009 それぞれの幕開け
早朝、青年はストレッチを実施した後、ジョギングを行っていた。適度に体が温まったところで境内に戻り、石畳の上で上体起こし、腕立て伏せ、スクワット。
乱れた呼吸を整えつつ、冷たい石畳に座り込んだ。澄み渡った空気、小鳥の鳴き声、風に揺れる木々の葉音が心地よい。
汗を腕で拭っていると、タオルが差し出される。差出人を見れば、そこには朗らかな笑顔を浮かべた緑色の髪の巫女。
「カミツレさん、どうぞ」
「あ、うん。ありがとう」
青年は早苗からタオルを受け取り、顔や首を丁寧に拭く。ほんのりといい香りがしており、安らぎを覚えつつ気持ちを落ち着かせた。
チラリと早苗を見れば、ニコニコとした笑顔を浮かべたままである。
「随分、機嫌が良さそうだね?」
「あ、わかりますか? 幻想郷に来る時からいいことばかりでしたから」
「そっか……良かったね?」
「はい!」
汗を拭くフリをして、赤くなった顔を青年はタオルで隠す。ひょっとしたら勘違いかもしれないのだが、早苗の嬉しそうな眼差しを見れば、そうも思っていられない。
早苗は基本的に本心を隠すことはない。それは誰に対しても同じで、長所ではあるものの短所ともなる。
青年にとってそれは、面倒なやり取りをする必要がないために歓迎すべきことではあるが、不意をついてくるのは勘弁してもらえないかなと切に願うのであった。
「洗濯しますので、そのタオルと今着ているものはカゴの中に入れておいてください。あと、ついでにお風呂で汗も流すといいですよ」
「あ、うん。ありがとう」
「お世話するって言いましたから。掃除した後で、一緒にご飯食べましょうね!」
早苗はそう言って、箒を手に鼻歌を歌いながら掃除を再開した。それを見て、青年は一つ息をついてから神社とは別の建家の中へと入っていく。
幻想郷で暮らし始めてから2日が経過した。日々穏やかであり、これまでの苦労が嘘であったかのように信じがたい、青年にとって幸せな日々。
願わくば、何事もなくこんな日常が続かんことを。
廊下を歩いていると、料理の材料が入っていると思われるザルを持った五月雨を見かけた。五月雨は青年に気づくと、ザルを左腕に抱えてその場で敬礼する。青年もぎこちないながら、五月雨へと答礼した。
「司令官さん。おはようございます!」
「おはよう、五月雨。朝食の用意かな?」
「はい! もうすぐできますから、待っててくださいね!」
「うん、ありがとう。火傷や怪我には気をつけて」
「お任せ下さい!」
ペコリと頭を下げる五月雨。それと同時にザルも下げてしまったために、中に入っていた野菜が転がってしまった。微笑ましく思いながら、謝る五月雨と一緒にそれを拾う。
ペコペコと会釈しながら厨房へと去っていく五月雨。あの調子ではまた転ぶかもしれないな、などと思いながらも、青年は浴場へと向かった。
守矢神社は生活機能が充実している。青年はてっきり神社は神社の機能だけしかないものだと思い込んでいたのだが、本殿とは別に厨房であったり浴場であったりと、人が暮らすには十分な機能があったのだ。
ライフラインは外の世界と異なるため、初日は電気も水も止まっていた。しかし、諏訪子の手によって水が、神奈子の手によって電気が供給されるようになったために、一部は外の世界と変わらない水準で生活できる。
浴場の湯に至っては、神奈子が二日目にして温泉の湯を引いていた。どこで源泉を見つけたのかと尋ねれば、少し技術交流があっただけだ、と肝心なところは教えてもらえない。
が、青年からすれば、艦魂の子達の部屋を用意してもらえただけでも十分であった。
神様の力ってスゲー。
浴場の前に到着する。扉が閉まっているのを確認してから、青年は脱衣所をノックする。中からは、一人の少女の声が聞こえた。
「は、はい! 現在吹雪、叢雲、電が入渠中です!」
「使ってたんだ、ごめん」
「司令官!? いえ、三人とももうすぐ入渠は終わります!」
慌てるような吹雪の声と、中でドタドタと走るような音。それを耳にしてから、急がせてしまったかなと青年は指で頬をかく。
神奈子が引っ張ってきた湯の効能として一つ。幽霊という存在である彼女たちを“癒す”効果が確認された。
