いつまでもボコだと思うなよ   作:忍者小僧

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2 島田愛里寿という少女

ある夜、ひどくハードな仕事があった。

僕はかなり難しい交渉を纏め上げ、そのことに達成感があった。

だが、幾分心に疲れを感じていた。

交渉をまとめる過程で、何度もなじられたからだろう。

繁華街を歩いていると、雑居ビルの二階のジャズクラブの看板が目に留まった。

悪くない。

自分へのご褒美だ。

僕は、そこで一杯ひっかけることにした。

ついでに、もしも良い演奏が聴けたら御の字だ。

レコードも好きだが、やはり、生の音というのはもっと好きだ。

 

 

ジャズクラブは、そこそこ込み合っていた。

木製の古めかしいテーブルが古き良き時代を連想させる。

バーテンダーはみな一様に物静かで、淡々と酒をつくっている。

客層も悪くない。

なるほど、流行るわけだ。

僕は、案内されて、窓際の丸いテーブル席に腰かけた。

ダルウィニー12年のロックを注文すると、すぐにロックグラスとチェイサーが運ばれてきた。

ステージでは、ピアノトリオがモダン・ジャズとフリージャズの境界線のような音楽を奏でていた。

僕はゆっくりと酒を飲んだ。

 

しばらく、そうしてジャズを聴いていると、隣の席に新しい客が座った。

それは、灰色のようなミステリアスな髪の色をした少女だった。

僕は不思議に思った。

こんなナイトクラブに、幼い少女?

たじろぐ僕を尻目に、少女は手慣れた様子で、ハイランドパークのソーダ割りを注文した。

運ばれてきたグラスのスコッチ&ソーダを一口飲むと、僕に微笑んだ。

彼女は自分のことを島田愛里寿と名乗った。

 

「愛里寿ちゃん。君は一人きりでこんな店にいるのかい?」

「そうよ。あなたを探していたから」

「僕を?」

 

少女は無表情に頷いた。

 

「こっちに来て」

 

手をひかれて、店の奥へと移動すると、そこには青い扉があった。

そのナイトクラブには、度々訪れている。

だが、そんな扉があることは知らなかった。

 

「ここは?」

「あなたに見せたいものがあるの。入って」

 

少女の言葉に、抗うことができなかった。

僕は少しばかり躊躇しながらも、その青い扉を開けた。

扉の先には、小さな部屋があった。

本当に小さな部屋だ。

人が数人いれば、狭く感じられてしまうほどに。

その小さな部屋の壁際に、一台のアップライトピアノがあった。

 

「よく見て」

 

少女の言葉に目を凝らすと、いつのまにか、ピアノの椅子には、小柄な女性が座っていた。

美しいが、どこかけだるそうな表情をしている。

彼女はピアノを弾いていた。

曲名は知っていた。

Guess I'll Hang My Tears Out To Dryだ。

感傷的な曲だ。

流れるような手つきから、彼女が達者な弾き手であることが見て取れた。

スムースで、癖のない音色だった。

 

「冷泉麻子さんよ」

 

愛里寿が言った。

僕は、名前を言われても困るだけだった。

やがて曲調が変わり、How Insensitiveが奏でられた。

こちらもスムースだ。

だがそれだけだった。

ところが、次に始まったメロディは、僕の心を打った。

それはどこか懐かしく、それでいて、強烈に僕を揺り動かすものだった。

 

「この曲は……いったい……」

 

僕が呟くと、愛里寿が、まるで答え合わせのように、ピアノに合わせて呟いた。

 

♪やってやる やってやる やってやるぜ♪

 

「その……歌は……」

 

僕は頭を押さえた。

ひどく頭が痛い。

なんなんだ、これは。

……あまりの唐突な痛みに目を閉じ、蹲った。

やがて痛みが引き、眼を開けると、音楽は止まっていた。

僕は、部屋の外にいた。

もとのジャズクラブだった。

僕は、壁際に一人で佇んでいた。

僕は手に、小さな箱を握りしめていた。

それがなんなのかわからなかった。

だが、それは、開けてはならないものであるような気がした。

弾けるようなリズムが聴こえた。

舞台で、新しいジャズコンボが演奏を始めたようだった。

中年のピアニストが、早い手つきで即興演奏をしていた。

その音は押しが強く、先ほどの冷泉という少女の演奏とは全く異なっていた。

僕は、ふらふらと自分の席に戻った。

そこには、何食わぬ顔で、愛里寿が座っていた。

 

「いったいどういうことなんだ?」

 

僕が問いかけると、隣のテーブルの老人が顔をしかめてこちらを睨んだ。

愛里寿が私に言った。

 

「音楽を聴いている人の迷惑よ。座って、小声で話した方がいいわ」

「それなら、この店を出よう」

 

僕の提案に、少女は同意した。

 

 

 

続く

 


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