紅い月が照らす紅い館。古めかしいレンガ造りの洋館の門の前に、その人物は立っていた。見下すとも睨みつけるとも取れないようなその視線に、青年は物怖じしながらも一歩前に出て話しかける。
「あの……言葉はわかりますか?」
「アラ、当タリ前ジャナイ。何カ言イ残スコトハアル?」
「えっと、できれば貴女のお名前を伺いたいと思いまして」
「私? 私ハ、レミ――アラ、何ダッタカシラ?」
小さな少女のような深海棲艦の姿をしている紅魔館の主と思しき人物。口上こそ人間のそれとさほど変わらないというのに、どこか不気味さを感じずにはいられない。
「オ前ノ“運命”、面白イワ。オ前ダケジャナクテ、ソノ周リモ」
「運命、ですか?」
「暗クテ読ミニクイ未来。ダケド、小サナ光ガ少シズツ増エテ、ヤガテ大キナ光トナル。ソノ光ハヤガテ――」
「やがて……?」
「ウ――ウウウウウウウウウウウウアアアアアァッ――」
告げられる言葉を待っていると、唐突に少女が叫びだす。頭を押さえ、何かを振り払うように左右に振るい、血涙を流し始めた。
その様子を眺めていれば、後ろから肩を掴まれて引っ張られる。引っ張った人物を見れば、早苗であった。
「危ないですよ! 何をやっているんですか!」
「いやでも、話ができるなら戦わなくても済むかも知れないし」
「いつ攻撃してくるかわかりません! 指揮官が最前線に立ってどうするんです!」
「……それでも、もうちょっとだけ」
呆れたような顔の早苗に謝りつつも、青年は少女へと向き直る。
咲夜からの話によれば、あの少女はレミリア・スカーレット。“運命を操る程度の能力”を持つ紅魔館の主で、その強さも折り紙つき。自分など、瞬きをする間にも殺されてしまうかもしれない。
だが、深海棲艦の謎に迫ることができるチャンスを、みすみす逃してしまうわけにもいかない。
「レミリアさん、聞こえていますか? レミリアさん? 教えてください、あなたはどうしてその姿になったんですか?」
「知ラナイ。人間風情ガ軽々シク口ヲ利カナイ方ガイイワ。今ノ私ハ最高ニ気分ガイイノダカラ」
「艦娘とどういう関係が、過去と何か関係があるんですか? 教えて頂けないと、僕はあなたに、今日ここで出会った意味がなくなってしまいます」
「フン、人間ノ癖ニ偉ソウネ。歴史バッカリ見テイルオ前ニハ、運命ハ変エラレナイヨ」
レミリアは眉一つ動かさず、その場から動く様子はない。
青年も内心は慌てていた。深海棲艦のことは確かに気になる。しかし、運命を操るというレミリアの口から飛び出したのは、自身の未来を読み取ったかのような言葉。
「ネェ、人間。今ノ私ハ強イワヨォ?」
「そんなの……知ってます」
「気持チイイワ。コンナニ興奮シテイルノハ久シブリ。アナタ達ハ……私ヲ楽シマセテクレル?」
「あなたが戦わないというなら、戦うつもりはありませんよ」
「戦ウタメニ来タノデショウ? 相手シテクレルワヨネ? 私ハ戦イタクテタマラナイノニ」
気のせいかもしれないが、先程より空気の淀みが徐々に増してきている。赤い霧は更に濃度を濃くし、紅魔館の赤色とも伴って視界が暗闇の黒と紅色に埋め尽くされる。
(ダメ……か)
言葉は通じる。しかし、まともな会話を行うことはできない。彼女の視界には紅魔館でメイド長を務める咲夜も入っているはずであるが、戦うことを否としない。
むしろ、どこか戦うことを望んでいるようで――。
「無駄よ、あの状態のお嬢様はずっと戦うことしか考えていないの」
「咲夜さんが相手でも?」
「ええ。だから私は魔理沙に助けを求めに行ったのよ。私では……お嬢様のお相手は荷が重すぎるから」
「そう……ですか」
紅魔館、レミリアについてよく知るであろう咲夜でさえも、戦闘を前提としているということ。つまり、どのように会話を広げようと、戦いは避けられないのだろう。
「あの、提督。よろしいですか」
「あ、えっと、鳳翔……さん」