吹雪から聞いた話では、彼女たちの怪我は放っておいて治るようなものではない。その説明を受けた際に、神奈子がもしやと入浴させたのである。
かといって、そのお湯に浸かれば直ぐに治るというようなものでもない。怪我の度合いによって治る速さは変わり、ゆっくり治っていくというのは人間となんら変わりない。
その姿も人間の少女と変わりなく、人格があるところも感情を持つところも、むしろ人とどこが違うのかと目を疑いたくなるほどである。
彼女たちと自分の違いは一体何なのだろうか、と尋ねられれば、真っ先に答えられるのは幽霊と人間という点。それと、戦えるか戦えないかという点である。
しかし、それ以外。人間らしさとでもいうような部分については、すぐに答えられるようなものではない。まるで少女のように笑う少女たちを、どうして人格がないなどと否定できようか。
物思いに耽っていれば、慌て気味に脱衣所の扉が開かれる。
「司令官、お待たせして申し訳ありません!」
「いや、僕もタイミングが悪かったから反省してた。えっと、この前の怪我はもう治ったのかな?」
「はい。みんなかすった程度の損傷でしたので、問題ありません!」
ほんのりと熱を帯びた頬に、湯気をホカホカと全身から立ち昇らせている三人。まだしっとりしている髪と赤く染まった唇は、少女の姿ながらどこか妖艶さを感じさせる。
(見た目子供なのに、こんなに色気が……って、いかんいかん)
ほんの僅かにでも抱いてしまった驚きの気持ちを振り払うように、青年は口を開いた。
「三人はこれからどうするの?」
「私たちも、厨房で朝ごはんを作るお手伝いをするのです」
「そっか。僕も後で向かうから、それまでお願いね」
「私たちがミスをするとでも言いたいの?」
「ううん違う。どんな朝食が出るか楽しみだから、見に行くのと合わせてね」
「なら、食卓に並ぶまで待っていなさい。驚かせてあげるわ」
どこか優しさを感じさせる叢雲の言葉に、青年は少しだけ苦笑する。口元を押さえて、吹雪と電も微笑んでいた。
三人が厨房へ向かう背中を見送ってから、青年は脱衣所へと入る。
着替えは既に持ってきている。青年は靴下を脱ぎ、脱衣カゴの中へ丁寧に入れる。服を脱ぎながら、青年は吹雪たちと改めて相談した時の話を思い出していた。
『私たち艦娘がこれからもこの幻想郷で暮らしていくためには、まず“燃料”が必要となります』
燃料。軍艦にとって動くために必須であり、それなくして実体化することは困難、戦闘も不可能となる。
ただし、これは解決している。艦娘全員に食事を食べさせると、燃料として認識されたのだという。なんということはない、ただの栄養摂取が彼女たちの原動力なのだろう。
幽霊がものを食べられることにも、食事で体力が回復することにも驚きではあったが、これからは艦娘と一緒に食事を取ることになったのである。
『それから、今の私たちのように、戦闘で傷ついた場合は“入渠”しなければなりません。ご命令とあらばそのままでも進撃しますが、一定以上の損傷を負えば十分に戦闘を行うことは難しくなります』
これについても問題はない。今のところ幻想郷に来た日以降に戦闘はないのだが、怪我をした場合は守矢神社の浴場で修理と同等の効果が得られるようになっている。
本来ならば“鋼材”が必要になるそうだが、湯に入るだけで問題ないという。彼女たちが装備する“艤装”が壊れた時は修理する際にそれも必要にはなるが、諏訪子が精製可能というのだから問題はない。
だが、残る最後の一つは解決できなかった。
『戦闘をする際には“弾薬”が必要です』
弾薬は予め必要となる。装備に憑く付喪神に弾薬を預けておき、付喪神と意思を交わしつつ武装を使用するのだという。
この弾薬だけは、青年もどうしようもできない。他の問題は勝手に解決されたために、せめて何か一つぐらいは、建前のようなものであろうと彼女らの上司として何かできないかと模索しているのだ。
結果は、全て空回りであったが。
(頼りない提督さんだよ、全く)
下着も全て脱ぎ、汗を流すために青年は丸裸となった。浴室に入ろうかと思った時に大きな鏡が目に入り、鏡に映る自身の体を少しばかり見つめる。
(3年もまともに食べたから……流石に肉は人並みについたかな?)
