それは20年前のことだ。
僕は21歳だった。
小さな工場で旋盤工の見習いとして働いていた。
技術を求められる仕事だ。
工場には荒っぽい男も多く、対人関係には苦労したが、やりがいがあったし、自分の腕が上達していくことに、満足感があった。
そんなある日、僕は一人の少女と出会った。
少女は、僕が働く工場の裏手にある空き地に、一人ぼっちで佇んでいた。
僕はたまたま、裏手に置いていた作業用具を取ろうとして、空き地にたたずむ少女を見つけたのだった。
少女は小柄で、まだ中学生ぐらいに見えた。
手にはクマのぬいぐるみを抱いている。
僕は不審に思った。
工場の裏の空き地は、公園と呼べるような場所ではなかった。
そこは、地権者が管理を放棄したまま捨て置かれたような土地で、土は乾いてひび割れ、雑草は生い茂り、ところどころに不法投棄されたタイヤやら鉄くずやらが転がっている。
子供の遊び場としては不適切だった。
かといって、唐突に声をかけることもためらわれた。
僕は、気に留めながらも、いったん工場に戻った。
一通りの作業を終え、工具を戻そうと裏手に回ると、空き地にはまだ少女がいた。
空き地に捨て置かれた、木材に腰かけている。
先ほど見かけてから、もう2時間が経過している。
空き地には、街燈も何も設置されていない。
これから夕暮れを過ぎると、どんどん暗くなる。
ためらいながらも、僕は少女に声をかけることにした。
工場裏手のフェンス越しに、女の子に向かって言葉を投げる。
「ねぇ、そこで何してるの? 具合でも悪いの?」
僕の言葉に、少女が振り向いた。
とても美しい少女だった。
僕は、その端正な美しさに目を奪われた。
少女が、口を開いた。
「……あなたは?」
「ぼ、僕は、そこの工場の従業員だよ。さっきから、君がずっとそこにいるから、気になって」
「ごめんなさい」
女の子が、立ち上がった。
「立ち入り禁止だって知らなかったの」
「あ、いや、違うよ。そうじゃない」
「え?」
「別に、工場の土地だから注意したとか、そういうのじゃないんだ。ただその、女の子が一人でずっとそんなところにいるから、気になって……。暗くなると危ないし……」
なぜそんな説明をしたのか、自分でもよくわからなかった。
本当なら、注意して立ち去らせればよかっただけだ。
だが、少女を引き留めたかった。
少女と、もう少し、話をしたいと思ってしまったのだ。
少女が、僕をじっと見つめる。
フェンス越しに僕を見据えるその瞳は、凛と澄んでいて、淡い憂いがあった。
「ありがとう。あなたって、優しいのね」
少女がほほ笑む。
「もう大丈夫よ。あなたに、素敵な言葉をかけてもらえたから」
「あ、いや、そんなことは……」
「ね、あなたの名前は何?」
「僕? 僕は、牧野総一郎だよ」
「私は、愛里寿。島田愛里寿よ」
※
この日以来、愛里寿は時折、工場の裏の空き地に現れるようになった。
僕たちは、お互いに時間を示し合わせ、落ち合って短い会話を交わした。
僕の思い違いでなければ、愛里寿は僕に会いに来てくれているようだった。
僕はなんとか、仕事の合間に少し理由を作って工場の裏手に行くようにした。
僕の直接の先輩である老旋盤工の中本という男は、時間にファジーな男なので、特段気にしていない様子だった。
僕は戸惑いながらも、愛里寿との短い邂逅を楽しむようになった。
「ねぇ、総一郎さんって歳はいくつなの?」
「僕? 僕は21だよ」
「ふぅん。でも、大人びているのね」
愛里寿の物言いはいつもあけすけだった。
それでも不思議と気にならなかった。
「大人びているって。いったい誰と比べてだい? 僕なんて、学校もろくに出ていないただの旋盤工だよ。人と関わることも少ないし。人生経験もろくにないのに」
「比べている相手は私の同級生」
僕は思わず笑ってしまった。
「君の同級生と比べられてもなぁ。まだ中学生ぐらいでしょ? そりゃ、君の同級生よりは大人だよ」
「ううん、違うわ」
愛里寿が首を振る。
「私は大学生よ。だから、私の同級生は、総一郎さんと歳は変わらないわ」
「え? 大学生?」
僕は愛里寿をまじまじと見つめる。
すると愛里寿はじとっと僕をにらんだ。
「いま、疑ったでしょ?」
「あ、いや、その」
「本当よ。私、飛び級をしているの」
「じゃぁ、すごく賢いんだ」
「そんなこと。別にないわ」
愛里寿が少し照れたようにうつむく。
そんな様子がかわいいと思った。
「でもさ、大学生と比べて大人びているだなんて、そんなこと言われるとは思わなかったよ」
「そう?」
「うん」
僕は少しうつむいた。
「あのさ。僕さ、今この歳になって、大学にいっときゃよかったなぁって思うことがあるんだ。その……高校のときはさ、ちょっと、荒れてて。もう勉強なんてうんざりだって思っててさ。誰が学校や教師の言いなりになるかよ、とか思っててさ。そんで、こうやって就職を選んだんだけど」
愛里寿が、黙って僕の紡ぐ言葉に耳を傾ける。
「でも、社会に出てみたら、学校よりももっと他人の言いなりなんだよな。上司とか、社長とか、ありとあらゆる人間に縛られて。学校ってのがどんだけ気楽で自由だったか、今になってわかるよ。そしたらさ、大学ってのに対して、今頃になって憧れを感じちゃってね。もしかしてちゃんと勉強して、大学に入ってたら、人生違ったのかな、って」
「そんなこと、ないわ」
愛里寿が僕に身を乗り出す。
僕は少しドキッとした。
「大学の男子なんて、あなたよりもずっと頼りない人が多いわよ。あなた自身が言っているじゃない。社会に出ると人に縛られるって。その縛りの中で総一郎さんは努力してる。だから、私の同級生よりもずっと大人びて見えるの」
その言葉に少し、心が楽になる。
「ありがとう」
僕がつぶやくと、愛里寿は微笑んだ。
「そろそろ行くね」
「うん。また」
愛里寿が駆けていくと、僕は胸ポケットから煙草を取り出し、一本だけ吸った。
心の負い目が溶けていくようだった。
そうだな。
僕は僕自身だ。
僕のできる仕事を頑張ろう。
そう心に誓っていると、後ろから声をかけられた。
「おい! 総一郎! いつまで油売ってやがる!」
振り向くと、工場の窓越を開けて先輩旋盤工の金田が怒鳴っていた。
やべっ。
僕は頭を下げて、急いで作業に戻った。