〝女の子はみんな可愛いものが好きなんです〟
そのように豪語したのは、前任基地の明石さんであった。
艤装改修の進捗芳しくなく、徹夜3日目に突入せんとしていた彼女は、鼻息荒く〝レンチ〟の魅力について語ってくれた。ひんやりした感触が、くびれたフォルムが、手に馴染むあの重みが、全てが可愛いく、完成された工具なのだとか。
自慢の品々をずらりと並べ、垂涎せんばかりの彼女にある程度の戦慄を覚え始めていた私は、どれが好きかと問われ困り果てた。ボルトを掴む部分の大きさを調節可能なものーーモンキーレンチというらしいことは後で知ったーーを指差した私は、彼女曰く〝わかってる人〟だそうだ。
私は慄くばかりであったが、今にして思えば明石さんの一言はなかなか、面白い言葉である。
女子は皆、可愛いものが好きという理屈は、正鵠を射つつも順番が逆である。どこかの誰かが、女の子の好きなものを「可愛い」と定義したのだ。これは全く迷惑なことであって、そもそも、可愛いものを好きなのが女子だけとは限らないのだ。小動物を愛する男が居ても良いではないか。そんなことだから、性の多様性が明るみになる昨今、生きづらさを感じる人が増えたのであってーーと、そんなことはどうでも良い。
いずれにせよ、明石さんの言葉は真実。レンチは可愛いーー彼女にとって、絶対の真実であった。
ただ残念ながら、大多数的な感覚からある程度のズレが存することもまた、真実である。大抵の人は、レンチを愛せない。
長年連れ添った道具に愛着を覚えているだけならば共感も出来ようが、当時の彼女の様子を、素の状態と仮定すると、どう見てもそんなステージにはいなかった。同僚を変態呼ばわりするのは憚られたので、睡眠不足で酩酊した脳から発露したSOSなのだと解釈しておいた。ちなみに、あれから程なくして艤装改修が完遂したので、彼女はレンチに囲まれ、レンチを抱き、レンチを枕にして、永い眠り(12時間)についた。
ところで、愛着という機能は、生物であるなら皆が持つ、原始の習性だと私は思う。
イヌにせよ、ヒトにせよ、触れて心地よいものであればある程、その機能は強く表出する。布団が嫌いな人間は居ない。というわけでーー。
「ふんふん、ふふーん♪どしたの海佐ぁ?テンション低ぅい!」
おもちのわがままぼでぃを堪能した那珂さんが今、こんな風になっているのは、別に全然異常ではないのである。珍しい(?)生き物に触れられて満足したようだ。彼女は今にもシャル・ウィ・ダンス、ハミングまじりの上機嫌。軽妙洒脱のリズムに合わせ、ステップ刻まんばかりの足取り。私も何故だか急に楽しくなってきた。私の十八番を、披露してもいいくらいの心持ちでーーー。
………いや。いやいや、ちがう。待ってくれ那珂さん。
かぶりを振って、状況の認識を改める。確かに全然異常ではないのだがそれにしても、さっきのいまで、態度が変わり過ぎであろう。
ーーー長い付き合いには、しないよ………絶対に、させない。
あの一言を言ってのけた、厳かな貴女は一体何処へ行ったのか?私はあれで、真に嫌われていると再確認したのだ。つい10数分前まで身内自慢をしていた人が急転直下豹変した。ところが、今の彼女は鼻唄なんて歌って上機嫌である。私が言えたことではないのだが、那珂さんといい神通さんといい、態度というか情緒がどこか安定しない。
いやちがう。安定しないというよりは寧ろ、何か相反するものが鬩ぎあっているというのが適当か。望まぬこと、手に余ることを強いられる時に生じる不協和を、私は今まで見てきたのかも知れない。
嫌いなものでも残さず食べなさい、と父に叱られたのは何時だったか。
解っていても、できないことがある。一方で、望まずとも実行せねばならないことがある。
彼女らの中には、相反する何かがある。それらはまた、軽々に口に出せないものでもあるようだ。
矛盾した何かを無理やり呑み込んで、それをずっと内に抱えておくと、何時しか心が疲弊して、その斥力は腹を引き裂く。泣けるのなら、助けてと叫べるのなら、まだいい。しかしながら、そんな環境がこの基地にないことは、火を見るよりも明らかである。ただでさえほとんど毎日、誰かの為に過ごす彼女らが、他人を優先させることを運命づけられた彼女らが、こんなに寂しい場所で、誰もいない海に向かって叫ぶだけで、心の負荷が減じよう筈もない。
きっと那珂さんは、これが正しく那珂さんなのだ。私の前を軽やかに歩くあれこそ、真で素で正直な、彼女の姿。
では、その反対とは、一体何者だ。彼女らが望まぬこと………?気ばかり急くが、そこは私。生憎なことに、結論を導ける優秀な頭脳を、持ち合わせていなかった。
