もう一度頑張ってみましょうか   作:みねかわ

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さっそく昔の作品。
黒歴史にあたる。でも気に入っている作品です。

※縦書きの物をコピペしてきたので、読みにくい場合は活動報告へお知らせください。文章をWebに合わせて修正します。


36度5分

「38度7分か。これくらいで休むなよ」

「冗談言わないでよ。生徒に風邪うつしちゃ悪いでしょ」

 布団の中から言い返してきた佳奈の顔が、わかりやすく不機嫌な歪み方をした。

「先生なんだから」

 眉間にしわを寄せて彼女が重そうに体を起こす。上体を支える細腕は、力が入っていないのだろう、さも生まれたての小鹿が立とうとしているようだ。

 無理はさせまい。

 肩先に手を置いて、ちょっとだけ強引に彼女を布団へと押し戻す。と、二の腕に違和感。どうやら佳奈は、往生際悪く、俺の腕を支えにしようとしていたらしい。つかまれている部分の服にしわが寄っている。けれど、そこは男と女、健常人と病人、力の差は歴然としていた。健闘むなしく、小鹿程度の腕では人間様の身体は支えきれず、結局、音もなく布団へと落ちていった。

「病人は寝てなさい」

「言っていること矛盾しているのだけど」

「もう休んじゃってるんだから、全力を尽くしなさいな」

 ため息交じりに吐いた言葉は佳奈を黙らせきれず、僅かに唇が開いた。が、反意は言葉にならなかったみたいだった。

 窓からは、思わず童謡を口ずさんでしまいそうくらい赤色な、はたまた橙色な陽光が差し込んでいて、この畳の部屋を照らしている。

「昔、俺の小学校の先生は39度でも学校に来て、授業してたぞ。教職ってそんなもんじゃないのか」

「それ、前に話してくれた『鉄人』って呼ばれてた体育の先生のことじゃない」

 私はか弱い女の子なのよ、と佳奈が続ける。

 『鉄人』だから39度でも学校に来たのでなく、39度でも学校に来たから『鉄人』と呼ばれるようになったのだ、と理屈めいた反駁が目の奥をよぎる。が、目の前で毛布に包まっている人物は一応病人であり、自分は看病に来たのだから、と喉元まで出てきた言葉を吞み込んだ。

 理詰めで葛藤していると佳奈が、俺が気付かないうちにこっちを見ていた。

 沈みかけの太陽に照らされる頬は、よく見ると赤く火照っていた。うるんだ瞳はまるで小動物のようで、それでいてナニカを求めているような艶やかな光を湛えている。覗き込んだ瞳から目をそらすことができない。男の本能は、弱っている相手に対しても、むしろ相手が弱っているからこそ、加速するものなのか、と僅かに残る冷静さを働かせる。

 呑気に構えている間にも、鼓動の間隔が狭まっていく。言葉もなく視線のやり取りを続けていると、不意に彼女の口が開いた。

「おなか……すいた……」

 少しでも桃色展開を期待した俺が馬鹿でしたよコンチクショウ。

 

 

 ぐつぐつと音が聞こえ始めた。

 香ばしい湯気がゆらりと立ち上って、それを見届けて俺は鍋蓋した。

 病人様から申し付けられて、お粥を作ることになった。わりと辛いくせに、これ見よがしに偉ぶって命令してきたから、軽く小突いておいた。

 佳奈の台所はいつもきれいに片付けてある。けれど今日は、昨日の食器とカップ麺二つ流し場に放り出されていた。

 スポンジを手に取り、洗剤をつける。

 一人暮らしが長いと――俺だけかもしれないが――皿洗い中に考え事をするようになるもので。単調さがそうさせているのかもしれないし、水道の水が手を切るほどになっていることから目をそらすためかもしれない。幸いあかぎれしてしまうまでは風が冷たくはなっていないにしろ、事後は指先に感覚が戻るまで時間がかかるのがもどかしい。

 閑話休題。

 生活感まみれる諸事情はともかく、機械的に作業をこなしながら、俺は深く深く記憶の海に潜り始めてしまった。それというのも、この台所に立つことは少なくなかった。むしろ、本人の次には多いんじゃないかな。

少し首を回すと見慣れてしまった物が目につく。

 底が焦げ付いてしまっている鍋。

 ワケあって怪我人が続出するもんだから、ここに置いた救急箱。

 この台所にはちょっとどころではない思い入れがあるのだ。

 以上のような心情的な影響があったからだろう、俺がたどり着いた海には佳奈との記憶ばかりが泳いでいた。

 出会いは大学。俺は理工学部、彼女は教育学部。俺は理系で、彼女は文系。正反対の道を進んでいた俺たちが知り合ったきっかけは小さな、本当に小さなサークルに入ったことだった。

