修羅幼女の英雄譚   作:嵯峨崎 / 沙城流

11 / 33
11 『炎纏う幻想剣2』

 炎塊の掃射によって、さながら真昼のようだった。

 光、光、光──光量と熱量は漸次上昇していく。

 それでも、ソルは瞳の黄金色を瞼裏に仕舞わない。

 低空を滑るように駆けながら小指を柄尻に添えた。

 裏庭に太陽が落ちるのか。そう錯覚せざるを得ない二百にも及ぶ炎塊の一斉射出。逃げ場所を封じるほど弾幕が張られていた。退却するにも間に合わない。飛び退くことでは窮地を脱せない。最低限この庭から外に出なければ回避できない。炎熱地獄が迫りくる。

 視界は熱気で朦々と歪んで、光が輪郭を溶かす。

 いまにも身体の前面が焦げてしまうのではないか。

 そんな恐れを突き破り、前方に重心を傾ける。

 筋肉を躍動。風を掻き分け、白髪がしなる。

 

(退いてはならぬ、ならば前へ進むまでじゃ……!)

 

 臆すれば死。誤れば死。怠ければ死。

 ソルは黄金色の瞳を見開く。眼球が燃えるようだ。

 しかし、これ以外の打開策は捨て去ってしまった。

 炎塊を手にした剣で打ち払えるか? ──否。

 ソルの剣速程度では炎を吹き消すには至らない。

 オド消費の加速術で距離を詰める? ──否。

 距離が開きすぎている。彼我の距離は全力全霊で駆けてなお三十歩分。ここからオドを推進力に変換して飛び込んだとて、十歩分を埋めたあとから減速してしまうだろう。そこから重い身体で二十歩前後の距離は埋めがたい。体内残量も心許ない。放出量を見誤った場合、オドが尽きて命を落とす恐れもある。

 あの加速術は万能とは対極の位置にある技だ。

 テーリッヒ戦で顕著だったように、一定以上の相手には見切られてしまう。ボガートほどの武勇を持つ男ならば尚更だ。不可避の間合いで放たねばならない。

 近寄らずに一斉射出を回避するか? ──否。

 ボガートの体力との我慢比べでは分が悪すぎる。

 

「【星神の威光】【万象の属性から借り受ける】【其は──」」

 

 飛来する炎塊の奥の闇で、詠唱を繰り返して響く。

 それで第二射となる炎塊が次々と形成されていく。

 たとえ第一射を凌ぎ切れたとして、第二射、第三射と炎の雨に降られれば為す術なく焼死するだろう。オド消費で削がれた身体能力と体力が響く。現状の持久力は普段の半分以下、対する英雄の顔は涼やかだ。

 意地の張り合いには一角の自信はあるが、敗戦必至だろう。ゆえに勝利を真に見据えるとすれば、この手段が最良だ。迷いなく前進する幼女は結論づける。

 つまりは正面突破。真正面から大将首を獲るのだ。

 

(集中。眼じゃ。炎の大砲すべてを見切る)

 

 右脚をつけた瞬間、接近する数多の炎塊を見る。

 直撃する軌道のものだけでは足りない。それを見切ることは大前提。躱した先にも直撃軌道があるか想像して、あれば回避位置を吟味し直す必要がある。常に一歩先、二歩先を読み続けねばならない。凡人の身の上にとっては荷が重い所業だ。怖気が全身を撫でる。

 武者震いとは言い張れない、本能的な恐怖だ。

 白磁の肌から汗が滲む。心拍が耳奥で音を刻む。

 きっと、四十五年前ならば挫けていた高い壁だ。三十年前ならば天運に身を任せていただろう。二十年前ならば死を覚悟して壮絶な表情をしていたか。十年前ならば打開策の算出にかまけて無表情だったか。

 しかし、現在(いま)ならば不敵に笑ってみせられる。

 物事を観察して考察することは彼女の専売特許だ。

 ここで存分に発揮することで、往年の積み重ねが無価値でないことを証明する。

 

(死力を尽くす。何度も繰り返してきたことじゃ)

 

 ──思えば、死力を尽くさない戦場などなかった。

 見た。瞬時に数えた。直撃軌道の炎塊は二十五発。

 迫り来る脅威の数を認めた刹那、炎塊が殺到する。

 ソルは忙しなく目を動かして算出を続けた。それらが飛来する角度を寸分の狂いなく見極める。光量と熱量と風圧が強まれど視線は逸らさない。前髪が暴れることも厭わず、まず身体の重心を右側に寄せた。失速しない程度に身を屈め、十一発の軌道上から逃れる。

 幼女の身体に感謝する。この矮躯でなければ、きっと潜り抜けられなかった隙間だ。幼女の姿は万事不便極まりないと力説したいが、小回りが利くという利点は無視できない。無論、精密な身体制御が必要だが。

 幼い身体は不完全だ。乾涸びた喉に唾液を通す。

 

