鎮守府での諸々の雑務を終え、守矢神社に帰ってきたのは日も暮れて夜の帳が降りた頃。虫たちがオーケストラを奏でる中、青年は神社に到着する。
夜も少し冷え込んでくるようになった。もう夏も終わりだろう。一つの季節が終わるのは寂しいものだが、次には秋が控えているのだ。もし夏を惜しむというなら、次の夏を待てばいい。
また来年も、この夏を感じよう。“皆”と一緒に。
「茅野です、ただいま帰りまし――」
「カミツレさーん!」
境内に足を踏み入れたところで、真正面から何かが青年に向かって飛び込んできた。同時に、上半身にかかるのは人一人分の衝撃。
「うおっ!? さ、さなちゃん!?」
「一日ぶりのカミツレさんです……スーハースーハー」
「ちょちょ、今絶対臭うから! 昨日お風呂入ってないし!」
「私は一向に構いません!」
胸元に頭をこすりつける仕草は猫さながら。とはいえ、早苗は良くとも自分の羞恥心が許さない。胸をくすぐるのは、何も早苗の髪の感触ばかりではない。
さらに、形容しがたいふんわりが、自分の腕に収まる場所で穏やかではない自己主張をしているのだ。いかに日頃鎮守府で美少女を眺めているとは言え、感触だけは慣れようもない。
「お風呂にしますか? お風呂にしますか? それともお・ふ・ろ?」
「それもう臭いって言ってるよね」
「子供の頃だったら洗いっことかできたんですけどね。流石に今はその……い、一緒には入れませんごめんなさい!」
「頼んでないよ!」
「どうしてもというのでしたら神奈子様に頼んでください! あ、でも神奈子様は免疫がないので、私的には諏訪子様の方がオススメです! つるぺたボディでも満足してもらえると思います!」
「あれ、ここっていかがわしいお店だったっけ……?」
ともあれ、こうして青年は守矢神社への帰還を果たしたのであった。
「早苗―、ワサビとって」
「はーいどうぞ!」
「カミツレよ、次めんつゆ貸してもらえるか?」
「あ、注ぎますよ」
神社の縁側にて、一家揃って素麺をすすっている。夜の闇を月が照らし、風がさわさわと肌をなでる中、さっぱりとした口当たりが心地よい。
「いやぁ~、やっぱりワサビは最高だね。こんなに美味しいのに、どうして早苗はワサビが嫌いなの?」
「同じ髪色だから同族嫌悪してるんです」
「え、嘘?」
「嘘ですよ。鼻にくるのが苦手なんです……」
「好き嫌いは良くないぞ、ちゃんと食べないとな」
「ワサビが食べられないぐらいじゃ人は死にません!」
「でもワサビって美容にいいらしいよ? さなちゃんには必要ないかもだけど」
「そ、そんなに食べて欲しいなら仕方ありませんね!」
と、強がりながらワサビの刺激に顔をしかめる早苗を見て、青年、諏訪子、神奈子が笑みをこぼす。「笑うなんて酷いです!」と頬を膨らませる姿も、鼻を赤くしたままでは微笑ましいだけだ。
こんなささやかな安心、こんな些細な幸せが。
永遠に続いてくれればいいのに、と青年は願う。
食事を終え、早苗が食器を片付けるために台所へと向かった。3人が縁側に残されるのだが、
「カミツレ、風呂は沸いているか?」
「ええ、僕が先ほど頂きましたので。お湯が残ってますが……」
「構わん、私も入るとしよう」
神奈子が浴場へと向かったので、必然的に諏訪子と二人きりになってしまった。
お腹いっぱいになり、青年は眠気とともに月を見上げる。諏訪子に至っては、身体を縁側に投げ出して寝転がっていた。
「牛になりますよ?」
「これがホントのウシガエル……なんちゃって。それはともかく、こうして二人で喋るのも久しぶりだねえ。ちゃんとお風呂も入るようになったみたいで嬉しいよ」
「ええ、本当に。まさか紅魔館の宴会の翌日に異変が起きるなんて思いもしませんでしたから。ここのところ忙しかったですし」
「鎮守府はうまく機能してるのかな?」
「はい、おかげさまで。今回も艦娘が増えましたが、まだまだ艦娘寮には余裕がありますし。本当に感謝しています」
「いいってことさ。家族だからね」
そう言って、諏訪子は寝転がりながら月を見る。ギラつく月は姿を隠すことさえせず、この神社を隅々まで見通すように照らしていた。
「こっちに来てようやく半月かあ。カミツレ君も、人里で信仰集め頑張ってくれたみたいだね。妖怪の山で戦った時、思ったより力が戻っててびっくりしたよ」
「いえ、僕こそお世話になってますから当然です」
「まだカタいなあ。早苗とはどうなのさ」
「どう、とは?」
「ちゅーぐらいしたの?」
「ぶっ!」
予想外の言葉に思わず吹き出す青年。むせる中、ニヤニヤと笑う諏訪子を見ながら青年は困惑の表情を浮かべる。
(諏訪子さんの中で……僕らどういう関係になってるの……?)
