サルベージ   作:かさつき

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 夜、草木も眠る丑三つ時である。

 

 昼時は日射によってある程度暖かかったが、日が落ちてしまえばもう熱源はない。

 夜の北陸。気温もそこそこ下がって10度くらい。日当たりの悪い一階の部屋で、体感温度は5度もなかった。

 

 

 

 体が冷えると、どうしてもトイレが近くなる。前任基地ではよく駆逐艦娘に付き添って、夜の便所に行ったものだ。

 だが私も、いい年こいて、お化けや幽霊の類が苦手である。まだ私が幼いころ、テレビでやっていたホラー映画は、今も私の心に深く大きな爪痕を残している。

 ふと後ろを向くと、やせ細った髪の長い女性が目の前にいて、恨みの眼差しを向けてくるのだ……。

 

 考え得る最低最悪のシチュエーションである。もう命はないーーそれぐらい怖かった。さしあたり、当時の私にできるのは、小便を漏らし、意識を手放すくらいのものだった。

 

 

 だが私も、もう大人である。現在の私であれば、土下座して泣きながら命乞いくらいはできよう。私は強くなったのだ。強くなったので夜中に一人でトイレもいける。どこかのれでぃとは違うのだ。

 

ーーしかし、まあ、怖いものは怖い。

 さっさと用を済ませてしまおう。一つ深呼吸をして、襖を開ける。部屋の中は寒いが、廊下はなお寒い。古臭く隙間風が通り放題の官舎(学生寮)は、断熱効果が極めて薄いのだ。ヒヤリとした空気は、私の勇気に水を差した。別に朝まで我慢できないこともないか………。

 

 

 

 俄かに怖気づき、襖を閉めかけた。その時ふと、例のホラー映画を見た後、布団に潜り込んできた私に祖父がかけた言葉がよみがえったのだ。

 

 お化けなんていない。恐怖を作るのは、いつも自分だーーー。

 

 私は、自らを深く恥じた。お化け、などというあやふやなものに、私は自身の進むべき道を、目指すべき標を、閉ざされようとしていたのだ。そんなもの、心が作り出した幻影である。私はもう、布団にくるまって震えていたあの頃とは違うのだ。目の前の暗闇を凛として睨めつけ、雄々しく猛る勇気で以て、恐怖を喰い千切った。

 

 私の心は今や此れ、真に獅子であった。あのときから今まで20余年。痛む古傷を庇いながらも、獅子は大きな一歩を踏み出した。便所へと。

 

 

 

 官舎の男子便所は、階段横を通り過ぎた先にある。一階には、私の部屋と津田さんの部屋、また、現在は休みを取っているらしいが、他の艦娘の部屋も存在する。二階にはヒトミさんの部屋があるそうだ。出動の機会が多い軽巡・駆逐級が一階。その他の艦種は二階だそうだ。消火器の位置を示す赤いランプが、内部の電球が切れかけているのかチカチカ点滅している。ぎいぎい軋む廊下の雰囲気と相まってなんとも不気味だ。

 

 

 便所の前に到着した。木造の扉を開け、中へと歩を進める。和式便器が一つある。普段からこまめに清掃されているはずなのだが、アンモニア臭が少々きつい。小さな換気扇だけでは、換気機能が不十分なのだ。臭いを誤魔化すために置かれた芳香剤と異臭が混じって何とも気分が悪い。不気味なうえ、臭くて不潔で薄暗い。様々な要素が絡み合い、このトイレを長居したくない空間へと仕上げていた。用を足してから、小さな蛇口で手を洗う。刺すように冷たい水で、眠気も吹き飛んでしまった。

 

 とにかく。

 お化け嫌いの獅子は、任務を完遂したのだ。あとは部屋に戻って眠るだけ。自らの成長を噛みしめ、意気揚々と便所の扉に手をかけた、その時である。

 

 

 

 

「ぎぃ」

 

 

 

 

 

 なにか、うめき声のようなものが、鼓膜を揺らした。

 

 手をかけた姿勢のままで硬直する。全身が粟だった。凍えるほど寒い時期なのに、嫌な汗が噴出した。しばし耳を澄ますが、何も聞こえてこない。恐る恐る振り返っても、そこには何もない空間ーーそれと和式便所だーーがあるのみだった。

 

 

 胸を撫でおろした。家屋の軋みだ。きっとそうだ。木造だから。古いから。潮風が吹くから。そうやって、自分を納得させる。さっさと帰って寝てしまおう。気にするな。気にするな。気にするな。また扉に手をかけた。

 

「あ……ぐ……うぅぅ」

 