「鳳翔で結構です。申し訳ありませんが私、夜となると戦いに参加できないんです。航空機を夜間に飛ばすことはできなくて……、昼なら魚雷を直接投下するなどできたのですが」
と、悲壮な顔で告げる鳳翔。それを聞いた青年も、突然の告白に目を見開く。強力な艦としての期待を抱いていただけに、そのショックも大きい。
「ただ、助言はさせて頂きます。あの少女は元は別の種族だったのなら、その素体は非常に強力です」
「うん、どうやら吸血鬼らしいから」
「いえ、あれは“艦”として見ることはできないんです。例えるなら……そう、基地。航空機を収容する基地です」
「……それって、まずいんじゃ」
「ただ、私と同様に航空機を夜間に運用することはできないはずです」
ならば、まだ勝機はあるのだろうか。青年も、接近戦について強力な水雷戦隊が、航空機によって一挙に窮地に追い込まれた場面を見ていたのだ。その危険性はよく理解している。
航空機を運用できないとしても、個体としてはおそらく非常に強靭だろう。だが、基地というのは一体どういうことなのだろうか。
深海棲艦の正体にある程度の予想をつけるのなら、レミリアは――
「話ガ長イワ」
神罰『幼きデーモンロード』
と、考えをまとめるより先に、レミリアによる弾幕が放たれる。瞬間、青年は早苗に抱き抱えられて戦場から距離を取り――。
やがて、戦端は開かれた。
闘符『水雷戦隊』
――軽巡『夕張』『球磨』
駆逐『吹雪』『叢雲』『漣』『電』『五月雨』
軽符『第十八戦隊』
――軽巡『天龍』『龍田』
重符『第六戦隊』
――重巡『青葉』『衣笠』『古鷹』『加古』
「全艦、誘爆に備えて魚雷発射管を投棄! 水雷戦隊は岸ギリギリで射撃します! 十八戦隊、六戦隊は砲戦を!」
放たれた弾幕は、空間に光線状のものが敷かれ、更に大小入り混じった弾幕が無数に放たれるというものであった。避けようにも光線に触れないようにしなければならないために、その回避には全艦が手間取らされる。
夕張が指示を出すのを聞きながら、漣は主砲を改めて握り締める。
青年と出会ったときに感じた記憶。それは、平和な世においては信じがたいような悲痛な経験。自身らが守った果てにあるものがこれか、と悔しさを涙に変えて。
いかなる過去を持とうとも、自分の意志で決めることは自分で決めさせなければならないし、その選択には責任を持つという自覚を持たせなければならない。
漣は彼を甘やかしたくはないが、ふと見せる寂しげな微笑みを見ると、無性に頭を撫でたくなってしまう。その気持ちを抑えることの方が、実際戦うより大変かもしれない。
今でこそ自身の持つ力と自分の役割にある程度責任を持っているようだが、もし選択を迫られた状況下で一歩間違えたら……。どうなるかなど漣には想像もつかない。
だが、青年の元に来てよかった。当初こそ自身らに偏見を持っていたようだが、今では一番に心配をしてくれている。それこそ自身の身の危険よりも先に。
(戦闘態勢の深海棲艦と真っ先に会話するなんて……無茶するにゃー、ったくもー)
漣はある程度の速力を維持しながら、岸の近くの紅魔館の門に構える深海棲艦のようなもの――基地のような深海棲艦を捉え、その様子を伺う。
陶器のように白い肌に白い髪。幼女のような体型でありながら、感じられる圧迫感と不気味さは今までの比ではない。この場から今すぐ逃げ出したいほどに怖くもあるが、そうするわけにはいかない。
青年を守るためにも。
「全艦、主砲撃ちー方始め!」
夕張の指示とともに、漣をはじめとする駆逐艦は足を止めることなく主砲を撃ち始める。夕張と球磨も砲撃を始めており、火薬と硝煙の匂いが艦隊を包んだ。
しかし――
「アラ、ソノ程度?」
あまりにも敵は頑強すぎた。砲弾が自ら意思を持つように、ありえない軌道で逸れていく。命中弾すらことごとく弾き飛ばし、直撃を受けても平気な顔をしている。ダメージを与えているようにはまるで感じられない。
