ここまで読んでくださってありがとうございます。
これからも拙作をよろしくお願いいたします。
模擬演習の一件以降、伊能と石壁は真の意味でバディとして動き出した。伊能に足りない所が多いように、石壁にも足りない所が多い。それを補い合うことで、今までの地を這うような成績が上向き始めたのだ。
これだけでも朗報と言えるが、成績が及第点を超え素行不良が収まった事で二人への正当な評価が定まり始めた。あきつ丸やまるゆ、鳳翔に明石に間宮を抱える二人は元来輜重隊への適性が高い。輸送訓練での好成績が評価され卒業後の配属についても目処が立ち始めたのである。これには配属先に頭を悩ませていた教官達も大いに胸を撫でおろす事となった。
そして模擬戦の戦い方についても大きな改善があった。石壁が守り、機を見て伊能が突っ込む。そんな役割分担が機能するようになった事で、模擬戦の勝率が5割を超え始めたのである。まだ完璧とは言えないが、士官学校2年目の二人は概ね良い方向へ進んでいたと言えるだろう。
しかし、伊能はその結果に……特に模擬戦について思い悩んでいた。
「うーん……もう少し被弾率を下げないと少し辛いね……訓練はまだしも実戦だと被弾を繰り返すのは致命的だし」
石壁の言葉に、伊能は渋い顔をする。
「すまん……本土決戦時代ならアレぐらいの弾幕くぐり抜けて突っ込めたんだが……海の上だからか、それともそれ以外が原因なのかわからんが……後一歩が届かんのだ」
後一歩、その言葉に石壁は腕を組みながら上を向く。
「後一歩……後一歩かあ……」
暫し考え込みながら、石壁はボソリと呟く。
「そう簡単には吹っ切れないよなぁ……」
「石壁?」
「……あ、ごめんなんでもないよ」
思わず溢れたと思しき石壁の言葉に、伊能が問いかける。
「石壁、何か思う所があるならはっきりと言え。今更、多少の事を気にする間柄でもあるまい。『言いたい事があるなら言え』、貴様は俺にそう説教したではないか」
「うっ……それを言われると弱いね……分かったけど、コレはあくまで僕の勝手な推測だからね」
そう前置きして、石壁は続ける。
「多分、伊能は昔の……本土決戦の時の記憶がトラウマになってるんだと思う」
「トラウマに……?」
「うん。全身全霊で突っ込んで、戦って……気が付いたら戦友が皆居なくなったって言ってじゃないか。多分、無意識の内にその記憶が脳裏にチラついて、ブレーキをかけてるんじゃないかなって」
心当たりは、あった。石壁に殴られるまでは勿論だが、それ以後も。前に走る度、あの記憶が蘇る。振り払っても振り払っても消えない記憶。前しか見ず、前にだけ進み、全てを切り払ってたどり着いた場所に……守りたかった戦友は誰も居なかったのだ。隣に仲間はまだいるのか、後ろの戦友は無事なのか、突き進んだ先に、一体何が残っているのか……いつもそれが脳裏にチラつく。ただ我武者羅に突き進めたのは、失う事を知らなかったからだ。
(そうか……つまる所俺はまだ……)
文字通り全身全霊を掛けねば、生と死の境界線で一歩を踏み出す事など出来る訳がない。そして、全身全霊を掛けきれないとはつまりーー
(……仲間を、石壁を信じきれていないのか)
ーー後ろに居る仲間の無事を、確信出来ないという事だ。また、同じようになるのではないか。という疑念が捨てきれないのだ。
(なんと女々しい男なのだ。俺は……)
忸怩たる思いが、伊能の中に満ちる。これだけ自分へ本気でぶつかってくる相手を、未だに信じきれない惰弱さに吐き気がした。そんな伊能を見て、石壁は声をかける。
「……まあ仕方ないよ。コレばっかりは時間を掛けないとどうしようもないしね。大丈夫、まだ卒業までーー」
一年あるんだから。そう言い切る前に部屋の扉が叩かれた。
「石壁候補生はいるか」
扉を開いて入ってきたのは、教官の一人であった。
「はっ!此処に居ます!」
それを見て、即座に二人は立ち上がり敬礼を返す。教官は石壁を見て、それから伊能にチラリと目をやってから続ける。
「よろしい。今から貴様に話がある。ついて来い。伊能候補生はそのままで良い」
