「飲み直すって、どこへ行くつもりなんですか?」
僕が問いかけると湯浅は楽しそうに笑った。
笑ってから、頬が痛むらしく、ガーゼの上から頬の傷を押さえた。
「ここから歩いていける距離に、よく知ってるバーがありますねん。そこやったら何でも融通効きよりますから」
「バー……」
「あぁ、ちゃうちゃう」
湯浅が大げさな身振りで手を振る。
「バーゆうたかて、昨日みたいな店とちゃいます。オーセンティックなバーですわ。いいお酒が置いてるんです」
「そうですか」
「さ、行きまひょ。仲直りや、仲直り」
歌うように「仲直り」を連呼して、湯浅が歩いていく。
僕は仕方なくその後ろを歩いた。
警察に拘束されているうちに、昼過ぎになっていた。
日差しが強い日だった。
昨日の夜からの出来事が長かったせいか、日の光を浴びるが久しぶりであるような気がした。
歩道沿いの街路樹からこぼれてくる強い日差しが時折僕の目を刺した。
僕はそのたびごとに目を細めた。
歩いていると、すれ違う人々が僕たちを見ていた。
確かに、見られて仕方のない二人だった。
湯浅は僕に殴られて、顔にいくつものガーゼを張り付けている。
僕はといえば、浮かない表情で、薄汚れたボコのぬいぐるみを抱えている。
しかも、髪もろくにとかしていない。
こんな奇妙な中年二人組が日中の路地を歩いているのだ。
目立たないわけがない。
「ねぇ、湯浅さん」
「ん?」
「タクシーに乗りませんか?」
「もうすぐそこやさかい」
湯浅は僕の言葉を聞き入れず、ずんずんと歩く。
やがて、Y字路を右に曲がると、雑居ビルの一つを指さした。
「ここの二階ですねん」
比較的小さな雑居ビルは、薄暗かった。
階段を使って二階に上がると、「バー・シンシナティ」と書いてある木目の板が見えた。
「さ、入りまひょ」
湯浅がドアを押すと、それは少し軋みを立てて開いた。
鍵が掛かっていないようだった。
だが、中は真っ暗だった。
湯浅がドアのすぐ近くのボタンを押して明かりをつけた。
狭い店だった。
カウンターと、テーブル席が3つ。
カウンターにはずらりとウィスキーが並んでいた。
様々な種類のグレンリベットと銘打たれたウィスキーが行儀よく鎮座していた。
まるで通学バスを待つお嬢様学校の生徒たちのように品の良いたたずまいだった。
悪くない雰囲気だと思った。
「お昼からやっているのですか?」
「いやいや」
湯浅が首を振った。
「ここは俺と同郷の奴がやってる店ですねん。いわば九州で働く関西人の同盟って感じなんですわ。だからいろいろと融通が利くんです。さっき無理言って、貸し切りで開けてもらったんです。マスターがやってくる夕方まで、二人占めですわ」
「へぇ」
僕はカウンターに座った。
「そんな、カウンターに座らんと。奥のテーブルにゆったり座りましょ」
「いや、こっちのほうが落ち着くんです」
「ほなそれでもよろしいけど」
湯浅が、慣れた様子でバーカウンターの向こう側に移動し、キャッシャーのそばに置いてあるアイポッドをいじくった。
聞きなれた音楽が流れた。
若いころに時々聞いた音楽だった。
ブライアン・フェリーの『ベールを剥がれた花嫁』の1曲目だ。
「いいな」
僕は無意識につぶやいた。
「へ?」
湯浅がこちらを見る。
「何か言いはりましたか?」
「あぁ……いえ。ブライアン・フェリーだ、と思っただけです」
「この歌ですか?」
「ええ」
「ふぅん」
湯浅はそっけなく返した。
「俺は音楽はよう知りませんねん。マスターがいつもこれをかけてるんですわ。そやから、真似しただけです」
「そのアイポッドはお店のですか?」
「さいです」
店内をもう一度見まわすと、カウンターの奥に小さな額があり、ロキシー・ミュージックの『AVALON』のジャケットが収められていた。
店内の内装で、美術らしいものはそれだけだった。
悪くない、と思った。
あれこれごてごてとジャケットを貼っているバーよりも、『AVALON』一枚だけという方が、雰囲気が統一されて、小粋だと思った。
『AVALON』の、甲冑を着た騎士が海峡を見つめている写真は、なかなかに風情があって、この店を浪漫のある空間にしていた。