 たった五人だけの小さなサークル。どんな活動をしていたかなんてまったく覚えていない。集まって、駄弁って、解散して、たまに勉強会をして。

 そんなゆるいサークルだったことだけは覚えている。ついでにメンバー全員が貧乏だったことも。

 そんな格言を体現するようなサークルでは、飲みもどこぞの店を予約して、なんて人並なことさえできず、誰かの家で、誰かの手料理を皆でわいわい騒ぎながら食べていた。

場所は、五人とも一人暮らしだったこともあって、五人で回そうという話だったはずが、一週目が回りきらないうちに、佳奈の部屋に固定されてしまった。確か理由は、居心地ベスト、だったっけ。名ばかりの会長権限が唯一執行された時でもあった。

 そのせいで、サークルで集まるたびに彼女の部屋は汚れ、彼女も不機嫌になるという負のサイクルがよく起こっていた。

「ねえ、ちょっと」

「ぬお」

 擦れるような声で記憶映画を中断されてみれば、いつの間にか皿を洗い終え、椅子にでも座ろうかとしていた。恐ろしや習慣。振り返ると佳奈が起きあがってふらふらと歩いて来ていた。

いやいや、寝てないとだめだろ……。

「ちょっと、鍋吹いてるじゃないのよ」

「あっ、やばい」

 わたわたと火を止める。取っ手をつかみ勢いよく蓋を開ける。と、視界が突如真っ白に染まった。

「熱っ」

「何やってんの」

 苦しんでいると佳奈の呆れ声が耳に飛び込んでくる。じわりと湿った顔を拭き、鍋を確認すると、中味は無事だった。

「気をつけてよ、私の大事な栄養源なんだから」

 咳をしながら、壁に寄りかかり彼女が囁くように言う。立っているだけでも相当辛そうで、熱も上がっているように見える。これは学校に行かなかったのは正解みたいだな。

「ほら、病人は寝た寝た」

「救急箱を取りにきたの」

 例の救急箱を指差す。

「お粥と一緒に持ってくよ」

 任せるとばかりに一つ頷くと、何も言わずに彼女は大人しく根城へと戻っていった。

 

 

「で、何を長々と考えてたの、お粥を作ってるのも忘れるくらいに」

 お粥を冷ましながら佳奈が尋ねてくる。寝ていればあまり辛くはないらしい。

 救急箱とお粥を持って来た時は、だるいから食べさせろ、と病人様権限を発動しやがったが、か弱い女の子じゃあるまいし、と言って断った。すると、枕元にあった本で叩かれた。ちょっと痛かった。復讐か、この野郎。

 その後も何度か攻防があった後、結局、自分で食べ始めた。お粥は少し熱かったらしく、冷まし始めたところで、さっきの質問に戻る。

 救急箱をごそごそやりながらだったせいで、上の空だった俺はその質問にぽろりと答えてしまった。

「三年前の鍋パーティ」

 途端に、佳奈の手が止まる。佳奈の頬が朱に染まっていく。

「こ、これ、ちょっと塩が薄いんじゃないかしらっ」

「いや、それはお前が病人だからだろ」

「お、おかわりっ」

「まだ、二、三口しか手をつけてないのにか」

「なんか色がおかしいわよ、これ。乳白色じゃないっ」

「それをお粥と言うと思うんだが」

 うう、と佳奈がうめく。

 そうだった。佳奈はこの話をすると嫌がるんだった。

 百面相をする佳奈を眺めながら、思わず頬が緩む。そういえば、彼女との付き合いも三年になるのか。耳まで夕陽色に染めている彼女は、俺に背中を向けてしまった。

 肩口までの黒髪と薄桃色の花柄な背中を見ながら、けれど精神は相対性理論に逆らって三年前まで時を駆けた。

 忘れもしない。あの日、俺は彼女から体温を測られた。

 

  * * *

 

 大学三年になった年の冬。あの日は俺らのサークル恒例の鍋パーティだった。隣の部屋からは他の連中のバカ騒ぎする声がしていて、俺と佳奈は料理担当になってしまっていた。他の三人が不器用すぎて、むしろ邪魔だったからということもあったけれど。

「ねえ、体温計ってどう思う」

 佳奈はたまに突拍子のない事を聞いてくる。

 例えば、雨ってどう思う、とか、バスとかのつり革ってどう思う、など様々だ。その都度、俺は、は、とか、 え、とか気のない返事をしていたが、そんなことはお構いなしに彼女は自分の見解を語りだすのだ。そしてその見解は即物的なことでは一切なく、哲学チックなもので、決して間の抜けたものではなく、なるほど、と思わず考え込んでしまうようなものだった。

 それにも彼女と会って半年もすると慣れて、更に半年経つと、自分の見解も言えるようになった。そこから二年近く経っても、彼女のそれとは水準が随分と違ったが。

「そうだな、そこまで役に立たないけど、無いと困るもの……かな」

 俺は自分の見解を彼女に告げた。自分で言うのもなんだが、いつ思い返してもなんとも冴えないものだと思う。けれど、その時の俺にはそれが精一杯だった。

「体温を測るための物に決まってるじゃない」

「おい」

「そうね、更に言うなら、人の温かさを測るためのものよ」

 軽い苛立ちを込めた返答をした俺に、彼女はくすりと笑いながら付け足した。

 佳奈は淡いベージュのセーターの裾を捲り、手を洗っている。

「罪刑法定主義って知ってるかしら。人の行為を犯罪とし刑罰を科すには、あらかじめ、法律が制定されていなければならないっていう原則のことなんだけど。いわゆる、疑わしきは罰せず、ってことね」