「くっ、撃ち続けてください! 少しずつでも損傷を与えます!」
敵が陸上にいて魚雷が使えない今、水雷戦隊の火力は微々たるものにしかならない。それでも、水雷戦隊の本懐は前線を維持すること。ここを崩してしまっては、青年の身が危うくなってしまう。
が、やはり小型艦の砲撃だけでは無理があるのだろう。水雷戦隊の7人から砲撃を受けているにも関わらず、敵は動揺すらしていない。
その時、
「私もお手伝いします!」
奇跡『白昼の客星』
早苗が上空より弾幕を放った。細い針のようなその弾幕は円を描くように次々と放たれ、空間ごと蹂躙するように敵へと迫っていく。
砂の山に木の枝を突き立てるように、敵に向かって弾幕が次々と刺さって行く。面を制圧するように放たれたそれは、敵の背後にそびえる紅魔館という建物にまで命中していた。
「クックッ――ヤルワネ」
額に手を当て、よろめきながら煙を上げて呟く少女。その様子を見れば、少なくとも自身たちが放つ砲撃よりはるかに効果を上げているように見えなくもない。
弾幕と砲弾の違いが原因なのか、それとも弾幕の特性ゆえに、なのか。
「隙ができたぞ! 撃て龍田!」
「第六戦隊、砲撃戦を開始してください!」
少し弱った様子を見せる敵に対し、天龍と龍田の第十八戦隊、青葉率いる第六戦隊が砲撃をこれでもかと言わんばかりに撃ち込んだ。が――
「舐メナイデモライタイワ」
獄符『千本の針の山』
冷め切った声と共に、その弾幕は放たれる。敵を中央とし、そこから円を描くように無数の弾幕が放たれ、艦隊を襲う。
弾幕はてっきり攻撃してきた早苗に向けられるものだと思っていた。しかし容赦などなく、甘えなど許さず、逃げることすら叶わず。
弾幕は艦隊を覆い尽くす。
「はわわ、恥ずかしいよお……」
「な、なんでぇ……」
駆逐艦2名、電と五月雨がそれぞれ装甲を貫通されて数箇所被弾し、痛々しそうにその被弾箇所を手で押さえる。
更に、
「~っ。やっぱ、ちょっといろいろ積みすぎたのかなぁ……」
旗艦夕張も被弾し、その装甲をものともせずに弾幕は貫通する。
(ヤバイヤバイよッ! 一回の弾幕でこんなにやられるなんて!)
駆逐の装甲は弾くことすら叶わず、軽巡の装甲でさえも容易に貫通する弾幕。攻撃範囲は広く、更にここの威力まで高いとなれば、艦隊にとって厄介どころの話ではない。
陸上の敵と戦っていることが原因か。否、動かない相手からの攻撃など、むしろ同航戦よりも攻撃が予測しやすい。
単純に、あの敵が強すぎるのだろう。今まではある程度防いでいたにも関わらず、今回だけでこの被害。素体となったという人物は一体どれほど強大な力を秘めていたというのか。
だが、考えながら弾幕を回避していた漣にも、とうとう限界は来る。
まず一発、膝に命中し足を止められる。続いて2発目、右腕に命中し主砲を弾き飛ばされる。主砲の行方に気を取られていると腹部に、大腿部に、肩に、顎に命中し、思わずその場で膝をついてしまった。
朦朧とする意識、その中で漣は、自身の体を見ながら意識を離すまいと堪える。
(あ……本当にヤバイ。今大破しちゃったのに、被弾したら……)
そこへ、目前に迫る弾幕。1つどころではなく、5つの弾幕が自身を沈めようと肉迫する。
終わる――折角この身で再び蘇ったというのに、まだ何も成していないというのに、自分の命はここで終わってしまうのだろうか。
嫌だ。まだ姉妹艦と出会えてない。朧と。曙と。潮と。青年の頭だって撫でていないし、言いたいことも言えていない。
『ありがとう』なんて言葉、自分には似合わないと笑われているようで。
(うっっくぅ~、なんもいえねぇ……。動けよぉ……)
その時、誰かが自分を抱きしめるのを感じた。弾幕は命中せず、全て自身を抱きしめた人物に命中してしまった。
龍田、である。
「うふ……うふふふふふふふっ」
「龍田、さん……?」
