サルベージ   作:かさつき

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執務室を辛くも抜けだした私は、男子便所に逃げ込んだ。初冬の水道水で顔を洗うと、その痛いほどの冷たさが、強熱された心を落ち着かせてくれた。普段煩わしくさえ思う冬の厳しさは今、逆に有り難かった。鏡に映った男の顔は、いつも通りの私であり、先刻灼けるような怒りで真っ赤に充血したはずの皮膚は、もう急激に冷静さを取り戻していた。

 

ーーー私は、異常だ。

 

一体全体、これは、どうしたことだ。何故私はあのような、激しい怒りを覚えたのだ?何故私の心は、こんなにも不安定なのだ?いや、突然衝動的になるのも然ることながら、ほんの少し経つと直ぐ冷静になるのも、薄気味が悪い。経験上、一度生じた苛立ちや、怒りに類する感情は、その原因となったものが目の前に無いとて、容易には消えない筈だ。なんであれば、怒りに限った事もない。性格に由る所もあるかも知れないが、凡そ感情と呼ばれるものは、多少なりとも後を引くーーこと私に関して言えば、そうだった。なにせ萩風さんと上手く話せるかどうか、その不安がずっと胸中に巣食っていたからこそ、今朝胃を痛めて目を覚ました訳だし。

それなのに今は、どうしたことか。便所に来、顔を洗ってからほんの数秒ーー既に私は、不気味なくらい平常心だ。熱しやすく冷めやすいというにも、苦しい程の温度差である。これからも、こんなのがずっと続くのか……。

 

ーー戻りたく……ないなぁ。

 

便所の入り口をふと見遣ったのを皮切りに、今朝のものとは一味異なり、そしていっとう深刻な不安感が、胃の腑の底に沈殿し始めた。執務室に帰れば必ずや、彼女ーー萩風さんと顔を合わせることになる。先ほどは那珂さんが居合わせたから何とか正気を保てたものの、圧し潰されんばかりの感情の荒波と、今日1日たった1人で格闘しきる自信がない。どこかで、必ず無理が来る。その度ごとに便所へ駆け込む訳にもいかないし、かといって衝動に呑まれたら、ろくなことにはなるまい。萩風さんが怪我を負えば、私は暴漢として、その立場を危うくする事態になるし、反対に怒れる彼女の武力を、私が甘んじて受け入れたならば、今度は失神で済むかどうかーー首から上が吹き飛ぶのじゃないかと、疼く顎を撫でた。どちらが怪我を負ったにせよ、私の進退窮まること、火を見るより明らかである。

 

さて、便所の入り口付近、目隠しの辺りを、私が情けなくも往ったり来たりしている時のこと。私の迷いを粉砕せんと降臨したのは、先程執務室においても私を救済した女神、那珂さんである。静寂に染まる男子便所の中、彼女の声が、厳かに響き渡った。

 

「おーい、いるー?お腹、大丈夫ー?」

 

……厳かは、流石に嘘である。間延びして呼びかけるかの女神は、私が腹を壊して便所に駆けたのだと、その慧眼を以て、どうやらご高察あそばされた様子。特に恥じらいとか、緊張とかを滲ませぬ暢気な声、その塩梅は妙に心地良くて、割と切羽詰まっていたーー腹の具合のことではなくてーー私の不安感は、幾分減じた。

 

「え……えぇ。何とか、なりましたよ」

ひょこ、と顔を見せ答える。平然と嘘をついたことに対して、罪悪感と後悔が湧き上がった。この際、彼女に洗い浚い打ち明けて、協力して貰ったほうが、好ましいのではないか。最近の私は、如何顧みてもおかしい。1人で何とか出来る限界まで、もはや幾許もない予感がある。そこを下手に踏み越えてしまえば、後に待っているのは何かーーきっと、碌なことではない。しかし、出会って数日の男の悩みなぞ、仕事でもないのに聞いてくれる女性は、奇特と揶揄されるのが世間の実際だと、そういう偏見が私を躊躇わせていた。なんと言ったものかと頼みあぐねていると、女神の御業はまたしても、私に救いを授けるのである。

 

「萩風ちゃん、さ。やっぱり、体調良くないみたいでね?勝手に、仮眠室行かせちゃった。大丈夫だった?」

「そ………そうですか。まぁ、問題ないでしょう」

平然とした振りをする私だったが、その心中にあってはしかし、盛大に安堵していた。許可を取ってからにして下さい、と本来小言の1つもかますのが相応かも知れないが、私は彼女に感謝すら覚えていた。ひとまず急場は凌いだか、等と口に出せるわけもなかったから、人知れぬ溜息を鼻の穴からはみ出させ、代用した。

