をなぞる硬い感触に、少年の目は自然と細まった。

 そして母は手を止めて、蠟燭の火を扇ぎ消す。

 

「明日も道場があるんでしょう?」

「……あるけど」

「でしょう? 夜更かしなんかしたら明日に響くわ」

「そうだけどさ」

 

 むすりとした顔で、母と逆方向に寝返りを打った。

 そこで目前の記憶を大まかに判断できた。時期は村を飛び出す以前、おそらくソルフォートが剣術道場に入門して間もない頃の一場面なのだろう。

 

(この頃は、道場に通うことが苦痛だったのじゃ)

 

 高台から村を見下ろす、小さな剣術道場。

 そこで師範を名乗る男は変わり者だった。帝都で名のある剣士だったが、隠居して村に戻ってきたという話だった。半ば道楽で開いているため金もとらず、希望者ならば誰でも弟子にする方針をとっていた。

 道場は子どもたちで繁盛した。娯楽も少ない寒村では剣術修行すら貴重な遊びだった、というのは理由のひとつでしかない。真に子供心を捉えたのは『師範が帝都のほうに伝手を持っていること』だった。見込みのある弟子は、そこに推薦するというのだ。

 だから村の子どもはこぞって道場の門戸を叩いた。

 

(今日ほどではないが、英雄跋扈の黎明期。御伽噺や仰ぎ見るだけだった存在が、身近に感じられていたのじゃ。隣にいたはずの人間が憧れの席に就くことが有り得た。だから皆、いつかと夢を持っていたのう)

 

 各々が各々の夢を抱え込んで、剣を振るった。

 御伽噺に憧れた者。小さな村から這い上がろうという野心に溢れた者。繰り返される農作業に嫌気が差した者。純粋に剣術に興味を唆られた者……。

 ソルフォートも、そのうちの一人だった。

 

(いまだ見ぬ自分の才能を信じて、浮き立つ気持ちで弟子入り。ただ、甘い妄想はあっさり破られてしまったのじゃ。教授された技を習得するまで一番遅く、それも不格好な形でしか再現できない学習能力。負けて負けて負けて……負け続け、ようやく、一勝できる程度の実力。最初に現実を知った瞬間じゃった)

 

 ──どんくせえ、やめちまえよ、才能ねぇんだよ。

 同じ道場仲間の声が木霊する。白日の下に晒されたのは、矮小な自分の存在。虚飾も妄想も挟まない己の真の価値を、実力を、そこで見た。子どもたちは無力感に苛まれる彼を、遠巻きに嘲笑う。そのたびちっぽけな矜持が刃毀れして、足下が抜ける心地になる。

 だから、彼は道場は嫌いで行きたくなかったのだ。

 そのとき母はそっと、不貞腐れる彼の頬を撫ぜた。

 冷たくて固い手指の感触が伝う。そこには労わるような、温かく柔らかい感情が押し込められていた。母は我が子を宥めるとき、ただ優しく触れるのだった。

 いまは背を向けているからわからないが、母はきっと呆れたような表情のはずだ。月光が仄かに照らすだけの薄闇で、眩しそうに目を細めているはず。いつも彼女は、そうやって我が子の我儘を受け止めていた。

 わずかに時間をおいて、静かに手が離れる。

 それにふと、一抹の寂しさが過ってしまう。

 

「ソルフォート。あなたはきっと英雄になれるわ」

「……ほんと?」

「ええ、本当よ。お母さんはウソつきません」

「でもでも、みんな弱いって、どんくさいって、家の手伝いに戻れって。みんな言ってきてて……エイブロードさまみたいな、強くて、かっこいい人になんかなれっこないって……だってなにも、上手じゃなくて」

「大丈夫、お母さんが保証するわ。きっとあなたは特別よ。だってあの人の子だもの。それに、あなたが頑張ってること、私はよく知ってる」

 

 母の声色は二人で被る毛布のように温かった。 

 

「最初が順調じゃなくても焦らないで。最初から何でもできる人はいないし、最後まで何もできない人もいないもの。あなたは、人より成長するのが少し遅かっただけ。大事なことは目指し続けること。望み続けること。そうしていれば、いつか夢は叶うものなのよ」