「ちゃんと用心しない子は……あとでお仕置きよ」
自身が中破状態にも関わらず、抱きしめて自らが被弾した龍田。被害状況は自身と同様に大破してしまっており、今攻撃を受ければ二人共沈んでしまう。
弾幕が更に迫る。考える暇など与えようとせずそれは目前に到達し――
「おらあ!」
未だ被弾していない天龍が、自身の持つ刀でその弾幕を斬り捨てた。
座り込む自身と龍田の前に仁王立ちし、刀を背負いその眼光を敵へと向ける。
「龍田とチビ共に手ぇ出してんじゃねえぞ!」
そして弾幕の嵐の中を、自身らを守ろうとして一人堪える。装甲を頼らず、自らの刀で弾幕を斬り落としながら立つ姿は、まるでおとぎ話の中の英雄のように。
おぼつかない足取りで立ち上がり、生まれたての子鹿のように震えながら龍田を立ち上がらせた。
「龍田さん、私たちだけでも一旦下がろう?」
「仕方、ないわねぇ……」
弾幕に気をつけつつ、漣は龍田に肩を貸しながら後ずさりする。
「クマー。夕張は一度態勢を立て直すクマー」
「え、球磨!?」
「『夕張被弾、球磨ガ指揮ヲ執ル』と。艦隊、夕張が被弾したから球磨が指揮をとるクマー」
「うぅ……仕方ないわね、ありがと!」
球磨が飛び跳ねながら駆逐艦との連絡を密にし、夕張が半ば涙目になりながら壊れた艤装の応急処置を行うのを傍目に後退する。
「電ちゃん、大丈夫!?」
「平気なのです。まだやれるのです!」
「五月雨、下がってもいいのよ?」
「下がりません! 夕張さんもいるんですから、まだ戦います!」
「龍田と漣ちゃんが下がるのを援護するわ! 前に出なさい!」
「水雷戦隊の意地を見せるクマ!」
天龍は単独で敵に命中弾を当てようと奮闘している。それを援護するように、球磨率いる水雷戦隊が追従する。
――ああ、なんと頼もしい仲間たちだろう。あの仲間たちと共に戦えたこと、そして今も共に戦えること。それを誇りに思える自分が誇らしい。
それ故に、大破してしまった自分が情けなくなり、渋々ながらもおとなしく距離をとった。
これはただの撤退ではない。味方をより安全にするためにも、自身らが足を引っ張ることのないよう、撤退するのだ。
龍田は気を失ってしまった。その体の重みがますますのしかかるが、必死になってその体を支える。
水雷戦隊はまだ終わっていない。そしてその本領たる夜戦での実力は、まだ発揮されていない。弾幕による攻撃は驚異だが、それでも彼女たちなら必ず状況を打開してくれるだろうと、ボロボロだからこそ願う。
霞む視界と力が抜けていく身体。背負い込んだ龍田と共に倒れ行く。
意識が飛ぶ寸前。耳に聞こえたのは、泣きそうになりながらもどこか安心したような声。地面に激突すると思われた自身の体は、強く抱きしめられる。
「……ありがとう。よく無事でいてくれたね……」
空を飛びながら、咲夜は複雑怪奇な自身の心情を抑え込むように弾幕を放つ。その対象となるのは、今も昔もその身その心を捧げる相手。
レミリア・スカーレットの成れの果てであった。
「お嬢様、目を覚ましてください! お嬢様!」
「イイ度胸ネ咲夜。主ヲ見下ロシ、アマツサエ攻撃スルナンテ」
「私は今でも忠誠を誓っています! しかし私の愛するお嬢様は、そんな得体の知れない輩に体を許すような方ではありません!」
「私ハ自分ノ意思デ戦ッテイル。吸血鬼ダゾ? 戦イニ喜ビヲ見出スコトノ何ガオカシイ」
「好戦的な方ではありました、でも……それでも! 決して他者に振り回されることなく、己の意思を貫けと仰ったのは、他ならぬお嬢様ではありませんか!」
紅魔館の門の前から一歩も動かず、飛ぶことのないレミリアと、空中から弾幕を放つ咲夜。弾幕は放たれているものの、レミリアに命中せず、むしろ弾幕が自らの意志で逸れていくようにも見える。
艦娘の攻撃、そして弾幕による攻撃。いずれにおいても、攻撃がレミリアから逸れていく事実を確認している。命中するものもあるが、砲弾も弾幕もありえない軌道でレミリアを回避する。ここから考えられるのは――