「さなちゃんとはそういうのじゃありませんよ。お互い友達って思っての、わかりきってるじゃないですか」
「友達ィ……?」
「……し、親友です」
「親友ゥ……?」
「な、何ですか……? さなちゃんだって、僕のことを親友ぐらいには思ってくれてるんじゃないかなって……期待しすぎですかね」
「あーいいや。私はしばらく静観させてもらうよ。ただし、」
鋭い目つきになったりパタリと澄ました顔になったりと表情豊かな諏訪子。言葉を止めると、縁側に腰掛ける青年の腰元に腕を回す。
「早苗を悲しませた時の約束は覚えてるね?」
「悲しませるつもりはありません。諏訪子さんが僕を殺すことはないでしょう」
「ま、そうだろうね。君は人のために行動できる子だ。進んで早苗を悲しませることは……まあ多分ないんじゃないかな?」
「信用なりませんか?」
そう尋ねる青年の腰を、諏訪子が腕で締め付けた。
痛くはない。だが、これが警告であることなど理解に容易い。
「自分の魂を閻魔と取引するような子だからね、信用なんてしてられない」
「……死後の話ですから。結果的に丸く収まったので勘弁してください」
「…………。んー……、まあ、いいや。とにかく早苗を大事にしてね? 鎮守府が可愛い女の子ばっかりだからって、デレデレしないように」
「ぜ、善処しますとも」
最後の方は半ば引き攣りながら笑みを浮かべていた青年であったが、腰に抱きついた諏訪子が青年の脚に頭を乗せて寝息を立て始めたのを見ると、恐怖も薄れる。
諏訪子の言いたいことはわかるのだ。幼い頃お互いに心の支えとなっていた、自身と早苗に仲良くして欲しいという魂胆ぐらい。
だが、幻想郷に来てどうだろう。前に進むと決めた早苗は既にあらゆる交友関係を築き、自らの道を歩み始めている。そこに自身の介入する余地はあるかないかで言えば存在はするが、既に自分という支えを必要としなくなってきているのだ。
無理に、自分という鎖に縛られるのは良くないのではないか。もっと新たな刺激や視野を受け入れるべきではないかとも、青年は考えるのだ。そしてそれは、青年自身にも。
しかし、早苗が嫌いかと問われても。
そんなことはないと、胸を張って言えるだろう。
しばらくして早苗が台所から戻ってきた。戻ってくるや否や、
「あああああああッ! 諏訪子様ずるい!」
これまでに聞いたことのない、子供のような絶叫を放つ。
(んーと……? 膝枕は親愛の証ってことでいいのかな?)
なにぶん、友達付き合いなど、今までほとんどなかったのである。親しい友達同士がすること、といってすぐに思いつくことはあまりない。握手? 握手とかだろうか?
