1.終焉は唐突に
近衛騎士アリシアは、この日の任務について不服に感じていた。今日は国王陛下が政務官を引き連れ、城下町を視察する予定となっている。当然近衛騎士団は、団長ミレイユを始め多くの騎士が馳せ参じ、国王陛下を護衛している。だのに彼女はというと、近衛騎士団の中でただ一人王城の警備を任されたのだ。確かに王家の血族たる王子は城内に在るが、彼は彼で多くの兵士たちに守られている。
「……王城に何かあったら伝えに来なさい、かぁ」
上司であるミレイユに告げられた事を口から漏らす。それはミレイユひいては近衛騎士団にとって非常に大きな意味を持つ、過去に起こした汚点を反省したものなのだが、着任したばかりの新米騎士に国家的な隠匿を行った事柄について汲み取れというのも無理な話である。アリシアからすれば一端の兵士でも出来る任務を新米だから放り投げられたとしか考えられなかった。
ログレス王国。千年戦争の折活躍した、英雄王アーサー王の末裔が治めるごくごく平和な小国である。この国において対外的な脅威と言えば、紛争が多発する南方諸国くらいのもの。現在はかの地における紛争も小康状態にあり、ログレス王国と敵対する国家は周辺には存在しないのだ。かといって国内に不満が高まっている訳でもなく、現王の統治に大半の者が納得している。つまり王城に危機が訪れる可能性など、皆無に等しかった。
「……はぁ」
アリシアは小さく嘆息し視線を上げる。吹き抜けになった中庭の向こう、上の階層に彼女が近衛騎士を目指した目標がある。それは幼き日の静かで幸福な記憶。淡い初恋。今の彼女は、未だ目通りすら叶わないその目標に対して焦燥感に駆られつつあった。
「ねぇねぇユリアン。クレイブ前兵士長が王都に帰って来てるらしいよ?」
「マジか、そりゃ後で会いに行かなきゃな……っておーいアリア、今また敬語忘れてたぜ……」
「えーいいじゃんユリアンだし」
「あぁもう……お前いつか絶ッ対恥かくからな? 俺や王子はともかく、間違っても陛下の前でタメ口たたくなよ?」
「はーい」
廊下を通っていく兵士達の漫才めいた会話を聞き流しながら、アリシアは懐から栞を取り出す。白い花びらが特徴的な、小さな押し花の栞。アリシアの活力の源泉でもあり、彼女の感情を掻き乱す厄介者でもあった。いっその事全て忘れて、親の期待通りに任務をこなせればどれだけ気楽か。彼女は脳裏をよぎったそれを否定して誤魔化す様に歩き出した。とはいえこの警備という任務がまた難儀で、何処をどれくらい警備しろという指示は一つも無かった。
「……警備の一環だし、いいよね」
僅かばかり悪知恵が働いてしまったアリシア。白銀に輝くハルバートを握る手に力を込め、小走りにその場を去って行った。向かう先は王城内の旧資料室。普段人気のないそこは、彼女と彼にとって思い出の場所だった。
資料室に近づくにつれ人通りは減っていく。それは資料室に普段人々が余り立ち寄らない場所であることを物語るようでもあった。
「……うん。見られてないよね」
アリシアは人目を気にしながら進む。一応自らの行いがサボりに近しいものであるという自覚はあり、万が一上司に告げ口でもされればたまったものではないという認識からだ。とはいえ彼女にとって、人目を掻い潜って王城内を探索するのは朝飯前であった。
彼女は幼少時代、近衛騎士である父に連れられ王城に出入りしていた事があった。その際暇を持て余した彼女は部屋を抜け出し、誰にも見つからず王城を探索して誰にも見つからずに部屋へと戻るという離れ業を無自覚に行い続けていたのだ。そして件の王子ともそんな冒険の最中で出会っている。子供の頃に出来た事を、出来ない訳もなかった。
難なく警備をすり抜けたアリシアは逸る心を抑え、誰にも見られる事無く資料室に入っていった。