 

「それで、さ?あの……えーと、ね……」

那珂さんが、ふと口籠った。何か言いたげな風だったが、結局この時、彼女は止めてしまう。どうかしたのか尋ねみても、やっぱり良いや、と返された。訝しがる私を背に、今日はもう休む旨を伝えて、彼女は去っていった。その背中は、何故か沈んで見えた。

 

 

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「はぁぁ……」

大した事はしていないのに、酷く疲労した錯覚に陥った。事務処理を終わらせて、執務室に1人の私は、先ほど満足に出せなかった溜息を、存分吐き出した。急場をしのいでも、根本的解決には至っていない。安堵と不安の混合気体は、執務室へ霧散していった。机に置いてあったボールペンを弄びながら、ストーブの覗き窓に揺らめく炎をぼんやり眺める。何もすることは無いし、何も出来はしなかった。退屈感と無力感がとぐろを巻いて、私に天井を仰がせた。誰も居ない執務室は、その中に私を取り込んで、空気ごと固めてしまったようだ。

 

「あぁ……そうだ。トレーニング………」

不健全にも独り言つ私は、固化した部屋から何とか脱出を試みた。雁字搦めになった心身を引き摺って、辛くも椅子から立ち上がるーーその決心をつけるためにすら、2分程の時間を要した。体を動かそう、なんでもいいから、無心でいたい。できれば器械など在ればよいのだがーー津田さんに聞いてみようか。那珂さんの報告書を伴って、私は事務室へと向かった。

 

***

 

「あぁ、萩風さんが……分かりました。何かありましたら、連絡しますね」

筋力トレーニング用の器具がないか、と彼に尋ねてみると、思いの外素直に教えてくれた。萩風さんのことがあって、執務室を空にしてしまう訳だから、何かしら嫌味を言われるかと思っていたのだが、杞憂であった。如何やって器械を調達したのか、気になって尋ねてみる。確かこの基地の財政、燃え滾る炎に包まれていた筈ではなかったか。彼の言うことには、何代か前の司令官が、訓練施設を有さぬボロ基地を憂いたそうだ。知り合いにその道のプロが居たらしく、安値で譲ってもらったそうだ。其でも諸諸の問題が有って、結構な金が必要だったようだが。

また、運送業者に頼むにしても金は入用だから、運ぶのには津田さんが駆り出され、これが一番苦労したと、お得意の寄り道話が飛び出した。私大型もってるんですよ、とは津田さんの言ーー因みに、ゴールドであった。

それは兎も角、1階の奥の部屋に器械が置いてあるようだ。謝辞を述べ、その部屋に向かった。

 

***

 

「訓練室」と名札の掛けられた扉は、執務室に比してなんらの違いも無い。代わり映えのない、オンボロである。軋み具合はどんなものかと、私がノブに手をかけたその時である。ふと、部屋の中から金属音が聞こえた。がしょ、がしょ、がしょと、規則正しくも力強い音である。こんなにも朝早くから、トレーニングに精を出す者があるらしい。話相手が居るのは良いとして、1人で居たくもあって、なんとも中途半端で自分勝手な心情だった。誰だろうかと勘案しつつ扉を押すと、やはりと言うべきか、またかと言うべきかーーその軋み、執務室に負けるとも劣らぬ、素晴らしいものがある。部屋に入ってみると、何故かここだけ床がコンクリートである。入る時、不自然な段差があった所を見ると、此れは建物を建造する際の土台、そのままではないだろうか。中には、幾らかの運動器械が置いてあって、その1つに先客が座って居た。

 

果たして、其処に居た彼女は、私の予想だにせぬ人であった。

 

ほんのり汗の滲んだ薄手のスポーツシャツと、腰の線が露わになるレギンスパンツは本来、大抵の男にとって目の毒であろう。しかし今、それらはむしろ色気より健康を匂わせている。器械運動に励むそのしなやかな肢体においては、一流のアスリート達にも引けをとらぬ、重々しい力強さが溢れている。ところが其処に野暮ったい無骨さは一切なく、寧ろ美しさすら感じるのだ。衣服の上からでも見てとれる膂力が、彫像のような芸術性と融和し、其処に在った。私は彼女に対して、極めて時代錯誤なレッテルを貼っていたと理解した。

