まずはお読み下さい。
私は天才だ。
別にかっこつけて言っている訳じゃなく、誇大妄想でもない。本当にそうなのだ。
聞いた言葉はすぐに覚えるし、覚えたことは絶対に間違わない。足し引きを教えられた次の日には、掛け割を理解していた。
漢字が難しくて読めない本があった時は悔しくて、その日のうちに、一睡もせずに常用漢字を全部覚えた。
周りの同い年がまだひらがなもロクにかけないそんな時、私は大学の図書館に入って数学の本を読み耽っていた。
あの時は楽しかったな、と思う。一つ分かったら三つ謎が生まれて、それを解いたらまた五つの不思議が生まれてくる。
目の前の世界は無限に広がっていて、私はそれを全部解き明かしてやろうと息巻いていた。今だってそうだけど。
そうしていたらいつの間にか、飛び抜けて頭のいいけど変な子だ、と噂されていた。親にも煩く言われた。もっと子供らしくしろ、外で遊んで友達を作りなさい、と。
反吐が出るような思いだった。私は私の楽しいことを思い切り頑張っているのに、それをどうして阻まれなきゃいけないのだろうか?
だから無視した。そのうち会話もしなくなった。向こうも向こうで、どこまでも年に似合わず頭だけがよくなり続ける私を不気味に思ったのだろう。
でも、親の忠告というのは、やはり……ちょっぴりだけ、正しかったのかもしれないと、今では思う。
物心ついてから三年。ちょうど小学校に入るときには、もう全部知ってしまった。
物理学、数学、化学、地理学、語学、歴史学……学問というのは並べてみると数だけは多いが、私からしてみれば皆大したことはない。
ぜんぶぜんぶ、単純だった。
そうしてあらかた覚えてしまったあと、私は知識をもとに物事を予想することに楽しみを求めた。
この出来事の結末はああなるだろう。あの事象があるから次はこうなるだろう。
今まで積み上げてきた情報や知識から、未だ見ぬ事象を妄想し、そこに未知を求めるのだ。
それは、たしかに楽しかった。
物理法則だけでなく、人の心の動きすらも、私は予想し想像し。それがぴったり当てはまった時はいつも心地よく、全能感が精神を満たす。
いつも、いつも。そう、いつもそうだったのだ。
私が予想を外すことなど一つもなかった。
全てが私の思い通りに、考えた通りに進行していく。政治も経済も地殻変動も近所の喧嘩も、どの結末も、的中させる事ができた。
そうすると、つまらなくなっていく。
だって、何もかも予想した通りになってしまうのだもん。
あーあ! 未知の出来事を体験しても、寸分違わず予想通りになってしまう時の失望感といったら!
要するにクイズの答えに正解するより、間違うことのほうが嬉しくなれるのだ、私は。
だってそれは、自分の頭のなかにまだ「知らない」事があるっていう証拠だから。
知らないから間違える。わからないから迷ってしまう。知っているのに間違える、なんて愚かなことはしない。
幼い頃の私は、知らないことだらけ、わからないことで一杯なこの世界が大好きだった。
でも、三年経った私は違う。全てを知って、飽き飽きしてしまっていた。
これが自惚れや勘違いでああったらいいのに、と何度も思った。
しかしその時、世界は全部、篠ノ之束の想定内であった。
外周40077km、私の頭囲を七億倍にしてもなお届かないほど大きなこの地球。
でも、その表面で起こっている事故、事件、発明、そして戦争ですら。
私の予想を一片たりとも超えてくれなかった。
だから、この世界はつまらない。つまらないったら、つまらない。
「つまらないな」
親によって小学校へ入学させられてから、ちょっと経ったある日のこと。
クラスもクラスメートも、何一つ自分の予想をはみ出してくれなかった失望から、私は普段他人に漏らさない本音を、ぽろっと口に出した。
そうしたら。
「つまらないの?」
という返答が、隣で歩いていたモノから出てくる。でも、それは分かっていた。予測できていた。
それが尚更つまらなく感じて、普段なら他人なんて無視して歩いて行くところなのに、私は言い返した。
「つまんないよ」
「何がつまらないの?」
「全部」
でも、こんなのに付き合っていたって時間のムダだし、非生産的で面白くない。
だから、とっとと行っちゃおうと足を早めたこちらに、“それ”は生意気にも反論してきた。
「つまらなくなんて、ないよ」
私は少し怒った。その言葉に理由はなくて、ただ感情と常識だけで否定されたと分かっていたから。
そういう否定は、私が一番キライで聞きたくない言葉だった。
そういう訳で、私はとてもムカついた。虫の居所が悪くなっていた。だから、更に言い返すなんてことを、してしまった。
「どうして? 私にとってはつまらないよ? 何もかも分かっているのだもん」
「どうしても、だよ」
「理由になってない、めちゃくちゃじゃん、そういうの嫌いだな」
「なってないけど! でも、つまらなくはないんだ」
私は、自分より背の低い“それ”に向かって振り向いて、手を伸ばし制服の襟を掴み上げた。“それ”は簡単に持ち上がり、両足は地面から離れ、ぶらぶらと宙へ浮いた。
自慢じゃないが、私はろくに運動などしてはいないけれど、何故か力が強く体力もある。そういう意味でも天才なのだ。
「う、ぅ……」
“それ”の呻きを聞きながら、私は多分、ものすごい表情をしていたはずだ。
「どうして? 何の理屈も、納得できる理由もなしに。勝手にそういうこと言わないで。私に全部つまらないの。お前とは違うんだよ」
「だ、だって……だっ、て!」
そんな私の顔を見た“それ”が普通の女の子なら、とても怯えたことだろう。怖くて怖くてすぐにでも逃げ出したくなるのが当たり前だ。
簡単に予想できることだったから、私は“それ”が逃げようとすれば、すぐに逃してやろうと考えていた。予想の範疇に収まるやつと関わっても、時間の無駄だと考えていたからだ。
でも、“それ”は逃げなかった。
どうして逃げなかったのかは、今でも分からない。本人に聞いてみれば、ただ一言、
「それがあの場で一番正しくて、やらなきゃいけないことだと思ったから」
なんて話すだろう。
「そんなのだめだよ。全部つまんないって決めちゃうのは、だめだよ」
「どうして?」
「だめ、そんなの……いやじゃないの?」
“それ”の問に、私は首を縦に振った。
ああ、つまらない。イヤなんだ。この世界が。そんなことは、とっくのとうに分かっているんだよ。
今更他人が言わなくたって、とっくに!