加えて、青年なりに早苗との関係をどう築くべきか悩んでいたからこそ、その言葉が口から勝手に出る。
「さなちゃんもする?」
「…………は、へ?」
「だから、膝枕」
鳩が豆鉄砲をくらったような、とは正にこのことだろう。呆けたような、しかしそれでいて驚いて目を見開き口を開けて固まっている早苗。
その顔が青色に染まる。しかし次の瞬間には赤く染まり、再び青く染まったかと思えば、もう一度赤く染まった。
「わ、私何か悪いことしたんでしょうか? カミツレさんがドッキリを仕掛けてくるなんて」
「え、あの、え?」
「それともこれは頑張ってる私へのご褒美……? いえ、でもカミツレさんが進んでそんなことをするなんて考えにくいですし」
「もしもし、大丈夫?」
「もしや、これは諏訪子様の罠……? 諏訪子様がカミツレさんに何か吹き込んだんでしょうか? ありえない話ではありませんね。そもそもカミツレさんは――」
「余計なお世話だったみたいだね……やめとこう」
「いえお願いします!」
喜色満面の笑みを浮かべて。
早苗は諏訪子の反対側の膝へゴロンと寝転がり、その頭を膝の上にポフッと乗せた。美しい緑色の長髪が、川を流れる流水のごとく床へと伸びる。
東風谷早苗は可愛い、それは間違いない。百人に聞けば百人がそう答えるだろうし、自分の目から見ても群を抜いて美人である。長い睫毛も、プルッとした桃のような唇も、人を惹きつけて離さない宝石のような瞳も、全てが彼女を引き立たせる魔性の輝きなのだ。
だが、それでも。
「えへへ」とニヤケ顔を浮かべて、「ヌフフ」と笑いながら髪を服に擦りつける様子には、流石の青年も頬を引きつらせる。
「……生まれてきて良かったです」
「そんな大げさな。大丈夫? 脚硬くない?」
「この硬さがいいんです。おっきくて硬くて……すごく立派」
「まあ、気に入ってもらえたなら良かった」
理解しての発言かどうかわからないが、青年はひとまず早苗が満足しているようなので一息つく。早苗は鼻歌など歌ってご機嫌な様子である。
「なんだか随分機嫌がいいね?」
「カミツレさん、頭なでてください!」
「え……じゃ、じゃあ撫でるよ?」
勢いのまま、早苗が捲し立てるように言うので、仕方なく青年は早苗の髪に触れる。
サラサラとした髪は撫でる事に手から水のようにこぼれ落ち、それでいてふわふわとした触り心地はまるで風に触れているかのよう。柔らかな甘い香りが漂うのもまた、青年に頭を撫でるのをやめさせない。
「私は今、世界で一番幸せです」
「そこまでのことかなぁ……?」
「カミツレさんと触れ合ってるんです。お姫様抱っこもいいですけど、カミツレさんが自分から触れてくれるんですよ? 嬉しいに決まってます」
まるでもっと触れて欲しいとでも言わんばかりの言葉。だが、青年にはその発言の意図がどうしても掴めず、そして頭によぎったかつての疑問が、撫でる手を止めさせる。
月はうっすらとした雲に隠れ、その輪郭をおぼろげに映していた。
「あのね……僕はさ、今までずっと聞けなかったことがあるんだ」
「聞けなかったこと……ですか?」
「さなちゃんが、僕を恨んでるんじゃないかって」
高校に入学後、一度たりとも神社に足を向けることはなく、結果として再会したのは年後の現在。中学を卒業した日、『また、ここに来てくださいね! 約束です!』と交わした約束は、それまで毎日のように会っていたことを考えれば破られたも同然。
故に、青年は今でもどこか恐怖している。
早苗は自分を、心の底では“憎んで”いるのではないかと。約束を破りながら、今こうしてヘラヘラしている相手を軽蔑しているのではないかと。
しかし、
「カミツレさんは……私のことが嫌いなんでしょうか?」
その瞬間、早苗はひどく怯えたように、肩を竦ませて震え始めた。
驚愕する青年。しかし、その動揺を早苗に感じ取らせないように、不安にさせないようにと、“態度を取り繕ってしまう”。
「嫌いじゃ……ないよ?」
「そうですか……良かったです」
「でも」と、早苗は上半身を起こし、相対して瞳を見つめてきた。
その瞳が悲しみに包まれているのは、その時初めて知ったのだ。