「あきらめなかったら……って、こと?」

「そう。諦めなければ、夢は叶うの」

 

 まるで、傷口を瘡蓋で覆うようにも感じられた。

 

「もちろんね、早目に結果を出したいなら、人より何倍もうーんと頑張ればいいの。急いでも遅れても、諦めなければ、目の前に夢はあるのよ」

「……あんまり、わかんない。むずかしいよ」

「ふふ、ソルフォートにはまだ早いお話だったかもしれないわね……とにかく、あなたはあなたにできることから始めましょう。それを続けていれば、英雄様にも手が届くから……だから今日は、もう寝なさい」

「……うん、わかった……おやすみなさい」

「おやすみ、ソルフォート」

 

 眠る間際に、母の小声が脳裏を掠めていった。

 ソルも思い出す。次の日からソルフォートは自主鍛錬を始めるのだ。剣術道場で受ける手解き以外に剣の素振りをする。場所は決まって人気のない廃墟。なぜなら彼の実力と愚かさは村人たちに──道場へ通う子どもたちを通じて──知れ渡っていて、奇異の目や嘲笑の的にされるからだ。だからこそ、いつもひとりきりで、がむしゃらに練習量を重ねていった。

 それはいつか習慣になった。いずれ趣味に変わり、自らの心を静めるときは必ず剣の素振りをするようになった。思えば、母の言葉を真に受けて始めたものだったとは、我ながら単純な男だったと自嘲する。しかし、何かを始める動機などこの程度でいいとも思う。

 そうして、母子二人は仲よく寝息を立て出した。

 互いの規則的な呼吸だけが耳につく。

 小さな家を、虫の音も聞こえない静寂が支配する。

 

(結局、この過去再現はどこまで続くのか。よもや、このまま一日、二日……最期まで憑依したままではなからんか。ならば、何か対策を講じねばならん)

 

 己の人生を傍観し続けるのは、想像絶する苦行に他ならない。それが六十年ほどの尺なれば尚更だ。しかし、抵抗する術は現状見つかっていない。この状態で身体は動かせないかと、あくまで意識上で力んでみたり、意識上で縦横無尽に身じろぎをしてみたり、あらゆる手段を講じてみた。郷愁には浸り続けられない。

 それよりも漠然とした不安に突き動かされていた。

 

「……ねぇ、ソルフォート」

 

 背後からの囁きは、心地のいい母のものだった。

 すっかり眠ったものだと思っていたが、まだ起きていたらしい。

 

「ずっと、ずぅーっと、ここにいましょう?」

 

 それは、睡魔の手が首に添えられたような声音。

 途切れ途切れの言葉は絞り出され、微睡みが端々を溶かしている。まるでソルの意識的な身じろぎを制する時機だったのは偶然か否か。判断はできない。

 否、判断できなかったのは束の間のことだった。

 その、やけに場違いな内容を聞き取るまで──だ。

 

「ソルフォート、だってあなたは報われなかった。努力して、諦めずに手を伸ばして……でも、誰にだって届かないことはあるわ。人にはそれぞれ得意なこと、不得意なこと、どちらもあるのよ」

 

 目を剥く。その言葉はソルの生涯の総括だった。

 当然、過去にこんなことを耳にした覚えはない。

 

「それが望まないものだとしても、ね? 夢を追うなかで、蹴落されてそのことを知るの。『空回りで大切な一生を終えてしまうのは賢いことじゃない』って、みんな分かってるの。だから諦めたり、別の道を進んだりするのよ。役立つことをして、みんなに認められて。充実したいって気持ちはソルフォートにも分かるでしょう? けれどあなたは最期まで足掻いて、夢を叶えられなかった。一生を空回りしてしまったのよ」

 

 ぎゅうと、背後から手が回されて抱き締められる。

 顔は見えない。首筋に生暖かい息が当たる。

 

「でも、ずっとここにいれば何も問題はないわ。ここは『おしまい』の向こう側。ここはどこよりも優しい世界で、すべての願いが叶うところよ。だからもう夢のために空回りして、痛い目に遭うことも、傷つけ合うことも、殺し合うことないわ。誰かを蹴落とす必要もないの。村の人たちから何を言われても、気にすることなんてないわ。ここに、母さんがいるもの」

 