(幼児は大人よりも頭部の比率が大きい。ゆえに子どもはよく転ぶのじゃ。わしも重心を取る場合、細心の注意を払わねばならない。重心の制御を誤り、転げてしまったら目も当てられぬ)

 

 ソルのわずか左側に二発、頭上を八発が通過する。

 紙一重。至近を横切る炎火はそれだけで苦痛を与えてくる。面相の毛穴と、風圧に藻搔いて翻った髪の数本が焼け焦げた感覚があった。露出した肌は内部の水分がすべて奪われて、表面が網の目状に割れてしまう想像が頭を掠める。それほどに全身が悲鳴を上げる。

 さりとて間髪入れず、確と地面を踏み締める。

 視界内で扇状に飛来する炎塊を躱すため、飛ぶ。

 前方に跳躍。次々流星めいた炎塊が背後に流れる。

 疾走速度を上昇することで直撃軌道から外れた。

 

(残りの直撃軌道は四発……!)

 

 正面上空が一発。右寄りから一発。左寄りが二発。

 幼女の集中力は極点に達し、主観が緩やかに進む。

 低空の身体目掛け、四発の炎塊が降り注いでくる。

 幸か不幸か、その射出速度は不揃い。着弾予測を多元的に行わねばならない代わりに、各々の速度差によるわずかばかりの隙間が明確に存在する。そこに付け入る間隙はあるが、言葉以上に容易いことではない。

 ──着弾を避けるには加速? 否。間に合わない。

 数瞬の逡巡の間に、息も燃える至近に炎塊が接近。

 ここまで来ると脊髄反射の領域だ。左脚で右足首を浚う。風が背面を撫で、頭部に冷や汗が噴き出る。暴れる重心を必死に制御することで、頭部ではなく尻側に留める。そして、滑り込むように炎塊をくぐった。

 鼻先を掠める、轟然と燃え盛った死の砲撃。顎先から額まで、炎熱に顔を舐められる。中空に放り出された白髪の尾が、炎塊の風圧で踊るのを見──やがて背中に衝撃が走った。無防備な背から墜落したのだ。

 肺腑への圧迫感をぐっと堪え、右側に急ぎ転がる。

 

「はっ、はっ……!」

 

 その瞬間、一瞬前までいた位置が爆ぜた。

 音の暴力が襲う。炎塊が至近距離に着弾したのだ。

 もはや音は全身を打ち据えた。身体の中心がどろりとした水銀に満ちた心地になる。鼓膜が内側から弾け飛ぶかと錯覚するほどの圧倒的音圧。それを外側から抑えつけるように爆風が一気に膨らみ、荒ぶ。

 ソルは腕を庇にして辛うじて目を護る。爆裂の衝撃で派手に土塊が舞い、数多の石礫が肌を削る。流石に物理的に眼球を潰されては継戦不可能だ。ただ視界に砂煙が立ち込めていない。裏庭の地質的に砂の割合が少なく、舞い上がった砂も微量だったのだ。

 だが、周囲二百発の炎塊の墜落を受けるとどうか。

 連続的な爆音、爆風がその余波含め猛威を振るう。

 

「ぐ、おお」

 

 ソルは追われるように前転したが、しかし──。

 もろに爆風の影響を受け、矮躯は吹き飛ばされた。

 歯を軋ませながらも地上を瞳で捉える。空中で錐揉みし、横回転を帯びつつも左肘から着地。激痛。痛みの伝播は電流が流れる感覚に似ている。肩に嵌る腕が背中側に突き出た様を幻視するが、構わず衝撃を逸らすように受け身を取り、風勢に乗じて跳ね起きる。

 一連の動作は淀みなく流し、一息に駆け抜ける。

 

(……抜けたかっ!)

 

 この数秒は恐怖に心臓を鷲掴みされた心地だった。

 これにて第一波の炎塊の雨は終息した──が。

 再び、火炎の波は新たに押し寄せてきている。

 

(次じゃ。次を見極める)

 

 土埃を霧散させて再接近する炎の雨礫を、視る。

 その最中、右手に握る剣を無意識で握り直す。命からがら炎塊の雨から逃れることは、英雄攻略のとば口にすぎない。英雄との距離は着々と狭まっている。いよいよ首を獲る具体的な算段を立てねばなるまい。

 だが、現在は情報処理で精一杯。余裕は皆無だ。

 片足で着地しつつ、思考回路を全力稼働する。

 

(目算で、残り二度凌ぎ、距離を詰めれば……!)