(自身が被弾する運命を操っている、ようね。……流石はお嬢様)
ただでさえ頑強。にも関わらず、攻撃をある程度緩和できるのだとしたら、防御面で非常に面倒である。咲夜としては、愛する主人の戦闘センスに感涙しそうになる部分もあったが。
「ネエ咲夜。覚エテイルカシラ? アナタヲ拾ッテカラノ暮ラシ」
「忘れるわけがありません。私に光を照らしてくださったのは他ならぬお嬢様。ですから私は、その感謝を表現するために、お嬢様を元のお嬢様に戻すために……戦っているのです」
「楽シカッタワ、コノ十数年。コノ500年ポッチノ歴史ノ中デモ、毎日ガ夢ノ様ダッタ。ソレモコレモ、アナタノオ陰ヨ」
「その……お言葉は、正気に戻られてから聞きたかったです」
「私ハ正気ヨ? アナタコソ正気ニ、自分ニ正直ニナリナサイ。私ト一緒ニ気持チヨク――戦イニ溺レテシマイマショウ?」
「その運命は……受け入れられません!」
幻符『殺人ドール』
スペルカードを発動させ、大量のナイフが咲夜の周囲に浮かび上がり、一斉にレミリアに向かって放つ。レミリアの元へ殺到するナイフは、弾かれながらもその装甲を突き破り、レミリアの身体へ初めて到達する。
「レミリア、目を覚ましやがれ!」
「本当に大切なら、なぜ咲夜さんがそのせいで苦しんでいるんですか!」
空中を飛び回る早苗と魔理沙も弾幕を放ち、ナイフと共にレミリアの体を食い漁るように群がる。見ていて気分のいいものではないが、愛くるしい元の姿を見られない方が余程辛い。
煙を上げ、その姿が隠れる。だが、煙が晴れた後に現れたのは、不機嫌そうな顔で自身を睨みつけるレミリアであった。
「咲夜、一ツ面白イ事ヲ教エテアゲルワ」
「……一体なんでしょう?」
「アノ青年、アナタト同ジダケド、アナタヨリ酷イワ」
「何を――」
「アナタニハ“私”ガイタ。デモネ、アノ青年ニハ、“誰モイナカッタ”ノヨ」
「……まさか」
ナイフを握っていたものの、その手を緩める咲夜。呆然とする表情に、レミリアは続ける。
「アナタヲ拾ッタノハ運命ダッタワ。服ヲ着セ、食ベ物ヲ施シ、住ム場所ト家族ノ愛ヲ与エタ。イツシカアナタハ、私ニ感謝スルヨウニナッタワネ」
「彼にはそれがなかった、と。どうしてそれを知って……。運命、ですか?」
「彼ハ今マデ苦労ヲ重ネテキタワ。ソシテ、“コレカラ先ニ待チ受ケル運命”モマタ、今マデト同等、ソレ以上ノ苦シミヨ」
「なら、彼は一体何のために……生きて」
震える手で、ナイフを取り落としそうになる咲夜。それまで咲夜が抱いていた青年の印象は、情けないようでどこか頭は回る普通の人物だと思っていた。
しかし、蓋を開けてみればどうか。同じく拾われた身とはいえ、毎日を充実して過ごした自分と異なり、苦しみを重ねてきただけの日々。
青年に対して大した感情など持っていない。紅魔館以外の人間に興味を持ち始めたとは言え、未だどうでもいい人間はどうでもいい。
それでも、境遇を同じくした青年を。否、救われた自身と救われなかった青年とを比べれば、やるせなさが感情の中に浮き上がってくる。
「ダカラ、ネ、咲夜。彼ヲ、紅魔館ニ迎エ入レマショウ」
「お嬢……さま」
「アナタガ彼ノ運命ヲ変エレバイイ。拾ワレタ者同士、彼ニ救イノ手ヲ差シ伸ベル事デ、アナタハ何モ気ニセズ過ゴセルノデハナクテ?」
「それが……わたしにできることなので、す……カ?」
「エエ。ダカラ――私ト一緒ニ沈ミマショウ?」
(救われた者と救われなかった者、ただそれだけ。他にも孤児なんていくらでもいるノニ……)
(救われた私だケが安穏としテ暮らすことは、正しいノカシラ?)
(もウ、駄目ね。意識ガ離レてしまイそウ)
(彼ヲ引き入れルこトデ、彼ガ少しデモ救わレルナラ、)
(私は、救ワレタ者トシテ彼を導カナイトイケナイワヨね?)