ため息を一つ吐き、浴室の扉を開ける。
乾いたドアの音。視界を遮る湯煙の中を突き進み、青年は整頓されて置かれている洗面器を取り、湯を頭からかぶった。
気持ちよさが全身を伝う。僅かばかりの間その快感を感じた後、青年は体を洗い始めた。
(もう外の世界には戻れないなあ)
身体をこする音が浴場に響く。
今更戻ったところで、路頭に迷うだけであることはありありと想像できる。後戻りができなくなった今時分、幻想郷で生きていくしかない。そしてもう、その思いに迷いもなかった。
今の自分に出来ることは、目の前の出来事を正面から受け止め、真摯に向き合うことなのだから
頭と全身を洗い終わり、青年は再び頭からお湯を被る。三度ほどかぶった後、青年は――
浴場から出ようと、扉へ足を向けた。
「ま、待て待て! ちゃんと湯船につかっていけ!」
背後から聞こえた声は――神奈子のものであった。
一人だけで入浴していたと思っていたために、青年はその驚きの声に対して飛び上がるように驚いてしまった。
まるで機械のように、ぎこちない動きで首を後ろへ向けようとするも、
「わあああああ待てこっちを見るな! そのまま動くんじゃない!」
神奈子の慌てた声に、青年は質の悪いロボットのように首を正面に勢いよく向けて直立する。
が、青年とて疑問を抱かないわけではない。
「か、神奈子さん!? なんで神奈子さんがここに!? さっき吹雪に聞いたら駆逐の子達が3人だけという話でしたが!?」
「朝風呂をしてたら彼女たちが入ってきて、仲が良さそうだから邪魔しないように気配を消してたんだよ!」
「そ、それで、出て行った後は僕が入ってきたと?」
「あ、ああ、そうだ!」
それは気まずいかもしれない。誰だって、自分が入浴中に異性が入ってくれば戸惑いもするだろう。
ところで、神奈子が自分の方を向いているとするなら、神奈子は自分の尻を凝視していることになるのだろうか、などと間抜けなことを考えるより先に、青年は疑問を口に出す。
「じゃ、じゃあ、どうして声をかけたんですか? 隠れられるならそのまま隠れておけばよかったんじゃ……?」
「い、いや、それはカミツレがお湯に入ろうとしないから……」
「えっと……なんというか。風呂に入ろうとすると途端に体が震えてしまって。ただの水は怖くないんですけど」
「怖い……? ……その身体のこと、早苗は知っているのか?」
「……言うつもりはありません」
「……わかった、そういうことなら」
「助かります」
神奈子の指摘する青年の体。現在の状況は、扉に向かう青年と、それを湯船の中で背後から見る神奈子。
その位置取りで神奈子から見えるのは、青年の背中。“大小様々な傷”、その多くが切り傷や内出血の痕であり、所々変色すらしていた。
「理由……聞くのはダメかい?」
「……聞いても、気分のいいものではないと思いますし」
「私がお前にしてやれることはないのか? なあ?」
「幻想郷に来れた事、それと守矢神社においてもらえることは、素直に嬉しいんです。身体も、“今はもう”痛みませんのでお気遣いなく」
孤児院から解放された、幻想郷へ来た今となっては、それら全ては過去の出来事となった。
隠すつもりもない。だが、知られて余計な気苦労をかけるのは望まない。恥ずかしさもあるが、何より面倒。
今更早苗に知られれば、どうなるかぐらい青年でもわかる。あの優しい友人なら、今から孤児院を滅ぼしに行きましょうなんて言いかねない。
だから、神奈子の深く立ち入らない対応に、青年は安堵の息を漏らした。