 まるで話し相手が、身体の持ち主(ソルフォート)ではないような。

 まるで話し相手が、自分(ソル)であるような物言いだ。

 

「ソルフォート。あなたの夢はここで叶えるのよ」

 

 抱き寄せられ、背後の母は肩に顎を埋めてくる。

 顔は、見えない。怖気が忍び寄ってくる。

 

「お外にいたって苦しいだけよ。殺されるだけ。わかっているわソルフォート。あなたのことをあなた以上によく知っているわ。私はあなたの母親だもの。お外は冷たい。お外は報われない。だから一緒にここで暮らしましょう? ここなら、母さんが守ってあげられる。ね? 二人きりで。ずっと、ずぅーっと……」

 

 だからこそ、指を咥えて見守るわけにもいかない。

 ソルは意識的に、肉体の口を抉じ開けて問うた。

 

「ぬしは、だれじゃ?」

 

 ──暗転。どこかで褪せた頁を捲る音がした。

 

 

 

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 気づけば、随分と見覚えのある光景に立っていた。

 日没前の夕陽色に染まった荒野。ここが戦場であることは見回すまでもなく知れることだ。視界の至る所に、屍の山が築かれ、血の大河が横たわっている。

 そこにソル──ソルフォートは立ち尽くしていた。

 身体は幼年期から、老齢のものに変貌していた。

 男は皺だらけの手で、古びた剣を握る。束ねた長い白髪は風に揺れる。褪せた色をした外套の下から、傷だらけの鎧が覗く。鮮血が飛び跳ねた身体は満身創痍だったが、いつでも飛び出せるように身構えている。

 忘れ得ない。この場面は見紛いようがない。

 ソルフォート・エヌマ。一度目の死の舞台だ。

 

「これが……かの魔剣の能力か。厄介この上ない」

 

 もはや動じず、男は噛み締めるように独りごちた。

 すでに身体の制御は手のなかにあった。指に力を込めれば柄の感触が返事を寄越し、胸一杯に空気を取り込めば辺りに漂う死臭が体内に充ち満ちた。

 噂に聞く走馬燈にしては真に迫りすぎている。

 単なる白昼夢にしては実感に富みすぎている。

 

(さながら真に己が過去に戻ったような感覚に陥ってしまったのじゃ。しかし、錯覚。時間が巻き戻ったのではない。記憶の再現ですらない。儂の母さんは、ああいうことを言う人ではなかったのじゃ)

 

 記憶に積もった埃を払い除け、古ぼけた頁を捲る。

 母はソルフォートの味方だった。幼年期に限って言えば、唯一と断言できる。身に余る大きな夢を語るような友はおらず、剣術や農作業以外の娯楽がない村において、彼の居場所は家と廃墟の二箇所だけだった。不得意かつ好きなもの、それ自体が直接的に夢に繋がっていた彼にとって、嘲笑の的にされない安寧の地と言えば、肉親の膝元か、無人空間だけだった。

 否、それも語弊がある形容と言えよう。より正鵠を得るならば、母はソルフォートの夢(・・・・・・・・)の味方だった。彼女は我が子には甘かったが、夢に背を向けること、諦めることを忌避するような素振りを見せていた。少なくとも、自立を阻止する言動は絶対にしない。

 我が子が剣術道場の門戸前で立ち止まっていれば、背をそっと押すような──我が子が無力感の吐き出し方がわからず蹲って泣き出せば、励まして奮い立たせるような──母は、そんな人だった。

 だが、彼のよく知るその態度が唐突に豹変した。

 きっと夢が醒める感覚とは、まさにあの瞬間の感慨のことを言うに違いない。

 

(この空間は異質極まりない。何らかの魔術が関与していることは疑いようがない。それと、意識を失う寸前に聞いた名とを関連づけるのは、何も突飛な発想ではないはずじゃ。巨剣が発していた光量は、刻まれた聖文字の複雑かつ長大な構成によるものじゃろう)

 

 あのとき聞いた名は『ウェルストヴェイル』。

 朦朧とする意識の波間では想起できなかった。

 それは、英雄譚好きを自負する身として恥じ入るべき不覚だったと悔んでしまうものだった。

 

(だが、よもや儂の人生で耳にすることになるとは)

 