私はまたムカついて、今度はもう片方の手も出して、“それ”の首を直接掴んだ。
柔らかい肌と、喉の感触があった。
「う、ぁう」
「何もかも分かっちゃうんだよ。全部自分の思い通りになるんだよ。だからつまらないよ。ね、君がどうにかしてくれるの? というか、君、誰? このつまらない世界を、面白くしてくれるの?」
底冷えした、棒読みの言葉。でもその最後の方は、怒りでなく、願望の発露だった。
だって、“それ”は。私と同い年の少女は、逃げなかった。
私はあの時手加減なんてしてなくって、窒息する寸前まで首を絞めていた。だから喉は痛くて、塞がれた息は苦しくて。十秒以上そうしていたので、意識も朦朧としていたはずだ。
でも、あの子は逃げない。
それどころか、澄んだ瞳ではっきりまっすぐと、私の目を見つめてくる。
実に久しぶりの、予想外だった。
「……うん」
抑えられた喉から、無理やり絞り出すような一声。想定外の言葉。言い訳でも逃げでもない、本心からの宣言。
何も考えてなくて、道筋なんて決まってなくて、それでもちゃんと、決意に満ち溢れている台詞。
「きみが……たのしく、ないなら……わたし、おしえてあげる」
「何を。天才の束さんに教える? 何を?」
「つまんなく……なんか……ない……って……みんな、みんな、みんな」
私は手の力を緩める。女の子の体がすとん、と落っこちた。
しばらく、ぜえぜえ、けほけほと咳をしていた女の子を前にして、私は自分の手のひらを見つめた。
どうして力を緩めた? なんで彼女を解放した?
そうする理由はない。あんな妄言、理屈もなにもない戯言なんて無視すべきなのに。天才なら。
なのに、なんて言葉を使うのは、どれくらいぶりのことだったか。
「ここには、みんないるから! おとーさん、おかーさん、おにーちゃん、おねーちゃん! ほかにもいっぱい、クラスメートにせんせいとか!」
「それがなんだって言うの!? 束さんには全部分かるんだ! 心も思いも何もかも!」
「そんなの、ただの勘違いだよ!」
女の子が私の頬めがけて平手を振るう。思い切り腕を上げて、大振りなモーションで。
その攻撃を、私はぱしっと抑えこんだ。大きく振られた細い手首を掌で受け止め、握りしめる。跡が残るくらいに、強く。
「勘違いなはずあるもんか! 束さんは天才だよ! 全部分かっちゃうんだよ! そうなっちゃうんだよ!!」
「それは違うよ! 束ちゃんがそう思い込んで、周りに目を向けてないからだよ」
「違うっ! 私にはもう、そうする必要だってないんだっ! 全部知ってるし、分かってるから!!」
女の子はもう片方の腕で私を叩こうとした。それも私は受け止める。
「そんなことないよ、絶対に!」
「はぁっ!? お前に束さんの! 天才の何が分かるんだよ! そうだ、お前には何もわからない! 束さんの心なんて、絶対に!」
私の叫びに、女の子は一瞬悲しそうな顔をしてから、
「……うん、わかんないよっ!!」
と、いっそ清々しいまでに勢い良く、叫び返した。
当然、私は激高した。
「はぁっ!? 意味がわからないよ、それでなんで、私に向かっていくんだよっ!」
「分からない!! 私、束ちゃんと話すのも初めてだし、喧嘩するのも初めてで、だから分からないんだよ!」
「うん、それはそうだ、でも、じゃあなんで私に立ち向かっていくんだ!」
「だって……束ちゃん、泣いてるから!!」
はっ、と気づいた。自分の目から、うるうると、流れ出していくものに。
見れば、女の子も泣いていた。二人、泣きじゃくりながら取っ組み合っていた。
「あ……」
「今だけじゃないよ。『つまらない』って言ったとき、束ちゃんのその声は、泣いてたんだ。私にはそう聞こえたの。だから、私は言い返したんだ」
そう言われれば、私はもう、唖然呆然であった。
女の子の言うことがとても信じられなくて、でも、無性に胸が熱くなっていた。
「それだけ……!? それだけなの!? そんなことが理由なの!?」
「そうだよ」
「……私、最初はお前が死んじゃっても良かったって思ってたんだよ?」