 もう自分を納得させるのは不可能であった。完全に人語だ。軋みなどではない。これは声だ。さっき聞こえたのも。私は身動きができなくなっていた。さっきの声は廊下から聞こえてきた。女の声だ。まだ聞こえる。

 

「ぎ……うぇ」

 

 徐々に呼吸が浅くなる。心臓が早鐘を打つ。何かを引きずるような音も聞こえてきた。

 

 昔見たホラー映画の情景が蘇ってきた。振り返った先に髪の長い女がいる。彼女は主人公の首を絞めてくるのだ。徐々に意識が薄れていく。最期には意識を失った主人公の足を掴んで、ずるずる引きずりこんでいくのだ。闇の中へと……。

 

 歯の根が合わなくなった。ドアを開けた先になにかがいる。進退窮まった私は、情けなくも便所の中でしゃがみこんでしまった。今にも扉を開けてそのなにかが私を殺しにやってくる。そんな想像が止まらなくなった。

 

 獅子の心はどこへやら。最期になにか美味いものを食べたかった。早くもあきらめの境地に私はいた。

 

 そとの様子を伺う。そのなにかは、もう扉の目の前にいるようだ。すぐ近くで呻きが聞こえる。最期はせめて男らしく散ろう。

 

 

「助、け……て」

 

 

 扉の向こうのなにかが、聞き捨てならぬ言葉を発したのは、そんな覚悟を決めてから10秒ほどたった頃だった。弱く小さな声だったが、そのなにかは、確かに助けを求めたのである。

 

 顔が跳ね上がった。強張って動かなかった体が、動いた。冷や汗がひき、震えは止まった。

 

 一枚板を隔てて向こう、そこに何かがいて、助けを求めている。恐怖とか、あきらめがいなくなって、代わりに熱いものが何か、こみあげてきた。

 

 つくづく単純で、幽霊嫌いの激情家は、夢中で便所の扉を開け、廊下に飛び出した。

 ーーー向こうに何が待っているかも知らずに。

 

 

 

 廊下には、幽霊も、そしてお化けもいなかった。髪の長い女もいなかった。

 

 しかし、廊下にうずくまっていた「それ」は、人間でもなかった。

 

 

 

「ヒトミ…さん……?」

 

 

 

 廊下の「それ」は、女の姿だった。

 廊下の「それ」は、ヒトミさんの水着を着ていた。

 廊下の「それ」は、伊号潜水艦の艦橋とセイルを模した頭部艤装を着けていた。

 

 

 しかし「それ」は、どうにも、ヒトミさんではなかった。

 

 

「それ」は白髪であったーーー彼女は黒髪のはずだ。

「それ」は藤色の目をしていたーーー彼女の瞳は黒いはずだ。

「それ」は、まるで。

 

 

 

 もし、現在の日本で、国内防衛に携わるものが、今ここに百集まって「それ」を見たら、その百人が百人、とある一つの共通の疑問を持つことになろう。

 

 なぜ、ここに深海棲艦がいる………と。

 

 

 

 

 なぜ。引いたはずの汗が噴き出す。

 なぜ。呼吸が浅くなる。

 なぜ。またしても、心臓が早鐘を打つ。

 なぜ。何故。なぜだ。呆然として、体が動かない。思考の堂々巡り。同じところを回る。考えてもわからない。

 

 一対の瞳に灯された藤色の鬼火が、薄ぼんやりと廊下に浮かび上がっている。それに吸い寄せられるように、私は彼女を凝視して、動けなかった。

 

 

 

「げぇ……アァ……」

「それ」は未だに呻いている。表情は苦悶。ぼそぼそ動く口からは、不気味なノイズ交じりの声が漏れていた。

 

 ーーー深海棲艦。人類に対する怨敵であり、仇敵であり、天敵である。沢山の人が殺されている。そんな敵が目の前にいる。死に体で。

 

 

 

 

「い……ヤ、ダ。タス……け…ぇ」

 喘いでいる。苦悶の表情で。ひゅうひゅうと喉が鳴る音が聞こえた。

 

 ーーー絶好の機会である。見れば華奢な体ではないか。人間でも全力で挑めば縊り殺せる程度には弱っているように見える。

 

 

 

 

「沈、……クラ……い。シレ……か……ン」

 息も絶え絶えに、苦しんでいる。藤色の瞳には涙が浮かんでいる。喉をおさえ、うずくまっている。

 

 ーーー未だわからぬ深海棲艦の生態を解明する糸口になるだろう。或いは生きて捕縛してもよいかもしれない。こういう場合は鹵獲というのか。

 

 

 

 

「タす………テ」

 

 