 

 ソルの現在地に対する着弾予測は百八発(・・・)

 第二波は集中的に狙い定めたらしい。扇状に展開された炎塊が幼女一点を目掛け、雪崩を打つように迫り来ていた。この大量の砲弾が集約する正面に隙間はない。が、先ほどまでとは状況が違う。対処法はある。

 判断にかけた時間は瞬き程度。即座に踏み締める。

 英雄との距離が元より半ば以下に縮まった弊害だ。

 

「ふッ!」

 

 強烈に地面を蹴り、全力で左側へ横飛びする。

 戦場では瞬発力と即時判断が物を言う。着地のことを考慮しない、捨て身の回避行動が功を奏す。百八もの軌道からは外れる。なまじ一点集中の軌道は回避しやすい。狙いが広範に散らばらないがゆえ、回避後の位置関係算出は不要で、予測が複雑化せずに済む。

 百八以外の炎塊はまばら。かつ速度が鈍重だ。

 被弾の心配はあるまい、と多寡を括る。しかし。

 自らの手落ちを遅れて理解すれど、それを止める手立てがないことに打ちひしがれる。

 

(そうか。狙いは一点集中(・・・・)させること(・・・・・)自体(・・)にある)

 

 百八発もの明光が一ヶ所に集束。

 瞬間──爆裂。幼女は形振り構わず目を庇う。

 

「うぐッ……!」

 

 一切の音が失われる。一切の色が失われる。

 視界一杯は漂白。完全なる白に塗り替わる。

 聴覚には、草笛のような甲高い一音だけが響く。

 露出した肌身には例外なく熱線を浴びた。

 そんなすべてが失われた時間は一秒にも満たない。

 そこに一拍遅れて、苛烈極まる烈風が巻き起こる。

 烈々たる嵐は滞空中の幼女を手にかける。踏み留まることもできず暴威の煽りを存分に喰らう。身体は中空まで吹き上がり、頂点にまで達すれば気流は霧散した。重力に恭しい手つきで捕らえられてしまう。

 そうしてあとは、地上まで抱き寄せられるだけだ。

 幼女は背筋に走る悪寒に急き立てられる。漂白された視界でも、全身を包む墜落感は察知できた。咄嗟に両腕で頭部と胸部を護る。ごぎり、と内臓の定位置から外れた異音が響く。呼気が洩れる。全身の毛穴から汗が滲む。受けた衝撃は両腕に重々しく残っていた。

 それら苦痛を、鍛え上げた精神力で押し殺す。

 しかし内心、肝を冷やしたどころではない。

 どくどく。心臓の鼓動が頭の奥で響く感覚がある。

 

(やられた。いま、死んでいてもおかしくなかった)

 

 第二波は容易く回避できる認識は誤りだった。

 第一波は広範囲砲撃。定石通りに逃げ場を塞ぐ類の攻撃方法だった。それに比べて第二波は弾道が集中的であり、むしろ突破口は開きすぎているように思えてならなかった。ある種その感覚は正解だったが、間違いでもあった。二次被害の規模は想定を越えていた。

 荒々しい呼吸のまま、幾度も瞬きを繰り返す。

 すると霞みがかっていた視界に輪郭が戻ってくる。

 

「よ、し」

 

 ──もしも目が潰れていれば勝算は失せていた。

 ソルは萎え始めた脚を賦活し、蹶然と立ち上がる。

 そうして再び駆け出すも、いままで保てていた速度は無に帰している。

 

(まずい。まずいのう。戦況がジリ貧傾向にあるのじゃ。ここまでの疲労感の蓄積を含め、全身が重い。吹き飛ばされて直線距離も開いてしまった。急ぎ巻き返さねば、取り返しのつかぬ悪循環に嵌る)

 

 もはや速度を緩めることは許されない。

 喘ぐ呼吸を噛み殺す。思考内に夾雑物は挟めない。

 奥歯を噛み合わせながら、死線を見極め続ける。

 第三波は、第一波同様に狙いは疎らなものだった。

 微に入り細を穿つ。ソルは求められる身のこなしを常に心がけた。躱す、躱す、さりとて限界は目前まで迫る。負傷と疲労感、五感の不調が確実に身体を軋ませていた。酷使される矮躯には堪える弾幕である。

 息を切らせてもなお、炎の雨からは脱せていない。

 ゆえに、ひとり兜の緒を締め直す心持ちで──。

 だがその転瞬、ソルの呼吸が止まる。

 炎の雨礫を突き切るようにして光線が迸った。

 幼女目掛けて、灼熱の一槍が真正面から襲い来る。

 

「……ッ!?」

 

 想像の埒外からの一撃。

 度肝を抜かれて、あわや思考が停止しかかる。

 主観が緩やかに進む。息もかかる至近距離に穂先がある。この灼熱の槍は、炎を纏った槍ではない。まるで炎で創られた槍(・・・・・・・)だ。表面が煌々と橙色の光を放っている。射出速度が炎塊のそれとは段違いという理由は、空気抵抗を受けづらい形状ゆえだろうか。 

 ──この場面でまた不覚をとるとは。

 してやられた、と悔悟が込み上がる。難所に出会した高揚とは別のものだ。自らの不足を呪う。処理限界を見切られたのだ。きっとボガートは第三波で詠唱を一旦打ち切り、効果的な機会を見計らって投擲したのである。炎塊の突破に遮二無二なあまり、彼の行動に気を払えていなかった。これは明確な手落ちだ。

 気を払えていれど、対応はできなかったろうが。

 