「了解しました!」
「了解」
教官が石壁を連れて部屋を出て行く。一人残された伊能が一体何事だろうかと考えるが答えは出ない。だが、先程教官が自分を一瞬見たあの目に胸騒ぎを感じてしまう。
(あれは……『憐れみ』の目だ……あるいは……『申し訳なさ』か……?何度も見てきた、不愉快な目だ)
元来伊能は誇り高い人間であり、見下されるのも、憐れみをかけられるのも大嫌いだ。
だが海軍へと出向してからは、それこそ何度も何度もそういう目で見られてきた。生贄の如く差し出された境遇を、あきつ丸達以外を呼び出せなかった事を、突っ込む事しか出来ない無能さを。あるいは見下され、はたまた憐れまれ、そして嗤われた。
始めこそ激発した。抵抗した。見返そうとした。だが、結局のところは変えられなかった。幾度も繰り返し、幾度も失敗し、やがて伊能はそれらの屈辱を受け入れ始めていた。
仕方のない事、よくある事だ。どうにもならない事など、世の中には幾らでもある。そう、己に言い聞かせ、誤魔化して、耐えるようになっていった。
文字通り、苦い記憶。苦渋を飲み込み屈辱に忍従するのは、吐き気を堪えるのに似ている。
石壁と出会ってからは、久しく感じていなかったその苦みに……伊能は顔を顰めてため息を吐いた。
(……あまり、愉快ではない話題かもしれんな)
往々にして、悪い予感程良く当たる。それを証明するように、再び部屋の扉が叩かれる。
「伊能殿、居るでありますか」
「あきつ丸か、入れ」
入ってきたのは、あきつ丸であった。
「石壁殿はどうしたでありますか?」
「今しがた教官に連れて行かれたぞ」
「……となると、あの話は本当のようでありますな」
「……どういう事だ」
あきつ丸は、怜悧に思えるほど冷たい表情で続ける。
「これは諜報班の陸軍妖精が掴んだ情報であります。実は、石壁殿と伊能殿のバディを解散させようという動きがあるようであります」
「……続けろ」
寝耳に水とはこの事であった。問題点が無い訳ではないが、この一年二人のバディは極めて上手く動いてきた。にも関わらず、解散させるというのはどういう事か。
「……極めて単純で、つまらない理由でありますよ。陸軍からの出向である我々が成果を上げ始めたのをつまらないと感じる連中が居るであります」
伊能はこの段階に至っても所属上は陸軍軍人である。そもそも海軍が陸軍へ提督の出向を迫ったのは「派閥争い」の要素を多分に含んで居るのだ。深海大戦は陸海軍間のパワーバランスを大きく崩している。故に海軍閥はこの機に乗じて、更に陸軍の力を削ぎにかかったのだ。
現状でこの国の防衛はその大部分を艦娘によって支えられている。故に、抱える艦娘の数は軍としての発言力に直結するのだ。だからこそ、競争相手である陸軍から艦娘を奪いたかったのである。また、『陸軍に艦娘を差し出させた』という一事は、それだけで海軍の権勢を知らしめる良い材料になるという理由もある。
更に度し難い事に、そうまでして差し出させた陸軍の艦娘を海軍閥は手元で腐らせるつもりなのだ。所属上陸軍からの出向である伊能達が戦果を上げれば、それは陸軍の得点とも言える。折角削った影響力を回復されるのは、海軍閥にとって面白くない事なのだ。
この世界の日本は未だに大日本帝国である。故に彼の国の救い難い暗部が完全に解体されずに残っているのだ。愚かしいとしか形容できない陸海軍の仲の悪さは、その最たるものであろう。
それでも深海大戦勃発直後は流石に内ゲバをしている場合ではなかったので協力出来ていた。だが、曲がりなりにも滅亡の危機を跳ね除けたことで状況が落ち着き、影を潜めていた悪癖が再び表面化し始めたのである。
「……それは確かに、つまらん理由だな。だが、それ以外にもあるのではないか?」
「……はい」
伊能の言葉に、あきつ丸は一瞬黙り込んだ後続けた。
「今更になって連中は、石壁『提督』の真価に気が付いたようで……手元に抱え込みたいと考えたようでありますな」
「……くくく、なるほど。『陸軍の役立たず』と組ませて腐らせるのが惜しくなったか」