窓明かりが僅かに差すばかりの薄暗い資料室。紙とインクの織りなす独特の香りと埃っぽさが混ざり合うこの部屋は人影はおろか人の気配すらない。それは此処が旧資料室であるからであり、人の出入りも碌に無ければ整備もされていない。
そんな部屋の中でアリシアは一人立ち尽くす。床に浮かび上がる巨大な魔法陣。青みがかった光を放つそれは、異様な気配に満ちていた。肌を突き刺すような殺気すら感じさせる。アリシアは直感的に、手にしたハルバートを構えた。
魔法陣がひと際強く輝いたとき、光の中からそれの輪郭が浮かび上がる。背中から翼を生やした異形の姿。魔法陣の発光が落ち着いたときには、右半身が青肌の悪魔、左半身が人間といった、歪なデーモンの姿がはっきりと顕現していた。デーモンはアリシアを無視するように周囲を見渡すと、独り言のようにぼやき始める。
「少し時間がズレた様だな。まだ始まっていないのか。ならば期を改めるべきか――」
「デーモン……!?」
デーモン。千年戦争の折に現れたと伝わる凶悪な魔物。図体は人間の倍ほどで、魔法に耐性を持ち人外染みた怪力、魔力を誇ると伝わる。アリシアも書物でしか知り得なかった相手だが、人類に仇名す存在であることは間違いない。彼女が取るべき行動など一つしかなかった。
「待ちなさいっ!」
アリシアは動揺を隠す様に精一杯の気迫を込め、果敢にもデーモンへと穂先を突きつける。そこでようやくデーモンは、彼女の事を視認した。
「……貴様何者だ?」
「アリシア。近衛騎士です」
僅かばかりの間を経て、デーモンが返したアクションは嘲笑であった。
「フ、ハハハハハッ!! こんな小娘が近衛だと!? いや失礼。これは最早滅ぶべくして滅んだと言って良いな、この国は!」
「……ッ! 何を、訳の分からない事を!」
「貴様如きが理解せずとも良い、すぐに分かる事だ」
刹那、轟という音と共にアリシアは付近の書棚ごと斬り飛ばされる。デーモンからすれば、羽虫を払うような乱雑な一撃。それが杖先の刃による斬撃だとアリシアが認識出来た頃には既に、腹部を抉られるほどの重傷を負っていた。絶望的なまでの力量差を否応なしに叩き付けるのに十分な一撃。だというのにデーモンは次なる一撃を加えようとはしなかった。
「ふむ。あの軍に近衛騎士などいた覚えはないから、別に殺さずとも構わないのか?」
「……待ち、なさい!」
「精々そこで傍観するといい近衛騎士。貴様の護るべきすべてが、この時空より消失する様を……フハハハハッ! アーハッハッハ!」
高笑いをあげながら姿を消したデーモン。一人残されたアリシアは最早動く気力すら残っておらず、本の山に仰向けに倒れている。鮮血が垂れ流しになる傷口を、蒼き穏やかな光が覆う。近衛騎士――ロイヤルガードのみに許された治癒の加護。安静にしていれば傷口は縫合され気力は回復する。アリシアは肩で息をしながら、立ち上がる気力が戻るのを待つしかなかった。
――その報を聞くまでは。
「――敵襲! 敵襲ッ!!」
「……えっ」
兵士の声が資料室の遠くにて、引き裂くように響いた。とはいえこの国は、現状差し迫った危機に瀕していない。だがアリシアが先ほどまみえた光景、かのデーモンの語った滅亡。点と点は線にて繋がり、胸の動悸は加速していく。
資料室は人の通らない場所。アリシアは動けぬまま、誰にも見つからぬまま刻一刻と時間のみが過ぎていく。その間に外からは、悲鳴や、怒号、剣戟音が責め立てるように押し寄せた。
「魔物だ、魔物が城内に押し寄せて来るぞ!」
「あ……くうっ」
最低限出血が収まったのを確認したアリシアは、持てる気力全てを振り絞って立ち上がる。よろめきながらもハルバートを拾い上げ、資料室を飛び出した。
平和だった王国に、ひとつの終焉が訪れようとしていた。