どうしようもないくらいバカな男がいて。
本当にバカで、救いようのないくらい愚かで。
自分よりも他人が大切で、叶うはずのない夢をひたすらに追いかけていて。
そんなバカなら、最期には幸せにならなきゃって思ったのに。
なのに本人にその気はなくて、まわりもソイツに頼ってばかりで、誰に彼を救おうとしないから。
じゃあ、私が彼を幸せにしてやるんだって。
遠い昔に、こっそりと誓ったのだ。
04
「久しぶりね、アーチャー」
少女は、そう言ってエミヤに笑いかけた。
それを受けた本人は、内心完全に動揺している。
いったい何が起こっているのか。
「イシュタル・・・ではないのだな」
「失礼ね。私をあんな天災級おてんば女神と一緒にしないでくれる?
・・・あー、なんでよりにもよって私が、アレの依り代として選ばれるんだか」
ため息をつく。彼女にとっては、本当にたまったものではないだろう。
一介の魔術師だったはずの少女が、気付けば古代メソポタミアの女神だ。あまりのトンデモ展開に、文句のひとつやふたつ言いたくなる。
「・・・英雄王に使えていた神官の話では、これ以上ない程に親和性が高かったらしいが?」
「それが納得いかないわ! たしかに私にもワガママなところとか負けず嫌いのところとかあるけど、あの女神ほどではないはず。
そう思うでしょ?」
「・・・・・・・」
「なによその沈黙は!!」
ぷんぷんと怒る少女。こうしたやり取りに、エミヤは既視感を覚える。
記憶が磨耗した中でも未だに残るもの。
かつて、そんな日々があった残滓。
「本当に、凛・・・なのだな」
「だからそういってるじゃない。それとも私がわからない?」
「いや、そんなことはないさ。どうやら本当に君は、遠坂凜であるらしい。
――何が起きているのか、説明してもらえるのだろうね」
「ええ、もちろんよ。
・・・でも、話せる時間も限られてるし、急がないと」
こほんと、流れを変えるように凛は咳払いをする。
そして先程よりも真剣な顔で話始めた。
「っていっても実際のところ、よく分からないことの方が多いのだけどね。
元々私とイシュタルは、完全に融合していたわ。とはいっても、その主導権はもちろん女神であるイシュタルの方にあった。
ただの人間である遠坂凜が、神に対抗できるはずもない。
ここまでは良いわね?」
「ああ」
「けどここで肝心なのは、私のからだが一方的に乗っ取られてるっていうんじゃなくて、完全に融合し混ざりあってるってことなの。別に、片方の存在が消えたわけでもなく、抑圧されているわけでもなく、完全に混ざりあってる。これは特殊な事例だわ」
人の身に神が降ろされた場合、人である部分はほとんど、神という大きな存在よって塗りつぶされてしまうことが多い。それがイシュタルという名のある神であるのならなおさらだろう。
にもかかわらず、神イシュタルは、遠坂凜という人間を塗りつぶすのではなく、うまい形で融合している。しかも、「神が依り代の性質に引っ張られる」という自体まで生じているのだ。
これは、よほど神と人間同士の相性が良くないと起こり得ない。
ね、すごいでしょ、と凜は微笑んだ。
「話を続けるわ。
あなたも知ってると思うけど、元々特異点で私を依り代にしてイシュタルが召喚されたとき、同時にそこにはもう一柱神が存在していた」
「冥界と死を司る神、エレシュキガルか」
「そうよ。
特異点では、一つの体に二柱の神が同居していたの。そしてそれは、はっきりと二項対立的に別れていたわ。
すなわち、陽を司るイシュタル、陰を司るエレシュキガル。そしてそれは、そのまま昼と夜に対応していた。事実、カルデアのマスターは、イシュタルが眠りに落ちた夜にエレシュキガルと会っていたでしょう。・・・肝心なのは、ここに二つの属性が、混ざり合うことなく存在していたってことよ」
異なる性質のものが、混ざり合うことなく存在している。
