銀行を出た青年は、アスファルトの地面を踏みしめた。澄み渡る空の青さは幻想郷と変わるものではないが、車通りの騒がしさだけは、ここが今まで生きていた世界だということを教えてくれる。
歩き出して、数歩。肩元に紫のスキマが現れ、声のみが届いたため、青年は銀行の壁に背中を預けて携帯電話を耳にした。
「あら、それ電話? 私とお話がしたいのかしら?」
「携帯もなしに喋ってたら、独り言を呟く変な人に見られますからね」
「それで、もう終わったの?」
「ええ。振込はおしまい、残高は全て募金、口座も解約しました。財布にちょっと残ってるぐらいですね。紫さんは?」
「あなたの荷物、言われたものは全部守矢神社に運び込んでおいたわ。辞表とかいうのも、ちゃんと会社に置いてきたわよ」
「これで、もう僕は文なし職なしの男になってしまいました」
ははは、と乾いた笑いがこぼれる。幻想郷での未知の体験はまるで夢のようであったというのに、外の世界、今まで過ごしていた世界で何もかもを失ったことで、ようやく実感を得た。
ああ、自分は本当にこの世界からいなくなる――忘れ去られてしまうんだな、と。
フッと、視線を街中に移す。生まれ育ったこの山の中の街。就職する時、自分から街を出ようと思ったときは、何の気持ちも芽生えなかったというのに。
(どこかで……帰りたかったのかな)
名残惜しさが胸を刺す。己の空虚な心に甘えが残っていたのかもしれないとぼんやり考えるのだが、なぜ帰りたかったのかなどわかるはずもない。あれだけ遠ざけようとしたふるさとであるというのに、もう二度とこの景色を見ることができないのだと思うと、ふと心に影がかかった。
だが、これでいい。
過去は消えないが、今になってようやく心の整理ができた気がするから。
「ねえ」
守矢神社だけが消えた山を遠目に眺めていると、紫から声がかかり、
「今ならまだ、ここに残れるわよ」
スキマから、白地に桜模様という若者向けに作られたワンピースをまとった紫がヌッと現れた。肘まで伸びる白手袋が、紫の上品さを際立たせる。
妖艶でありながら明らかに服装とミスマッチであるその蠱惑的な体躯に、青年は表情を変えないまま携帯を取り落とす。
「うわキツ」
「は?」
「あ、いえ。紫さんにはもっと大人の魅力を感じさせる服のほうが似合いそうだなーと思いまして。似合わないというわけではないですよ、うん、ええ、はい」
「あらそう。私としてはこれ以上なく似合ってると思ったけれど」
かつて、これほど殺気を感じた場面があっただろうか。薄目に微笑む紫であるが、その雰囲気に穏やかなものは感じられない。
冷や汗を滝のように流しながらも、青年は言葉を続けた。
「それで、さっきの話ですが……」
「幻想郷に連れて行くまでなら、まだここに残るチャンスぐらいあるわよ。これが最後の機会ね」
「全部の手続きが済んだあとでそれを言いますか……で、残ってもいいんです?」
「ダメに決まってるじゃない」
無茶苦茶だなと思いつつ、頬を引きつらせる青年。言動の整合性がその服装ぐらい取れていませんよと言えるだけの勇気は、流石に持ち合わせていない。
色気たっぷりに微笑み、紫は唇に人差し指を当てる。
「生憎と残らせる気はないわ。カミツレさんはどうあっても幻想郷に連れて行く。もし残りたいなら、私をどうにかしてみなさい」
「どうにかって……例えば?」
「力づくでねじ伏せるとか、説得するとか? ん、愛の告白でもいいわよ?」
「は?」
「ここで一緒に暮らそう! なんて面と向かって言われたら、3秒ぐらいは考えてあげてもいいわ」
「いえ、僕は遠慮しておきます」
「つれないわねえ」
ぶーたれる紫。そのまま背を向けて街中を歩き始めたので、青年はそのあとを同様についていく。