 途切れ途切れで、彼女の声はほとんど聞こえない。ぐるぐる回る思考の中に、ふと祖父の言葉が落ちてきた。親戚の農家の収穫の手伝いをしたとき、言われた言葉だったか。

 

 

 ーーーー困ったときはお互い様だ。大変そうな人は、なるべく助けろ。きっとお前も、助けてもらえるから。

 

 

 その瞬間。静かで暗い思考の海の中で、私を捉えていた殺意の渦潮が消え失せた。代わりに、こみあげてきたのだ。さっきトイレを飛び出すときと同じものが。

 

 

 

 

 

 ひとまず。とりあえず。助けよう。彼女を。ヒトミさんによく似た深海棲艦を。種々雑多の様々な色々なことをどうのこうのするのは全部、それからだ。敵だろうが何だろうが、死んだらそれまでだ。もはや敵ですらなくなってしまうのだ。

 

 それは。それはきっと悲しいことなのだ。なるべくなら、皆生きていた方がいい。

 

 

 

 

 

 

 

「大丈夫か!息はできるか!」

 喉をおさえて、うずくまる彼女に寄り添って、何度か肩をたたく。

 人間の体と同じ構造なのかは知らないが、やってみよう。CPRは必要だろうか。

 

 

 意識の確認。顔は動かさないが、大声を出して呼びかけると、体がびくりと反応した。聞こえている。

 

 呼吸の確認。間隔は少々短いが、きちんと胸部が上下している。呼吸は正常か。

 

 拍動の確認。彼女の胸部に手を当て脈を確認したーーー驚くほど冷たい体だーーー通常よりも心拍数が多いが規則正しい。

 

 現状、心肺に特段の異常はないようだ。しかし、あまりのんびりとはしていられない。彼女に回復体位を取らせる。津田さんに応援を頼み、救急に連絡を急がねば。

 

 

 立ち上がろうとした瞬間、ヒヤリとした感覚が腕を絞めつけてきた。見ると、不気味なほど白い手が私をつかんでいる。弱っているのか疑わしいほど、強い力だった。ますます彼女が人外の存在であることを実感した。

 

 

「助けを呼んでくる。すぐに帰るから、待っていなさい」

「ダ……メ」

「ダメなものか。死んでしまうぞ……離すんだ!」

 

 彼女の握力が強すぎる。何とか振りほどこうとしたが、万力で固定されたかのように動かない。そろそろ握られている腕が、痺れを覚えていた。

 

 そうこうしていると、後ろから声が聞こえた。

 

 

「何を騒いでいるのです……!」

 

 女の声であった。基地所属の艦娘だろうか。今日は居ないはずだが何でもいい、助かった。手伝ってもらおう。

 

 

「すまん……!手伝ってくーーー」

 

 振り返って、もう言葉が継げなくなった。

 

 そこに居た女は。

 

 まず目に着いたのは、双眸に灯る朱色の光。

 腰まで届く骨のような白髪を横でまとめ、その髪に劣らぬほどの白い肌。過去に見た写真資料ーーひどく解像度の悪いものだがーーと、その特徴が一致する。その姿はほとんど、艦娘たちの口伝でしか聞いていないが。

 

 航空母艦の能力を有する人型の深海棲艦。その中でも極めて強力な個体ゆえに、イロハ識別称以外の特殊名称をつけられた者。その中の一人。

 

 空母棲姫。彼女がこちらを睨んでいた。

 

 

「な……なん……」

 私はもはや、口をパクパクさせているだけだ。

 

 未だ彼女はこちらを憮然として睨んでいる。まずい。この状況では殺される。万事休すか。絶望する私に、彼女はこう告げてきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「まったく。今何時だと思っているのです……」

 

 ………深海棲艦も夜は寝たいらしい。

 

「ご………ごめんなさい」

 

 謝ってどうするのか。もう様々なことが起こりすぎて、脳の情報許容量を超えている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「何があったのです……事と次第によっては懲罰対象ですよ」

 

 アッ、と思い出す。この際、空母棲姫でも何でもいい。彼女を助けねば。

 

「助けてください………!彼女が!」

「え…………あ……!」

 

 空母棲姫も彼女の様子がおかしいことに気が付いたようだ。

 

「最近は発作も減っていたのに………談話室に運んで落ち着かせましょう!」

 

 発作。そう言った。空母棲姫は、事情を知っているようだ。ヒトミさんによく似た深海棲艦に肩を貸しつつ、私たちは談話室に向かった。

 

 

 

 

 

 消火器の位置を知らせるランプの赤い光は、その間もずっと、不気味に廊下を照らしていた。

 

 

 

 

 

 




新艦娘より先に、深海棲艦が増えました。ごめんなさい。




2018/8/15 文章を手直ししました。

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