◇ハニカミにこりん
波の打ち寄せる洞窟と海面の境界は、白砂が堆積して小規模な入り江を形成していた。海蝕洞であるこの名も無き洞窟は、かつての地殻変動により海中から引き揚げられたのだと言う。今は満潮でこれだ。洞窟ごと水に沈められる心配はない。
海風が吹いて、頭のスマイルバッジがカタカタと揺れる。天気は晴天。水平線の向こうにかすかに見える島々を除けば、視界を遮る物は何もない。いっそ映画の一本でも撮れそうなロケーションだった。いつかテレビで見たカプリ島の青の洞窟を思い出す。リゾート地並みの景勝で、仕事内容はろくでもない。つまり文句無しの百点満点だ。ずっとこんな仕事ばかりならいいのにと思う。
素足が岩肌を擦る音が聞こえた。現れた顔を確認し、汚れきった雑巾より酷い衣装を確認し、他に尾行者の類がいないかどうかを確認する。問題はなさそうだ。だが同僚の無能を危惧するばかりでなく、同僚に牙を剥かれる心配もしなくてはならない。信用も信頼もできない相手。とんでもない仕事仲間もいたものだが、今回の仕事には彼女が不可欠なのだからしかたがない。
「こんにちは、ゾディオ。異常はなかった?」
「ハッ、くそつまんねーことにな。退屈でしにそうだぜ。不死身だっつーのによ。ん、ああいやそうだ、猫みてーなやつがんなこと言って暴れたがってたな。いっそ暴れてくれりゃあよかったんだ。暇つぶしにもならねーとか、マジつかえねー」
簡素な貫頭衣を紫や濃緑色や赤黒い色の染みで隙間なく塗り潰した悪趣味な現代アートのような服を着て、白髪をほつれさせながらこちらも薄汚れてところどころ茶ばんでいる魔法少女。それがゾディオだ。肌は血色が悪く目の下には深い隈があり、肉食獣のように歯を剥いて嗤う。魔法少女というよりは魔女とか美貌を羨んで呪われ落ちぶれたかつての美姫といった風体である。
「猫みたいな魔法少女。スコティッシュ・ボマーかな。そう、暴れたがっていたの。確かにサイコロンからの報告でも衝動的な性格とあったかも。対応を考えておくわ」
「どーでもいーんだよんなことは。それよりさっさとあたしに暴れさせろ。こんなせまっ苦しい洞窟にいたんじゃ体がくさっちまうぜ。ゾンビだけにな、ギャハハハハハ!」
体を逸らしてけたたましく嗤うゾディオに、品性というものは欠片も見当たらない。理性も指示を無視して暴れ出さないギリギリのラインと言った所だ。にこりんにとっては別荘でも建てられたらと夢想するほどの立地でも、彼女にはその魅力が伝わらないらしい。
にこりんはフリルのついたパステルカラーのいかにも魔法少女らしいコスチュームのまま小学生程度の腰を折って、丹念に頼み込む姿勢を取った。
「ごめんなさい、ゾディオ。まだ元プク派の魔法少女達がこの状況に慣れていないから。状況適応力を測るにしても、混乱は最小限に抑えたいの。だから、もう少しだけあなたの出番は待ってくれる? その時が来たら、あなたには誰よりも活躍して貰うから」
「ケッ、んなおためごかしがあたしにきくと思うか。だがまぁ、一応はてめーも仲間ってことになってる。もうすこしぐらいは我慢をしてやってもいい。で、あたしはあとどれくらい待てばいい?」
「そうね、三日。あと三日で、あなたが存分に戦える舞台を用意してあげるわ」
「いったな、チビ。もし一日でも遅れるようなら、まずはてめーの首から噛みちぎってやる」
毒々しい真紅と水色の両眼でにこりんを睨みつけ、ゾディオは再び洞窟へと引き返した。その背に向けて、答えなどは期待せずににこりんは告げる。
「すべては、我らがシェヌ・オスク・バル・メルの御名のために」
それと少しの個人的な趣味のために。
敬虔な信徒を思わせる宣誓にも、小声でつけくわえた内容にも反応することなく、ゾディオはくだらなさそうに一度だけ鼻を鳴らして去っていった。