『
石壁は、足元が壮絶にぐらつくのを感じた。アイデンティティの根幹となる……否、アイデンティティの基盤となるべき世界観に亀裂が走ったのだ。その衝撃は、筆舌に尽くしがたい。
『ええ、歴史という物語を管理する
周囲の光景がめくるめく変わっていく。南洋で、北方で、東方で、西方で、海で、空で、陸で……東郷提督の戦略に従い大日本帝国軍は史実以上に連戦連勝を重ねていくのが石壁には分かった。そう……
『ははは……なんだよこれ……【史実以上に勝ってる】なんて、どうして分かるんだ……史実って一体なんなんだよ!!!』
石壁は激発した。知る筈のない……本来知る由のない……
『私は……いいえ、【私達】は元々は史実世界の歴史を基盤にして生まれた存在なのよ。だから覚えていなくても本来知っているの。史実世界の事をね……それが、こうして混ざったせいで、アンタにも流入した。有り得べからざる
ここでいう【私達】とは、東郷提督を中心とした、巨大なズレの総称であった。
『……それが、この世界がブレる感覚の原因か』
石壁は、壊れそうになる世界の認識を必死になって再構築しながら……更に奥深く、根源的な問いへと踏み込む。
『……結局、彼は一体何をやったんだ。君たちは何故、実体化した』
その問いに、ほんの少しだけ大和は逡巡した。だが、最初に言った通り、彼が踏み込んでくるならば、全てを教えようと大和は口を開いた。
『……東郷提督は、元々史実世界の人間だった。詳しい理由は教えてもらえなかったけど、彼はその世界でいう2013年前後に死んだ。そして、70年の過去を遡り、神様とやらの力を一部借り受けて再びこの世に生まれたらしいわ……日本の歴史を……太平洋戦争の結末を少しでも良い方向へ切り替える為に』
姿の見えない大和は、感情を感じさせない語りで、石壁へと秘密を明かしていく。
『その神様の力とは……軍艦の魂に人格を与え、その能力を引き出す力……魂という非科学の存在を、現実へと干渉出来る様にする力……本来あり得ない状態に、世界を塗り替える力……つまりーー』
その力に、石壁は覚えがあった。そう、既に石壁はーー
『--
***
『伊能、艦娘と深海棲艦は本質的に同根だ。彼女達は同じ根を持ちながら、正反対の方向へ向かって伸びているだけなんだ』
『深海棲艦が世界に闇の結界を作り出す力を持っているならば、当然それに対応する力を艦娘も持っている筈だ』
『人類が……いや厳密には艦娘が制圧した海域から深海棲艦が生まれないのも、艦娘が撃沈させた深海棲艦が時々艦娘になるのも……恐らくはその『何か』が密接に関係している』
『そう、つまり。深海棲艦が【世界を異常へと改変する力】をもつならば……艦娘にはその逆、【世界を正常へと戻す力】があると僕は思うんだ』
***
--既に、答えにたどり着いていたのだ。
『艦娘という存在が生まれる様に……それが違和感なく世界に馴染むように……世界の基幹法則を『そういうもの』だと
石壁の脳裏に、かつての友との会話が蘇る。
***
『新城、お前は僕達の中でも最大規模の艦隊を率いている。だけど当然、自分の艦隊の艦娘と他の艦隊の艦娘は間違えないよな?何故だ?』
『何故って、『そういうもの』だからだろう?私達提督は自分が顕現させた艦娘なら、百人の那珂ちゃんの中から自分の艦隊の那珂ちゃんを見つけられるってのは有名な話だ』
***
だから皆、【そういうもの】だと受け入れたのだ。この世界では、それが既に法則になっているから。この世界では地に置いてある林檎が天へ上るのが世界のルールになっていたのだ。疑問を持てないのが、『当然』だったのである。もう『そういうもの』なのだから。
そこで、石壁は気が付いた。先ほど確かに大和は言った。『軍艦の魂に人格を与え、その能力を引き出す力』と。だがそれだけならば、深海棲艦達が現代において『実体化する』のは、可笑しい。現に、目の前で繰り広げられる太平洋戦争において、魂が肉体を実体化している場面は一つもない。戦争が終わるまで、そんな怪談があったなどという話は、聞いたことがなかった。では、いつ、彼女達は実体を持った?