深くかかわり合いながらも、混ざることなく二者が存在しているということは、両者の間には必ず境目が存在する。
「この『境目』、言い換えるなら『境界』でもいいわ。それが重要なのよ。
まぁ、分かりやすく言うと、同じ体に二つの存在がいたがゆえに、そのどちらでもない『中間』ができちゃったのよね。
それでもってその境界に、いい感じに人間としての私の意識が入り込んで、こうして目覚めることができたって感じ?」
「ふむ」
だとすれば特異点の時点で、一つの体にイシュタル、エレシュキガル、凛の三人が存在していたことになる。
「だが、ならばなぜ君は、特異点での戦いの時に姿を見せなかった?」
「見せなかったというか、そもそもそのときは自我に目覚めてなかったのよね。というか、神と融合している状態で、そんな簡単に自分を認識するなんてできるはずないじゃない。二者の間に境界ができたからって、所詮その境目は細くて一瞬で過ぎ去っていくものだし、そもそも知覚しようと思って知覚できるものでもないのよ」
「なるほど・・・。では、なぜいまここに君はいるのだ?」
「うーん。それがね、ぶっちゃけわからないの」
そう言って凜は苦笑する。
「敢えて言うなら、奇跡――かしらね。面白味のない言葉だけど、ほかに表現のしようがないわ。
そもそも今のイシュタルは、カルデアのマスターが特異点から戻ってきてから改めて召喚したものだし、そのとき、既に体からエレキシュガルは消えていた。
だからもうこの体にはイシュタルしかいないわけで、だから二柱を隔てていた境目なんかないはずで、仮にあったとしても、それはぼんやりとした跡のようなもので知覚なんて不可能なはずなんだけどね」
だから、ぶっちゃけ理由なんか分からない。
そう言って凜は、お手上げとばかりに両手を挙げた。
けど、と凛は続ける。
「本来はありえない奇跡のようなことだって、ここならきっと起こるんでしょう。
・・・だって貴方たちは、すでにグランド・オーダーっていう無理難題を、奇跡をもって乗り越えてきたんだから」
なんという発言だろう。
そこには論理も証拠もなにもない。奇跡と形容してしまえば、物事はそれで終わってしまう。
だが、その言葉にエミヤは思わず笑ってしまった。
「奇跡か・・・」
たしかに、一つでも間違えるだけで人類が消滅してしまうかもしれないという冒険を、七度以上行い踏破してしまったのだ。
これはまさしく奇跡であり、であるならば、ここでこうして奇跡が再び起こるのもまったくおかしくない。
そんな夢物語〈ファンタジー〉を信じてしまえるのは、カルデアとそのマスターに少なからず毒されてしまった証拠だろう。
「というわけで、ものすごい確率の壁を越えていま私は貴方と向かい合ってるってわけ。わかった?」
「・・・あぁ、よくわかったよ、凛。
――久しぶりだな」
「ええ。・・・本当に」
互いの瞳を見つめる。
よぎるのは遠い過去。かつて捨て去ってしまった物語。
しばし二人の間に、無言の風が吹く。
「カルデアに召喚されて以降、ときどき私の意識が浮上することがあったのよね。まぁそれも一瞬で、ぼんやりとしたものだったけど。
それが、さっき部屋でアーチャーの話を聞いていて、完全に意識が覚醒したの。
けど、現実で私が存在を維持できるのはほんの一瞬だから、無理やりあなたの心にダイブしてきたってわけ。
・・・ま、それもあの宝石がないと無理だったけどね」
金ぴか様様ねー。そう言って凜は、いたずらな笑みを浮かべる。
「ここは、あなたの心象世界。
無限の剣と、枯れ果てた荒野。でも、それじゃあまりに彩りがなさすぎるでしょ。だから、女神の力と宝石の魔力に物を言わせてみたってわけ」
その言葉にエミヤは呆れてしまう。なんて常識から外れた行いか。
「英霊の心象に介入するとは常軌を逸しているな。・・・ま、君らしいといえば君らしいが」
「ただの魔術師じゃ到底無理でしょうね。でも、いまの私は神よ?
