「あ」
みほちゃんが小さくつぶやいてこちらを振り向く。
目があった。
横顔を見ていたことを悟られたような気がして、僕は少しばつが悪くなった。
みほちゃんがぐいと体を近づけてきた。
「あの。おじさんは、どうして社長って呼ばれてるんですか?」
「あ、あぁ。自営業だからだよ」
「え? じゃぁ、本当に社長なんですか?」
「小さな会社だけどね」
「うわぁ! すごいです!」
手をポンと合わせ、それから、また僕のウィスキーグラスを手に取り、露を指でふき取る。
「社長のおじさん。もっと、ウィスキー飲まないと」
「あ、あぁ……」
みほちゃんの細い手が、僕のグラスにウィスキーを継ぎ足す。
「えへへ、美味しいのできましたよ」
「あ、ありがとう」
「私も、飲んでいいですか?」
僕は頷いた。
すると彼女は、慣れた手つきでハイボールを作った。
酒は僕たちが飲んでいるウィスキーとは違うものだった。
みほちゃんはお酒に強くないと言っていた。
酔いすぎないようにもともと薄めたウィスキーを用意しているのだろうか。
しばらく、会話が途切れる。
思い出したように、みほちゃんが問いかけてきた。
「あの……」
「なんだい?」
「おじさんって、もしかして、今でも、ボコなんですか?」
「…………」
「あ、こ、答えにくかったら、いいんです! その、忘れてください」
「いや、いいよ。確かに、僕はボコだったよ。でも、今はもうボコじゃない。ボコなんかじゃないんだ」
「あはっ!」
みほちゃんが嬉しそうに微笑む。
「がっかりしたんじゃない?」
「ううん。むしろ、昔そうで、今は全然違うって人の方が好き!」
きらきらした瞳を無邪気に向けられた。
また頬が熱くなるのを感じる。
「すごいなぁ。本当にすごいなぁ。昔ボコだったのに、今は会社の社長さんなんだ。かっこいいなぁ」
羨望のまなざし。
ちょん、と、温かいものが指先に触れた。
みほちゃんの指だった。
「あのさ、みほちゃんは、どうして、僕がボコでも気にしないの?」
「うん。だって。そういう男の人好きだから」
「好き……」
「うん……」
じっと僕の瞳を見つめてくる。
「あの、もう一杯、飲んでもいいですか?」
「え?」
言われてみると、彼女のグラスは空だった。
「あぁ。もちろんだよ」
僕の言葉に答えて、彼女はまた自分のハイボールを作る。
「えへへ。ボコのおじさんと飲むお酒、美味しいなぁ。酔っちゃいそう。こんなにおいしいお酒、初めてかも」
「そう?」
「うん。だから、その。もっと、おじさんの話、聞きたいな……」
「みほちゃん……」
「おじさんがボコだった頃のお話とか、いろいろ……。その……アドレスの交換、しませんか?」
「あ、あぁ……」
僕が背広の胸ポケットをまさぐった瞬間、湯浅が言った。
「よっしゃ! そろそろ、お開きにしよか!」
「あっ……」
みほちゃんが、しゅんとした表情でうつむく。
「お会計はもう済ましましたで。社長。早よ帰ろ、帰ろ。ぼさっとしてないで立っておくんなまし」
僕は舌打ちをする。
みほちゃんが、残念そうにつぶやいた。
「あの。また、来てくれますか?」
「もちろんさ」
僕は頷いた。
※
帰りのタクシーの中で、湯浅が小ばかにしたように言った。
「社長はん、あんた、意外にウブやなぁ」
「え?」
「ボコのくせに、女遊びはからきしかいな」
「どういうことです?」
「どうもこうもございますかいな。あんた、あの新人のねーちゃんに弄ばれとったやないか」
「何が言いたい?」
「怖い顔すんなや。ありゃ、わりとやり手の女やぞ。ガキのふりして取り入ろうって魂胆や。あんたさんが社長や聞いて、眼の色変えよったやろ。アドレスなんか教えてみい。金吸い取られる羽目になるで」
「そ、そんなことは!」
「あるがな」
湯浅がニタニタと笑う。
「あんた。あの短い時間に何杯お酒せがまれたんや。それも高い酒。ん?」
「高い酒?」
「せやがな。あのガキ、自分の分は響12年を入れよったで」
「響?」
「そんなことも知らへんのか。響とか山崎入れられたら、えらい金取られると思っときや。それも12年ものなんか、どえらいことになる。今回は、俺が誘ったから払ったったけどなぁ。貸しやで、貸し。今度、商売の方でなんか色つけてもらうで」
「そんな……馬鹿な……」
「馬鹿はあんさんやがな。それでよう、もともとはボコやっとたのぉ。ん?」
「ぼ、僕はもう、ボコじゃない」
「ボコはどこまで行ってもボコじゃ! ボケ!」
その言葉に、頭に血が上るのを感じた。
ひどく腹が立った。
僕は叫んだ。
「う、うるさい! いつまでも僕をボコだと思うな! その名前で呼ぶな!」
「うるさいのはお前じゃ!!」
湯浅がひときわ強く怒鳴った。
「あぁ、けったくそ悪い。コンビニ寄るで」
「コンビニに何の用だというんだ」
「酒買うんやがな。飲み直しや。あんたのホテルの部屋で」
「…………」
ふつふつと、怒りやら悔しさやらが湧いてきた。
僕は、いつの間にか、口ずさんでいた。
♪やってやる やってやる やってやるぜ♪