『まて……この記憶が……『僕等の知る歴史』の通りに進むなら、この後東郷提督は……』
石壁が目線を記憶へとやる。断片的に流れて行く情報から確かに読み取る。
大和の記憶が……ついにその時を迎える。枝分かれした歴史の、致命的破綻の時まで……
***
1945年8月15日、史実世界において終戦記念日となるこの日。大和の艦長室のデスクで東郷提督は『その時』を待っていた。
その側に一人の女性が控えている。この悪夢の道先案内人である、『艦娘大和』がそこにいた。
二人は、長年連れ添った大切な誰かに語り掛ける様に言葉を紡いでいく。
『東郷提督、この戦いも、もう少しで終わりますね』
「ああ、そうだね。大和」
大和の問いに、東郷提督が応える。大和の声は音になっていない。だが、それでも確かに相手に伝わっている。どうやらまだ、大和は実体をもってはいないらしい。
「日本への原爆投下も回避した。ソ連の南下も跳ね返した……死ぬ筈だった大勢の人が生き残った……これで、歴史の流れは変わった筈だ……」
東郷提督は、終始大日本帝国の優勢を保ちつつ暫時戦線を後退させ、最終的に絶対国防圏の前後で戦線を停滞させた。日米ともに、ぎりぎりメンツを保ちつつ、史実よりも大分マシな条件で終戦できるラインまで情勢をコントロールしたのである。大日本帝国という派閥闘争に明け暮れる暴れ馬を数年間に渡って制御しながら、やっとの思いでたどり着いた
東郷提督は万感の思いを込め、言葉を紡ぐ。
「漸く……世界大戦が終わる……後は講和条約さえ纏めれば……僕の戦いは終わりだ……この
そこで、東郷提督は、一転して声を沈ませる。
「……君との別れの時を……意味するんだ」
寂しそうな男性のその言葉に、女性は困ったような笑みを浮かべる。
『……でも、これは世界を改変する力です。首相就任から4年……ここが、今日この日が、法則を元に戻せる最後の一線です。そうでなければ、取り返しがつかない位世界の法則が変わってしまいますよ』
大和は、東郷提督の言葉と思いを嬉しく思いながらも、成すべきことを為せと。彼の背後に回って、勇気づける様に抱きしめた。手を触れる事さえ出来ないが、二人の心は確かに繋がっていた。
『大丈夫です。大和は……いいえ、貴方に力を貸した艦艇の魂は皆……ずっと貴方の側に居ますから……例えその力が失われて、私達の存在が分からなくなっても……魂だけは……ずっとそばに……』
大和の言葉に、東郷提督はほほ笑む。
「……ありがとう、大和」
それからしばしそうしていた東郷提督であったが、彼はやがてチラリと腕時計をみると、ラジオを弄りだす。
「……玉音放送が流れたら、神様に力を返そう。それまでは……もう少しだけ、こうしていたいんだ」
『……はい』
そうして事前に放送するはずであった時間を待つ二人……だが……
「おかしいぞ……なぜ……玉音放送が流れない……」
『何か……設備のトラブルでもあったのでしょうか……』
予定の時刻になっても、玉音放送が流れない。
「……区切りとして、アレ以上のモノは無い。出来る事なら、それで終わらせてやりたかったが、仕方ないか」
やがて放送を待つことを諦めた東郷提督は、大和へと最後の別れをすませようとする。だが……
「首相!東郷首相大変です!」
「何事か!」
突如として、扉が叩かれる。
「火急の事態です!入室してもよろしいでしょうか!!」
「わかった、入れ!」
扉が開き、ドカドカと数人の将校が部屋に入ってくる。
「なんだ!一体何があったんだ!!」
東郷の言葉に将校たちは俯きがちに言葉を放つ。
「大日本帝国が、降伏するという話なのですが……」
「どうした!?講和条約の締結になにか不備でも起こったのか!?」
部屋の中に押し掛けた人数は思いのほか多く、正面に立つ数人以外は顔も良く見えなかった。
「はい……我々の返事はーー」
故に、気が付いた時には、全てが手遅れであったのだ。
「ーーこれだ」
空気が弾ける様な音と共に、東郷は、胸元に熱い何かが走ったのを感じた。
「えーーーー」
それが何か信じられないといった、呆然とした顔で……彼は己の胸元に目をやった。
士官以上の海軍士官の証である純白の二種礼装に……真っ赤な花が咲いていた。
『てい……とく……?』
大和は、彼と同じく呆然とした顔で……先ほどより花弁を大きくしていく深紅を見つめる。
「----やま、と」
彼の口中から、血泡があふれ出す。それ以上言葉を紡ぐことも出来ずに、フラフラと東郷は椅子に座り込んでしまう。
「大日本帝国に仇なす売国奴め……!!だれが降伏など許すものか!!死ね!!」
正面に立つ数人の間から、銃を隠し持っていた数人の将兵が前に出て、続けざまに東郷へと銃撃する。空気が弾ける度に、命を吸って花弁が増えていく。
ここに至ってようやく事態を把握した大和は、生まれて初めて泣き叫んだ。
『提督!!提督!?なんで……どうして……ッ!!いやあああああああああ!!!!』