しかも使う
・・・それに、アーチャーの心だしね。きっと入れてくれると、思ってたわ」
「――そうか」
「ええ、そうだと思ったわ」
世界が少しずつ、光に満ちていく。
朝日が、大地を赤く染め上げていく。
「私ね、イシュタルの中で、彼女と一体になってあなたを見ていたの。
そのときは、人間としての、遠坂凜としての意識なんてほとんどなかった」
でも、と彼女は続ける。
あなたが――、
「あなたが、あんな満足げに微笑んでいるのを見て、びっくりして目が覚めちゃったのよ。
・・・だって、私はあなたを、あんな顔にさせてあげれなかったから」
そう言って、凜は寂しげな笑みを浮かべた。
「っ」
エミヤは、何も言うことができない。事実かつての彼は、ある時期以降、自身の微笑みなど考えたこともなかった。
彼はひたすらに、自分の周囲に目を向けることなく遠くばかりを見ていた。
自分のことなど、視界に入ってすらいなかった。自分のことを想ってくれている人々のことも。
「でも今は、あんな風に笑うことができるのね。
・・・どうして?」
雪降る山の上で、月の下ひとり微笑む弓兵。
満足げなその笑みに、女神の中の少女はひどく驚いてしまった。それが、目覚めのきっかけ。
「・・・どうして、だろうな・・・。
ただ今回の職場は、忌々しいことに、悪くないものだ」
世界を救うための戦いで、その主人公は、善良すぎるひとりの若者。
その手助けをする役割は、まさしく。
「だって、世界を救う正義の味方でしょ?
これ以上ないほどに、あなたにぴったりじゃない」
「――どう、なんだろうな」
弱き者が、必死に世界を守るために戦う冒険譚。
世界中で語られ続けるベタすぎる物語の形式であり、多くの人々が胸を躍らせるストーリー。
そして現実にその冒険が始まった場合、その旅が、エミヤにとって
それに。
「幸いなことに、同僚にも恵まれていた。
・・・ああ。そうだな。私はいま、幸福なのかもしれないな」
「――驚いた。そこまで言うんだ。
あのアーチャーが、丸くなったものね。
・・・けど、嬉しいわ」
生きていたころは報われず、その死後は、終わることのない地獄の内にある。
けれど、今この瞬間は、エミヤという英霊は、間違いなく報われていた。
この奇跡に、凜は心から感謝した。
――心残りがあるとすれば、彼にそれを与えたのは、私じゃなかったってことね。
胸をよぎったその想いを、しかし凜は口にしなかった。
ゆっくりと時間は流れていく。
話したいことは多いけど、もう時間がほとんど残されていないことを互いが分かっていた。
「――凜」
「――なに?」
「・・・ありがとう」
「なによ、急に・・・。
って、待って待って! 言わなくていいわ。
大体想像がつくし、今言われると私ちょっとやばいから」
それ以上言われると、名残惜しくなってしまう。
もう二度とこんな奇跡が起こることのないことを、凜はよく知っているのだから。
「私も言っておかないとね。
…気取るのも馬鹿らしいから、私も短く言うわ。よく聞きなさいよ」
息を吸い込む。
そして一気にそれを解き放つ。
「ありがとう、がんばってくれて。
ありがとう、幸せになってくれて。
そんなあなたの姿を見るのが、私のユメだったから」
だから。
「ありがとう」
朝日が、昇る。
光が、すべてを覆っていく。
互いの姿を、かき消していく。
「ね、士郎」
「・・・なんだ?」
「いつか、いつかあなたを、その永遠から救い出してみせるわ。
それは私じゃなかったけど、いつか別の私が!」
「――凜」
別れの際になって、今まで閉じ込めていた感情が凜の中に溢れ出てくる。
女神と依代となり、神霊と繋がることで、自分の知らない異なる世界の可能性を垣間見た。
出会ったり、別れたり、ともにあったり、敵対したり、様々な関係がそこにはあった。けれどそのほとんどで、遠坂凜という少女は、彼を救おうと足掻いていたから――。
「
――この少女は、これだけの時を経ても、オレを救おうとしてくれているのか。
そのことに、心の底から感謝して。
赤い弓兵は、満面の笑みを浮かべ答えた。
「ああ、遠坂。待ってるよ」
世界は、光に包まれる。
青年は想う。
大切な別れは、いつだってこんな、黄金の朝日の中で――――。
あとはエピローグ