(ナラ――オ嬢様ノ仰ル通リニ)
視界が赤く染まり、胸の内から沸々とした感情が湧き上がる。怒り、憎しみ、妬み、苦しみ、悲しみ。そして僅かな喜びと、同時に襲いかかる深く静かな冷たい感情。
その感情に身を委ねようとした瞬間、咲夜は背中を誰かに蹴られた。
「勝手に2人で納得しないでください!」
手を、否、脚を出したのは早苗であった。怒髪天、青筋が立ちそうなほどの激昂。そして蹴られた瞬間、咲夜は自我を少しずつ取り戻す。
「……痛いワね。何をすルのかしら?」
「私のセリフです! カミツレさんが救われなかったなんて、あなたたちがカミツレさんの何を知っているというんですか!」
人がこのような表情をしているのを初めて見た。いや、以前一度だけ、この顔を咲夜はどこかで見たことがある。
「確かにカミツレさんは孤児院育ちで、口下手で、人付き合いが苦手で、気味悪く思われて嫌われてたロリコンさんです!」
それは紅霧異変の時。博麗霊夢と霧雨魔理沙が異変の解決に乗り出して、自身やレミリアと相対した時。目の前に浮かぶ緑色の巫女は、その時の霊夢と同じ顔をしている。
「でも、私がいたから耐えられたって言ってくれたんです! それに私だって……カミツレさんがいたから――!」
『ふざけないで! 時間を操れるからって、人の時間にまで干渉しないで欲しいわ!』
『その人の過ごした時間の価値なんて、その人自身が決めることよ!』
『運命がどうしたのよ、吸血鬼にはわからないかもしれないけど、人間は運命なんて簡単に変えられるだけの力があるのよ!』
『運命運命言う前に、まずは人事を尽くしなさい!』
しばらく顔を見ていない紅白の巫女。いつだって彼女は一生懸命で、一喜一憂に忙しくて、誰よりも人生を謳歌していた。
「カミツレさんは笑ってくれたんです! 守矢神社に、神奈子様や諏訪子様に、私に……お世話になりますって! だから――」
霊夢の生き方を羨ましいとは思わない。霊夢は霊夢の性格で、霊夢なりに人生を楽しみ、生きてきたのだ。そして咲夜自身も、拾われたとはいえ、紅魔館で過ごした日々の中で、楽しみを見出して生きてきた。
救われなかった、と言った。それ自体は間違いではないのかもしれない。だが――
「カミツレさんは守矢神社が――私が守ります!」
彼は、これから救われるところだったのだろう。今まで生きてきたならば、何らかの楽しみを日々の中に見出していたはず。
青年が自身の生き方を羨ましいと思うかはわからない。だが、自身と同じように生きろと押し付けるのは余計なお世話かもしれない。
彼は彼の選択で緑色の巫女と一緒にいる。そこに何かを見出して。
ならば自分に、救われた者としてできることは、彼を見守ること。そして助けを請われた時に、初めて押し付けること。
ナイフを握り直した咲夜。その様子を見て口先を尖らせたままの早苗が、渋々と引き下がってレミリアへ視線を送る。
「お嬢様――私は」
「ヒトツ、イイカシラ。緑ノ巫女」
レミリアもまた、早苗へと視線を送る。その表情には訝しげなものが含まれており、早苗もそれを受けて、視線を逸らすまいと。
「彼ニ待チ受ケルノハ、重ク苦シイ運命ヨ? ソレヲ受ケ止メル覚悟ハアルノカシラ?」
「私たちは“守矢一家”です。家族のためなら、どんな苦難だって乗り越えます」
「死ヌカモシレナイワヨ?」
「カミツレさんを助けるためなら、私が奇跡を起こしてみせます!」
「フ、フ。フフふふふふふ……。運命を、たかだか奇跡で覆すというの?」
神術『吸血鬼幻想』
「調子に――乗るな!」
怒気を孕んだ叫び声。それと共に現れたのは、放射状に放たれる大きな弾幕とそれに付随する小さな弾幕。
夜だというのに、まるで空中だけ昼間になったかのように弾幕の光に照らされる。それは自身と、早苗も同様に感じているだろう。
「あっ……! お、お嬢、様……」
「あうっ!」
能力を使ったとしても避けられないであろう数の弾幕に囲まれ、被弾してしまう。その痛みに、飛ぶのを制御できず地面へ向けて落下する。
痛みで体を動かすことができず、咲夜はいずれ来たるであろう衝撃に備えて静かに目を瞑る。
もっとレミリアに仕えたかった。仕えて、話して、笑って、怒られて。時にはからかって、愛でて、抱きしめて。そんな当たり前で平穏で、そして幸せな人生を過ごしたかった。
だが、他ならない主人であるレミリアに死を与えられるなら、それもまた一つの結末なのかもしれない。などと、悲しみと共に御終いを受け入れて。
受け入れて、一雫の涙がこぼれて。
身体に衝撃が――走らなかった。
(……えっ?)
瞳を開くと、上空で早苗を抱える魔理沙。
顔を上げる。
自身を抱き抱えて悲痛な表情をしているのは、自身が救われなかったと決めつけていた青年であった。