 名を『幾千夜幻想(いくちよげんそう)』。またはウェルストヴェイル。

 あるいは幻想剣の名のほうが通りがいいだろうか。

 多くの御伽噺に登場する、有名な魔剣のひとつだ。

 特筆して登場例を挙げるとすれば、エイブロードの英雄譚、その第十二章だろう。副題は確か『ゆめのかたち』だったはずだ。作中、森のなかでエイブロードと対立した、帝国側の英雄が扱った魔剣である。

 魔剣とは聖文字が刻印された剣。刃という基本的な傷害能力以外に、刻み込まれた魔術を詠唱要らずで使用できる。幻想剣の場合、備わった魔術を起動する方法として、作中では『知性体を刃で斬りつけること』と推察が為されていた。その瞬間──剣に己が魔力を注ぎ込めば、凶悪無比な魔術が発現するのだと。

 曰く「人の精神を蝕む幻を見せる魔術」らしい。

 

(国際的には禁忌扱いじゃ。精神作用系の魔術は実現自体が難しい。使用・頒布が露見すれば、腕利きの集団に地の果てまで追いかけられ、地の底にある研究室に収容されると聞く。ウェルストヴェイルは、そんなものが刻印された代物じゃが……腑に落ちんのう)

 

 なぜ、いままで幻想剣だと気づかなかったのか。

 それは目前にあった実物と、英雄譚の記述に乖離があったからである。再びエイブロードの英雄譚を例に挙げれば、明確な形状の描写として「すらりとした流麗な湾曲を描いた刃」等の表現が並んでいた。当然、ボガートの振るっていた「山嶺を思わせる幅広の鋼鉄が剣先に向かって細まってゆき、最終的には鋭角で交点を結ぶような剣身」とはかけ離れた特徴である。

 もはやソルフォートの類推可能な域を越えていた。

 だが、あの剣がウェルストヴェイルと仮定すれば、この空間には説明がつく。走馬燈でも過去の世界でもない。限りなく幻覚に近いここは、謂わばいまも母の懐であり、得体の知れない怪物の(はらわた)のなかでもある。

 結論を導き出すと同時に、彼は息を整えた。

 

「おるのじゃろう。姿を見せい」

「久々だよ、貴方のように乱暴な手合いはね」

 

 ソルフォートの声には冷淡な反応が返ってきた。

 その瞬間、目前の空間の一点が歪み始める。そうして、荒涼たる景色が輪郭と色を攪拌させられ、歪曲した空間は領域を拡大し、最後にはまるで人影めいた形状がゆらゆらと朧に浮かび上がる光景となった。

 彼が息を呑んでいる間にも刻一刻と変化は続く。

 あれ(・・)を人型と見た場合の手先に、肌色が一点乗る。

 変色と言うには唐突すぎる。まるで見えない絵筆で色づけたようだった。この着色を皮切りに、黄金、白銀、若草色、乳白色と──豊かな色彩が人影に乗り、彩っていく。塗り絵の要領で人間(・・)を模していく。

 人影の完成形は、十代半ばほどの女だった。

 毅然と立つその姿は、ソルフォートが夢にまで見るほど、憧れ焦がれた存在だった。

 

「とても愚かな人間だ。大人しく過去に微睡んでいれば、痛い思いなんてしないで済んだのに。痛みの伴わない教育では身に染みない阿呆、ということかな」

 

 彼女の長い髪は、黄金色に夕陽を照り返して靡く。

 碧眼は、ソルフォートの眼光に動じた様子もない。

 嫌味なほどに整った顔立ちは、さながら高貴な令嬢のごとし。甚だ戦場の殺伐さに見合わないものだ。それに反して、発される殺気の濃密さは尋常ではない。

 彼女が纏う白銀の装備は、大陸最大の帝国における六人の大英雄──『六翼』の証である。

 姿かたちは寸分違わず、あの死地での出で立ちだ。

 

「儂の名はソル、ソルフォート・エヌマ。ぬしの名を伺っても構わんか。かの『人類最強』ではないのじゃろう。儂の見立てでは『幾千夜幻想』の……」

「皆まで言わないでいいよ。もう隠すつもりはない」

 

 彼女は、軽薄な調子で誰何の声を制した。

 

