ぎりりぎりりと悲鳴のような軋みに慄きながら階段を上がった。
そこには一階と同じような廊下が伸びていたが、各部屋の入り口に立てられているのは、襖ではなく木製の開き戸であった。一つ一つが黒ずんだ古い木材を使ってあり、その上廊下が薄暗いこともーーー2階だというのにーーー相まって、無闇とおどろおどろしかった。
お化け屋敷みたいな廊下を進み、赤城さんに教えてもらった部屋の前まで来た。
私の部屋と同様の名札がかかっている。毛筆で伊13。ここで間違いないようだ。
木製の扉を軽くノックすると、ゴツゴツという音がした。中が空洞になっている安物であることが伺い知れた。
少ししてノブが回り、扉が細く開いた。
障子を閉め切って、電気を消していたのだろうか。仄暗い隙間から藤色の光が、どろりと私を捉えた。
未だこの姿には、恐怖を覚えてしまう。深海棲艦の姿をしたヒトミさんが、顔を見せた。
「う、あ………こん、にちは」
いつも声が小さい人なのだが、今はさらに弱弱しい。どうにも体調は芳しくないように思えた。
「どうも、お見舞いに来ました。お体の具合如何でしょうか」
私が挨拶すると彼女は、その切れ長の目を少し見開いて言った。
「え………あの、ちょっと……待ってて……ください。お部屋……片付けます、から」
「あ、いえ私はすぐにーーー」
お暇します、と言い切る前に扉が閉まってしまった。
幾つか話したら、お粥を渡してすぐに帰るつもりでいた。まして部屋にあがる気など毛頭なかったのだが。かえって気を遣わせてしまったようで申し訳ない気持ちになった。
暫くすると復た扉が開きーー今度は電気を点けたらしいーー艦娘姿のヒトミさんがひょっこりと顔を出した。
「どうぞ………何もない、部屋ですが」
「は……はぁ。わざわざ、どうも」
ごく自然に部屋へ招かれてしまった。彼女には、警戒心とかないのだろうか。断じて疚しい気持ちはないが、一応私も男なのだけれども。
ただ昨晩、腕を掴まれた時のあの腕力を思い返すと、そんじょそこらの男には易々と組み伏せられそうもない。狼藉をはたらかれても、返り討ちにできるという自信の表れかもーーーいや、彼女に限ってそんな気はないだろう。
単純に、無垢なのだ、多分。
部屋の概観は、ほぼ同じだった。純和室に、座椅子と卓袱台とハンガーラックがあった。しかし、自前の家具がいくつか置かれているのが、私の部屋と異なっている。
小さな箪笥に扇風機、くず入れに小ぶりの本棚。
寒空の下、水着で外をほっつき歩いていた者に必要とは思えないが、暖房器具も取り揃えてある。ホットカーペット、電気ストーブ、そしてあれは湯たんぽか。
加湿器なども置いてあって、シュウシュウ言いながら蒸気を噴き出していた。
この部屋を指して〝何もない〟とは、言わないと思う。
………果たしてこういう類の物は、全体この町のどこで手に入れれば良いのだろうか。
是非教えてほしかった。
「あの………わざわざ、すいません。私、なにもお構い……できませんが………」
これからの季節をどう乗り切るかに思いを馳せていたところ、彼女が何やら恐縮した様子で話しかけてきた。至極個人的なことに思考が傾いていたため、むしろこちらが申し訳なくなった。
「あ、いえ。すぐお暇しますので。私こそ、突然押しかけてしまい申し訳ありません」
「いえ………昨晩も……ご迷惑を」
「あぁ、いえ……それこそ、ご無事なようで……」
「あ、いえ……まだ少し……」
「あぁ、そうでしたか、すいません」
「いえ……ごめんなさい」
「いえいえ、大丈夫です、はい」
傍から見る者がいたら、どんなにまどろっこしい会話と思われたことだろう。
この数瞬のうち何度〝いえ〟が使われたのだろうか。
卓袱台に相対して正座した男女が、互いに恐縮しあっている。
何だこれは。新手のお見合いか。