(もはや間に合わぬ。じゃが)

 

 抗うと腹を決めて、限界まで身体を捻じる。

 槍の一撃は点の攻撃。躱すのに大仰な動きは不要。

 されど、狙い穿たれた槍は回避不能の間合い。

 

「……が、ぁっ!」

 左肩を槍に穿たれた途端、左肩の感覚が消失(・・)

 超高温の穂先は鎧を融ける先に砕かれる。生まれた亀裂に染み込む槍。肉を焼く快音が鳴る。それが己の身体からと悟った瞬間、ぶわりと肌が泡立つ感覚があった。紅い灼熱の色には見目通りの熱を秘めていた。

 焼け爛れ、溶ける傷口。槍傷の当箇所は無痛だ。

 しかし、患部周囲の痛覚は生きている。水面の湖面に石を投げ込んだような──否、そんな生易しい痛みの伝播ではない。痛みの津波が体内で猛り狂う。

 視界の半分が点滅。額に珠のような脂汗が浮く。

 思考回路は焼き切れ、嗚咽のように呼吸が乱れる。

 だが。それでも眼窩一杯に黄金の両眼を見開く。

 ──まだ終われない。まだ諦められない。

 

「があああ──ッ!」

 

 咆哮を上げる。失神寸前の痛みを紛らそうとする。

 だが、気休め程度の効力もない。痛覚を麻痺できるまでに至らない。喉奥に灼熱が広がる。鉄錆じみた味が沁みる。裂けるような絶叫で血管が切れたのだ。それでも、この咆哮は気勢を上げることに役立った。

 いまや槍はすでに空気に融けて消えた。実体化するだけの魔力が尽きたのだろう。ひりついた痛みのみが残留する。外気が毒を帯びたように触れているだけで疼く。負傷のすべてが鉄枷のように身体を縛する。

 ──意地の張り合いならば一角の自信はある。

 笑う。自覚はなかったが、口角が上がっていた。

 

(無理な状況をこそ歓迎しよう。それは、わしの求めるものじゃ。わしの壁じゃ。この難局すらも過程に変えられれば、また夢に向かって一歩進めた証じゃ!)

 

 ここは、見定めた終着点からは遥かに遠い。

 自らの追う夢を星のように仰ぐことしかできない。

 彼らと並び立つなど、凡人の寝言にすぎないのか。

 それこそ、夜の夢以外で到達できない場所なのか。

 

(否ッ、否じゃ。叶えてみせる。せっかくこの身に宿った二度目の生。夢に指先すらも届かぬまま、ここで仕舞いになどさせてなるものかッ!)

 

 そうして白き修羅は潜り抜けた。避け果せたのだ。

 ボガートの懐まで目算、残り八歩に到達する。

 頼りない矮躯は、細い足で地面を強く踏み締める。

 ソルは湧き上がる達成感を無視。左肩から全身に伝わる虚脱感も無視。全身を苛む痛覚の阿鼻叫喚、骨の呻吟も無視。歯が削れるほどに噛んで、無視する。

 間合いは十分だ。魔術を編まれる心配もない。

 ここならば刃が届く。精一杯の力を右手に込める。

 自らの信じる剣の存在を確かにする。

 

(注意を逸らすものはなし。細工を施す余裕もなし。加速術で真正面から不意打つ……!)

 

 必死の形相に笑みを滲ませて、懐まで迫る。

 身体に残る、なけなしのオドを放出しようと──。

 

「刃は届かねェよ。手前ェはココが限界だ」

 

 無慈悲な言葉が、冷淡な調子で振り下ろされた。

 

 

 

 ※※※※※※※※※※

 

 

 

 ──根性だけは驚嘆に値する。

 それが、ボガートの思考に迸った感想だった。

 あの幼女は度重なる炎熱地獄の間隙を潜り抜けた。

 短く鼻を鳴らす。彼にとっては賞賛の拍手のつもりだった。幼い身ながら道中を最小限の負傷で済ませ、至近距離まで辿り着いた。獣めいた獰猛な瞳と姿勢に反して、冷静な判断力と度胸を持ち合わせている。そうでなければ、騎士たらんとあり続けたテーリッヒ・ガルディを討ち果たすことはできなかったろうが。

 ボガートは迸った思考を舌打ちで消し飛ばす。

 

(いけねェな。あァ、いけねェなコレは)

 

 あの獰猛な幼女は失念していたのだ。

 それこそ子どもでも知れることを。もっとも、炎塊の雨霰の突破で手一杯だったのだろう。ただ対峙者の身体的特徴に眼目を置かないとは、片手どころか両手落ちである。ボガートの最も得意とする間合いは近距離戦。互いに手が届く範囲内では王国無類だった。

 巨躯。巨剣。彼が肉弾戦特化型だとは、万人が見たとして万人が頷きを返すだろう。ならば幼女の目は余程の節穴か。あるいは絶望に打ちひしがれた挙句、現実から目を逸らしたのか。人並みの同情はかけられよう。全身全霊を振り絞って炎の死線を潜り抜けたところで、この筋骨山脈と正対せねばならないのだ。