「そう、ボクはアイリーン・デルフォルではない。アイリーン・デルフォルの形を取った(・・・・・)、魔剣『幾千夜幻想』だ。まあ、堅苦しい号は好みではないから、ボクのことはウェルストヴェイルと呼んでくれよ」

 

 ──まるで、人間相手にそうするように、ね。

 そうウェルストヴェイルはあっさりと白状する。

 そこに悪びれた様子はない。戯けたように両手を緩く広げて、薄ら笑いすら浮かべていた。この仕草ひとつ取っても『人類最強』との差異を強く感じる。彼女と接した時間はわずかだったが、あの無表情からは人でありながら人と乖離したような印象を受けた。

 それとは真逆。人に非ざる身でありながら人を装っている。口辺からは本性が垣間見え、馴れ馴れしい振る舞いとは裏腹な、嘲笑めいた匂いを漂わせていた。

 ソルフォートは表情こそ変えず、だが確実に面喰らっていた。

 

「剣が……意思を持っておる、ということか」

「幼女になった男が何を驚いているんだい?」

「驚愕の尺度とは、高さだけではないゆえのう」

 

 幼女転生以上に衝撃度の高い出来事は少ない。

 これは角度の問題である。常識的な観点で物を言えば、剣は独立した精神は持たない。鋼鉄の塊は喋らないのだ。剣の道に生きる者は、時として己が武器を恋人や戦友のように扱うが、あくまで擬人法。直喩ではない。さしものソルフォートと言えども、如何な御伽噺でも描かれた覚えのないことには戸惑ってしまう。

 ただ、珍奇に思う一方、場違いにも心を躍らせる。

 

(それはそれは。滅多なものと相対していることになるのう。ウェルストヴェイル殿と相見えただけで感激ものじゃが、それが世にも奇妙な物品と知り得た。物語の裏側を垣間見て……興奮が収まらんのう)

 

 だが、手放しに喜べる場合でもない。

 胸中を締める戦意と恐怖はあざなえる縄のごとし。

 目前の『黄金』の姿を睨めつけ、摺足で前に出る。

 余計な思惟は必要ない。ここがウェルストヴェイルの創り出した空間で、ボガート・ラムホルトが所持する巨剣が『幾千夜幻想』で確定したのならば、眼前の大英雄紛いは明確な敵対者に違いないのだ。

 無意識のうちに力を込めていた手に、汗が滲む。

 相手の力量が、肌身を通じて予想できたからだ。

 

「自ら、正体を明かしてしまってよかったのかのう」

「ボクがウェルストヴェイルだってことをかい? 構わないさ。どうせ貴方も類推していただろう? それに、正体なんてボクにはないに等しいものだからね」

 

 中性的な言葉遣いのまま、笑みを深くする。

 得体が知れないと、そう独白を零したときだった。

 

「ボクは鏡のように、どんな姿も映すことができる」

 

 ──たとえば、それは貴方の過去のすべて。

 歌うように彼女が片手を胸に当てると、歪む(・・)

 アイリーンとしての姿形と色が中空で混じり合う。

 黄金、白銀、若草色、乳白色等々が水分を含んだ絵筆で掻き混ぜられ、人型を象る。それが新たに色を加えられウェルストヴェイルの姿が更新されていく。墨色の髪をお下げにした女、紅の前髪で顔を隠した男、焦茶の髪を二つ結びにした子供、ローブの頭巾を深く被った老婆、透明感のある瞳をした男……。

 そうして最終的にはアイリーンの形に戻ってくる。

 

(……言葉も出ん。真にこれは現実ではないのか)

 

 呆然と立ち尽くして、乾いた笑いを漏らしかける。

 彼の胸には、一様に言い表せない感情が去来した。

 畏怖、高揚感、郷愁──それらが斑に入り乱れる。

 

「すべて見覚えがあったはずだ。少なからず貴方と昵懇だった間柄、人生の分岐点となった人間たちだ。本来なら、先ほど貴方の母上を演じたときのように、彼らを使って平和的な結末を用意したかった、けれど」

「……あのとき、儂が足掻こうとしたから」

「そう、御名答。だから演じるのをやめたんだ」

 

