ナイトクラウドの供養塔   作:雪国裕

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序章
騙りの部屋を護る男


大きな本棚が幾つも並んでいる。一つにつき、何百冊も収容できる丈夫な本棚たちだ。そしてその内には、ぎっしりと本が詰められている。そのどれもが、どこか色あせているような気がした。空間さえも、セピア調に見えてきてしまうほど、ここは寂れていた。時代に取り残されていた。

 

ここは蔵であり、また書庫であり、そして文字たちの墓場であった。幾人の人間の手を渡り、愛し親しまれ、しかし棄てられてしまった。とうとう居場所を無くした、そんな物語たちが最後に行き着く場所である。

死を待つ物語たちが、安寧に身を委ねるために供養されるのだ。耳をすませば、本たちの声が聞こえる。それぞれが、各々の物語の断片だけを浮かべては、こちらに訴えかけてくる。自らがどれだけ面白く、感動的である物語であるのかと。主張してくる。しかしそれが届くことはない。皆棄てられた物語だから。

 

部屋の中には、一人の若い男の姿があった。背は高めで、細身。黒と灰の着物に身を包んでいる。つやのある黒髪は短くは無く肩に届きそうであった。色のない世界に、その姿はあまりにも相応しかった。男の周りには依然として訴えの声が蔓延していたが、そのどれにも返答することはしなかった。

彼は暗がりの中、重厚な本棚の間を抜けていく。頭の中に流れ込んできた本たちの意識を理解したのち、すぐに振り払った。

残酷であるがそれが本たちの供養となる。否定せず、肯定せず。それが、本たちが自らの物語を、終りへ導く方法なのだ。それは絶対の決まり事であり、騙りの部屋で他の者がしゃべることは禁じられている。この場所で言葉を騙ることができるものは本たちだけなのだ。

 

見回りを終えた後、男は蔵の鍵を閉めた。三重にもなる頑丈な錠を施すと、彼は夕暮れの中を歩いて行った。男の名は流夜雲。歳は二十歳。広大な神社の敷地内、その隅に存在する異質の建物、“物語の供養塔”を管理している。彼がその管理人として抜擢されたのは、理由がある。一つは代々家柄が神社の家系であること。もう一つは、彼が適任者であるからだ。

本来、読書というものは目を使い、或いは指を使って文字を読み取り、そして心のうちに声を出して詠むことを言う。それは当たり前だろう。常識的に考えれば、その範疇を越える答えは無い。

 

しかし夜雲の場合は違う。本が自ら、自分へと語り掛け、その内容を教えてくるという。見る必要がない。これは後から彼が知った話だが、代々こういった能力を持つ子供が、この家系に生まれてくるらしい。住職である父親は違ったが、祖父がこれに似た能力を持っていたという。代々それぞれ秀でた力を考慮して役割分担を行い、この地に眠る何かを鎮めていた。

幼いころ、夜雲にとってそれが当たり前だと思っていた。だから教科書も、本も開いたことがなかった。読まずとも内容を理解する。しかもいともたやすく深く、作者の思いの核心に迫る。おかげで、文系の評価はずば抜けて高かった。

 

だが、その力には弊害が出ていた。例えば“友達が新しい本を買ってきたその日、彼はその内容を読まずとも理解していた”とか。読書、物語に触れることが好きであった夜雲は、外で遊ぶ活発な子ではなかったので、内向的な、文学的な友達を作った。しかし前述のとおり、予知能力ともとられてしまう不可解な言動と、彼のそつない態度が災いし、友達の数は減っていた。それどころか気味が悪くて仕方ないと噂になり、学校内での居場所もなくなった。本人はそこまでに気に留めてはいなかったが、彼の周りには人が寄り付かず、気が付けば独りとなっていた。

 

木々の影が伸びた紅蓮色の道を彼は進んだ。寂れている背中を、夕陽が照らし続けている。風もなく、音もない。草履が擦れる足音だけがその場にあった。

 

“それ”がおかしいと気が付くには、時期が遅すぎたのかもしれない。彼は友達の作り方、自分の在り方がすっかりわからなくなった。自らが異常だと知り、言動に気を付けつつただひたすら地味に暮らそうと努めた。中学生となった彼は、一切自分のことを公言しなかったし、自ら歩み寄ることもしなかった。自ら壁を作り、内に閉じこもった。本のように、誰かに紐解いてもらうまでは。

高校生になったころには、この力を使って父親の仕事の手伝いを始めるようになる。自分の必要性はここにしかないと悟ったのだ。進学はせずに、此処で神職を全うしようと。

そしてそのまま、今に至っている。

 

 

流水神社は地域で最も高台とされる林の中にあり、敷地は神社としては大規模とされる。ほとんどが自然であるもの、随所に祠、地蔵などがあり、おかげで見回りなどが大変だと父はよく言っている。表向き、行っていることは普通の神社と変わらない。しかしここには、良く遠方から足を運ぶ者も多い。観光目的ではなく、仕事をしてもらうために。

それが要するに、物語の供養、ということだ。その方法は特定の流派に連なる形ではなく、完全に一族が秘匿している文字通り門外不出の業ということになる。

どのような人が訪れるかというと、特殊なケースが多い。一般に、大切な本を預かってほしいという人や、売れない作家が生み出した物語を供養してほしいと、突飛なことをいいだすこともある。これだけでも稀有な仕事と思われるが、実はいずれも表向きの内容であり、供養塔の本当の意味を識ものは、関係者一族と、本の病に冒されたものだけだという。

 

そんな世界に触れる内、いや最初からだったのか、彼は世間とは相容れぬ存在となっていた。それでも、本を嫌いになることはなかった。

むしろ味方は本だけだと思うようになり、人よりも物を信じるようになっていった。奇妙な話である。そんな中でも、彼が信頼する人たちは居た。親族や学校の先生も一応、このことは知っており、そしてそれを寛容してくれた。しかしそれでも、その特異性を認めるものは少ないままだった。

 

流夜雲とは、つまりは本の心が読める人間である。本と心を通じ、物語の中で交信を行える人間。しかしかといってそれが、どう役に立つのかはまだ当人も知らず。ただ、古き時代から彼の一族は、文字を守り、本を護ることを使命づけられていた。

本を護るとは、つまり本の尊厳、ひいてはその存在をまもること。すなわち物語を残し続けることである。

しかしいつの頃か、本家は違う流派を生み出し、本を供養するという道を選んだ。永遠に生き続けさせるのではなく、終りに導き、安らぎを与える。

その分家が、流水ということだ。

物語にとってどちらが幸せなのかはわからない。それは思想の違いだ。その考え方に同調し、彼もまた騙りの部屋で物語を供養する者となったのだ。

 

 

巨大な日本家屋の前に、夜雲はたどり着いた。夕陽と赤い雲がゆったりと流れる。彼は振り返って、書庫を眺め視た。そして思う。いつものように、何事もなく終わってよかった、と。だがしかし、この時にすでに始まっていたのだ。父親すらも知らぬという稀代の禍の断片が春の到来とともに。

沈黙と平穏を保っていたこの地域にそれが起こるとは、まだ誰も知らなかったろう。

ただ一部の人間を除いては。

 

 

 

 


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