 ──果てのない道行きは人の心を折るに余りある。

 男は、手にしている剣『幾千夜幻想』の柄を回して、そのときひとつ思い直した。

 

(違ェな。俺を欺く腹積りでいやがる、この餓鬼は)

 

 ふと閃いたその直感は悪寒にも似ていた。

 少なくとも明確な根拠に基づいた予感ではない。

 ボガートは幼女の頭を掌底で沈める予定だったが、咄嗟に取りやめる。よたよたと覚束ない足取りで接近する様は、謂わば擬似餌だ。釣りで言う浮き。息を殺し、手ぐすね引いて、獲物がかかるのを待っている。

 ──目障りな黄金色の瞳。その奥が煌々と光る。

 だから彼は、あえてその誘いに乗ることにした。

 

「来な」

 

 短く言い放つ直前、すでに幼女は動いていた。

 長髪の亡者が加速する。方向は正面ではなく右方寄り。さしずめ地に馳せる飛燕のように滑り、急角度で中空に上昇する。そして転瞬停止したかと思えば左中空から背面低空、そこから右後方、右前方と直線的に移動しながら剣閃が見舞ってくる。嵐のように縦横無尽に至近距離を巡る、剣閃速攻の芸術的四斬撃。

 どれも鎧の関節部を正確無比に斬りつけていた。

 しかし、それでも巨躯に傷ひとつ付けられない。

 英雄は幼女の疾駆を目で追うのを諦めて、無造作に右手を突き出した。

 

「早ェが、馬鹿なげぇ髪が仇だったなァ」

「っ、っ」

「ココは戦場だぜ? 餓鬼ァ頭丸めて来やがれ」

 

 右手で掴んだのは、ソルの──その、白髪。

 間髪入れず腕を振り下ろして引っ張る。手にはぴんと張り詰めた髪の感触と、幾本か引き千切れる感覚が残る。矮躯が宙を舞って地面に叩きつけられる。齢幾許かの子どもに振り回される玩具のようだった。

 体重を乗せた、情け容赦ない一撃は頭蓋を割る。

 額と地とで鳴ったとは思えない重音が、木霊した。

 

「ぁっ……が……!」

「命がかかってることを知らねェ。早熟な才能ってやつァいけすかねェなァ。身の程を弁えねェ」

 

 ボガートは、絞り出されるような呻きを踏み躙る。

 伏した頭を右手で掴み直し、頭蓋骨を鳴らす。

 

(まァ結局この餓鬼も、鎧袖一触の雑魚でしかねェ)

 

 湧いたのは憎悪にあらず。ただ、虚無感だった。

 たとえば、自らの運命を翻弄する黒幕の存在に気づいたとして。たとえば、数十年来の憎き相手がいたとして。たとえば、幾ら口説いても落とせなかった想い人がいたとして──その正体が期待を越えなかったとき、失望を抱いてしまうのは仕方がないことだ。

 人生は劇的ではない。彼の知る限り、現実は演劇の張り子ばかりだった。人生を歩む本人の自己愛めいた誇大妄想が、張り子を大袈裟に見せているだけのことだ。演出がかった視野を脱したあと目にした現実は、朝靄に薄らぐ月のように、どうしても色褪せて映る。

 彼は醒めた表情で、地に広がる白髪を見下ろす。

 確かに才能はある。見目と実力の乖離は甚だしい。

 しかし、あの悪魔じみた英雄(・・・・・・・)の足元にも及ばない。

 視界に黄金の光を幻視して、思わず顔を顰める。

 

(俺が……あのとき、我儘さえ言わなければ。こんな餓鬼に後れを取るなんてこたならなかったのか。あの人が有終の美すらも飾れなかったのは……俺の)

 

 舌打ちする。期待した虚像分、影は丈を伸ばす。

 不純にすぎる思考を断ちきり、右手に力を込める。

 ここまで、騎士を討った下手人の足取りを追ったことはすべて無駄足だった。そう結論づけて、手早く幼女の頭蓋骨を握り潰そうとする。感傷的な気分に浸るような時間はない。まだ陥落していない魔術房を回って、そこで戦う仲間たちに加勢しなければならない。

 彼が思惟の焦点を逸らした瞬間、剣閃が走る。

 

「とォ、危ねェ」

 

 銀閃が、左足首を刈り取るように伸びてきた。

 ボガートが浮かせた右脚と、地面のわずかな間隙に滑り込むように刃が奔る。そして重心を住まわせた大柱たる左脚を倒壊させるべく、根元を抉り込む。彼が前傾姿勢だったために腱が張った踵方向だ。足を浚うような一閃が、またしても関節部を穿つ。

 だが無意味な足掻きだ。彼女が幾ら斬り込んだとしても、傷ひとつ付かないことからも明らかである。ボガートの纏う鋼鉄鎧は強靭無比。幼い力、それも片手による剣撃には躱す必要性すら感じない。