伊能は、あまりにバカバカしくて思わず笑ってしまった。
「アイツはこの一年で大いに化けた。それまでの落ちこぼれという評価を覆し、兵站における唯一無二の才能を示している。埋もれていた防衛戦の才能もだんだん表面化してきた。だから『落ちこぼれるべき』
馬鹿馬鹿しいと思うだろう。だが、世の中では得てして論理的な正当性を超えた『そうあるべきだからこうする』という考え方が優越する事が多い。特に政治的な力学が働く世界では、その傾向が顕著だ。それ自体は、ある種仕方のない事ではある。
だが、それを当人達が納得出来るかと言えば、また別の話だ。
「まったくもって……笑える話だ」
「伊能殿……」
伊能は、急速に心から熱が失われていくのを感じていた。
一年前、殻に籠もっていた伊能をぶん殴り、そこから引っ張り出したのが石壁だった。それからずっと、石壁は本気でぶつかってきた。だから、伊能もそれに応えたいと思っていた。バディとして、仲間として、二人三脚で進んできた一年間は、伊能にとってとても充実した日々であった。
それが、どうしようもない不和でも、能力的な問題でもない、ただの政治的な力で終わってしまう。その程度のモノであったのだ。そう思うと、思い出は急速に色あせて、つまらないものに思えて来る。
「……いや、あるいは、潮時であったのかもしれんな。どのみち俺はまだ、石壁を信じきれていなかったのだから。ここいらで、終わりにするのも良いかもしれん」
先程の会話がよぎる。己の女々しさが原因で、未だに一歩を踏み込みきれない。石壁を信じきれないでいる。その事実が、何もかもを諦めるという後ろ向きな決断を後押しする。
それに、事は個人の力を越えた組織の意思の問題だ。仕方のない事、よくある事だ。どうにもならない事など、世の中には幾らでもある。
そう、心に言い聞かせた。これまでのように。
「……なら、今から石壁殿と教官殿の所に行って、それを伝えるのが良いでありましょう。幸い、伊達大佐……今は少将でありましたな。伊達少将はダメなら戻って来いと言っていたであります。こんな馬鹿馬鹿しい政治ゴッコ、とっとと辞めて帰るであります」
伊能がある意味吹っ切れたのを見て、あきつ丸はそう提案した。あきつ丸もまた、この結末に思う所があるらしく、冷めきった目をしている。
「そうだな。そうしよう。石壁が居る部屋は分かるか?」
「ええ、こっちであります」
二人は、部屋を出て歩き出した。やがて目的地へとたどり着いた二人が、扉を叩こうとした瞬間。部屋の中から聞き慣れた男の声が響いた。
***
時間は少し遡る。とある指導室へと連れて来られた石壁は教官と向かい合って椅子に座って居た。
何事かと身構えていると、暫し、最近の成績などの世間話に近い会話を続けた後に教官は本題を切り出した。
「実は、まだ内々の話ではあるが……君の今後について上の方から提案があった」
「僕のですか?」
「ああ……もうすぐ新規に養成された提督達が大勢戦線に加わるのは知っているだろう?上層部はこれを期にこの停滞した戦局を打開したいと思っている。その為に、今提督候補生の中からエリートをよりすぐっているんだ。戦局打開の為の切り札になる部隊としてな」
一部提督候補生の中で突出した才能を持つ人間を選抜して大本営が集めているというのは、石壁も噂として聞いた事があった。
「そして、その部隊の候補として、君を推す声がある」
「……え」
それは、石壁にとって信じがたい話であった。最近は評価が改善しつつあるとはいえ、士官学校の落ちこぼれであったのは、石壁自身も自覚しているからだ。
「何故僕を?」
「君は攻勢指揮においてはハッキリ言ってどうしようもない程に無能だ。だが、防衛戦指揮のみにおいては全提督でも文字通りトップの成績を叩き出している。後は、間宮や明石を連れている事も評価対象となった。そういった点を考慮して、エリート部隊を支える後方要員として起用してはどうかという意見が出ている」
元々石壁がこの二点において突出してるのは教官達も理解していた。故に最近の評価の全体的な回復によって欠点が薄れ、エリート部隊に入れてもギリギリ見劣りしないという見方がされたのである。