馬鹿の一つ覚えで人に聞くしかできない私だが、現状で教えてくれそうな人はもう、ヒトミさんくらいだ。そう言えば今日の午後のシフトには、ヒトミさんが入っていたはずだ。昨日の赤城さんのように、一対一で話せる場ができる。また同じようにはぐらかされる気もする。あまり期待は出来ないが、聞いてみるとしよう。
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執務室の前で、瑞穂さんが待っていた。
先刻と180度転換したウキウキの那珂さんを見て、とても面白い顔をみせた瑞穂さんの報告内容は、格納庫前で聞いたのとほぼ同じで、護衛に関して特段の懸案事項は無かったとのことだった。
「あ、あの。提督……?さっきのことは………その」
PCに向かい作業する私に向けて、瑞穂さんは恐る恐る聞いてきた。私が向き直ると、彼女は直ぐに目を逸らした。那珂さんは、そう云えばそうだった、と言わんばかりに顔を引き締めた。意外とおっちょこちょいなのかも知れない。
「………先ほど、津田さんに諭されてしまいました。時期尚早である、と」
2人は私の発言の意図を計りかねている様子で、きょとんとして愛らしく、首を傾げた。
「皆さんの態度から鑑みるに。私は未だ、この基地の一員として認められていないようです」
私の言葉を2人は如何とらえたか。彼女たちから目を逸らし、俯いて、項垂れた。
「考えてみれば、ごく数日。時期尚早と言われて、なんの申し開きもありません。子どもの頃から、事を急く悪癖がありまして」
ここに来てから数日間、今迄の人生からは考えもよらない体験ばかりしている。印象深いことばかりだから長い気がしていたが、よく考れば濃いだけで、長くはない。まして、彼女らにとって初対面に等しい男が、急にずかずかやって来て、基地の事情を教えろ教えろと、有難迷惑にも及ばない。心に土足で踏み込むに等しい、侵略行為であった。
口を噤んでしまった彼女らの表情からは、何も読み取れない。だが、色を失したその2対の眼だけは、ある感情を帯びて、再び此方へ向けられた。格納庫前で那珂さんがあの言葉を言い放った時も、彼女たちの瞳には同じ感情が灯っていた。
冷静になって考えれば、格納庫の中から妙な音がしただけ。傍から見れば、何をムキになっているのか分からないだろう。だが今になって、何となく分かった。私は何が、気に入らなかったのか。これだ、この感情だ。
格納庫から聞こえた妙な音、それが長い間認識されなかったこと、私に対してひたすら隠蔽しようとすることなども、確かに気になるが、それ以上に。それに関して尋ねたときの彼女らの瞳に、私は度し難いものを感じた。それは基地内の、そこかしこに在るかも知れない。
「でも、諦めたくありません。放っておきたくありません。皆さんの眼を見ていると、このままではいけないと、強く思ってしまうのです」
彼女たちの瞳に灯るのは、諦念、であった。目の前にある綺麗な宝石を、酔っ払いの吐瀉物で汚されたような不快感があった。それに誘われて、同じく諦めそうになる自分も不快だった。
父の言葉を思い出す。詩的に過ぎて、当時の私はポカンとしていたが、今なら理解できる。
ーーーヒトの眼は、前を向くためにある。後ろを向くための目など存在しない。後ろを向こうが、横を向こうが、向いた方向が自分にとっての前なんだ。
恐らく彼女たちは真に、父の言う〝後ろ〟を向いていた。それが、堪らなく嫌だ。どう考えたって苦しいのに、そこから脱するのを諦めている。「学習性無力感」、「どうせこのまま」、「やっても無駄」、どれもこれも、私が憎悪する言葉である。その責任の所在は、彼女らにないかも知れない。環境か、隊の上層部か、世論か、なんであるにせよ、冗談じゃない。
自由を押し潰され、あまつさえそれを、甘んじて受け入れさせられるなど、全く以て、冗談じゃない。そんな場所で何も為さぬなど、私の正義は許さなかった。
「お2人はいま、嫌なことを嫌なまま、受け入れているように見えます。私は、それが堪らない」
残念なことに「人のため」とか「正義」なんて、〝私〟の頭の中にしか存在しない。そして、私が勝手に考える「人のため」は、どうも「意地」に似た形をしているらしい。それがなるべく、この基地や彼女らにとっての「有難迷惑」に似ていないことを願おう。エゴだと非難されても仕方ないが、顔を上げたエゴイストはもうほとんど、開き直っていた。エゴの無い世界など薄味だ、と。
「そんな悲しい眼をした人たちを、放っておきたくありません。自分勝手でごめんなさい。長い付き合いに、させて見せますよ」
