意識が高すぎて魔法科高校に入学したが劣等生だった。 作:嵐電
八卦掌の走圏で、手にする重りをどんどん重くするとしたら身体を滅さなければまともに歩けなくなる。理屈なんてわからなくても師が「八卦掌はこう!」と見本を示してくれれば弟子はそれで出来るようになる。今、練習をしている長岡さんはまさにその典型だ。
「師匠、八卦掌だけで道を得られる?」
走圏をひと段落した彼女が唐突に尋ねて来た。この疑問は、武術をある程度修めた者の共通の悩みでもある。宮本武蔵は、最晩年に座禅に挑戦したと言われているし、尾張柳生は真言密教に活路を求めた。
「可能や」
僕は、摩訶般若波羅蜜多心経の一部を映し出した。
観自在菩薩・行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識・亦復如是。舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色、無受・想・…
「こいつを理解して実際に使えれば道を得られる」
「その心は?」
笑点か?!長岡さん。ええノリや!般若心経だけに。
「問題は、『空』、これを観じられるかどうかにかかっとる!」
空を観じれば、自分の心身も自分の周りの空間や物体も空であるのがわかる。そこまではっきり自覚出来なくても腕にぶら下げた重りの重さは感じなくなるし身体は逆に軽く感じる様になる。空は、時空を超えているのでこの状態で練習をしていればいずれ八卦掌の霊が降りてくる。しかも意思疎通が普通に出来る!☜ここ重要。
ちなみに、座禅で長時間楽に座れるのも同じ「照見五蘊皆空、度一切苦厄」が起きているからだ。
「観自在菩薩は、観ずるのが得意で菩薩になった。つまり、道を得たちゅうことや」
「なるほど!よくわかったよ。ありがとう!」
彼女がにぱっと微笑む。
「師匠?何か他に気になる事があるの?」
長岡さんの勘の良さには参った。司波くんが帰宅するのを僕は待っていた。その為に、部室で時間を調節していたのだ。
僕は、戸締まりを長岡さんに頼んで部室を後にした。
ダラダラと帰途に着いていると司波兄妹と出くわした。まぁ、一緒に帰れるように時間調整したのだが。
「今、帰りなのか?」
司波くんが声を掛けて来た。彼の横にいる司波副会長が会釈する。
「ちょうど良かった!この前話しとった五大の『空』やけどな」
バン!凄まじい発砲音と同時に僕の背中が破裂した。
「師匠!」
「おのれ!よくも」
司波副会長は、すぐに暗殺者を凍結する。激しい怒りによる事象改変だ。CADの起動さえ必要ない。
「師匠!しっかりしろ!」
司波くんは、力なく倒れる僕を抱きかかえて叫ぶ。
「お兄様!早く」
司波くんは、拳銃型CADを懐から取り出し即起動する。
特殊繊維で作られた防弾下着ごと僕の背中はボロボロになっている。しかし、彼の魔法が発動した途端、ものの数秒でまるで何もなかったように元の状態に戻って行く。
「おおきに。しっかし、ほんまにすごいな!タッちゃんは」
僕は、スクッと起き上がってお礼を言った。
二人は、キョトンと僕を見ている。
「説明するから、チョッと待ってや」
僕は端末を取り出して緊急回線をつないだ。荒事のお掃除屋さんへだ。風間さんが準備してくれた連絡先だ。
「痛いの嫌やから、魂を体外に出しててん。だから、何が起きたかわかっとる」
とりあえず、司波兄妹の疑問に答えた。
「本当に君には、驚かされるよ」
「何言うてんねん!タッちゃんの今の、めっちゃヤバいやん!それにしても、連中も考えて来よった」
銃をポケットの中から出さずに、おまけに殺意を全く出さないで近距離狙撃した。しかも明らかに司波くんの頭部を強装弾で狙っていた。司波副会長が拳銃ごと作業服を着込んだ暗殺者を凍らせたので銃身がガタガタになっているか確認しようがないが。
「痛い痛い言いながら死ぬの嫌やろ。即身成仏するんやったら必要な技術や。大層なもんちゃうよ」
今一つ、釈然としてない司波兄妹に再度僕がやった技術を説明しておいた。
「いずれにしろ、俺を助けてくれたことに感謝している。あらためて礼を言うよ」
と司波くんは言いつつもまだ釈然としていない。
「自分自身の寿命をしっとっただけや。今日は、死なへんと知っててやったことや」
