──こんにちは、瑞穂さん。
────あぁ、どうも……こんにちは。お二人して、何かご用かしら。
──お昼ご飯です。ただのおにぎりで悪いのだけど。
────いえ……どうも、ありがとう。
──お漬物とか、持って来ましょうか?
────大丈夫です。ありがとうございます。
──それと、食べながらで良いので、質問をいくつか。
────また? ……別に構いませんが……まだ、何か。
──うみねこ、と言っていましたね。
────はい……。彼と繋がった時に、少し、見えた……聞こえた? 名前です。
──それは、船の名前? 大戦の頃の?
────直感ですが、……平和な時代の船です。恐らく現代の。
──彼とは、どんな関係なのかしら。
────分かりませんが、彼を大切に思う気持ちはある……ような。
──何故、彼は意識を失ったのでしょうか。
────それは、私だって知りたいです。あのようなことになると解っていれば、軽々に口にはしなかったもの。
──そう……。結局、貴女にもよくわからないのね。
────まぁ、そういうことです。
──では、次は私から。同じ穴の狢として、教えてください。
────……神通さん、怒ってます?
──多少は。でも、今はそれどころでもないですので。
────何でしょうか?
──貴女は、意識的に“海”を流し込んだ。それが出来ると気付いたのはいつ頃のこと?
────気付いた、という程でもないけれど……彼が遅刻した日、料理を振る舞ったとき、です。今思えば。
──それは、どういう経緯ですか。
────包丁の扱いを誤って、指を切ってしまいました。その時、彼に食べてもらったおにぎりに……。
──まさか……血が付着していた?
────恐らく。そのときは、何なのかは分からなかった。でも、不思議な充実感があったのです。
──その後にも、何かあったのかしら。確信をもつようなことが。
────ええ。萩風さんの艤装の一件で。
──ああ、そういえば、あのときも料理を。まさか、また血を?
────いいえ、違います。もっと前。
──前とは何時のことでしょうか。
────彼を助けたときです。彼は艤装にもみくちゃにされていたようでした。
──その時に、海が……艤装から、かしら。
────彼を運んだとき、試してみたんです。心を込めて、彼に、渡そうとしてみました。
──出来てしまった……と。
────ほんの僅か、ささやきのように、彼の思いが、聞こえるようになりました。触れている間だけでしたが。
──ああ、貴女が運んだんでしたね。
────ええ。大きな安堵と、あれは……焦り? だったような。
──まぁ、何でもいいわ。……そう、艤装からも、海を渡すことが出来るのね。
────だから、私の艤装の中に、彼を隠しました。3日ほど。
──…………初耳です。
────さっき、赤城さんには、お伝えしました。ねぇ?
──はい、私は聞きましたよ。そう、艤装から、ね。
────そういうことです。
──ありがとうございます。彼の髪の色が治った理由、なんとなく解りました。
────……待って下さい。治っ、た?
──真っ黒でしたよ。髪の色。
────嘘……。
──さっき、格納庫に向かうと言っていたし、多分、自分から貴女の艤装に。
────はぁ…………もう。妙な所で、勇気があるのね、あの人。
──彼には無理だと思ってました?
────ええ。まぁでも、そもそもは命ごと、差し上げる気でいました。艤装ごと、いなくなるつもりだった。
──そこに関しては私、ひとつ、聞いてみたいの。
────何か?
──瑞穂さんが、本当は何がしたかったのか。
────もう、話しましたけれど。
──身も蓋もない言い方ですが……逃げたかったのよね? この、状況から。
────ええ……半分はその通りです。もう半分が、ヒトミさんのため。
──それはもう、本音ですよね? もう貴女の言葉を信じていいわよね?
────嘘なんか、言っても意味ありませんよ。今更。
──良かった。では。
────………………。赤城さん?
──何です?
────なんでしょう。この手は。
──仲直りです。その第一歩。握手ね。
────仲違い、なんて、していたかしら。私たちは最初から、別々の方向を向いていたわ。
──いいえ。貴女にしか見えていなかったものがあるだけ。貴女が1人で抱えていたものがあるだけです。
────……。
──重荷を分かち合う……のは難しくとも、隣に立つことは出来るはずです。
────そんな必要、ありますか。
──要不要ではなく、したいかしたくないかです。
────私は、別に……。
──したくない?
────ええ。
──そうですか……。では、意味を変えましょう。
────意味。
──はい。握手とは元来、武器を手に持っていないことを示す行為だったとか。
────はぁ……? そうなのね。
──私は今後、貴女に敵意を持ちません。どう突き放されようとも。
────なに、それ…………。
──私は、貴女の味方でいます。金輪際、ずっとです。
────何故そこまで?
──もう話しました。今、私が、そうしたいので。
────そう、ですか。
──そうです。だからこの手は、私の意思表示。別に、取ってくれなくてもいいですから。
────貴女は、ずっと……同じことを言いますね。
──はい。貴女の思いは貴女のものです。でも、私の思いも私のものですから。
────ありがとう……どうも、ありがとう。
──どういたしまして。
────ごめんなさい。
──はい、大丈夫です。
────ごめん……なさい。
──大丈夫ですから。
────でも、私には……何もありません。なにも。貴女の思いに報いることは出来ない。
──では、その代わりといってはなんですが、1つ相談事を。
────相談……?