 ──そういう迂遠な訴求法は無駄のようだからね。

 あっけからんと地金を晒していることを明かす。

 それと同時に実感する。この相対者の内心は読めない。軽々と現実の許容範囲を出る現象を起こしておいて、まるで頓着した様子がない。不気味の一言に尽きる。茨のように厭わしい空気が喉に引っかかる。

 間合いを静かに計りつつ、思わず皮肉を口にした。

 

「丁寧な種明かしは願ってもない。礼を言うのじゃ」

「ええ、どういたしまして。貴方には、ボクが如何に平和主義者で、中立的な発言をしているか知っていてもらいたいからね。そうだな、わからないことは尋ねてくれていい。ボクは余計な嘘はつかないよ」

「なれば問おう。ぬしの目的は?」

「貴方の母上が言っていたことと同じだよ。この夢に微睡んでいてほしいんだ。現実世界に戻って夢を追う必要はない。夢はここで好きに叶えればいいのさ」

「この世界を脱する方法は?」

「ボクを倒せばいい」

 

 ウェルストヴェイルは親指で自身の胸を指さした。

 ソルフォートは思わず鼻白む。予想できた答えとは言え、あまりに端的な回答だった。いままでの彼女の物言いから、迂遠な言い回しや勿体つけた過剰装飾を好みそうな性質が見て取れただけに、若干の肩透かしを喰らった。それゆえ虚偽ではないかとも勘繰りかけたが、現段階で正確な判断は下せるはずもない。

 彼には、ここを抜け出す方法なぞ知る由もない。

 ましてや頬を抓るなんて古典的手段でもあるまい。

 

(まあ、単純な理屈じゃ。幻想世界から出るには、世界を創造した当の本人を打ち破る。わかりやすい)

 

 ソルフォートは構えたまま、わずかに腰を落とす。

 脚は肩幅程度に開き、重心は腹底に宿し続ける。

 いまや彼我の距離はじりじりと詰まり、中距離戦を見据えた構えに移行したのだ。

 

(ウェルストヴェイルは棒立ち。演技がかった喋りに意識を割いておるのか、剣も腰に佩いたままじゃ。腕も大仰な身振りに使っておる。何をするにせよ、行動の起こり(・・・)は読みやすい)

 

 状況分析を行いつつ、円弧を描くように摺り足。

 すわ奇襲を受けたとしても躱す用意はできていた。

 構えは崩さず、平行移動に努める。獣めいた過度な前傾姿勢は取らない。あれは瞬発力のある幼躯ならいざ知らず、老躯には向かない構えなのだ。かくも無理が通るのは、否、通らせる必要があるのは、あくまで幼女の身体が模範通りの構えとは相性が悪いからだ。

 彼は本来、基礎から離れた戦闘方法に頼らない。

 基礎とは力である。理論的かつ実用的だからこそ、基礎は代を跨いで継承されるのだ。

 

「でも、貴方はここから出られないよ」

 

 彼女は漂う緊張感を風と受け流し、髪を撫でる。

 端的な呟きは、底心からの台詞と感じられた。

 

「ここは『おしまい』の向こう側だ。貴方の物語はすでに幕引きを迎えている。醒める現実は存在せず、足掻くだなんて手遅れもいいところなのさ。貴方にできることは、この後日談の世界で生きることだけだよ」

「それを拒めばどうか。ぬしを倒す、と言えば」

「きっと、痛い思いをすることになるね」

 

 その、綽然とした態度と物言いは余裕の表れか。

 ソルフォートには抽象的すぎて、ぴんと来ない。

 

(英雄譚の詩的表現は好ましいがのう。ともあれ、相手方の腹構えは知れた。彼女としては、儂がこの幻想世界を受け入れれば、それで良しと。峻拒すれば、力尽くで従わせると、そう言っておるのか)

 

 黄金の髪は、日没間近の陽光で艶を強めていた。

 光が強まれば闇もまた濃くなる。心臓が跳ねる。

 彼女の挑発的な論調に、闘争心が惹起させられた。

 

「まさか、貴方はボクを倒せる気でいるのかい?」

 

 女は目を瞬かせ、純朴な問いを投げかけてくる。

 まるで、いつまでも天翔ける夢を捨てられない土竜(もぐら)に向けるような、さめた温度があった。

 