 

つまり、私は愚かにも、あの高雅な和装の下には、儚げで、柔らかで、丸みを帯びた、ステレオタイプな〝女性〟が隠れているのだと、そう考えていたのである。彼女の壮健な肉体と、無言の所作と、依然喧しく鳴る金属音とが何より雄弁に、そういう認識の誤りを主張していた。

ーーよくよく考えてみれば、当たり前か。彼女はその身に、三十余の水上機を搭載し、海を駆るのだ。脆弱な体躯でやっていける筈もない。

 

「…?」

扉を開け放ったことで訓練室へと流れ込んだ冷気が、彼女に来客を告げたようだ。ラットプルダウンに勤しんでいた彼女は、ふと入り口を見遣った。私を発見するや否や、慌てて姿勢を正して敬礼してきたので、私も返した。

 

「お、お早う、御座い、ます。提督」

息を弾ませる彼女は普段、私のことを「提督」と呼称する。私は将官ではないから、提督と呼ばれるのに多少の違和を覚えたが、気に障るわけでもないので特別訂正しなかった。

 

「早くから、お疲れ様です。瑞穂さん」

 

***

 

「あの如何、なさい、ました?…フー…何か、御用事でも……」

呼吸を整えながら、彼女が尋ねてきた。

 

「いえ、用事と言うか……久しぶりに、体を動かそうかと」

「そ。そうでしたか……」

言承けを返しつつ、ざっと室内を見回してみれば、成る程、必要最低限は揃っている。財政火の車とはいうものの、妙に本格的な器具が多いような印象だ。前任基地で利用した物よりも支柱が太く、頑丈に作られている。津田さんの言っていた「その道のプロ」というのはボディビルダー専門のトレーナーであろうか。ひんやりしたコンクリートに腰を下ろし、ストレッチを始めると、未だ直立不動の姿勢を保つ瑞穂さんと目が合った。彼女は、珍獣を観察するような眼である。

 

「瑞穂さん。続けて頂いて良いですよ?」

「は、はい、失礼しました……!」

そうは言いつつも、やはり彼女は此方の様子を、ちらちらと伺ってくる。確かに、基地司令官の眼前にて、自らのトレーニングに没頭できる肝っ玉を持つ者など、そうそう居るものではない。タイミングが良くなかったかと後悔したが、彼女もすぐ慣れるだろうと考えて、気づかぬ振りをした。

大まかな準備運動を終えた私は、さて軽くバーベル上げでも、とトレーニングベンチに近づくのだが、肝心のバーベルを見てギョッとした。というのも、やけに沢山の重りが取り付けられているのだ。重量表示を見てみると、20KGと表記されたプレートが、両側6枚ずつ計12枚。240キログラムを下らない負荷が両腕に圧し掛かれば、私の肩など一撃で脱臼する。バーベルで遊ぶ不届き者は一体どいつだ、と一時は憤慨したが、思い直した。

 

そう言えば艦娘なる存在、個人差あれど、並の人間では足元にも及ばぬ身体能力を有している。彼女らの体を鍛えようとすれば必然、並大抵の負荷ではいけない訳で……。折々視線を寄越す瑞穂さんに尋ねてみると、体を一瞬ビクッと痙攣させーーそんなに驚かなくてもーー答えてくれた。

 

「えぇと……何代か前の提督が、出撃が少なくて体が鈍るだろうと、特注したとか…」

聞いた話ですが、と彼女は付け加えた。

「特注…と言うと」と私。

「なんでも其のお知り合いに、こういった類の器械を造っている方が、いらっしゃったとかで」

 

……その道のプロって、そういうことか。譲って貰ったと言うか、造って貰ったわけだ。

この部屋の床が、剥き出しのコンクリートである理由が、何とはなしに推し量れた。普通より重量のある器具類を、単純な床にいくらも置こうものなら、あっという間にへこむか、傷が付くかしてしまう。木張りの床などは、一晩で抜ける。一端部屋をリフォーム(?)してから、運び込んだのだろう。金がかかるわけだ。津田さん云うところの〝運ぶのに苦労した〟は強ち、単なる余談ではなかったのかもーー本音の苦労話とも、本気の愚痴とも、知れなかった。

 

結局私は、60キログラム程度の重りに付け替えて、筋力トレーニングに励むのであった。

 




26話です。

萩風さんとの絡みは、もう少し先になります。ごめんなさい。


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