「そうか……なら、“いつか”話してくれ。で、どうしてお湯に浸からない?」
「神奈子さんがいるからですよ。混浴なんて嫌でしょう?」
「うっ、そ、そうだな。私も恥ずかしい――ではない! さっきと言ってる事が違うだろう!」
「昔、同じ孤児院の子に気味悪がられて、一緒にお湯に浸かりたくないと言われたことがありまして。で、院長から直々に“教育”されたんですよ。それだけです」
「教育……とは?」
「湯船に顔を沈めて溺れさせる。ね? 子供がお風呂を怖がるようになるの、簡単でしょう?」
「……あのな」
神奈子の重いため息をついた音が青年の耳に入る。
「私は叱らないし、諏訪子も早苗も叱らない。叱るとすれば、カミツレがちゃんと湯に浸からないことについてだ。身体の疲労も取れるんだぞ」
「……浸からないと怒られるんですか?」
「そうだ、怒ると怖いぞ? 特に諏訪子が一番怖い。昨日天龍という艦娘が湯呑を割って叱られて涙目になっていたぐらいにはな」
「それは怖そうです」
「ああ。だから叱られたくなければ、ちゃんと湯に入れ。いいな?」
「叱られるのは怖いですからね。……まあ、善処することにします」
満足そうに相槌を打つ神奈子の声が聞こえる。
「ところで」
「うん、どうした?」
青年は顔が暑くなってくるのを感じていた。ずっと湯気の中に晒され、全身が暑い。更には頭がボーッとしてきている。長時間浴場にいるという経験もそれほどない。
加えて、神奈子に長時間見られていることに気恥ずかしさは増すばかり。青年も一人の男児。裸を見られて羞恥心を感じないわけではない。特にお尻は恥ずかしい。
「そろそろ、限界なんで……ここから出ても――」
様々な感情が混ざる中、言葉の途中で力が抜ける。世界がうねり、全身がタイルに打ち付けられるも、痛みに悶える暇もなく青年は目を回した。
畳の香りが脳を刺激する。
目を覚ませば、青年は自身が寝所として利用している部屋で布団に寝かされていた。上半身をゆっくりと起こし、何が起きたかを振り返る。
(思い……出した!)
特に大したことではなかった。
ふと横を見れば、神奈子と諏訪子が布団のそばで座っている。
「カ、カミツレ。その、大丈夫か?」
「えっと……大丈夫です」
「すまなかった。まさかのぼせるなんて思ってなくて」
「自分でも驚きです。後ろ姿とは言え、ずっと見られてたのは恥ずかしかったですし」
途端に、神奈子が顔を赤くして俯いてしまった。神様がこれほど恥ずかしがるのだ。自分の身体はもしや、男性的にセクシーダイナマイツだったのだろうか。いやそうに違いない。
ふと、自身が服を着ていることに気づく。
「あ、手当したのは私だよ」
と、諏訪子がニヤニヤと笑いながら口を開く。気のせいか、被っている帽子もケタケタと笑っているように見えた。
「神奈子ったら可愛かったよ。裸のまま私のところに来て、カミツレ君が風呂場で倒れたなんて報告しに来るんだもん」
「えっと……」
「あ、もちろん君の裸も見たから。まあ、それは色々とね」
「う、く……」
「まあ、タオルでぐるぐる巻きにしてここまで運んだから、私と神奈子以外は誰も君の裸は見てないよ」
「……助かります。ありがとう……ございました?」
傷を見られたのを2人、否、2柱までに抑えられたのは僥倖だろう。青年としても、その点についてだけは感謝する他ない。
「うん、色々と見たよ。色々とね」
「諏訪子、そこまでに――っ」
「神奈子は可愛いなあ」
その笑みを青年だけでなく、神奈子にも送る諏訪子。神奈子は諏訪子の言葉でナニかを思い出したのか、更に顔を伏せてしまった。