「それでも、行かなきゃって思ったの。私は束ちゃんを、助けたかった。わかり合いたかった。そうできないと、私、イヤなんだ」
この子はどうしても、私を放っておけないみたいだ。
なんの理由も因縁もなくて、ただ傷つけただけの、この私を。
まだ強く握っている両掌、そこから伝わる、この子の体温。他の人間みたいに鬱陶しくない、しっとりとして肌に馴染む、熱さ。
「どうして? 面倒くさいから? 迷惑だから?」
「かも、しれない……でも、それだけじゃ、ないと思う……うまく言えないんだけど……」
私の問に、女の子は戸惑う。それを見ても、私は何も苛つかなかった。
普段なら、他人が迷う様を見るのは苛立たしいか、それとも嘲笑いたくなるかなんだけど。
でもこの時は、なんだかとても、親近感を感じた。
それは、私も同じように迷っていたから。
胸の奥からとめどとなく湧き出てくるこの気持ちを、どう形容していいか、分からなかったのだ。
だから、代わりに。
「ねえ、君、名前は何ていうの?」
「え……?」
「名前。What's your name?」
「えと……なのは……高町なのは」
その名前を聞いて、私は漸く自分の心の落とし所を見つけた。
高町なのは。目の前の、ツインテールで、ぐすぐす泣いてて、鼻水まで流してて、でもそんな所がなんだかかわいい女の子は、高町なのは。
そう考えると、すっと落ち着いた。これでいいんだと納得できた。
要するにこの諍いの結果と成果は、こんな素敵な女の子の名前を聞けたということなのだ。
「なのは。じゃあ、なのちゃんって呼ぶね。私は、篠ノ之束」
「うん、束ちゃんだね。私覚えてるよ、自分のクラスメートだもん」
なのは――なのちゃんがその事実を告げて、初めて私は思い出した。
そうだ、この子私の同級生で、クラスメートだ。
クラスメートの名前は全員覚えているはずなのに、どうして今まで思い当たらなかったんだろう。
きっとそれは、その情報が私にとってさして重要なもので無かったからだ。
私は高町なのはという名前を確かに脳裏に
でも、もうきっとすぐに思い出せる。胸に刻んだ、初めての名前。
「なのちゃん」
反芻するように呼びかける。
「束ちゃん」
返してくれる。それだけ。ただそれだけのこと。でも、はじめてだった。
なまえをよんで、よばれて。
「なのちゃん。私、まだ楽しくもなんともないけど……もう少し、待ってみるよ」
「そっか。じゃあ、私が連れて行ってあげる」
なのちゃんは、目の下を赤く腫らした涙を拭った後、私に向かって手を伸ばしてくれた。
私はそれを手にとって、しっかり握った。
「束ちゃんがつまらなくない、楽しいって思える世界に。それはきっと、束ちゃんが思うより直ぐ側にあって。でも、見つからないだけなんだ。だから、私が探すの手伝うよ。一緒に探そう?」
「……うん。なのちゃん、ありがとう」
「だから、私からお願い。私の事……もう、忘れないで。今、他人みたいに話しかけられて、とても悲しかったから」
忘れるもんか。心の中ではそうぶっきらぼうに言い張った。
こんなに真っ直ぐで、愚直なまでに真っ直ぐで――そのまま一直前に、自分に向かってくれる人。
私にはなのちゃんが分からない。どうしてそこまで私に拘るのか。私に反対するのか。何の理由も無いのに私を否定して、でも私を救いたいと思ってくれる。正直怖くなるくらいに、私はなのちゃんを理解できない。
逃げ出したくもある。彼女から。今まで理解したどんな数式でも分析できない、訳の分からないものから。
でもだからこそ、素敵に思える。面白いと、言える。
なのちゃんから、絶対に逃げないことにしよう。大体、こんな理屈も何もない理論を解析できないようでは、自分を天才だなんて言えないし。
ああ、こんな娘が居るなんて。やっぱり、世界は自分の思っていたより、少しだけ鮮やかで、美しいのかもしれない。
結論を急ぎすぎていたみたいだ。少なくとも、もう20年くらいは待ってもいいだろう。
それまで、もう少しだけこのままの世界で暮らしてみよう。面白おかしく。
なのちゃんとなら、この色褪せた世界でも、少なくとも白黒くらいには塗り替えてもらえそうだから――