私がタバネさんを家に招いたあの日から、母さんは少しだけ優しくなった。
それは、あくまで少しだけ。
普段通りがかる時とかに、私のことを無視したり。たまに話しかけてきたら、命令だけを言って立ち去る所は全然変わっていない。
けれど。
私を鞭でぶつことはなくなった。怖い顔をすることもなくなった。
相変わらず褒めてくれないけど、地球から帰ったら、帰ってきたのね、って。
一言だけだけど、でも一言だけ、私に返事をしてくれるようになった。
それから、目の隈が消えた。
母さんの瞳の下で、これまで毎日ずっと、薄灰色を浮かばせていた目の隈。特にこの頃は忙しいのか、だんだんと、そして益々濃く、暗くなっていったそれが、綺麗さっぱり消えている。
気づいた時は、とても驚いた。私の知っている母さんが、ある一点だけ、でも致命的なまでに変わってしまっていることに混乱した。
でも、よくよく考えてみれば――母さんはこうだったのだ。
私の覚えている母さん。
仕事の合間にピクニックに連れて行ってくれて、一緒にお花の冠を編んで、互いの頭に載せあいっこなんてしていた母さんは――隈がなく、健康そうだったように思える。
その時は、もう少し顔も険しくなかった。皺だって無かった。それから、化粧もあんなに濃くなかった。
そんな母さんが今みたいに変わってしまったのは、私がある日「事故」に巻き込まれて倒れたことが原因だ。
――母さんは私を治すために、いろんな事をやってきて、それで老けてしまったのよ。
と、まだベッドから動けなかった時に聞かされたことを覚えている。
だから、私は顔色の悪い母さんを見る度に、胸が締め付けられるような思いをしていた。
私のせいで母さんはあんなになってしまったんだ。ああ、私はなんて悪い子なんだ。
そう思って、心が砕けそうから、私は魔法を習った。
母さんが私に、魔法を使うことを望んで
望みを叶えれば、人は喜ぶ。私は母さんを喜ばせたかった。
でも、リニスと一緒に魔法を習って、魔導師として一人前になっても。
実際に地球へ向かい、ジュエルシードを集めてきても。
母さんの焦った様子と不健康そうな外見は変わらず、それどころか益々悪くなってきていた。
私の頑張りが、まだ足りないのか。いくら傷ついても、きれいな目をした女の子を傷つけ踏みしめて、ジュエルシードを勝ち取っても、母さんはどんどん悪くなっていく。
言葉遣いも、顔色も、化粧の色も目つきも行いも。私の覚えている優しい母さんとは全く違ってしまってる。
それが、私は不安でならなかった。
時折、広い庭園内で一人きりになると、アルフとの精神リンクを切って、どうしようもない憤りを呻きに変えて響かせたこともあるくらいだ。
でも。この前からようやく、母さんは元気になり始めた。
いや、始めた、という言葉は正しくないかもしれない。
すっかり元気になってしまっているのだから。
「元気? ……アタシには、全然変わらないように見えるけど?」
なんて、アルフは言うけれど。私にはちゃんと分かるのだ。母さんの娘なのだから。
まず一つ。研究室に篭りきりな時間が、少し短くなっている。
昔は何か難しい研究に没頭していて、一日中姿を見せなかったこともしょっちゅうだったけど。
今、地球の拠点から一度、時の庭園まで戻ってみて。それで一日母さんと一緒に暮らした時。
廊下を歩いている姿を、しょっちゅう見かけるのだ。
しかも、その様子はとても忙しそうではあるが、何かとても、充実しているようだ。贔屓目なのかもしれないけど、私には確かにそう見える。
それからもう一つ。
母さんは何か、答えを見つけたようなのだ。
これに気づけたのは、母さんの変貌を私自身の実体験に当てはめることが出来たから。
私がリニスに魔法を教わっていた時、前の授業で出された課題を、どうこなせばいいか全然分からないことがあった。
その時の私はとても落ち込んでいて、常に俯き、必死に考えながら過ごしていた。
けど、えは全然見つからないから、目には無意識で力が入って強張って、暗い雰囲気を漂わせてしまう。
今までの母さんは、そんな時の私と同じようだった。