2人に向けた宣言は、彼女たちの綺麗な眼を、いつもよりもほんの少し大きく、開かせるくらいの威力しかなかった。
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昼休憩の時間である。
どうせ暫くやることは無いのだ。那珂さんは、今日の深夜シフトに備えるために、昨日と同様早めにあがらせた。
同時に瑞穂さんを労って、こちらもまた帰らせた。去り際、2人がした敬礼は昨日の様子からは想像もつかない程、流麗であった。
さて。
宣言したは良いものの、そのための具体的な方策を思いつかない辺りが、底の浅い私である。昼飯をモソモソと咀嚼しながら、体をモゾモゾと捩らせた。寒い。そう言えば格納庫に向かうとき、ストーブを切っていったのだった。朝と同じく手こずりながら再点火。悴む手を暖気で緩めながら、思案した。
いっそ、強硬策をとってみようか。事務室の鍵を半強制的に取り上げ、格納庫の中を検める。味方が居らず、1人でやったとしても、モノを出していくだけなら数日かければ可能かも。
いやーーー。
正体不明の怪音は、見える範囲から発していたものではなかった。モノのジャングルを掻き分け踏み分け、奥も奥まったり、最奥辺り。そこに正体がある。現実問題、1人では無理だ。というか抑々、私の独断行動など容易に阻止できることだろう。向こうは艦娘、ぺちゃんこに組み伏せられておしまいである。小柄な萩風さんーーシルクの拳を思い出して顎が疼いたーーにすら、勝てるか怪しい所だ。モノを庫外に出す必要があるから、夜中にこっそりと言うのも非現実的か。やはり、誰かに聞く位しか方法はないか。だがそれこそ、最も成功率が低そうに思えてしまう。
八方塞がりかーーー。
待て待て、だめだ。これではだめだ。諦めたくないなどと宣っておいて、早速思考を放棄している。これではいけないーー思考停止は悪徳だ。嘆いていても仕方がない。情報不足は決定的だが、手持ちでなんとかする他ない。まずは現状の整理から。幸い整理は得意だった。水雷戦隊の駆逐艦娘は、物を散らかす子が多いから、それが上手く作用した。どちらかというと、入院の一件以降、大淀さんに鍛えられてーーー。
「……大淀さんか」
其処まで思考して、ふと思いついた。
考えてみれば私が来る迄に、異常に多数の前任者がいる。中央の事情に詳しいであろう大島海将や大淀さんなら、風の噂で1人くらい知っては居るまいか。そう言えば、神通さんと赤城さんの上官は、栄転したなどと聞いている。この基地の経験者が、隊の何処かに居る可能性もある。その人も、何か知っているかも。
善は急げ。善かは不明だが、急がねば。大淀さんと大島海将、2人の持つ仕事用の携帯電話にメールを打とう。まずは時候の挨拶を。次いで、この基地と私が置かれた状況。最後に情報提供のお願い。流石に中間体のことは伏せた。
外部からこの基地を客観的に眺めた時、他の人はどう考えるのか。特に大淀さんは、どう考えるのか。艦娘どうしの人間関係を、私はいまいち把握していない。普段クールな大淀さんも、義憤に駆られたりするのだろうか。それとも、私には関係ないとばかりに突っ撥ねられるだろうか。そう云えば、私はもう2人とは別所属なのだ。何とも寂しいことだが、他の基地の事情に2人を巻き込むのも、筋違いかも知れない。
最後にもう一文、付け加えた。
「お忙しい所へ、恐縮も至極にございます」
送信。さて、私は私に、出来ることをしよう。ヒトミさんが帰投するには、まだ暫く時間があった。
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ーーーー失礼致します。
ーーあれ?ご苦労様。もう定時過ぎてるけど。
ーーーーええ、少々ご相談が。
ーーん……ああ、新人君のことか。なかなか仕事できるってな。
ーーーーはい、それはもう。楽ができて、若干退屈です。少しオドオドしたところがありますが。
ーーまあ、あの若さだもんな。ゆっくりでいいよ。
ーーーーところで、相談と言うのは別件なのです。
ーーありゃ。
ーーーー………ある人から、厄介ごとを頼まれまして。
ーーあー……。俺も。
ーーーーそうでしたか。
ーーん………。
ーーーー全く。全くあの人は、一体全体何なのでしょうか。漸く頭痛の種が消えたかと、清清していたところへ、全く。全くあの人はぁぁ。
ーーはぁ……。
ーーーーそれになんです?この文面は。「これではあんまり気の毒です」ちょっと上から目線なのが気に入らないのよ!