「私がカミツレさんを恨むことは絶対にありません。私の方こそ不安だったんです。私が何か、いつもみたいに“また”おかしなことをしてしまったせいで、カミツレさんも私から離れていってしまったんじゃないかって」
「それは違う。さなちゃんといるのは本当に、あの頃の僕にとっては一番楽しかったんだ」
「私も……一番楽しかったんです。こうしてまた会えて、私がどれぐらい嬉しいか、誰にも話せません」
「そう……なの?」
「幻想郷に来る時だけではなく、私がカミツレさんに会う度、何を考えていたかわかりますか?」
「……いや」
「今度は嫌われないように、とにかく嫌われないようにって。明るくて誰にでも好かれるような、誰からも愛されるような女の子を……“演じて”いたんですよ?」
早苗の瞳は前髪に隠れて見えなくなる。声音は悲痛さを帯び、その肩は震え、小さな体はなお小さく姿を変える。
「でも、僕はそれでもさなちゃんが……眩しかった」
だが、再び彼女が顔を上げた時、それを伺わせる表情はしていなかった。
「私はいけない子です。カミツレさんが思ってるほどいい子じゃありません。でも、ですよ? カミツレさんのためなら、私は頑張れたんです」
「僕は…………」
「私と友達になりたいと言ったのは、カミツレさんからだったじゃないですか」
慈しみにあふれた笑みを浮かべて、早苗は人差し指を立てる。
「いいですかカミツレさん? 魔理沙に咲夜さんに艦娘の皆さん、美鈴さんや他の人とも、確かに私は仲良くなりました。心から笑い合える友達になれたと思ってます」
「…………」
「でもカミツレさんは『特別』なんです。神奈子様とも諏訪子様とも違って、私にとっての『特別』。一番最初で、一番大切で、一番特別で……愛しい」
「……僕も、さなちゃんのことは本当に『特別』だと思ってる」
「――――っ! そ、それはとても嬉しいです!」
変わらない、のだろう。いくら時が過ぎようと、いくら環境が変わろうと。
早苗にとっての自分は『特別』で、自分にとっての早苗も『特別』であることは。
「……つまらない事聞いたね、ごめん」
「いえ、いいんです」
「これからも――特別な親友でいよう」
「はぁー…………。どうせそんなことだろうと思いました。カミツレさんにはガッカリです」
「え!? 何か悪いこと言った!?」
「もう寝ます!」
途端に表情を変えた早苗。プリプリと怒っているのだが、本気で怒っているわけではないらしい。先ほどの曇った表情が消えただけでも、青年としては心底ほっとする。また何か新しく怒る理由を作ってしまったようだが……とりあえず早苗の望む言葉は吐き出せたらしい。
早苗は立ち上がって諏訪子を背負い、そのまま縁側を歩いて行く――直前、
「カミツレさん」
「あ、うん」
「おやすみなさい。“また明日”、いい日を過ごしましょうね」
「うん、おやすみ。“また明日”」
就寝の言葉を告げて、早苗は去っていった。
青年もそろそろ部屋に戻って就寝の準備をしようかと思い、立ち上がろうとした時、
「おーい、風呂上がったぞー」
風呂上がりの神奈子が、縁側へと戻ってきたのである。
髪から漂う湯気と共に優しい香りが伝わり、それは青年の真横へと腰を下ろす。すぐ傍で感じさせる蒸気した香りは、青年のもやもやを一挙に溶かした。
「なんだカミツレだけか。早苗と諏訪子はどうした?」
「諏訪子さんが寝てしまったので、さなちゃんが部屋に連れて行きました。さなちゃん、そのままお風呂に行くと思いますよ」
「ふむ……カミツレはどうする? もう寝るか? 私はしばらく涼もうと思うが」
「僕でいいなら、お話し相手ぐらい」
「それはありがたいな」と、神奈子は口元に手を当ててクスリと微笑む。
「早苗とはどうだ? うまくやっているか?」
「ええ、特別な親友ですから」
「親友……うーん、まあいいや。信仰集めだが、よくやってくれているみたいだな。非常に助かっている」
「いえ、当然のことです。あ、今回の異変でも動いてもらってすみません。おかげで助かりました」
「なあに、気にすることはない。カミツレは私にとっても……ふむ、まあ、特別であるからな」
(うん、それはどういう――?)