取り立てて目立つようなものは何もない。都会ではないが、とんでもない田舎でもないというこの風景。離れていたのは数年であるというのに、その数年でさえも変わるべく変わっていた部分は散見された。当たり前のことであるというのに、変わったのは自分だけではないらしいと今更気づく。
眺めながら歩いていれば、同様に街中を見渡していた紫が口を開いた。
「ここがカミツレさんたちの街なのねえ」
「ええ。いい思い出はそれほど多くありません、が……二度とこの景色を見ないとなるとやはり」
「ふうん? 良くない思い出って、例えば?」
紫が興味深そうに、首を傾げて自身の顔を覗き込んできた。動作の一つ一つがたまらなく美しいというのに、なぜ服装はこうなのだろう。
良くない思い出など、指の数では足りないぐらい青年の記憶にある。その一つ一つがげんなりさせるほどには十分であるというのに、
『幽霊だと? いるわけがないものをまだ信じているのか!? 気持ち悪いから外でそんな話を絶対にしないでくれ! 孤児院の体裁が悪くなるだろう!』
『どうしてお前を育てようと思ってしまったんだ……。ああ、不気味で仕方ない!』
『おい、今月の給料はまだか。育ての恩を忘れているんじゃないだろうな?』
どうして今は、思い返しても涙の一つも出ないのだろう。
「そうですね……例えば、子供の頃。家を追い出されたことがしばしばありまして」
「ふむふむ」
「野垂れ死ぬわけにもいかないので、サバイバル技術を身につけざるを得なくなったこととかでしょうか」
「ふむふ……ふむ?」
「食べられるものと食べられないものは学校の図書館で調べて、野生動物の捌き方とかも自分で考えましたねえ。あ、意外と虫っておいしいですよ? 火起こしの方法はまず基本として、植物を使った寝床のつくり方とか雨のしのぎ方とか。流石に冬場の雪はキツかったですが」
「た、たくましいのね……。アナタ、人里でも十分やっていけそうよ……」
なぜか、今度は紫が顔を引きつらせてしまった。虫の話がダメだったのだろうか?
「ち、ちなみに、そういった食材の中で一番美味しかったのは何かしら?」
「一番おいしいもの? 蛇は淡白で味気ないし、蛙は鶏肉っぽくてなかなかイケますが……個人的にはクモがチョコみたいで一番美味しかったですね」
「へっくしょい!」
「んだ、風邪かヤマメ?」
「いやー、誰か噂してるみたいでさー」
ちゃんと答えたというのに、紫の頬の引きつりが激しくなっていた。
虫がダメだなんて案外乙女なところあるんだな、なんて心にもない考えが浮かぶ前に、紫は一瞬のうちに街の景色に表情を変え、目を光らせて小走りをした。
足を止めて振り返ると、はしゃぐように紫がブンブンと手を振る。
(あれは……カフェか。何だかオシャレなところだなあ……)
着飾ったり気取ったりすることに興味のない自分でも、店の外観やガラス越しに見える内装から、静かでありながらきらびやかな店であることがわかる。そして、
「んふーっ」
紫がこの店に入りたいのだろう、ということも。
「いらっしゃいませ、2名様でよろしいですか? こちらの席へどうぞ」
エプロンをつけた男性の店員に案内され、青年は紫と共に席につく。このような店に入るのは初めてであり、青年も緊張していたのだが、紫はまるで動じていない。
上品そうだし流石だな、と思う間におしぼりと水を出されたのだが、
「ありがとうございます」
「い、いえ!」
紫の微笑みで、男性店員は顔を真っ赤にしてそそくさとカウンター裏に引っ込んでいった。
服装とのミスマッチもあるというのに、それでいいのだろうか。
「あー、極楽だわあ」
(おしぼりで顔拭くとか居酒屋のおっさんですか……しかも化粧落ちないってすっぴんかな?)
「あ、大将オーダーいいかしら?」
(ラーメン屋じゃないですよ? テーブルの目の前に呼び出しボタンあるのに)
「店員さん? 私こぶ茶一つね」
(カフェなのにこぶ茶!? ていうかメニューにそんなもの――あるし!?)