望まない政略結婚か。様々な思惑に翻弄される若い女性と三十路過ぎの男。
阿呆の私は、テレビの見すぎだった。
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さて、互いにひとしきり恐縮しあった後、私は持ってきた鍋を差出した。
「ヒトミさん、消化に良いものを、と思いまして。卵がゆです。お嫌いでなければ」
「あ………え……?」
予想通りの反応であった。というのも昨日炊き込みご飯を作っていったときと全く同じ。彼女は甚だ驚いた、というような顔を作った。もう慣れっこである。
「如何ですか。食欲など無いかも分かりませんが、こういう時こそ、普段より栄養を摂った方が良いと思います」
「なんだか……すみ、ません……」
また彼女が恐縮し始めた。唯でさえ小さい体をさらに縮こませていた。
「好きでやったことです。お気になさらず」
「……!……!」
例のごとく、ヒトミさんは随分驚いた様子だ。
…………いや、いくらなんでも驚きすぎではなかろうか。
口をパクパクさせるヒトミさんの目は、今や普段の2倍くらいになってしまっている。
昨日も思ったが驚きの沸点が低すぎる。きっと彼女は、お化け屋敷とかホラー映画の類が大の苦手であろう。そういう点では、大変親近感を覚えるが、少々常軌を逸していやしまいか。インターホンや電話の着信音で心臓発作でも起こすのではあるまいか。
「ど、どうされました」
そこまで驚かれると流石に気になって聞いてみた。
すると彼女は、暫く黙ってしまった。
何かを言おうとしては止め、言おうとしては止めを繰り返しているように見えた。
ややあって、声が聞こえた。蚊の鳴くような声だった。
「あ、あの……こ……怖く、ない……の……?」
ようやく彼女が絞り出した声は、ひどく震えていた。
そして、彼女の体も、震えていた。
彼女の声は、何かに縋るようだった。
また同時に、何かに怯えるようだった。
赤城さんの言葉を、もう一度聞いた気がした。
〝気味悪がられ、はじかれ、途方に暮れて。そうして、ボロボロになった心を引き摺って、ここに流れついているんです〟
ひと昔前、古い小説に、こんな話を読んだことがあった。
あれは確か、虫になってしまった男の話だ。
妹に助けて貰いながら、生きる男の話。
もし、自身の肉体が異形へと変貌してしまったならば、私はどうするだろう。
家族も仲間も友達も、まず私を、私とは思わないだろう。
ただの異形が、自分のことを私だと云っている。
そんな風にしか思われない。
惨い孤独だ、と思う。
仲間はいない。私を支えるものは何もないのだ。
今まで築いてきた人間関係も、社会的な地位も、経済的な基盤も、家族からの愛情さえ。
その一切を、突然切り離されてしまう。
私は、耐えられるだろうか。
極上の孤独を、生き抜けるだろうか。
ーーー無理だろうな。
昔の私は、そう思った。
その小説の最後は、男にとって救いのあるものには、思えなかった。少なくとも当時の私には。
もし、私の家族、仲間、友達が異形へと変貌してしまったならば、私はどうするだろう。
そいつは、悍ましい姿で私に縋りついてくる。
おれだ、わたしだ、何故わかってくれないのか、と云って異形の手が絡みついてくる。
或いは、悪臭を放つ粘液で覆われた手。
或いは、極彩色の警告色に彩られた手。
或いは、びっしりと毛で覆われ、ぞわぞわと蠢く手。
或いは、醜く腐り果て、肉が爛れ落ちた手。
或いは---骨の様に白く、氷の様に冷たい手。
私は、その手を取るだろうか。
彼を、彼女を、その人だと認めてやるだろうか。
ーーー無理だろうな。
昔の私は、そう思った。
そんな諦めは、自分の弱さを直視するようで、当時の私は、何かの焦燥を抱いていたような気がする。私の中の正義が自分を許さなかったのかもしれない。いや、正義などと高尚なものではなかったか。