自分の事を高く評価して貰って居るというのは、石壁にとっても嬉しい事であった。だが、同時に此処に呼ばれているのが自分だけである。というのが石壁にはひっかかった。
「教官、望外の評価を嬉しく思います。そして、此処に呼ばれた理由も分かりました。ですが、何故伊能は此処に居ないのでしょうか」
その問いに、教官は一瞬言葉を詰まらせる。
「……教官?」
「……伊能候補生は、今回の選定から外れている。だから、呼んでいない」
その言葉に、石壁は目を見開いた。
「そんな馬鹿な……!?僕が呼ばれているなら、伊能だって評価基準を満たしている筈です!!アイツ程攻勢指揮が上手い人間を、僕は他に知りません!!」
石壁のその言葉に、教官は感情を見せないように表情を取り繕う。
「……石壁候補生、それについては私も君も関知する所ではない。重要なのは君が候補として推されている事。そして、君が望むならそれが通る可能性が高いという二点だけだ」
上層部へ意見することは末端に許される事ではない。軍隊というのは何処までも上意下達が基本である。むしろ事前にこうして話を通して意向を聞いてくれるだけ、温情があると言えるだろう。それが実質的に断れないとしてもだ。
「君にとって、これはとても良い話だ。受ければ今後の栄達は約束されたようなモノであるからな。大本営直属のエリート達の所で学べば、君はもっと輝けるだろう」
「……では、伊能はどうなるのです。僕が大本営に招集されれば、アイツのバディはどうするのですか。僕以外の誰が、アイツと一緒に戦えるのですか」
教官は、石壁の言葉にしばし返答出来なかった。伊能があらゆる面で扱いにくい人間である事も、石壁以外に伊能に合わせられる人間が居るわけがない事も、よく分かっているからだ。だが、それでも言わねばならない。教官は口を開く。
「……伊能候補生のバディには、別の候補生を当てる。それが上手く行かなければ、それまでの話だ。場合によっては、海軍の士官候補生過程を外れ、陸軍へ帰されるかもしれん。出来る限りはそうならないように取り計らうつもりだが……確約は出来ない」
本音で言えば、教官もそんな未来は望んでいない。だが、内々にとはいえ石壁のエリート部隊への配属は決まりかけている。それを伊能の為に止める分けにも行かないのだ。それこそ、
「……分かりました」
「そうか、ではこの話をーー」
ーー進めておく、教官はその言葉を続けられなかった。
「このお話、謹んで辞退させていただきます」
強い意思を感じさせる声が、凛と響いた。
「……正気か、石壁候補生」
虚を突かれた教官は、呆然と石壁にそう問うた。
「はい。このまま、伊能のバディを続けたく思います」
迷いなく、石壁はそう返した。何処までも真っ直ぐに、教官を見る目は澄んでいる。そこに迷いは一切無く、この答えを頑として譲らぬと語っていた。
「……内々にとはいえ、ほぼ決まったような話だ。コレを蹴るなら、それ相応の反発があるぞ。断言しても良い、今後の海軍での栄達は絶対に無理だ。それでも……断ると、言うのか」
「はい。僕に選択の余地があるならば、絶対にお受け致しません。たとえ今後一生、冷や飯喰らいになったとしてもです」
教官は、石壁という男を見誤っていた。伊能に比べて扱いやすく、話がわかる、常識的な優等生だと、そう思い込んでいた。
だが、それはあくまで石壁が譲っても良いと思っている事柄だけの話であった。一度譲れぬと決めた事に至っては、文字通り命にかけても譲らぬのが石壁という男なのだ。だからこそ、いや、そうでなければ伊能に対して我を通せる訳がない。伊能以上に頑固者だから、彼をぶん殴ってでも殻から引っ張り出せたのだ。事が此処に至りようやく教官は、石壁という男の厄介さを理解したのである。文字通り、手遅れであった。
(これはダメだ。こいつは無理やり話を進めたらどんな手段をとるか分からん。それこそ、エリート部隊そのものを破綻させてでも抵抗するんじゃないか?)