ようやく納得してくれたようだ。司波兄妹は、僕が軍籍であると知らされている。
「どこまで話とった?確か『空』やな」
僕はクリーン・スタッフが来るまで続きを話すことにした。
そこで空海が著した『秘蔵宝鑰』の一部の現代語訳を映し出す。
さて密教の世界に入るには、右の目に麼の字を想い、左の目に吒の字を想い、この二字が太陽と月になったと想いなさい。これによって今まで無明にまとわれていた闇を破り捨て、この新しい太陽と月の光のもとに目を見開くと、ここに自分自身が金剛薩埵であることを自覚するのです。
不動明王が一目をもってにらめば、煩悩と業にまとわれた人生の煩いが消えて安らかになり、降三世明王が三たび(貪・瞋・癡──むさぼりといかりと無知──これを三毒といい根本の煩悩とみる)叱りつければ、無明に基づくすべての煩いが涸れて静かになります。八供養の天女たちは 、雲海のような広大な供物を供えて仏を供養しますし 、四波羅蜜菩薩という禅定女たちは 、適悦という微妙な法楽を受けるのです。
次に原文の該当箇所も表示した。
心外の礦垢次に於て悉く尽き、曼荼の荘厳是の時に漸く開く。麽・吒の恵眼は無明の昏夜を破し、日・月の定光は有智の薩埵を現ず。五部の諸仏は智印を擎げて森羅たり。四種の曼荼は法体に住して駢塡たり。阿遮一睨すれば業寿の風定まり、多三暍すれば、無明の波涸れぬ。八供の天女は雲海を妙供に起し、四波の定妃は適悦を法楽に受く。
「なんやごちゃごちゃ書いとるけど『空』が観えるようになったらその次はこうなると言いたいだけや」
副会長が話についてこれなくなっていると感じた。
「要は、悟りを開いた後の状態や」
司波くんも妹が置いてきぼりになっていると感じている。
「深雪。師匠の言う『空』をイデア*に置き換えてごらん。太陽や月が人間の体内あるのは物理的にあり得ないが、自分自身をイデアと同一視できればそれが可能になる」
「さすがはお兄様です!お兄様は、わたくしの誇りです」
いつの間にか、司波さんは愛するお兄様の胸にもたれかかっている。司波くんは、愛する妹の頭を優しくなでている。
「密教理論を瞬時に現代魔法理論で説明か。ホンマに凄いな!タッちゃんは」
結界でも張ったのだろうか?人が来ない。それを知っていて司波さんは甘えているようだ。二人の甘い時空を邪魔しないように、当たり障りのない褒め言葉を言っておいた。
「ところで師匠。質問だが、『賢者の石』を知っているか?」
司波くんに話題を変えられた。
「ああ、金剛のことやな」
錬金術は、鉛を金に変える怪しげな術として世間一般に知られ、一部例えば柴田さんみたいな人達には、母親を生き返らせるのに失敗して肉体そのものや腕を失うトンデモない技術だと勘違いされている。しかし、それは錬金術の一部(実際にそのような行為に挑戦している連中も存在する)であり、本来は密教と同じでただの人(鉛で象徴する)を神(金で象徴する)にする技術だ。
生きたまま神になれば仏と仏教では呼んでいる。この仏を金剛(金剛は本来ダイヤモンドと訳される事が多い。)と呼ぶ。ちなみに賢者の石もダイヤモンドと解釈されるケースが多々ある。
「なるほど…」
僕の説明を聞きながら司波くんは頷いた。掃除屋さんは、凍った暗殺者を手際良く回収し道路も速やかに清掃した。単独犯だったようだ。テロリストが乗っていたバンも回収された。
「最後に師匠、頼みがある」
「どないしたん?あらたまって」
「『タッちゃん』は、勘弁して欲しい」
*イデア(情報体次元)は、現代魔法学においてエイドスが記録されるプラットフォームのこと。古代ギリシャ哲学の用語を流用される形で利用されている。
あらゆる存在物の情報体を包含する巨大情報体。巨大な情報プラットホーム。
イデアに存在する個々のエイドスを意識して見分けることの出来る者は少ない。
エイドス(個別情報体)は、サイオンで構成された事象に付随する情報体のことである。
現実世界における全ての事象は、このエイドスに記録されている。
現代魔法学における魔法とは、このエイドスを改変することによって事象を生み出している。
なお、エイドスは、イデアと呼ばれる情報体次元に存在するとされている。