神殿の内部は、廃墟のような外見からすれば綺麗なものであり目立った破綻も無かった。等間隔で配された側面の柱は、奥へ行くにつれ短くなっている。最奥に鎮座する巨大な女神像をより荘厳に、より厳格に見せる為の柱。しかし節々には亀裂が走っている。
「女神の力を借りる、か」
王子は自嘲気味にひとりごちる。現在の神殿の有り様は、神を捨てたと
そんな彼らに対し、言の葉は荘厳に舞い降りる。
『――人の子たちよ』
囁くような声と共に
「あ……アイギス、様!!」
驚愕のあまりアンナが声を張り上げる。アンナらの前に顕現した女性は、紛う事なく女神アイギスその人であった。アイギスは人智を越えし存在である事を物語る神性を纏い、慈愛に満ちた表情を投げかける。一行は、女神の神々しさの前に閉口するしか出来なかった。
女神に対し、王子は重い一歩を踏み出す。
「……貴女を祀る神殿はこの有り様。図々しいのは百も承知だ。だがそれでも――」
訴えかける王子。この場に存在する全ての視線が彼へと注がれる。そんな中――
「力を貸してくれ」
王子は、深々と頭を下げた。
『……貸す、ですか』
女神の声が僅かに揺れる。
「女神様、私からも恥を忍んで申し上げます。私達は魔物に抗いうる力を持ちえません……国王陛下ただ一人さえ、お護りする事は出来ませんでした」
そう語るアンナの秀麗な顔が歪む。しかし彼女らの淡い期待は、脆くも崩れた。
『あなたがたの希望に応える事は叶いません。事の発端は、長き刻を経て、魔物を封印した我が身の力が抜け落ちた事に在りますから』
女神アイギスが発したのは、彼らが想定していた中で最悪級の返答だった。此処まで付き従ってきた一行も、どよめきを隠せないでいる。
「そ、んな……女神様の、お力が?」
アンナが驚嘆の余りに膝をついた。
『……最早封印も能わず。蘇りし魔物の脅威に対し、あなたがた人類は人の力によって対抗せねばなりません』
救いを求めて訪ねた王子達にとって、女神アイギスの宣言は余りにも無慈悲なものだった。
「……無理、無理です。私達、だけでなんて……!」
「アンナお姉様……」
『ですが私にも、出来る事が無い訳ではありません』
女神アイギスがそう口走ると同時、彼女から光が迸った。
『英雄の血を引きし子。あなたには、かつて私が授けた加護の力が色濃く受け継がれています。今の私でも異なる地に在りし、志を同じくする者との縁を結ぶ。その架け橋となるくらいは出来ましょう――』
王子は確かに
『願うのです。今ここに、あなたの剣を召喚しましょう』
王子は躊躇う事無く手を伸ばした。やがて、彼らの視界を満たした白金の輝きは鳴りを潜める。そこで一行は、女神の前で佇む一人の少女を見た。
露出の多い少女だった。矢筒を背負い、手に握られた簡素な弓は、彼女が弓兵である事を物語っていた。髪の色に近しいピンクカラーの眼が、宝石のように瞬いている。だがしかしそれらの外見特徴は、ある一点の明確な違いによって影へと追いやられていた。
獣耳。髪から生える猫の耳が、血が通っている事を証明するようにピクリと動く。明確に人ならざる存在の登場は、王子達に多大なる衝撃を与えるには十分であった。
「えっと……はじめまして。バシラと言います。貴方が王子様ですか?」
「……よろしく頼む」
王子の差し出した手は手袋越しではあるが、二人は握手を交わす。
『意外ですか? ですが彼女は、神速の射手の二つ名を持つ勇士です。必ずあなたがたの力となるでしょう』
「そ、そんな。大袈裟ですよ……」
相変わらず集中する視線に、バシラは少し居心地が悪そうにしていた。
『このようにして各地から戦力を募りなさい。そして――』
言葉を皮切りに女神の放つ後光が反転する。
『――
「……黒き星?」
ポロリと声を漏らしたアリシア。そして答えたのは、アンナであった。