 だから彼は、転瞬の轟音に理解が及ばなかった。

 

「は、あァ?」

 

 視界が上向く。気づけば夜天が広がっていた。

 体勢は前傾から後傾へ。まるで片足を浚われて倒れ込むようだった。それが事実、幼女の一撃で足を掬われたと知るまで半秒はかかってしまった。驚愕から右手をわずかに開いた。それが狙いだったのだろう。

 幼女は機を逃さず、俯せの状態から飛び退る。

 大男は右手を背面の地面に叩きつけ、後方転回。

 中空を巨影が舞い、二人は対峙する形で着地する。

 

「手前ェ……!」

「おぬしの、癖は」

 

 荒々しい呼吸の奔流に飲まれて、声が聞こえる。

 

「思考中、右踵を浮かして叩くこと」

 

 ──まるで獣のようだ。

 ボガートは対峙する幼女にそんな感想を持った。

 獰猛な呼吸。生気に満ちた黄金色の瞳。虎視眈々とこちらの動向を窺い、無防備な姿を見つけたが最後、喉笛を噛み千切るつもりでいるのだ。

 右頬には打撲痕。雪白の髪や陶器のような肌は、出血と煤、砂埃に塗れている。掠り傷は手足や軽装鎧に無数に刻まれ、左肩の火傷は無残である。窮地に追い込まれてもなお諦めていないその姿は、故郷の山奥で目撃した野生動物そのもの。潔く自決する素振りはなく、いまだに闘争本能を剥き出しにしている。

 幼女はぽつりと零す。渇いて、(ひしゃ)げた声音だった。

 

「……ここは、戦場じゃぞ」

「手前ェ」

「思考が散漫じゃな。頭を切り離して来るがよい」

「意趣返しってワケかァ餓鬼ィ」

 

 足元を見遣れば、踵の装甲が破損していた。

 先ほどの斬撃によるものだ。素足が覗いている。

 

「いまの一撃は何だァ? 随分と違ェじゃねェの」

「能ある鷹は……爪を隠すと、言うじゃろう」

「へェ。アレが本領だとしたらァ、嬉しいねェ」

「殊勝な発言じゃ。こちらも……嬉しい、のう」

「意気投合ってヤツかァ? 奇妙なコトもあるモンだなァ。俺はさァ、もしかしたら手前ェは、期待の何分の一かくれェ、応えてくれンじゃねェかってなァ」

 

 ──俺も少し本領が出せるって、なァ。

 ボガートは鎧下にある全身の筋肉を隆起させる。

 はち切れんばかりに鎧が膨張させ、前傾姿勢。

 そして一息に、幼女の元に踏み込む。

 

「一瞬でくたばらないでくれよォ」

 

 その渇いた響きは、発破音にも似ていた。

 真実それは空気が弾けた音。無数の筋肉繊維により編まれた伸縮性は、巨躯を疾風の如く飛行させる。そうして右脚で痛烈な回し蹴りを見舞った。

 ばぎり。太い骨を粉砕するような音がした。

 

「ごが、ぁ」

 

 幼女の脊髄反射すら置き去りにする速度だ。

 彼女が躱す暇は存在せず、咄嗟に剣を盾にした。だが、貧相な身体で受け止められはしない。轟音とともに派手に吹き飛ぶ。力なく宙を舞い、十丈先の地面へ落ちた。体勢の立て直しは遅く、全身を震わせて、のろりのろりと立ち上がろうとしている。蓄積した負荷が臨界点にまで達しているのだろう。膝は折ったままで、こちらを睨めつけてくるに留まっている。

 ──おォ、まだまだ生きてやがる。

 

「さっきの動きはもう無理みてェだなァ」

「ごほ、がはっ……ぁ、はぁ」

「口も利けねぇか。まァ温存しすぎて腐ったのか」

 

 炎属性の魔術で追撃はしない。

 体力消耗が深刻なのもある。ボガートは元より魔術師ではない。体内で魔力を変換する効率は良いとは言えず、専門の魔術師と比べるまでもない。これ以上は無用に削るべきではない。以降の魔術房強襲のために余力は蓄えておきたいのだ。彼の配下たちや残りの強襲部隊の面子では、バラボア砦攻略に不安が残る。

 そして何より、この幼女への対応が決まった。

 呻く彼女を見下ろして、整えられた髭を触る。

 

「合格だァ、餓鬼ィ。手前ェは沈めてやる」

 

 また刹那に距離を詰め、後頭部を叩き落とす。

 顔面から突っ伏した先はボガートの右脚。

 

「ぁ、が」

「その前に痛めつけてから、だがなァ」

 

 天高く蹴飛ばす。幼い身体が宙を舞い──。

 

「圧倒的な差ってヤツを知りやがれ」

 