先に石壁に話を持ってきたのは失敗であった。もしも伊能に先にこの話を伝えたなら、伊能は仕方のない話と諦め、自分から士官学校を辞めていただろう。だが、伊能への負い目から石壁に先に話を通した。それが、致命的であった。
教官は、石壁が初めて見せた究極的な我の強さに目眩を感じながら、問いかけた。
「……わからないな。君はもう彼という補助輪なしでも、しかと自らの価値を示せている。そこまで必死になり、彼に拘る必要もあるまい。それなのに何故、そこまで拒むのだ。自らの栄達を捨ててまで」
まず明石と間宮が要る段階でどこの泊地でも引く手数多である。しかも天性の素質である防衛指揮能力は最前線でこそ強く輝くのだ。彼の居る鎮守府は自ずと人類屈指の牙城になるだろう。それだけの価値が石壁にはあった。戦争とは言うなれば終わりの見えない長距離走である。終戦というゴールまで戦い続ける事が大前提であり、石壁の能力はそれに極めて役立つ。
だが、伊能は違う。彼の能力は瞬間火力に余りにも尖り過ぎていた。言うなれば究極の短距離走者、一瞬の闘争に全身全霊をかける砲弾のような存在である。その在り方は、戦線に投入すればそれだけで大戦果を叩きだすだろうが、言ってしまえばそれだけのものだ。一瞬で燃え尽きる松明を使って夜道を勧めといわれたら使用者は二の足を踏むだろう。
伊能も石壁も、唯一無二の才を持っている。だが、伊能は石壁が居なければ戦えないが、石壁は一人でもそれ相応に価値を示せるのだ。だからこそ、石壁がそこまで伊能に拘る理由が教官には分からなかった。
「なぜ、そこまで伊能の為に必死になる」
その問いに、石壁は真っ直ぐ教官を見つめて口を開く。
「……教官は今まで『あと一歩』という所で目的を果たせなかった事はありますか。ここぞという大勝負で、その一歩が踏み込めず後悔した事はありますか」
その言葉に、教官の脳裏に幾つもの苦い記憶がよぎる。長く生きれば、それだけ後悔は積み重なるものだ。まして戦時の軍人ならば、後悔してもし足りない記憶は多い。戦友の血で贖われた『届かなかった一歩』が如何に重く遠いか、嫌になる程知っていた。
「伊能はその一歩を踏み込める男です」
その言葉には、教官をして息を呑む程の力があった。端的に、強力に、そうなのだと確信させる気迫があった。
「死地の中で誰かに背中を預けるならば、自分は伊能のような……いえ、伊能にこそ命を預けたい。アイツ以上に、そう思える男を自分は知りません」
石壁は真っ直ぐ、教官を見つめる。一寸の曇りもなく、言い切る。
「『伊能獅子雄は命を賭けても悔いがない男である』……男が動くのにそれ以上理由は必要でしょうか」
石壁は軍人であった父の、戦う男の背中を見て育った。
戦火に巻き込まれ、多くの死を見てきた。
故郷を奪還せんと戦い、散って逝く兵士達を見てきた。
否が応でも理解せざるを得ない。どう頑張っても人は死ぬ。絶対に死ぬのだ。
だからこそ、人は足掻く。足掻いて、足掻いて、足掻き続けて、生きる事を諦めない。
避け得ぬ死に対して抗う時が……命を賭けて戦わねばならない時が来る。
その大一番を悔いなく託せる男が居るのだ。男が男に命を賭けるのに、これ以上の理由は要らなかった。
