ある夜、ひどくハードな仕事があった。
僕はかなり難しい交渉を纏め上げ、そのことに達成感があった。
だが、幾分心に疲れを感じていた。
交渉をまとめる過程で、何度もなじられたからだろう。
繁華街を歩いていると、雑居ビルの二階のジャズクラブの看板が目に留まった。
悪くない。
自分へのご褒美だ。
僕は、そこで一杯ひっかけることにした。
ついでに、もしも良い演奏が聴けたら御の字だ。
レコードも好きだが、やはり、生の音というのはもっと好きだ。
※
ジャズクラブは、そこそこ込み合っていた。
木製の古めかしいテーブルが古き良き時代を連想させる。
バーテンダーはみな一様に物静かで、淡々と酒をつくっている。
客層も悪くない。
なるほど、流行るわけだ。
僕は、案内されて、窓際の丸いテーブル席に腰かけた。
ダルウィニー12年のロックを注文すると、すぐにロックグラスとチェイサーが運ばれてきた。
ステージでは、ピアノトリオがモダン・ジャズとフリージャズの境界線のような音楽を奏でていた。
僕はゆっくりと酒を飲んだ。
しばらく、そうしてジャズを聴いていると、隣の席に新しい客が座った。
それは、灰色のようなミステリアスな髪の色をした少女だった。
僕は不思議に思った。
こんなナイトクラブに、幼い少女?
たじろぐ僕を尻目に、少女は手慣れた様子で、ハイランドパークのソーダ割りを注文した。
運ばれてきたグラスのスコッチ&ソーダを一口飲むと、僕に微笑んだ。
彼女は自分のことを島田愛里寿と名乗った。
「愛里寿ちゃん。君は一人きりでこんな店にいるのかい?」
「そうよ。あなたを探していたから」
「僕を?」
少女は無表情に頷いた。
「こっちに来て」
手をひかれて、店の奥へと移動すると、そこには青い扉があった。
そのナイトクラブには、度々訪れている。
だが、そんな扉があることは知らなかった。
「ここは?」
「あなたに見せたいものがあるの。入って」
少女の言葉に、抗うことができなかった。
僕は少しばかり躊躇しながらも、その青い扉を開けた。
扉の先には、小さな部屋があった。
本当に小さな部屋だ。
人が数人いれば、狭く感じられてしまうほどに。
その小さな部屋の壁際に、一台のアップライトピアノがあった。
「よく見て」
少女の言葉に目を凝らすと、いつのまにか、ピアノの椅子には、小柄な女性が座っていた。
美しいが、どこかけだるそうな表情をしている。
彼女はピアノを弾いていた。
曲名は知っていた。
Guess I'll Hang My Tears Out To Dryだ。
感傷的な曲だ。
流れるような手つきから、彼女が達者な弾き手であることが見て取れた。
スムースで、癖のない音色だった。
「冷泉麻子さんよ」
愛里寿が言った。
僕は、名前を言われても困るだけだった。
やがて曲調が変わり、How Insensitiveが奏でられた。
こちらもスムースだ。
だがそれだけだった。
ところが、次に始まったメロディは、僕の心を打った。
それはどこか懐かしく、それでいて、強烈に僕を揺り動かすものだった。
「この曲は……いったい……」
僕が呟くと、愛里寿が、まるで答え合わせのように、ピアノに合わせて呟いた。
♪やってやる やってやる やってやるぜ♪
「その……歌は……」
僕は頭を押さえた。
ひどく頭が痛い。
なんなんだ、これは。
……あまりの唐突な痛みに目を閉じ、蹲った。
やがて痛みが引き、眼を開けると、音楽は止まっていた。
僕は、部屋の外にいた。
もとのジャズクラブだった。
僕は、壁際に一人で佇んでいた。
僕は手に、小さな箱を握りしめていた。
それがなんなのかわからなかった。
だが、それは、開けてはならないものであるような気がした。
弾けるようなリズムが聴こえた。
舞台で、新しいジャズコンボが演奏を始めたようだった。
中年のピアニストが、早い手つきで即興演奏をしていた。
その音は押しが強く、先ほどの冷泉という少女の演奏とは全く異なっていた。
僕は、ふらふらと自分の席に戻った。
そこには、何食わぬ顔で、愛里寿が座っていた。
「いったいどういうことなんだ?」
僕が問いかけると、隣のテーブルの老人が顔をしかめてこちらを睨んだ。
愛里寿が私に言った。
「音楽を聴いている人の迷惑よ。座って、小声で話した方がいいわ」
「それなら、この店を出よう」
僕の提案に、少女は同意した。
続く