──彼から、潮風の香りがしたんです。心当たり、ありませんか。
***
階段を上がって、ヒトミさんの部屋の前。3回ノックすると、小さな返事があった。
「少しよろしいですか。樋口ですが」
扉の向こうで、息をのんだような気配がある。これはなにも、私の感覚が鋭敏な訳ではなく、例の、思考を植え付けられる現象の一環なのだろう。
「い、今は……あの。話すの、無理……です」
「わかりました。では、私の独り言です。聴いても聴かなくてもいいです。私は──」
私が言葉を続ける前に、扉が開いた。
「あれ……」
「うぅ……。ちょっと、ズルい……です。それは」
そうか、ズルいかも知れない。だが、おめおめと引き下がる訳にもいかないのだ。
「多少のズルも必要かと、思ったんです。私が言うべきことを伝えられなかったので」
「言うべき、こと……」
口からでまかせ、私の言に不安な表情で応え、彼女は私を迎え入れた。時刻、一四三○。部屋の薄暗さは、変わることはない。
「あの、お、お茶……出せなくて」
「いえ、お構いなく。長居はしませんから」
大体、ヒトミさんはココア派であるし、自室の常備品に来客用茶しばきセットを用立てる意味もなかったのであろう。何にしても茶をたかりに来たわけではなかった。
「まず、否定から入らせてください。貴女の感情が薄汚いものであるとするのは、もう全く、自分を卑下しすぎではないかと」
「で、でも」
「まぁ、聞いてくださいよ。私の頭髪が正常に戻って、それを見た貴女は、残念だった? とのことで」
彼女の体が一回り小さくなったような気さえした。萎縮しきった様子を見、多少の躊躇いを覚えたが、言い切ることにした。
「良い悪い、で言えば、悪い感情かも知れない」
「はい……やっぱり」
「しかし一方で、その前提にある気持ちは、何というか、決して否定されるべきでない、大切なものだと思うわけです」
ヒトミさんは首を傾げた。
「みんな、誰かの隣に居たいものでしょう? 孤独が好きな人なんて、世にいないんです。貴女の根底はそれだと思うんです」
「それは……そうです。はい、私は寂しかった。でもやっぱり私……その。自分のこと、卑怯だな、って……」
「卑怯? どこが、ですか?」
「瑞穂さんのやったことに、……その、便乗したような、気持ちになっちゃって」
気にしなけりゃ良いのに、とかなんとか、川内あたりは言い放ちそうだが……。いや、違う。そうか、彼女は私が眠っている間に──。
「案外、乗り気だったな、って」
「ノリノリで、唇を奪った訳ですね?」
「の、り……は、はい。多分」
「そこは、まぁ確かに、あまり良くないですね? 反省が必要かと」
ヒトミさんは、更にもう一回り小さくなった。
「しかしそれは、あくまで貴女の……行動に、問題があっただけです。感情の方には、なんらの問題がない。なんら咎められるべきでない、と申し上げてます」
「行動、に……」
「そうです。他を好ましく思う営みが無ければ、人類なんて、もう絶滅してなきゃ説明がつかないはずだ。気持ちは、あって良いんです」
気に入らない者を片っ端から殴り飛ばしていては、キリがない。幼気な艦娘にセクハラをはたらく不逞の輩でも、いきなり技をかけるのではなく、いったん深呼吸。冷静な方──大淀さんなど──へご意見を伺うべきだ。
どうにか、あの夜の、あの廊下では、踏みとどまることが出来た。いくら憎くても、たとえそれが深海棲艦でも、苦しんでいるなら、助けてやったっていい。
瑞穂さんもヒトミさんも、ちょっと気が急いたのだ、と思うことにする。そのアプローチには、確かに問題があった。
「先刻、津田さんに注意されました。貴女はまだ、気持ちに整理をつけられていない。混乱した頭で、答えだけ求めても無理だと」
我ながら先延ばしばかりだと思う。いつか答えを出すべきだが、それは今すぐでなくてよい。私がこの基地からいなくなるその日までが期限だ。私の悪癖が、ヒトミさんに伝染しないことを願うばかりである。
「もう少しの間、考えておいてほしいんです。考え抜いて選んだ答えなら、もうとやかくは言えません」
「私……また。ひ、卑怯な、事を……するかも、ですよ?」
しないと確信しているから、こう言っているのだが……。ヒトミさんもある種、強情だった。
「もし、ゆっくり時間を使った上で、なお貴女にそんな事をさせたなら、それはきっと私が原因でしょう。大丈夫です。ヒトミさんは、大丈夫ですよ」
彼女は、私の顔をまじまじと眺め、視線を落とした。落ち込んだ風ではない、私の言を咀嚼しているのだと思う。
「さて、ヒトミさん。ここまでは、上官としての言葉です」
「は、え? ……はい」
「此処からは、私、樋口個人として、今回の件に関して思うことです」
「は。はい」
「多少、驚きました。ある程度怒りもありましたが、それはもう収まっています。瑞穂さんもヒトミさんも、腹に据えかねる事情があったのだろう、と。今は飲み込めています」
「は、い……」
「それと貴女のしたこと。寝ている間に、私にしたこと……ですが。これは、1度しか、言いません。立場上、胸を張って言う事でもありませんし」
言っていいのだろうか、こんなことを。いつもいつも、考えなしに行動して、痛い目を見ているぞ?
しかし、動き始めた口はもう止まらなかった。
「驚いただけで、悪い気はしておりません。嫌悪感は、ありませんでした」
「え、あ。それって、その……」
「意味は、どうか察してください」
1度しか言わないと宣言したことだし、私は苦笑いを返すだけに留めておく。ヒトミさん、目が泳いでいる。泳ぎ疲れて、彼女自身の手元辺りに漂着するまで、待つこと十数秒。顔を隠すように掌を当て、耳まで真っ赤なヒトミさんは、小さな声を絞り出した。
「あ、あの、顔、あ、洗って……きます。見せられない……ので」
脳の鈍い私ですら、気づくことである。私が出ていった方が早かった。