でも、変わった。猫背気味だったのが、背筋をぴんと伸ばすようになり。ぶつぶつと呟きながら俯いていた顔は、平行線から少し上向きに向くようになった。
そんな母さんを見ることが出来て、私はとても嬉しく思う。
だって、遠い思い出の中の母さんと、私と一緒に居る母さんの間にあった、写真のブレみたいなぼやけが薄れてきて――ぴったりはっきり、一つに重なるように感じるから。
そういう訳で、私はシノノノタバネさんに感謝している。
きっと、母さんが答えを見つけるきっかけを作ってくれたのだから。
と、ここまでアルフに言ってみせると、凄く複雑そうな顔をして言い返された。
「私にはよくわからないよ……胡散臭いガキンチョが、あの気難しい鬼……プレシアに会って、何が変わったっていうんだい?」
胡散臭い。そこまでかなと思うけど、何を考えているのか良くわからないって言い換えれば、確かにそうだ。
でも、それだけじゃないとも思うのだ。
私は一回彼女と戦った。
地球の兵器と技術を使って挑んできた彼女に、私は勝つことが出来たけど、戦っていて凄く――怖かった。
ぎらつきながら私を睨みつける目。歯を剥き出しにして笑う口。今でも耳の中にこびりついて離れない、こちらに迫りながら笑う時の声。
そのどれもが、本気で真剣で、斜め45度くらいの前のめり。
戦いながら、私は感動していた。本気っていうのは、ああいうことを言うのかもしれないとも思った。
しかもその姿勢が、いつでもどこでも変わらない。
少し前の夜、ジュエルシードを無理矢理に制御するなんて荒業を見せた時も。そして、母さんに誘われてこの庭園に乗り込んできた時も。
彼女の目と笑う口と響く声に変わりはなく、歩幅は大きめで、どんどん前へと進んでいく。
あんな風に、自信たっぷりで進んでいけるように、なれるものならなってみたいなと思った。
「そんな、タバネさんの元気が、母さんに伝染ったような気がするの」
「……だとしたら、アタシは怖いよ。これから何をしでかすか、アタシたちは、何をやらされるのか――」
「アルフ」
愚痴を言うアルフを、私は止めた。
「私は大丈夫だから」
「フェイト……でも」
「母さんの願いを叶える、母さんを救うことが、私のやりたいことなの。だから、どんなことでもやってみせる」
私が魔導師としての道を歩み始めた最初から、心の中に固めていた決意を胸の中から反芻する。
それが私のやりたいことで、絶対に譲れない戦う理由だ。
ああ、そういえば。
この前も同じ話をしていたっけ。
……タバネさんの前で。
母さんとタバネさんの話が終わって、タバネさんは足早にこの庭園から出ていったけど。
その前に少し立ち止まって、私に話しかけてきたのだ。
にぱっと明るいお面のような笑顔を浮かべたまま、彼女は私にこう問いかけた。
――ねえ、君は何のためになのちゃんと戦ってるの?
私は、ジュエルシードを集めるため、と答えたけど。
――じゃあ、どうしてジュエルシードを集めるの?
母さんの願いを叶えるため、と聴けば、更に。
――どうしてプレシア・テスタロッサの願いを叶える必要があるのかな?
なんて、聞かれて、そして。
――君はまだ小さい女の子だ。本当なら母親に日常、おんぶにだっこが当たり前だっていうのにさ。どうして一丁前に、母親のために働く、なんて出来るの?
そこまで言われたから、私は思い切って強く言ってあげたのだ。
私のやりたいことは、子供らしく遊ぶことでも楽しむことでもない。母さんの願い事を叶え喜ばせることだと。
そうしたら、タバネさんはくすくす、と笑って。
――あぁ、
なんて、大げさに頷きながら褒めてくれた、その後に。
――さて、君のその、母親のために、って想い……それは、その決意は。どんなことがあっても変わらないかい?
――もしそう思い切れないのなら……君は、なのちゃんには一生掛かっても敵いっこないよ?
と、さっきまでとは打って変わって、勝ち気な笑いと瞳で私に突きつけた。
私は勿論、この気持ちは絶対に変わらない、と宣言したけれど。
そうなんだ、と一言告げて去っていくタバネさんは、私の言うことをまともに受け止めず、信じてくれていないように見えた。
本当なら前の話にくっつけようと思ってた場面なので短くなってしまいました。