もちろん、青年も同様である。
「カミツレさん、何もない廊下で滑って転んで頭をぶつけて意識を失ったと聞きましたよ! だらしないですね、大丈夫ですか!」
ドタドタと廊下を鳴らして駆けつけたのは早苗であった。早苗は部屋の障子を開け、2柱の隣に座る。
非常に不名誉な意識の失い方――事実の方も不名誉であるが――となっていることに苦笑いするも、心配して来たのであろう早苗に何とか笑みを返す。
「うん、まあ大丈夫。心配してくれてありがとう」
「怪我がないなら良かったです。でも、カミツレさんでも転ぶんですね!」
「別に運動神経が特別優れてるわけでもないから」
「そんなわけないじゃないですか! でも、新しい発見ができたので私としてはちょっと嬉しいかもです」
「酷い言いようだね……」
「私の知るカミツレさんって、今まで欠点らしい欠点もありませんでしたし」
そうだったかなと思い返してみるも、かと言って特別優れた点があるわけでもなかったように青年は思い返す。
幼い日の思い出は美化されるんだな、としみじみ思うのであった。青年の中に残る早苗との思い出も同様に、である。
「おっす、おはよう提督。失礼するぜ」
「ご主人様、朝食をお持ちしましたよ」
早苗の後ろから、天龍と漣が料理を載せたお盆を持って現れた。二人は青年の布団の傍に座り、お盆を畳の上に置く。
味噌汁の芳醇な香りが鼻をくすぐり、揚げ物の香ばしさが食欲を掻き立てる。切られた漬物の乗った白米は、これでもかと言わんばかりに茶碗に盛られていた。
「今日の朝食は竜田揚げセットだ。このオレが作ったんだから、しっかり食えよ?」
「朝から揚げ物って……あの、かなり量が多くない、かな?」
「ご主人様、おかわりもあるよ!」
ふと、神奈子と天龍がアイコンタクトを取り、唇を歪ませるのを見た。青年はそこでようやく神奈子が何か言ったのだろうと気づき、喉を唸らせる。
「まあ、うん。有難く頂くよ」
「おう、もらっとけ」
天龍が少しばかり照れるように頬をかき、漣がテキパキと箸を準備しお茶を入れた。
とは言ったものの、まるで漫画のように盛られたこの白米を食べきれるのだろうか、と青年は不安を抱かざるを得ない。
「あ、天龍。私たちのご飯もここに持ってきてね。皆でここで食べよ」
「あぁ? なんでオレがお前の分まで――」
「天龍、湯呑」
「わ、わかったよ、湯呑の件はホントに許してくれよ……」
少しばかり情けない返事をした天龍は、重たい足取りで漣を連れて部屋から出て行く。それを手伝うと言って、早苗も二人について行った。
部屋の中には、再び神の2柱と青年が残るのみ
「まあ、なんだ」と、神奈子が落ち着いた表情で口を開く。
「私たちはまだ幻想郷に来て日が浅い。対外的な立場もまだ安定していないんだ。そんな私たちに必要なのは、何より内輪で協力することだな」
「は、はあ」
「神奈子ーはっきり言いなよ。家族に遠慮するなって」
「バ、お前は、人がいい話をしようとしているのに!」
「そもそも私は幻想郷に来るのは賛成もしてなかったよね?」
「それを今言うのか! あのまま外の世界に残っても無駄だと言っただろう!」
「私はそれでも良かったよ! このバ神奈子!」
「お前のためでもあるんだよ、カ諏訪子!」
ぐぬぬ、と2柱が共に鋭い目つきで睨み合う。内輪で協力と言った傍からこの始末。しかしこれも家族の一つの形と思えば、そう悪いものではないのかもしれない、と青年は目を伏せる。
家族なんてどうでもいいと、少なくとも自身の中では、横暴で粗悪で忌まわしいとさえ思っていた。自分勝手で他人行儀で、自身のことは物扱い。