「必ず……必ずあの男は突き抜けます。誰よりも強く、誰よりも鋭く、誰よりも頼れる『提督』になります。その時まで、バディとして、命をかけてでも支えてみせます」
揺るぎなく、石壁は続けた。
「だから、この話はお断り致します」
***
「……」
指導室の前で、伊能は石壁の言葉を聞き遂げた。一言一言を飲み込む度に、心に灼熱が走り、体が震えた。抑えきれぬ衝動は行き場を求めて溢れ、我知らず、瞳からこぼれ落ちる。生まれて初めて、心の底から……否、魂が根底から震えるのを、伊能は感じていた。
「……いやはやまったくもって、どうしようもない馬鹿でありますな、石壁殿は。こんなにも良い話、受けても誰も責めないと言うのに」
伊能の隣で、あきつ丸はため息を吐いて肩を竦める。だが、馬鹿にしたような言い草とは裏腹に、その顔は心底楽しげであった。
「……ああ、アイツは馬鹿だ。筋金入りの大馬鹿者だ。誰がそこまでしてくれと頼んだというのだ。俺なんぞよりもよっぽど馬鹿ではないか」
声が震えそうになる。喉が渇く。沸々と湧き上がる熱情が出口を求めて律動する。
初めて会った時から、今に至るまでの記憶が蘇る。ずっと、伊能を殻から引きずり出した時も、そして今も石壁は変わっていない。
どうしようもない程本気で、信じられない程に頑固で、救いようがない程に大馬鹿者でーー
「だが、賢いだけの人間よりも、俺はああいう馬鹿の方が好きだ」
--伊能が、誰よりも強い男だと、確信しているのだ。殻を破り、突き進み、誰も踏み込めない一歩を踏み出せる男であると。
「……あの馬鹿に合わせるなら、俺ももっと馬鹿にならねばなるまい。ウダウダ悩むのは、もう終わりだ」
伊能は笑った。獣が牙を剥くような、凶悪な笑み。自信と力強さに満ちた、太々しい笑みだ。久しく忘れていた……否、忘れた振りをしていた感情が心を熱くさせる。
「やれやれ、男と言うのは馬鹿ばっかりでありますな」
あきつ丸もまた笑う。滾る戦意を抑えきれずに、太々しく笑う。
「ああ、男は馬鹿だ。そして、馬鹿だからこそ、出来る事もある。俺はもう、迷わん」
迷いの消えさったその顔に、あきつ丸は問いかける。
「誑し込まれたでありますな?」
「貴様もだろう。あきつ丸」
「これは一本取られたであります」
士は己を知る者の為に死す。武人が命を賭けるのに、それ以上の理由はいらない。伊能は今この時をもって終生の友を、命を賭しても悔いがない相手を得たのだ。
「行くぞあきつ丸。ついてこい」
「地獄の底までお供するでありますよ。賢く生きるよりも楽しく死ねそうでありますからなあ」
二人は笑いながら、前へ歩き出したのであった。
***
こうして、迷いを捨てた伊能は真の意味で石壁に背中を預けるようになったのである。迷いなく、狂いなく、極限状態の一瞬で前に踏み出せる程に。
それはさながら、強く、鋭く研ぎ澄まされた刃。極限まで練磨されたそれは、抜けば全てを切り捨てる石壁の懐刀である。
運命に翻弄され、絶望の中で戦う事になる石壁が最も頼りとしているのは誰か?それを問うても意味がない。なぜなら、その答えはずっと変わらないからだ。
これは、ただそれだけの話だ。
多分この話で一番の被害者は板挟みになってた教官殿