大和が必死になって東郷へむけ手を伸ばす。彼を助けたい。彼を護りたい。彼を……彼を……次から次へと溢れ出る思いに任せて、大和は、己の意志で持って、法則を捻じ曲げようとした。
「やま……と……」
それをみた東郷は……最後の力を振り絞り、震える手を大和へ伸ばす。彼はもう分かっていた。自分はもう、助からないと。
(結局、俺は……半端モノだったか……)
彼はずっと……ずっと神に託された使命を果たすために今生を生きてきた。与えられた力は人の身に余ると理解していたが故に……細心の注意を払って、世界を壊さないように……誰かの為に生きてきた。
(ああ……神様……どうか……どうか最後に一つだけ願いが叶うならーー)
だが、もう自分は死ぬ……望み続けた平和を見る事も出来ずに、ここで死ぬのだ。そんな彼が、最後の最後に己の願いを叶えたいと思う事を……一体だれが責められようか。
(--最後に一度だけで良い。君に、触れていたい)
生涯でただ一度だけ……彼は己の願いの為に……愛した女性に触れたいという本当に細やかな願いの為に……彼は
『ていと……」
大和が急速に実体を持ち始め、彼へと手が届くまであと数センチというその瞬間……
「まだ息があるぞ!!」
「射て!!」
その場の全員から放たれた銃撃に東郷の右腕が……千切れ飛んだ。
「……あ」
届いた筈の彼の手が……大和が抱きしめてもらいたいと思い続けた彼の力強い腕が……ただの肉塊と化して地面に落ちた。
「……」
体中を穴だらけにしながら、東郷は届かなった腕を見つめて……全てを諦めたようなほほ笑みを浮かべる。
あいしています
もはや言葉すら発する事の出来ない東郷は、口の形だけで、一度も言えなかったその言葉を紡ぎーー
「ああ……ああああああ……」
--その生に、幕を閉じたのである。
「提督……提督……」
大和は、提督の体に、触れた。肉の感触がする。流れ出た血が、彼女の白魚の如き指を染め上げていく。
「提督……?目を……目を……開けて……てい……と……く……」
あれだけ触れたいと思った彼の体は……もう、ただの肉の塊でしかない……彼は……大和が愛した提督は……
「……ッ!!」
……死んだのだ。
「……やる」
噛みしめられた歯が欠ける程に、大和は歯を食いしばる。
「……してやる」
提督が好きだといった彼女の穏やかな顔が、憎悪と憤怒で染め上げられていく。
「ころしてやる」
濡れ羽色の……いつか東郷が櫛を差してあげたいといっていた美しい黒髪が……彼の命のように、真っ白に染まっていく。
「確実に仕留めたな」
「急いでずらかるぞ」
「次の講和派の連中の居場所は……」
まだ彼女の姿を視認できない男達は、その異常を、変異を前にして、動くことが出来ない。だが、仮に視認出来ていたとしてもーー
「殺してやる……ッ!!」
ーーもう、何もかもが……手遅れだ。
大和から南方棲戦鬼へと変質した彼女は、紅い瞳に何もかもを燃やし尽くす程の憎悪を燃え滾らせてーーーー東郷の体へと、手を突き込んだ。もう彼女は、提督に触れられる。そう、世界は改変されてしまった。故に南方棲戦鬼は提督を『提督』たらしめていた存在にも触れることが出来るのだ。
「貴様等全員、一人残らず殺してやる!!!」
彼女が腕を引き抜くと、その腕の中で『何か』が胎動した。
「戦争を終わらせたくないのよねえ!!いいわ!!そんなに殺し合いがしたいなら、永遠に殺し合いをさせてあげるわよ!!貴方達が殺した男の……
その瞬間、戦艦大和の船体が激震する。
「な、なんだ!?」
「船が揺れて……ッ!?」
「に、にげ……」
男達が異変を感じた時は、もう手遅れだった。
「水底へ……沈めえええええ!!!」
その瞬間、大和を始めとして、多くの艦艇が爆沈し、海底へと沈んでいった。
同時多数的に日本中で発生したこの爆沈によって……大日本帝国はこの日海上戦力の大半を……『正史においては喪われた筈の艦艇』を全て喪失したのであった。
***
そして、時が流れる。
「憎い……」
「恨めしい……」
「許せない……」
海底へと沈んだ彼女と、彼女が提督から抜き出した『何か』……それは深い深い海の底で、少しずつ少しずつ変性していく。
「よくも私たちの提督を殺したな……」
「殺してやる……」
「こんな世界、滅んでしまえ……」
それからずっと……第二次世界大戦が終わってからずっと……彼女達の改変はじわりじわりと世界へと浸透していった。本来は提督のモノであるが故に、強制力が弱かったのだ。故に70年もの月日を掛けて、日の届かない水底で憎悪を蓄積させながら。
「……機は熟した」
そして、かつて提督から抜き出されたソレ自身が完全に憎悪に染まりきったその時ーー
「ニイタカヤマノボレ」
ーー2013年4月28日、太平洋戦争が再開されたのである。
cheat(チート):データの改竄などの不正な行為