 その上空に現れた巨躯が、右肘で腹部を突く。

 矮躯は急転直下。地面に勢いよく叩きつけられる。

 ぐじゃり。肉が潰れるような音が飛び散った。

 着地したボガートは、地に沈んだ幼女を蹴飛ばす。

 土を転がる身体。もはや抵抗は弱々しかった。

 瞳はかろうじて開いているものの、瞼が小刻みに震えている。くすんだような黄金の瞳は何を見ているのか。身体も傷だらけ。美しかったであろう髪は砂と煤が絡んでいた。まるで路地裏に打ち捨てられた人形のような有様だ。哀れとさえ思っても不思議ではない。

 だが一目見て、脳裏に浮かんだ言葉は──。

 

(相変わらず気に入らねェ目だ。心が折れてねェ)

 

 その証拠に、彼女の双眸はまだ黄金に輝いている。

 その証拠に、彼女の右手はまだ剣を握っている。

 大男は片手で蓄えた髭を弄りつつ、眉根を寄せた。

 

(だから、完膚なきまでに叩きのめす。死の淵に落ちても、王国の名を忘れねェように。王国の騎士の名を、忘れねェように。あァ、あのときできなかったコトを。俺がやるべきだったコトをやり直す。……俺の未練を、コイツ(・・・)で断ち切らせてもらォう)

 

 口端を歪めて、元の位置に突き立てていた魔剣を。

 幻想剣『幾千夜幻想』を手にとった──。

 

「さァ、一生醒めねェ夢に溺れなァ……『黄金』」

 

 

 

 ※※※※※※※※※※

 

 

 

(身体が、動かぬ)

 

 ソルの霞んだ視界は何も捉えられない。

 呼吸するたび焦点がズレる。傍に立つボガートの脚すらも不確かに映る。一戦闘の間に目を酷使しすぎた影響だろうか。 炎の雨を掻い潜る時間が数十秒だったにしても、過去最高の処理を行った。身体に無理が出てこないはずがない。用意できる最善よりも良い経過を辿った──結果が伴わずとも、ツケは回ってくる。

 物理的な負荷も大きい。目を開くにも体力が要る。

 

(最後の好機と思い、加速術を調節しつつ行使していたが……どれも決定打になり得なかったのじゃ。左踵に突破口は拓けたが、残量も、体力も、厳しいのう)

 

 ゆらりと、ボガートが遂に大剣を手にしていた。

 瞬時に剣身は炎を纏う。散華の花びらを連想させる跳ね火が、ぼやけた宵闇に舞う。そのおかげか自らの現在地が判明する。バラボア砦の壁際。ボガートが炎雨の詠唱を唱えた位置、その正反対だった。

 炎塊の爆撃で穴だらけの地面を経て、ここまで蹴り転がされていたらしい。茫漠とした思考が他人事のような所感を齎した。それは自らの負傷に対しても同じことが言えた。広がった傷口や数多の打撲の痛みも、槍の創傷も、痛覚が飽和して、鈍っていた。

 ざらざらとした地面が柔肌を刺す。

 

「ま、だ」

 

 呟く。綻びが入った硝子細工のような声だ。

 唇と喉をわずかに震わせるだけでも困難を極める。

 だが自発的に行動することで、辛うじて肉体と精神を繋ぐ。そうでもしなければ、きっと薄弱な意識を手放してしまう。意識が揺らいで、ふやけて、湖面に落ちた枯れ葉のように自然に千切れていくようだ。

 それでも、まだ一縷の希望を握り締めて離さない。

 勝機はある。体内のオド残量は三割程度だが、まだ加速術を放てることに変わりはない。それも有効打になり得ることは、左踵の破損に裏づけられている。ゆえに、次の機会を狙っているが、成果は芳しくない。

 ボガートほどの武を持つ男は、そう容易くない。

 目に入らずとも肌身に感じる。濃密なまでの殺気と念は、さながら研磨された刃物のようだ。常にこちらの一挙手一投足を警戒しているのは明白だった。

 詰み。その事実が目前に厳然と突きつけられる。

 勝敗を諦めるには至らないが、暗雲が立ち込めた。

 それでも必死に打開の糸口を探す。探す。

 ──だが、一向に見つかりはしない。

 

「最後に聞くがァ」

 

 ぽつりと、直上から声が降ってくる。

 

「何で手前ェはそこまですンだァ?」

「な、ぜ……?」

「手前ェみてェな餓鬼は帝国に義理なんざ感じてねェだろ。そこまで身を削ってまでヤる理由とか、特別に何かあンのかと思っただけだァ」

 

 ボガートは唐突に、素朴な疑問を寄越してきた。

 音量は控えめだったが芯の通った声色だった。

 ソルの脳内には、黄金の大英雄の声が木霊する。

 ──どうして貴方は戦に固執する?