流石は幻想郷の民。
常識に囚われない行動は、悪い意味で感嘆ものである。自分のことではないというのに、早速恥ずかしい思いをしてしまった。
「え、えっと、彼氏さんは何になさいますか?」
「は?」
「やぁね、彼氏じゃなくて旦那よ、店員さん♪」
「あ、し、失礼しました! 旦那様は何になさいますか?」
「……アイスコーヒー。とびきり冷たいやつをブラックで」
最後の最後まで、外の世界は散々な思い出に終わるらしい。
紫の表情は、イタズラが成功した子供のようであった。
顔を真っ赤にしながら店を出て、早足で歩みを進める。「ゆっくり歩いてよダーリン☆」なんて言葉が耳に届いたのだから仕方ない。
「やっぱり、外の世界の茶屋はいいわね~。雰囲気もステキだし」
(全く……。まあ、最後の思い出としては悪くない……かな? いや台無しな気も……どの道こんなもんか)
時刻は夕方。今日の朝に幻想郷で暮らす決心をしたが、その気持ちに揺ぎはない。
自分を受け入れてくれる場所を、好きになろうとする努力をしたいと思ったのだから。
「紫さん」
「ええ」
歩みを止めて、振り返らぬまま紫の名を呼ぶ。帰ってきた返事は、ふざけた意味を含む声音などではなかった。
「幻想郷はいいところですか?」
彼女がため息をついたのが聞こえた。しかしそれは、呆れを混じえたものではないらしい。
「まあ、可愛い女の子は全世界共通よ。ほら、私とか」
「いえ、僕は遠慮しておきます」
「つれないわねえ」
ガッカリした紫の声を耳にした時、ふと、目の前にスキマが開く。そこから見える景色は、上空から見える幻想郷の全貌であった。
緑が織り成す絶景の数々。夕日がそれをオレンジ色に染めることで、人里と思しき村々が徐々にその活気を落ち着かせていく様子が目に見えてわかる。そして、オレンジ色に染まるのは空と大地だけではなく、少し前に幻想郷に現れたという海も同様であった。
「どうかしら?」
「綺麗です、とても」
「これが、私の守りたい景色よ。空気も綺麗だし、都会の喧騒もないし、人と人とのつながりが確かに残ってる場所。全ての者の理想郷……」
紫が隣に立ち、慈愛に満たされた表情でその景色を共に眺めた。
「あれが人里、あっちが魔法の森で、あそこが霧の湖。春には色んなところで桜が咲くし、もうすぐ紅葉が紅く染まるわ。季節によっていろんな顔を見せるのはこっちの世界と同じだけど、違うところは――」
「忘れ去られたモノの存在、妖怪と人間の共存、ですか」
「フフ……。あなたが守りたい景色は……これかしら?」
スキマが動き、守矢神社を俯瞰するように景色が移動する。そこにうつった先には――
「さなちゃんに、艦娘の皆……」
「私の守りたいもの、一緒に守ってくれる?」
「守るだなんておこがましいことは言えません。僕には力なんてなくて、本当に何もできなくて……何か行動をするとすれば神社や艦娘のみんなです」
「そうね。でも……」
スキマが閉じられて、紫が正面に立った。口元はシニカルに歪んでいながらも、瞳には力強さを感じさせて。
「いずれあなたも、戦う時は来るでしょう」
幻想郷の賢者は、迷いなどひと欠片も見せず、そう断言したのである。
お昼時。守矢神社の一室で、諏訪子は対面に座る神奈子と共に、腕を組みながら思考に耽っていた。
考えることは勿論沢山ある。これからの幻想郷での力を示す方法、信仰を得る方法、立場は、力関係は、神としての威厳は――どうすればいいのか。
「諏訪子、お前も何か悩んでいるようだな」
「うん、外の世界で楽しみにしてた漫画、結局途中までしか読めなかったから続きが気になって」
「お前はこんな時まで……全く」
苦笑する神奈子。だが、神奈子は気づいているのだろう。漫画のことを考えていたというわけではなく、考え込んでいたことを誤魔化すために漫画という話を持ち出したということを。
神奈子とも長い付き合いである。今更ムチャやワガママの千や二千ぐらいどうってことはないが、事が事であるだけに諏訪子も慎重にならざるを得ない。