だがもしも許されるなら――。家族をそういうものだと認識していたというのに考えを改めてもいいというのなら。
今この瞬間、この時間の守矢神社という場所での人生は、過去どんな想いを抱いていたとしても、新しく受け入れるべき――宝なのだ。
「じゃあ、さなちゃんと神奈子さんと諏訪子さん、それに艦娘の皆……と僕。揃って『守矢一家』ですね」
神奈子と諏訪子の拍子抜けした顔に、青年は照れ隠しのように目を逸らす。
やがて、艦娘全員と早苗が料理を持ってやってきた。青年を含んだ円を作るように座り、それぞれが笑顔で食事を始める。
青年も、それを見て微笑みを浮かべたまま食事を始めていた。
「わ、私脂っこいものはちょっと」
「ね、ねえ、味噌汁の玉ねぎ食べてくれないかしら」
「ナスは嫌いなのです!」
「こら、お前たち、好き嫌いするんじゃない! ほら、ちゃんと三角食べしないと体に悪いぞ!」
思い思いに食事をする駆逐艦の少女たち。それはそれで子供らしくていいのだが、それをまとめようとする天龍はまるで幼稚園の先生のようだと青年は苦笑する。
「神奈子の揚げ物もーらい」
「あ、こら諏訪子!」
「私に相談しなかった罰だからね。これでぜーんぶ許してあげる」
神の2柱は、行儀が悪いことにおかずの取り合いを始めていた。箸と箸の喧嘩などではなく、力と力の殴り合いで。
「はい、カミツレさん。いっぱい食べてくださいね」
「い、いや、おかわりは流石に……」
青年がなんとか山盛りの白米が盛られた茶碗を空にした途端、早苗が二杯目をこれまた山のように盛る。悪気がないのが余計に辛い。
賑やかな団欒。楽しい食事。ありえないとすら考えていた幸せが、目の前にあった。どこかで求めていたものに、青年の手は届いていた。
だから。
自分はこれで良かったのだろうと、今はそう思える。
守矢神社の境内。朝食をとり終えた青年は、本殿前の石段に座って空を眺めていた。たかだか一日二日で気候が変わるわけでもなく、相も変わらず9月の心地よい風と揺れる木々の葉音が安らぎの音楽を奏でる。
ボーッと空を見つめる青年。穏やかなのはいいことであるが、その一方で焦りのようなものも感じていた。
(これじゃただの寄生だな……)
海に現れる怪物が現れたという情報は、初日以降耳にしない。ここ数日間は大人しいもので、だからこそ艦娘たちがゆっくり休憩することができたとも言えるが。
しかし、直接的に怪物を屠る艦娘と違い、青年自身に出来ることはほとんどない。だからこそ、己の存在意義について悩みを持った。
艦娘は海でやることがなくとも、神社で掃除や料理などするべきことを見つけて実行している。掃除ぐらいならばと青年も箒や雑巾を持ったのだが、全て早苗や艦娘が仕事を取っていってしまうのだ。
一度は食事を作ろうとはした。だが――
『あれ、材料が足りないや。紫さんに頼む――いや、自分で“とってこよう”』
敷地からなるべく出るなという神奈子の忠告をこっそり破り、“食べられるもの”を採ってきたのだ。
その結果。
山菜はともかく、爬虫類や虫の類は火を通しても全員のヒンシュクを買った。魚とキノコはどうにか食べてもらえたが、それ以来厨房に立つことを禁止されてしまったのである。
艦娘はどうにか食べようとはしていたが、あまり好んで食べたいものではなかったようで、士気に関わっても困るので結局取り下げた。
今の自身は、やるべきことが見つからず、ただ女子を働かせて食って寝て運動するだけの男であった。
(やっぱダメだ。仕事を探しに行こう!)