ーーうん……。
ーーーーと、言うか、自分でどうにかしなさいよ!直ぐに人に頼って、仮にも司令官でしょうが!その無用にデカい頭は何のために引っ付いてーーー!
ーーごめん。本題は?
ーーーー申し訳ございません、取り乱しました。
ーーそうな。
ーーーー極めて迷惑、かつ非常に不本意ではありますが確かに、かの基地に所属する艦娘たちが、かなり厳しい立場にあろうことも伺えます。あの人は別として。
ーー結局のとこ、助太刀しましょうって?
ーーーーまあ、情報提供ぐらいなら、と思いまして。ご意見を伺いに参りました。
ーーそうなぁ、どうしようか?
ーーーーどうしようもなにも、ご存知でしょう?あの基地の諸々を。
ーー………バレてたか。
ーーーーバレる、というか態とじゃなかったんですか、あれ。
ーーそういうつもりじゃ、なかったんだけどなぁ。
ーーーーま、彼は終始、間抜け面でしたが。
ーー………あのさ、さっきから思ってたんだけどな?きみ、あいつのこと嫌いなの?
ーーーー深海棲艦よりは好きですよ。
ーーきっつぅ。
ーーーー私の辞書では、「海佐」と書いて、<ざんぎょう>と読むのです。
ーーあったね、色々と。ぶっ倒れたときは驚いた。
ーーーーええ。
ーー隊を辞した者について、か。分かんないこともないが、もろに個人情報だ。
ーーーーですから、厄介ごとです、と。悪用するなと釘を刺せば、大丈夫かとも思いますが。あの人なら。
ーーおや、信頼してんだな。
ーーーー別に有能ではありませんが、そこそこの人格者です。それだけは認めます。
ーー確かにな。俺もそう思うよ。
ーーーーでは、その様に。彼らの在隊時の様子、勤務地、除隊後の状況、程度で良いでしょうか。
ーーいいんじゃないかな。そこから何か解る訳でもなし。
ーーーー…………そうですか。
ーーこんな時間に、お疲れさん。
ーーーー2つ伺っても?
ーーん、なんでしょ。
ーーーー本基地に、川内という軽巡洋艦娘が居ます。
ーーいるね、賑やかな奴だ。
ーーーー彼女がこの会話を聞いていたら、こう言うだろうと私は考えております。
ーーほう。
ーーーー「知ってるなら、教えてやればいいじゃん」と。
ーーふむ。
ーーーーあと、「なんでそんなことするのさ」とも。
ーーへぇ。
ーーーー本人の指揮・采配は、それほど堪能ではありませんが、樋口海佐は不思議と妖精さんに好かれていました。ちょっとお菓子を配った程度で、あそこ迄なりません。
ーーその通りだ。前はよく働いてくれてたが、最近は妖精さん皆、落ち込み気味だ。
ーーーー私の仕事を増やす人でしたが、基地全体としてはどちらかといえば、利のある存在ではなかったかと。
ーーん。
ーーーー基地の不利益をおしても、飛ばす理由があった。だから、貴方が何かに働きかけて、飛ばすよう仕向けた。そう考えても?
ーー鋭いね、その通り。報告会に連れて行ったのもその為だ。予定とは違ったけど。
ーーーー態と情報を伏せたのは?
ーー俺の勘だよ。多分あいつは、理性より感性だ。頭より直感働かせた方が、いい仕事するんだ。
ーーーー余計な疑念や、先入観を与えたくなかった、と。
ーーそういうこと。
ーーーーでは、肝心の飛ばした理由とは?
ーーさっき君も、云ってたじゃないか。あいつと言えば?
ーーーー海佐といえば………極めて迷惑、間抜け面、無用にデカい頭、残業………悩みますね、どれでしょうか。
ーー………あれだ、人格者。
ーーーーええ、はい。まぁそうでしょう。
ーー冷徹になり切れないことは、戦場で致命傷にすらなり得る。だが人間的には当たり前のことだ。
ーーーー………ええ、そうかも、知れません。
ーーボロボロの奴に向かって、無理にでも立ち上がれって言うのが戦場なら、今の日本であっこだけは、戦場じゃない。
ーーーーえ、と。つまり………?
ーー適材適所だ。向いてると思った、それが飛ばした理由さ。
ーーーー…………聞いた所によると、危険手当をもらう者もいるとか。
ーーお、よく知ってるね。大丈夫、大丈夫。信頼できる奴が2人いるから。
ーーーーそうですか。それならば、これ以上申しません。どうせ聞いても教えてくれませんし。
ーーよくご存じだ。
ーーーーでは本日は、お先に失礼します、大島海将。
ーーご苦労様。わざわざありがとうね。お休み、ヨドちゃん。
遅くなりました。
ちょっと長めです。