唯の子どもの癇癪と同じだった。自分の力でどうしようもできないものに、駄々をこねていただけだった。
だが、少しずつ私は、変わってきたのかもしれない。
ここに来てから。
あの日、あの夜、あのときから。
いままさに、彼女の言葉を聞いてから。
ーーー先の言葉、たった一言のために、彼女はどんな勇気を振り絞ったのだろう。
今度は、私の番だーーそう思った。
私は、彼女の問いに答えた。
「私は、怖いです。あなた方が」
「あ………は…い……」
ヒトミさんの顔が上がって、悲しそうに歪んだ。
嘘は吐きたくない。でも、それだけではない。それだけで、終わるわけにはいかない。
「でも、それが。何故だかとても悔しいです」
「………え」
「なんとも、説明し辛いのですが。うーん、と」
見苦しくもそう前置いて、私は話し始めた。
「あなた方のことは、確かに怖い。未知の部分が多すぎる。しかし同時に……同時に、えぇと、あなた方は、そんなに害のない、なんと言いますか、普通の艦娘とくらべて、あんまり、いやむしろ何も、変わりのない存在ではないかと、そう、思う自分が、いるのです。そういうことを、あー、考えると、えぇと、あの」
あーあ、と心の中で声が聞こえた気がした。
口下手が、云いたいことを考えながら、下手な口を使うことを試みたら、この有様である。
いつも通りの私だった。
「あ……の、ゆっくりで………いい、です。聞いて……ますから」
さっき赤城さんからも、全く同じことを言われた気がする。
恐れ入ります、と謝辞を述べ、また私は、えっちらおっちら、話し始めた。
今度は、努めて、ゆっくりと。
「そういうことを考えますと、ね?あなた方を苦しめているのは、ひょっとしたら、私、いや私たちなのではないかと、思うのです。つまり、あなた方がーー普通の艦娘となんら変わりないはずのあなた方が被る、疎外とか敵意とかはもう全くの筋違い、理不尽ではないか、と思うのです」
またほんの少し、大きくなったヒトミさんの眼は、黒曜石のようで、とても綺麗だった。吸い込まれそうな純黒が蛍光灯に照らされ、てらてらと濡れ輝いていた。
「つまり、そういう人たちが、この基地に押し込められ、あまつさえ悲しい顔で寂しい日々を送っている、もっと酷な理不尽を受けている、そんな状況に、どうにも耐え難いやるせなさと、悔しさを覚えるのです。私は」
「だから、ヒトミさん」
私は、小さく言葉を切った。
「は……い……?」
「お粥、食べてください。それが嫌いなら、別のものでもいいですから。少しでいいからなにか、食べてくださいーー元気になって下さい。できればまた、あの時の笑顔を見せてください。そしてできれば、少しでいいですから、幸せになってください。私も、手伝いますから、ね?」
一番、伝えたかったのは、多分これだと今になって思う。
何かを言おうとした彼女の声は、少し詰まって消えた。
まだ、彼女は救われたわけではない。
それがどんなものになるか、何時になるかもわからない。
しかしーーー。
つぎはぎのみっともない口上だったが、少しは気持ちが伝わったろうか。
彼女の振り絞ったひた向きの勇気に、少しは報いることができたろうか。
いや違う。
これから報いるのだ。この基地で。
また俯いてしまったヒトミさんを待ちながら、そんなことを考えていた。
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ヒトミさんは卵がゆを、少しずつ食べ始めた。
もそもそと口を動かす様子は、なんだかウサギに似ており、大変愛らしかった。
いくらでも眺めて居られる気がしたが、早々に立ち去ることにした。
食べ切れなければ、談話室にでも置いておいてくださいね、と言い残し部屋を後にした。
談話室に戻ろうとする私の後ろを、ぼんやりと光る妖精さんが、追いかけていた。