 ──その執念の核は何だ。

 

(戦う理由。この戦場に、何を背負って来たか、か)

 

 各々の背負ったモノが勝敗を分けることはある。

 正確に言えば、背負う何かが重いほど勝利への執念が増す。それは身近な誰かの想い、周囲の期待、国の未来。種類は様々。いずれも使命感に似た強固な想いで、いずれも勝利を手繰り寄せる要素になる。それは移り変わりやすい人間の心だけに、遂行の可否を委ねないからだ。一介の傭兵として幾多の戦場を駆け抜けたソルフォートは、誰よりそのことを承知している。

 戦場では執念が薄れた者から死に至る。

 

(諦められない精神状態に置くことは、そのまま生存率と勝率に直結するのじゃ)

 

 ならばと、立ち返った問いが目前に現れる。

 ソル。ソルフォート・エヌマ。

 ならば、背負うモノが自分にあっただろうか。

 

(ある。それこそ、昔から持っておるものが……)

 

 即答できる問いだ。黄金の英雄に即答した問いだ。

 英雄になるという夢。ずっと小さな頃から追ってきた夢を背負い続けているだけだ。六十数年経ち、さらに生まれ変わってでさえも──。

 それでも夢を諦めかけた時期は確かに存在した。

 青年期に英雄の暴虐を目の当たりにしたとき、挫折しかけた。人伝てに聞く限り、大方の夢追い人はそこで別の岐路に足を向けるらしい。バラボア砦で出会ったバルドーも言っていた。彼の言葉に当て嵌めるならば「お前には、こんな戦場以外の未来だってあるんだから」と。視野を広く持ち、自分に合う道を行けと。

 極められない道を行くことほど徒労な物はない。

 

『ならばどうして。貴方は諦めなかったのだろう』

 

 そこで、ひとたび凛とした幻聴が聞こえた。

 聞き覚えのない中性的な声色が脳内に響き渡る。

 

『諦めない理由は、風化して覚えていないかい? それとも風化したからこそ半ば惰性で続けていただけなのかな。剣を振るたび迷いを捨て、つまりは思考を停止して、ここまで人生を砂に変えて来たのかい? 夢に向き合わず、真贋も確かめず、幼い想いを抱えて振り切ってきただけ? それなら』

 

 ただそれだけだったのならば。

 背負ったつもりのその夢は、その実、空虚だったのかもしれないではないか。

 

『貴方の夢の核は、確たる物は、夢の中身は?』

 

 声は紡ぐ。老いた凡人の不可侵領域を言及する。

 それまで大事に胸奥に閉まっておいた夢の欠片を取り出して、その是非を測ろうとする。

 

『貴方はどんな英雄に憧れたんだい?』

 

 泡沫の迷い。夢の揺らぎ。だがすぐに振り払う。

 この問いに意味はない。過去は過去でしかない。

 夢の中身を問うても利益はない。手遅れなのだ。背負うべき人々はとうに枯れてしまった。親類の類は塵と消えた。恋人はなく、子供もいない。幼女と化したいまとなっては知り合いもいない。誰ひとりとして期待する者はおらず、自身は生粋の帝国兵でもない。

 背負えるものなど、もはや夢しか残っていない。

 ならば、ソルには迷うだけの選択肢は存在しない。

 精々いままでの自分を背負って戦うだけだ。

 

(わしには、諦めない理由はそれだけで十分じゃ)

 

 なぜなら、まだ右手には剣を握り続けている。

 戦意を瞳に宿し、目前に剣先を突き立てんとする。

 

(ああ、わしは諦めなど。まだ、死ぬなどッ……!)

 

 さりとて、腹部に巨剣の刃が沈み込んでいた。

 

「が……うぐっ……!?」

 

 新しい刺激に痛覚が反応する。

 急所ではない。脇腹を掠るように貫かれた。

 幼女は歯を食い縛り、何とか身を捩ったのである。

 だが、追撃で致命傷を狙い直されない。まるですでに役目を果たしたと言わんばかりだ。わざと生かしているのだろうか。先ほどボガートがナッドを仕留めずに甚振っていた姿と重なる。その意図は掴めないが、ひとえに慢心が原因ではないのだろう。

 彼の殺気は本物。怨念の籠った形相である。

 九死に一生を得たが、しかし幸いとは言いがたい。

 

「ぁ、か、ぁ」

 

 炎熱を纏う刃は赫灼として、肉を焼く音が響く。

 声なき絶叫を意地だけで噛み殺す。

 半ば反射的に背を弓形に反らして藻搔くなか、見上げた先からは、強い情念を混ぜた声色が降ってくる。

 

「『ウェルストヴェイル』」

 

 それをきっかけに剣身に刻まれた文字が──。

 剣身に刻まれた『聖文字』の羅列に紫光が迸る。

 巨剣に刻印された魔術が起動した証だ。

 

「この餓鬼を幻想に、夢に、溺れさせちまいなァ」

 

 ソルに許されたことは見届けることだけだった。

 痛みに喘ぎ、呻きながらも視界は光が満ちてゆく。

 

(『ウェルスト、ヴェイル』? それは確か)

 

 思い出す前に、そこで意識は暗転した。

 どこかで、本の頁が捲られるような音がした──。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。