決断し、立ち上がる。自身を司令官と、提督と慕ってくれる艦娘たちのためにも、自身を養ってくれている守矢神社の3人のためにも。
自分に出来ることを見つけなければ、幻想郷に来た意味は、ここで暮らしていくと、やり直すと決めた意味はないのだから。
「お邪魔するわよ」
「ホワァ!」
立ち上がった青年の目の前に、突如としてスキマを開いて現れる紫。あまりに驚いたために、奇声をあげながら尻餅をついてしまった。
紫の隣には、九つの大きな狐の金色の尻尾を携えた、ワンピースのような服を来た女性が立っていた。白磁の如き透き通った白い肌の顔とナイトキャップ。ピンク色の唇と儚げな表情。それでいて切れ長の瞳を持つその女性は、まさしく傾国の美女と称するに相応しいかも知れない。
突然現れた美女2人に放心していたが、ひとまず立ち上がって尻の砂汚れを払う。少しの間紫とその美女の顔を行ったり来たりと見比べていたが、どうしても狐の美女の方に見とれてしまった。
しかし、青年も社会人として3年間働いてきた身である。小さく咳をついて喉を整えると、深いお辞儀とともに口を開いた。
「お、お初にお目にかかります、茅野守連と申します。紫さんのお知り合いでしょうか?」
「これはご丁寧に。この前はご挨拶叶いませんでしたが、紫様の式神、九尾狐の八雲藍と申します。主人がいつもご迷惑をおかけしております。どうぞ藍とお呼び下さい」
青年の態度にわずかばかり目を見開いたかと思えば、八雲藍という女性は青年と同様に頭を下げながら丁寧に言葉を発した。
顔を上げたその表情。優しく慈愛に満ち溢れており、隣に立つ胡散臭い、いや本当に胡散臭い表情の紫とは大違いである。
「式神、といいますと?」
「簡単に言えば、あなたとその配下の子達との関係のようなものですよ」
簡単に説明をし過ぎているようにも感じられるが、要は主従関係にあるということで間違いないのだろう。式神とは――と詳しく説明されたところで、青年自身も理解できないことなどわかっているのだから。
紫より一歩引いた位置に控えていることからも、主従関係にあることは伺える。
「随分……紫さんと物腰が違いますね?」
「私の恥は主人の恥ですから。まあ、どちらかというと主人の恥が私の恥になっている場合の方が多いのですが」
「ははあ……苦労されている、と。心中お察しします」
「お気遣いが誠に胸に沁みます。カミツレ殿にも大変なご迷惑をおかけしたようですし」
「いえ、お気になさらず。悪い気分ではありませんでしたから」
「そう言っていただけると、私としても安心です」
青年と藍、二人揃ってハハハと笑い合うのを、紫は面白くなさそうな瞳で見ていた。口を尖らせている様子は子供のようである。
「二人共、仲良くなれそうで何よりよ」
「ええ、それはもう」
「紫様、私カミツレ殿のことがいたく気に入りました」
「あなたの主人は誰だったかしら」
「紫様ですが」
「……もういいわ」
藍は表情からわかるほどご機嫌である。対する紫は、まるで拗ねているかのように眉を寄せていた。
藍との話もなかなか面白いのだが、青年も本題を聞かなければならない。
「それで、紫さん。今日は何か用事でしょうか?」
「ええ。早速あなたと艦魂の子達の協力が必要になるから」
「怪物でも現れたんですか?」
「現れるかもしれないから、その護衛をお願いしたいのよ。私たちが目的にしているのは“塩”よ」
「塩、ですか?」
以下、紫の話の要点をまとめるとこうなる。
幻想郷において、塩は岩塩からのみ採取される。塩不足になりそうな時は紫が外の世界から持ち込むのだが、勿論安定して供給されることが望ましい。
そして、現在は海がある。沿岸の監視で中々手出しもできなかったが、青年が現れたことにより、塩の確保に乗り出せる算段がついたらしい。
「紫様は本日他にも用事がありますので、私八雲藍が付き添います。それから、紫様が塩の精製方法の知識をさずけた里の人間も来ます」
「で、僕は艦娘たちに海上の警備をさせる、ということですね」
「はい。陸の上ならば私が守りますので、海はお願いします」
とは言ったものの、青年も命令を出せばそれっきりである。基本的に青年は指示を出したらその後はただの人なので、青年も藍に守られるしかない。
最も、怪物が襲ってこなければ何も問題はないのだが。
「事が上手く進みそうなら、守矢神社に塩を無償で提供するつもりよ?」
「……なるほど。なら受けましょう」
「いいのかしら? 今日は彼女たちに確認を取らなくても」
「僕に任せると言ってくれました」