「社長はん」
湯浅の声に我に返った。
「音楽はようわかりませんけどな。酒なら詳しいで。この店な、えらいええもんあるんや」
「と言いますと?」
「これや、これ」
彼は、スツールの奥に並んだウィスキーをいくつかどけて、後ろ手から、一本の古びたボトルを取り出した。
「なんですか、それは?」
「ポート・エレンって言いましてな。もうずっと前に閉鎖された蒸留所のものですねん」
「閉鎖?」
「あぁ、そうか、社長はん、お酒にはあんまり詳しゅうないんでしたな。昨日のお店でも確かに……おっと」
失礼、失礼、とつぶやきながら口元を押さえる。
「まぁとにかく、大変なレアもんですわ。そりゃ東京やったらもしかしたら手に入るかもしれへんけどな。それでもとんでもないお値段のもんや。今日は、特別にこれ開けまひょ。俺のツケにしておきますさかい」
「いいんですか?」
「特別、特別」
湯浅がうれしそうに目を細めた。
恵比寿目というやつだった。
僕はむしろウィスキーよりもビールが飲みたくなった。
恵比寿ビールをだ。
湯浅がポート・エレンの栓を抜くと、芳醇なにおいが漂った。
それをストレートグラスに注ぐ。
「さ、ぐっと行ってくださいな」
僕は苦笑いした。
「無理ですよ。せめてロックにしなきゃ」
「いいウィスキーはストレートで味わわんとあきまへんで」
「いやぁ、しかしですね」
「しゃぁあらへんな」
ロックグラスを用意し、そこに氷を入れて、再びウィスキーを注ぐ。
「ちょびちょびでもええから、後でストレートも飲んでつかぁさいや」
「えぇ……」
僕は、差し出されたポート・エレンのロックを口に含んだ。
それはまろやかだか味わいが深く、とても美味しいものだった。
「美味いですね。湯浅さんも飲んでくださいよ」
「俺は、いつも飲んでるもんがありますねん」
「そうなんですか?」
「えぇ。取ってきますさかい、ゆっくりしててください」
そう言って、湯浅がカウンターの左奥にある扉を開けた。
向こう側ががちょっとした倉庫になっているらしかった。
店の作り上、細長くて奥行きがあるらしい。
僕は息を吐きだした。
そしてもう一口、ウィスキーをすすった。
音楽が耳を撫でた。
確かに、悪くない空間だった。
昨日の夜の店よりもずっと良い。
酒を口に含むごとに、美しい深海に沈んでいくようだった。
『AVALON』の騎士が見つめる海峡はどこの海なのだろうか、そんなことを想った。
ドーヴァー?
ジブラルタル?
僕にはよくわからない。
やがて、かすかに物音が聞こえた。
湯浅が戻ってきたようだった。
少し時間がかかっていた。
飲みたい酒が見つからなかったのだろうか。
「社長はん……」
ささやくような声で呼ばれ、そちらを振り向いた瞬間、拳が降ってきた。
僕はそれをよけられず、額に強い衝撃を受けた。
殴ったのは湯浅だった。
彼は自慢げに拳を突き出し、息を荒げて叫んだ。
「このダボが。ここで殺したるぞ、こら」
僕は殴られた額を押さえて言った。
「許したんじゃないのか」
「誰が許すかこのボケ。警察にお前が捕まったら司法の裁き受けるだけやろが。俺はなぁ、自分が殴られた分は自分で殴り返したい性格なんや。だから示談にして連れてきたんや。ここでボコボコの半殺しにしたるからなぁ。覚悟せえよ」
「へぇ」
僕はつぶやくと同時に立ち上がり、湯浅の顔面を殴った。
多少酔ってはいたが、十分俊敏に動けた。
一発お見舞いすると即座に、ほとんど反動をつけずもう一発お見舞いした。
続いてさらに数発撃ちこんだ。
スピードが勝負だと思った。
湯浅の顔が鼻血で濡れた。
僕は気にせず殴り続けた。
相手の動きが鈍くなったことを確認すると、今度は体重を乗せて強く殴った。
二発目で湯浅が壁に倒れこんだ。
僕はカウンターに置いてあったウィスキーの瓶を取り、それで思いっきり湯浅の頭を殴った。
瓶が割れ、強いウィスキーの匂いが広がった。
湯浅はぴくぴくと痙攣していた。
彼は真正の間抜けだった。
人を殴るなら、もっと酔わせてから殴り掛かるべきだった。