この海の向こうは竜王の領域。
そこに最も近い岬に立ち、虹のしずくを掲げる。
途端に辺りに霧が広がり始める。
それが晴れた時、目の前には虹の橋が架かっていた。
「おとぎ話の主人公になった気分ですわ」
虹の橋を見た、姫の第一声は明らかにこの状況を楽しむものだった。
……怖くは無いのだろうか?
俺は、正直怖い。
これを渡るくらいなら、揺れるつり橋を全速力で走り抜ける方がましだ。
「あるじ、何をしておる?」
シアちゃんが不思議そうに俺を見る。
「こ、これを渡るのか?」
及び腰の俺を見て、ふたりは不思議そうに首をかしげる。
前に渡った事のあるシアちゃんはまだしも、初めて渡る姫にも恐怖心はないようだ。
「先に行きますね」
姫はスタスタと歩いていく。
意外と虹の表面は硬いらしい。
姫は、虹のアーチの頂点部分、橋の真ん中に立って、俺を呼ぶ。
「大丈夫ですよー! 勇者さまー!」
大丈夫って言われても……。
「ほれ、さっさと行かぬか」
シアちゃんに後ろから押される。
仕方なく歩き出すも、橋に差し掛かったところで足が止まってしまう。
なにしろ、幅が両手を広げた程しかなく、高さに至っては城の屋上よりも高いのだ。
そして当然、欄干など無い。
さらに後ろから押され、思わず地面に手をついてしまう。
「ふう、仕方あるまい」
シアちゃんが前に回って、俺の首に何かを付ける。
こ、これはまさか……?
「さっさと行くぞ」
言いながら、縄を引っ張る。
当然のことながら、それは俺の首から伸びている。
「何でまだ持ってんの?!」
「せっかく買ったのに、捨てるわけにもいくまい」
俺の抗議に、至極当然のような口振りで言う。
「ほれ、はよう来ぬか」
引っ張られるが、俺は必死で抵抗する。
静かな攻防がしばし続いた。
姫は、後にこう語った。
その様は、まるで、飼い主の少女と散歩を嫌がる犬のようだったと。
その戦いは唐突に終わりを告げた。
虹の橋が消え始めたのだ。
空を見上げると、厚く立ち込めた雲に太陽が隠れようとしていた。
「おぬしがモタモタしておるせいじゃ!」
「シアちゃんが、首輪なんて付けるから!」
俺達は言い争いをしながら、必死に走る。
走る後ろから、橋が消えていく。
「勇者さまーー!! もう少しですー!」
向こう岸で叫ぶ姫の姿がだんだん大きくなってきた。
到着、と思った瞬間、足場が消えた。
とっさに傍らのシアちゃんを姫に投げ渡す。
「あるじ?!」
俺は、やっぱり落ちるのかと思いながら重力に身を任せた。
「がふっ!!」
首に衝撃。息が詰まる。
見上げると、俺の首から伸びた縄を腕に絡めているシアちゃんの姿。
姫は、そのシアちゃんを必死で支えている。
「ぐっ、ふぐぅ……」
手を離すように言おうとするが、息が詰まって声にならない。
縄がシアちゃんの細い腕に食い込んでいる。
何とかしなければと思うのだが、意識がだんだんと暗くなっていく。
素直に落ちるのと、窒息して死ぬのとどちらが良かったのか。
どっちにしても、死ぬんだけどな。
「……さま! 勇者さま!」
姫が呼ぶ声が聞こえる。
オッサンの声じゃないってことは、死なずに済んだらしい。
後頭部に暖かくて柔らかい感触を感じる。
膝枕かな?
もう少しこのままでいたい。
「うーん、あと5分」
甘える俺を、神様は許してくれなかった。
「寝ぼけるでないわ」
シアちゃんの声と同時に、何か棒状の物で顔面を痛打された。
「乱暴はいけませんわ!」
「この阿呆に現実を教えてやったまでじゃ!」
目を開けると、ひのきの棒を振り上げるシアちゃんと、羽交い絞めにする姫の姿が見えた。
あれ? じゃあ、この膝枕の持ち主は?
振り向く俺の眼前には、巨大な目と口。
ソレは、真っ赤な色でと弾力性に富んだ身体を持つ生き物。
俺の生涯のライバル、スライムベスの姿だった。
「うぉわむgyccせzjp!?」
意味不明の叫びが口をつく。
「その方が、助けてくださいましたの」
姫の言葉に呼応するかのように、奴の身体が揺れ動く。
お、俺はコレを膝枕と間違えたのか?!
中型犬並みの大きさの軟体動物を見やる。
何てことだ……。
よりによって、ライバルに助けられる日が来ようとは。
「そうか、ありがとうな。……お前、名前はあるのか?」
ひざまずいて視線を合わせて問いかける。
スライムベスは首を振る。
多分、首だろう。正確にはわからないが。
シアちゃんが翻訳してくれる。
「出来れば名付けてほしいと言うておるぞ」
スライムベスだしな。
ベスじゃ、安直過ぎるな。
よし、決めた。
「エリザってのはどうだ?」
「安直よのう」「エリザベス、ですか?」
間髪入れず、ふたりが突っ込んでくるが無視。
奴は、満面の笑みを浮かべてうなずく。
常に、笑みを浮かべているような気もするが。
「よしっ! お前は今日からエリザだ。っと、女の名前付けちまったけど、いいのか?」
「スライムに雌雄は無い。卵で殖えるわけでは無いからの」
どうやって殖えるのかは疑問だったが、問題は無いようだ。
俺達は、固い握手を交わした。
多分、手だろう。伸びてきたし。
「種族を越えた友情ですわね。さすが、勇者さまです」
姫は素直に感心していた。
「今のあるじと、どちらが強いのかのう?」
シアちゃんは4戦目を期待しているようだ。
では、期待に応えるとしよう。
「やるか?」
エリザと目を合わせる。
向こうも戦う気があるらしい。
互いに間合いを取る。
俺はひのきの棒を水平に構える。
エリザも体当たりの姿勢だ。
申し合わせたように走り出す。
と、何かに足を引っ掛ける。
勇者の攻撃。
勇者は何かにつまずいて転んでしまった。
しまった! やられる?!
しかし、同時に攻撃しようと間合いを詰めていたのであろう。
転んだ拍子に、手に持った武器がエリザに直撃した。
会心の一撃。そして、痛恨の一撃。
エリザはひのきの棒の一撃で、俺は地面に顔面を叩き付けた衝撃で、仲良く気絶していた。
こうして、4戦目は引き分けに終わったのだった。
「やはり、こうなるのじゃな……」
目覚めた俺を待っていたのは、シアちゃんの冷たい視線だった。
その視線から逃れるように、エリザと顔を合わす。
「別に、狙ってるわけじゃないんだけどな……」
エリザは同意するように首を振っている、多分。
「運も実力のうち? 馬鹿な事を言うでない」
そんな事、言ってんのか?
さすが、親友。
俺達はさらに固い友情を誓い合った。
「さよーならー!」
エリザは、俺たちを竜王の城へと案内すると、何も語らず去っていった。
姫は、そんな後ろ姿に手を振っている。
「これで良かったのか?」
シアちゃんが俺に問いかける。
「竜王を倒すために力を貸してくれなんて言えないよ」
「そうじゃな。スライムベスの力を借りたなど自慢にもならぬわ」
遠く見える竜王の城を見上げる。
空にはいつの間にか暗雲が立ち込め、不気味な様相を見せていた。
決戦の時は刻一刻と近付いていた。