金田から渡された電話番号にかけると、しゃがれた声が返事をした。
「はい。伊丹ですが」
低くて太い声を、特殊な鉈で薄くスライスしたような不思議な声だった。
しゃがれてはいるが、それが高齢のためなのか、煙草の吸いすぎのためなのか判断がつかなかった。
僕は、自分の名を告げた。
すると伊丹と名乗った男は、事情は聴いていると答えた。
話が早い。
あれこれと説明が必要かと思っていたので、僕は少し気が楽になった。
「あんた、今から来れるのか?」
男が言った。
時間を見ると、夜に差し掛かっていた。
「行けますが、場所はどこでしょうか。お酒を飲んでしまったので、車には乗れません。終電で帰れる場所なら、今すぐ行きます」
男が告げた住所は、国立だった。
今からでも行って戻ることは不可能ではなかった。
僕は、男の指定した場所に行くことにした。
国立駅で降りて北上すると、バス道沿いに集合住宅が立ち並んでいる通りがあった。
その中の一角に、下層階がテナントで、上層階がマンションという物件があった。
不思議な物件だった。
おそらく、階層は10階ぐらいだろう。
70年代に建てたと思われる少し草臥れた外装をしている。
5階から上が住居のようだが、建物がそれほど広くないので、大した戸数ではないだろう。
テナントに入っている会社の人々が住んでいるのかもしれない。
男が指定した住所は、そのビルの地下だった。
ビルのファザードに、上り階段と下り階段がついていて、薄暗い階段を降りると、そのまま地階だった。
エレベーターは設置されていない。
地階には、通路があり、扉が3つあった。
2つは薄暗く、閉じられていた。
一つの扉だけ、扉の小さな窓から明かりが漏れていた。
窓には内側から薄い紙が貼ってあり、中が見えないようになっていた。
薄い紙に、太いマジックインキで『パンダ商会』とだけ書いてあった。
僕はその扉をノックした。
「入って」
男のしゃがれた声がした。
扉を開ける。
すると、扉のすぐ向こうに男が立っていた。
男……というよりも、老人だった。
皺だらけの顔にひげを蓄え、目を細めて笑っていた。
淡いクリーム色というよりはオフホワイトに近いシングルのスーツを着て、頭には鼠色の帽子をかぶっていた。
シャツは鮮やかなミッドナイトブルーだった。
おかしな組み合わせだが、不思議と洒脱さを醸し出していた。
もっと陰気な雰囲気の男を想像していたので僕は面食らった。
「ほら、入って」
男……伊丹老人のしゃがれた声が僕を促す。
僕はうなづいて、部屋の中に入った。
一見して、何をやっている会社なのかよくわからなかった。
大きなパーテーションで部屋を二つに区切っていて、奥には大量の段ボールが積んであった。
区切られたこちら側には、机と椅子、そしてノートパソコンとコーヒーメイカーがあった。
「あいにく豆を切らしていてね」
僕がコーヒーメーカーを見ていると思ったのか伊丹老人が言った。
僕は慌てて首を振った。
「まぁ座りなさいよ」
「は、はい」
促されるままに椅子に座る。
硬い椅子だった。
とてもじゃないが、座り心地がいいとは言えない。
「あんた、ぬいぐるみに仕込みをして盗撮がしたいんだって?」
単刀直入な問いだ。
僕は目を伏せた。
「ちゃんと答えなくちゃわからない。そういうことがしたいんだね?」
僕は、うなづいた。
「わかった。お金は持ってきている?」
「え、ええ。ある程度は」
「それだけじゃわからないよ」
伊丹老人のしゃべり方は独特だった。
答えを次から次へと聞いていくスタイルだ。
僕は、隠しても仕方ないので今持っている金額を言った。
「それなら十分だ。で、仕込みたいぬいぐるみってのは?」
僕は携帯を取り出して画像を見せた。
「ほぉ。ボコか」
意外だった。
「ボコを知っているのですか?」
「町内会で、見回り隊をしている。子供がそのキャラクターのグッズを持っているのをよく見かける」
「へぇ」
盗撮グッズの販売をやっている人間が、町内会か。
どこか違和感があったが、世の中はそういうものなのかもしれない。
「面白い話がある」
「え?」
「町内活動で知り合ったある女性の話だ。子供が大きくなってから、手がかからなくなり、何もすることがないらしい」
「はぁ」
「旦那は毎日仕事で忙しい。日中は一人ぼっちだ。時間だけが有り余っている。だが裕福ではない。彼女は、毎日昼過ぎに家を出て、ショッピングモールに行くそうだ。そして何も買わずに戻ってくる」
「ええ」
「その繰り返しだ」
その会話に何の意味があるのかわからなかった。
それがどうしたというのだ?
「そんな風にして、使い果たされる時間というものが世の中にはある」
僕の心の中の問いかけにこたえるかのように伊丹老人が言った。
だが、だから何だというのだ。
「ボコを見せてくれ」
伊丹老人が、僕の目を見据えた。
「えと、それは……」
言葉に詰まる。
金田に対してもそうだが、この老人にも。
ボコを愛里寿以外に触らせたくなかった。
それを僕以外に最初に触るのは愛里寿でありたかった。
処女性。
ボコの処女性。
「見せてくれ。実物を見なくちゃどういう商品がいいかわからない」
「……」
僕は仕方なく、ボコの箱を机に置いた。
丁寧に慎重に包みのリボンを説く。
「ふむ」
伊丹老人が、つぶやいた。
「これなら簡単だ。内部にいろいろ仕込んで、レンズを突き出す。ぬいぐるみの毛並みでごまかされて、レンズには気が付かないだろう」
言いながら、ボコを手に取る。
「あっ」
僕がつぶやく間もなく、それを持ってパーティションの奥へと引っ込んでしまった。
しばらくして、伊丹老人が戻ってきた。
ボコには、大理石風の美しい台座とペンダントがつけられていた。
ペンダントが淡く光っている。
「中の一部を繰りぬいて、小型カメラと無線ルータを入れた。レンズはここにある」
ぬいぐるみの毛並みをかき分けると、小型の精密なカメラが現れた。
「毛並みが映り込みすぎないように位置は工夫してある」
「ペンダントは?」
「電源を利用するためのフェイクだ。実際には電源は、ペンダントを光らせるためだけではなく、中のルータとカメラの駆動に使われるようになっている」
「台座は?」
「バカか、あんたは」
伊丹老人が軽蔑するように笑った。
「ぬいぐるみを相手に渡して、手に持って遊ばれたらどうなる?即座に中身がばれるぞ。台座を設置することによって、このぬいぐるみは置物になる。光るペンダントがついていたらなおさらだ。これはおもちゃから『飾り物』に変化したんだ」
僕はうなづいた。
「映像は、どうやって取得するのですか?」
「ルータで飛ばすことができる。スマホかPCを持って相手宅から15メートル圏内に行くといい。保存した映像を取得できる」
「そのためのルータなんですね」
「そういうことだ」