「いい返事ね」と紫が微笑む。青年も、これでようやく神社の役に立てると思い、胸をなでおろした。
塩は生活に密接に関わってくる。もし塩の製造に成功したならば、塩が足らんのです、などと厨房を困らせることは少なくともなくなるだろう。
「そういえば、紫さん。他の用事というのは……」
「ええ、そろそろ来るはずよ」
「来る、とは?」
紫の言葉に青年が怪訝そうな表情を浮かべると、その途端境内に突風が巻き起こった。落ち葉と砂が舞い、青年はたまらず目を瞑る。
何かが破砕されるような甲高い音が響いた後、ようやく風が収まったかと思えば、境内の中心には二人の人物が立っていた。
「あやや、本当に神社の結界を破壊するとは思いませんでした」
山伏風の赤い帽子を被った、黒い短髪の少女が唖然とした表情で話す。
「私の技術力を舐めてもらっちゃ困るよ」
その少女が脇に抱えていた、青緑色のツインテールの背の低い少女。緑色のキャップを被り、背中には彼女の体躯ほどもある大きなリュックを背負っていた。
「えっと、どちらさまですか?」
「どうも、幻想郷の伝統ブン屋『文々。新聞』の記者の射命丸文です」
「私が呼んだのよ」
垢抜けた笑みを見せる射命丸文という少女。紫は扇子を開き、そのまま続ける。
「妖怪の山の天狗が、この神社と交渉がしたいけど結界があって話すらできないって困っていたの。交渉自体は介入しないけれど」
「あやや、お恥ずかしい限りです。我々天狗ではこの結界の対処が難しかったものですから。結果的にはにとりさんの道具でなんとかなりましたが」
「私が手を出す必要もなかったわねえ」
文という少女はどうやら天狗であるらしい。比喩ではなく、種族としての天狗。
青年も幻想郷についてある程度紫から話は聞いている。人間、妖怪、幽霊、あらゆる種族が住まい、暮らす場所。
驚きはするものの、知識があるのとないのでは大きく違う。ただ――
「ふふん、河童に頼るなんて天狗もまだまだだね」
「ははは、その通りです。とは言っても、私は今回交渉役として来ただけですので、その言葉は戦闘部隊の方にかけるのが望ましいですねえ」
「嫌だよ、あいつら容赦ないし」
その言葉だけは、青年も逃しようがない。
「かっ……ぱ?」
「ん? おや、確か数日前に私からものすごい速さの泳ぎで逃げていった人間じゃないか」
「え、あの時の?」
「そうだよ。いや、突然のことだったとは言え、私も驚いたよ。まさか私とドスコイドスコイの速さの泳ぎを見せつけてくれるなんてね」
「相撲とってどうするんですか……」
違う、と青年は首を振った。青年の知る河童はこんなに可愛くはなかった。少なくとも幼い日に襲ってきたあの河童は恐ろしい、それこそ妖怪のような形相をしていたのだ。これが幻想郷なのか、と呆れてしまう。
「まさか、滝壺に飛び込んでくるなんて思いもしなかったよ」
「あ、いえ、僕も上空から落とされましたし」
「それってどういう状況なの。……空、飛べないよね?」
「え、はい」
「……下が滝壺で良かったねえ」
と、河童の少女は自分のことでもないのにしみじみと微笑んだ。その顔を見て、ひとまず青年は心に飼っていた警戒心を解く。
「僕は……守矢神社に居候している茅野守連といいます」
「私は河城にとり、技術屋さ。確か、外の世界から来たんだよね? 私は外の世界の技術には目がなくてね。何か持ってないかい?」
「技術、ですか?」
技術といっても、すぐには思いつかない。青年も荷物を整理した上で幻想郷に来ているため、幻想郷で使えないものは処分してきたのだ。
しかし、習慣からかポケットに入っていたそれはすぐに思いつく。
「これ、携帯電話と言うんです。もう使わないので、これで良ければ……」
「ホントかい? 嬉しいよ!」
大した特徴のない携帯電話。それを手に取ると、にとりは目を輝かせた。
「カミツレだっけ? 君はいい奴だなあ。もし良かったら、色々と外の世界の科学の話を聞かせておくれよ」
「こんなことでいい奴って……。えっと、僕も専門ではないのですが、それでも良ければ」
「十分さ。ありがとう、盟友!」
携帯電話を胸に抱きしめ、満面の笑みを浮かべるにとり。携帯電話一つでここまで人――否、妖怪は笑顔になれるのかと青年は眉尻を下げる。
周りを見れば、紫も藍も、文さえも困ったような顔でにとりを見ていた。もちろん青年も、初対面から勢いに押されていることは間違いない。
しかしそこで、青年は技術屋という言葉に心惹かれる。
「あの、一つお願いを聞いてもらえないでしょうか?」