「乱世が訪れる時に現れる明けの明星。暗黒を引き裂き光を齎す、類稀なる人」
「アンナお姉様……?」
それを語るアンナの表情が普段に比べて暗かったのを、アリシアは見逃さない。しかし今この場においてそれは些末事に過ぎず、問いただすのは憚られたのだった。
『彼女らは稀有な人材です、縁を結ぶのは容易な事ではないでしょう。この身に残りし力にも限度があります。ですが、私の力は此処にのみある訳ではないのです』
女神が言い終えるのと同時、アンナの手元にあった、女神を象った結晶が眩い光を放ち始める。
『この世界に散らばりし私の残滓。それは
「そ、それ! 山賊と戦った時の――」
『結晶に――
「……十分だ。助かった」
王子は女神に対し深々と首を垂れた後、向き直る。今後の事については決した。後は、王子が令を発するだけ――そのはずだった。
「あ、あぁ! 王子! 王子いた!」
少女の声を背に受け、一行は振り返る。
朱色の髪の小柄な少女。白いベレー帽のような何かを被っており、紅白色を基調とした服を身に纏っていた。そして先端が時計、先端部と柄を繋ぐ部分が砂時計のようになっている特殊な杖を握っている。
現れた少女に対し、アリシアが武器を構えて立ち塞がった。
「な、何者ですか!?」
「待って、私敵じゃない! 武器降ろして……えっ、というか誰!?」
「誰って失敬な! 私は――」
アリシアがそこまで噛みついて、制止したのは女神であった。
『……彼女の言に間違いはありませんよ』
「……アリシア。下がっていい」
「は、はいごめんなさい!」
「私はココロ! 素性については聞かないで、でも今は絶対に外に出ないで!」
ココロと名乗った少女。彼女の言葉が終わるとほぼ同時、神殿の外から轟音が鳴り響いた――
それから少しして。神殿外の様子を観察していたココロが、王子達の元へと戻ってきた。
「うん。もう外に出ても大丈夫、驚かせてごめんね」
ココロが一礼して、杖を高く掲げてみせた。杖先にあしらわれた時計の針が音を立てて回転し始め、放たれた光がココロを包み込む。
「では私はこれで去ります。忘れてくれると嬉しいけど……無理だよね」
そんな言葉を残してココロと名乗った少女は、跡形もなく消え去った。一連の出来事はあまりに唐突であり、誰もが口を挟むタイミングを見失っていた為、結局少女の名がココロという事くらいしか分からずじまいに終わってしまっていた。
「なんだったんですか、あれ……」
王子一行の誰もが大なり小なり感じていた事を、ぼそりとアリシアが零す。
『彼女――ココロは時空を渡る力を持っています。いえ、
「時を……つまり、未来からやってきた、という事ですか、アイギス様?」
アンナの質問に対し、女神は無言であるが首肯した。
『とはいえ、かの者との邂逅は謂わば泡沫の夢。再び道を交わすことも無いでしょう。人の子よ。あなた方には、優先すべき使命があります』
王子は仕切り直して一行の前に向き直る。その一挙一動を、誰もが固唾を飲んで見守っていた。祖国を追われ、僅かな配下に背中を預けて此処まで来た。これまでの旅路は敗走そのもの。自身がこの大局にあって余りにも非力である事など、彼は嫌と言うほど理解している。
「……英雄の末裔として、世界を救ってみせる。皆の力を貸してくれ!」
だからこそ王子は語気を強め、宣言した。毅然と立ち上がり、戦う事を選択したのだ。それはこの場にいる誰もが望んだ答えであり、女神の頬をも綻ばせた。
『人の行く末を、見守りましょう――』
女神アイギスはその姿を霧散させる。
陽も落ちようとする黄昏時、神殿を飛び出した王子達は――その矢先、声をかけられる。
「――よぉ、王子様。久しいな」
ココロちゃんといえば、ギリギリタイムリーな時期を逃してしまいましたねぇ