と疑問を口にするより前に、神奈子はハッとした表情になり、取り繕うように慌てた。
「すまん、今のは忘れてくれ」
「えっと……?」
「カミツレが知ることではないさ」
そう言うと、神奈子は肩をくっつけるほどの距離に詰めて座り直し、青年の肩を抱くように掴む。
突然のボディタッチに戸惑う青年。しかし抵抗する暇もなく、その手は頭へと伸び、神奈子の肩へ頭を乗せさせられた。
「えっ? あ、あのっ?」
「聞いたぞ、閻魔相手に喧嘩をふっかけたそうじゃないか。あまり心配をさせないでくれ」
「その……諏訪子さんは許してくれましたが」
「あいつは何でも早苗中心に考えてるから、あんまりそのあたりは気にしていないんだろう。だが、私はお前のその行いを、笑顔で許してやるわけにはいかない」
「……すみません」
「いい子だ。閻魔は怖い存在でな、私だって勝てるかわからない。もっと自分を大事にしてくれ。早苗だけではなく、私や諏訪子も悲しい。約束だぞ?」
「……はい、ごめんなさい」
口調は怒っていながらも、それでいて頭を撫でる手は子供をあやすように優しい。自身は成人であり、その自覚もあるのだが――
この時ばかりは、まるで自身が子供に戻ってしまったような気持ちに染まってしまった。
「人里には行ったんだろう? 外の世界と比べてどうだった?」
「ははは、何もないところですよ。何も……。……僕に向ける偏見だってない。あ、でも友人はできました。森近霖之助さんといいます」
「そうか、良かったな。幻想郷ではちゃんと過ごせているようで安心した」
頭から手を離し、包み込むような笑みを浮かべる神奈子。
その表情と、この気持ち。慧音の家で思い出した記憶を振り返り、青年は意を決して、神奈子に対して唇を震わせながら問う。
「あの、神奈子さんって……『かみさま』、ですよね?」
「ん? 今更だな。そうだ、私が神だぞ」
「いえ、そうではなく――」
早苗と出会うより前、死ぬことすら考えていた孤独だった頃。
『いつも来てくれているのに、願いを叶えられなくてすまない』
『だれ……かみさま……?』
『辛い時はここへ来ていい。うんと泣くといいさ』
『……うん』
孤児院で、一人肩を抱いて震えていた頃。
「さなちゃんと会うより前に、神社で寝てしまった時に夢に出てきた『かみさま』。あれ、神奈子さんですよね?」
「…………」
「やっと思い出せたんです、『かみさま』。さなちゃんと同じぐらい、貴女にも会いたかった」
「ふ、む……」
微笑みから一転、少し悩むような表情を浮かべ、神奈子はもう一度青年の頭に手を載せる。ポンポンと気持ちを落ち着けるように叩かれるも、青年は緊張に呑まれていた。
「カミツレ、お前が早苗と会うより前のことは、まだ話せない」
「“まだ”、ですか。それにどうして……」
「いかにも私は、お前の言う『かみさま』で間違いない。これで十分だろう?」
「……わかりました、今は諦めます」
「かしこい子だ、賢明だな」
ようやく神奈子が手を離したので、青年は元の座る姿勢に戻った。様々な感情が織り混じって心臓が自己主張しているが、話を蒸し返す気はない。例え疑問は残ろうと。
「さて、長門から色々と学ぶそうだな?」
「はい、忙しくなるでしょう。なるべくなら守矢神社に帰るようにはしますが、もしかしたら昨日のように帰れない日もあるかもしれません」
「戻れる時は必ず戻ってきてくれ。早苗も諏訪子も、もちろん私も寂しいからな」
「はい、必ず」
「八雲紫が話していた博麗霊夢の捜索期限、そこまで時間に余裕はないだろう。幻想郷で確たる信用を得たいなら、まずは博麗の巫女の発見が第一だな。私も調べたが、博麗の巫女は幻想郷においてなくてはならない存在らしい」
「そのつもりです。各方面に協力を依頼することはあるでしょうが、そのときはまた、お願いできますか神奈子さん?」
「ああ、任せろ。お前は私の家族だ」
再び姿を現した月明かりを眺め、神奈子の顔を見ないまま立ち上がる。
不満などないと言えばそれは嘘だ。話してくれないことに、知っていながら教えてくれないことに、どうしてやきもきせずにいられよう。
諏訪子の場合はまだ、早苗を中心に考えていることがわかる分いいのだ。
なら、神奈子は一体何だというのか?
まるでわからない。自分を信用させて、何をしたいのだろう。
「カミツレ」
「はい」
だがそれも、ふんわりとした神奈子の優しい声を聞けば、ひとまず思考の外側に置くことができる。
どの道、疲れきった今の頭では答えなど見つからないだろう。だから、今は神奈子が話してくれるのを待とう。別に敵というわけではないのだから。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
その日は、本当に良く眠れた。