「どうすんのさ。話には聞いてた幻想郷に来たのはいいけど、あんな怪物や艦娘のことなんて、私知らなかったよ?」
「私だって初めて知った。艦娘は早苗がカミツレに能力を与えたのだから、その点は我々としても何も言えんがな」
「カミツレ君かぁ。巻き込んだのは普通にマズかったけど、今はこれで良かったのかな?」
「早苗のあんな笑顔なんて久方ぶりに見たからな。一度再会したというのに、また引き離すのでは早苗も可愛そうだ。まあ、しばらくは――」
「大人しくして、早苗のやりたいようにさせよっか。二人共積もる話があるだろうし」
百歩譲って、幻想郷に来ることを知らなかった――実際は自分が聞いていなかっただけなのだが、遷宮すること自体は認めるとしよう。だが、不確定要素であるあの青年は、神社に何をもたらしてくれるのだろう。
実利の話ではない。影響の話だ。
早苗の唯一の友人であることは知っている。早苗が小さい頃から話は耳にタコができるほど聞いてきたし、その性格や為人もよく知っている。
曰く、他人に興味がない。
曰く、自分自身にも興味がない。
(そのクセ、うちの早苗と心を許して許される関係になったなんてね。いや、6年たってるけど、“今も”そうなのかな?)
ふと神奈子の様子を見れば、不安そうな面持ちの美貌と目が合った。
そう、何もあの青年を気にしているのは、早苗だけではない。
「神奈子、やっぱり嫌?」
「まあ……な。やはり、外の世界に残らせた方が良かったかもしれないぞ。いくら我々で目を届かせるといっても、カミツレ自身に戦う力なんてない。危ない妖怪もうろついていることだし、そういった意味では幻想郷の方が遥かに危険は多いんだ」
僅かに俯き、神奈子は寂しそうに笑う。
青年の育った環境は早苗からも聞いている。孤児院で育ち、幽霊が見えるということで気味悪がられ、家庭でも学校でも疎まれてきた。しかし、本人には見えるのだから状況的にはタチが悪い。見える者にとってはそれこそが現実であり、景色なのだから。
そんな街を嫌がって、他の街に行きたくなるというのも仕方のないことだろう。
「神奈子」
「……なんだ」
迷いが見られる神奈子の視線には、ほんの僅かな苛立ちが含まれていた。
「神奈子もさ、やりたいようにしてみたら? 折角幻想郷に来たんだから、やりようなんていくらでもあるじゃん」
「いや、いくら幻想郷とはいえだな……」
「カミツレ君も大事にしないとね。だって、ここで暮らすんだよ?」
「しかし……“巻き込まれた”カミツレを我々が面倒みようなど……。あまりに無作法ではないか」
「尚更、だよ。カミツレ君のことを思うならね」
「いいのか……?」
「やだなあ、私だってここの神だよ?」
「……感謝する」
眼をパッチリ開きながらも、目元を潤ませる神奈子。その瞳を袖で拭ってやりながらも、諏訪子は「ただし」と付け加えた。
「早苗との条件が守られなかった時は――わかってるよね?」
「…………。わかっている、さ。我々は早苗が最優先だ」
「…………。ま、あとは好きにしたら?」
「個人的には、スキマ妖怪の手で外の世界に置き去られた方がどんなにいいか……。私は……どうしたらいいんだ」
「んー……とりあえず」
畳を踏みしめ、諏訪子はその場に立ち上がる。障子を開ければ、抜けるような青空が頭上に広がっていた。
振り返り、神奈子をみて一言。
「生活基盤整えよっか。私たちだって、カミツレ君にだけ構ってる余裕はないんだし」
力が落ちたからこそ、この幻想郷へ来た。
最初の目的を忘れない。ひどく現実的な提案を、諏訪子はしたのである。それはまごう事なく、守矢神社が幻想郷で生き延びていくために。
着任
司令長官『茅野守連』
ひとまず序章が終了いたしましたが、動画からの方は動画と比べていかがでしょうか? ハーメルンからの方も、何かお気づきのことがあれば遠慮なくどうぞ。
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