「知っているだろう? ボクの存在が描かれてきた古今東西の英雄譚のことをさ。数百年、魔剣として愚なる主たちを渡り歩いてきたボクの軌跡。その如何なる物語でも、ボクの幻想世界は攻略されていない」

 

 ソルフォートは首肯を返す。その言は真実だ。

 『原初の英雄譚』エイブロード。

 『空位公爵』ディルスタット・ロマニゾフ。

 『魔術王』イヴァ・ノア・ノーデンターナ。

 『ガノール帝国始祖』アルタナッド・ガノーリド。

 『六翼』ネクレサ・オスト。

 語り草となった数々の英雄譚が脳裏を掠めた。

 それらの内容は頭に焼きついている。どれも作中に『幾千夜幻想』が登場する物語だった。そしてどの主人公もその能力発動を避けた。本編では、この魔剣の所持者だった義勇兵を、または魔剣収集家を、あるいは仇敵を、剣が抜かれる前に打倒する描写しかない。

 つまりは高みの存在、大英雄たちすら恐れた魔剣。

 その(はらわた)のなかに、ソルフォートはいるのだ。

 彼女の言を信じれば、ここは袋小路だとも言える。

 

「ぬしのことはもちろん知っておる。見目だけではないと肌身で感じておる。ぬしから発される圧力は、あの日、あのとき対峙した『人類最強』と遜色がない」

「遜色がない、ね」

 

 彼女は片目を瞑って、髪を掻き上げた。

 煌びやかな金糸が荒野の風に靡き、波紋を刻む。

 

「ボクが『人類最強』並。甘く見られたものだ」

 

 瞬間、目前に捉えていた女の姿が消失する。

 ソルフォートは瞠目して、ただ──風を感じた。

 半秒後に宙空(・・)で己の現状を知る。

 空を飛ぶ、吹き飛ばされる、己を知る。

 

「がぁッ──!?」

 

 不鮮明な異音が、身体中で一気に弾けた。

 痛みが芽吹いた瞬間、脳裏は一面漂白された。

 全身の神経が火花を散らす。五臓六腑が一斉に断末魔の叫びを上げる。幸いにも痛覚は半ば断絶。老躯は六丈を超す距離を飛び、無惨にも地面と衝突。余剰の衝撃を使い果たすように転げていく。己の肌も鎧も威勢も、回転する視界のなかで削り取られてゆく。

 最後、左手と片膝を地につく形だったのは偶然だ。

 身体が無意識的に覚えていた受け身を取っていた。

 だが、日頃の鍛錬の成果を実感する余裕もない。

 ソルフォートは混濁した意識内で藻搔く。神経からは激痛の電気信号が波濤のごとく脳内に流れ込み、海の様相を呈していた。膨大な情報量で頭蓋骨ごと決壊するような錯覚すら、真実味を帯びていた。

 息ができない。息の仕方を忘れてしまった。

 嘔吐感が喉元に迫る。額に脂汗が噴き出す。

 

「ぁ……」

 

 そして臓器まで響く痛みは、瞬間の生物ではない。

 体内に寄生して、思うまま体力と正気を削り取る。

 首も動かせずに堪える。瞳に映るのは己の懐だ。

 地についた手のひらと膝頭は摩擦熱が焼いていた。

 剥けた皮の表面からは血が出ていない。肌が高熱で溶けて傷口の出血を塞いでいるのだ。何より、一撃を喰らったと思わしき腹部の装甲が粉砕されている。

 そう、一撃。一撃で、勝敗の崖淵に追い込まれた。

 だが真に恐ろしい事実に、本能で気づいてしまう。

 ──絶妙に手加減され、狙い通り生かされたのだ。

 それが鉛となって全身を覆い、身体を鈍くする。

 

「ボクは、人類の最強なんて小さな存在じゃない」

 

 ソルフォートはゆるゆると前方に目を遣る。

 影が見える。人の脚だ。視線をよじ登らせる。

 その頂。呆れた表情で、黄金の英雄が笑っていた。

 白銀の鎧が勝ち誇るように、橙色を反射する。

 

「貴方の知るこの世すべて。それらの上──」

 

 ソルフォートの、傍らで(・・・)

 

「文字通り。想像通りの『最強』だよ」

 

 

 


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