 ふーん、と俺は相槌を打った。高校では物理やら化学やら理系科目ばかりしていたせいで、俺にはその周辺の知識はあまりなく、彼女の話は耳新しいものだった。

「相変わらず詳しいな」

「好きだからね。こういうのが」

 背を向けている彼女が得意げな表情でもしているのが見なくてもわかった。

 彼女は続けて語る。

「その主義自体は悪いことじゃないんだけどね、ちょっと複雑なことにもなってるの。電気の窃盗って罪になるかしら、それと飛行機のハイジャックは罪になるかしら」 

「盗みはもちろん。ハイジャックなんて重罪だろ」

 えのきを切りながら、俺は常識に従い答えた。彼女はガスコンロの調子を確かめていた。

「今ならね。昔は電気が私有物になるかどうか定められてなかったし、ハイジャックも飛行機が占拠されるという事態が想定されてなかったからね。対処できる法律がなかったの」

「なるほど。あ、サンキュ」

 彼女が冷蔵庫を漁って肉のトレイを取り出し、俺に渡してきた。

「そういうふうにね、人が悪さをするたびに社会は法律を作って、人の行動を規制して、冷たく突き放している。そんなふうに感じるのよ。だから、時々考えちゃうのよね。社会ってとんでもなく冷酷なものなんじゃないかって。無慈悲なものなんじゃないかって」

 彼女は静かに話し続けた。赤色だか橙色だかの光が窓から差し込み、俺たちをその色に染めた。

 暖かな陽光とは裏腹に、外は寒いに違いない。からりと晴れた冬の風は、得てして冷たいものだ。

「でも、違うの。社会っていうのは体温を持った、温かい人間の集まりなの。そんな人間が集まって日々働いて、お互い関わり続けているの。人がズルをするたびに法律を作って、作りまくって、だんだんわかりにくく、複雑になってるけれど」

 ガスボンベが切れていたらしく、佳奈は流し台の下を漁り始めた。俺は自分の仕事を一通り終えて、椅子に座って、佳奈の話を聞いていた。視線を棚に向けると、いつも通り救急箱が置いてあった。

「だから、時々、忘れちゃうのよね。自分が体温を持った人間なんだってこと」

 救急箱をなんとなしに探ってみると、ふと目に留まるものがあった。

 白くて、手のひらぐらいの長さで、先端が銀色なもの。

「そんな時に体温計が必要なの。自分はちゃんと体温があるんだって確認するために」

 ガスボンベを換えて動作確認を終えた佳奈が一息入れた。それと同時に彼女は見解を語り終えた。

 俺は体温計を机に置きながら、彼女が語りきると同時に、なぜだか、少し安堵した。

 けれど、あの日は、それだけでは終わらなかった。

「だから、アンタ、ちょっと体温を測りなさい」

「え」

「久々ね、そういう反応」

 いいから測りなさい、と彼女は机から体温計をひったくり、俺の胸に押し付けた。

 俺も俺で、少し面食らったものの、先ほどの佳奈の見解を聞いたばかりで、なんとなく測ってもいいかな、という気持ちになっていたのもあり、特に意味もないのに、それを受け取って測り始めてしまった。

 そして、

「36度5分……」

 なんとも普通な体温が表示された。

 とりあえず、俺は体温のある人間らしかった。面白みのまったくない数値ではあったが。

 と、そこまで考えが至ったところで、佳奈に体温計を奪い取られた。

 そして、体温計の表示を見て一言。

 

「私、36度5分の人が好みなの。だから私の恋人になりなさい」

 

「え、あー、え」

 俺はこの一瞬を絶対に忘れない。

 何年経っても、鮮明に思い出せるに違いない。

 つまり、俺は、体温が一般的で健康そうだから告白されたのだ。人生のうちの半分の驚きをここで使ってしまったといっても過言ではないと思う。本当に。

 彼女の突然の告白に俺が固まってしまっていると、彼女から睨まれた。

「いいからっ。私と付き合えって言ってんでしょっ」

 佳奈は俺には背を向けてそう啖呵を切った。どんな表情をしているのか気になったけれど、俺の位置からじゃ見えなかった。

 体温は関係ないだろ、とか、お前はそういうのも突拍子ないのか、とか、他の三人が気付かなくてよかった、とか……嬉しさ……とか。色んなモノが俺の内側で混ざりに混ざっていたことをよく覚えている。

 ああ、なんでコイツはいつもこうなんだよ、とも思った。

 そんなふうに混乱しながらも俺が出した答えは、

「お前も体温、測れよ」

 なんて、奇人に対応慣れしてしまった風変わりなものだった。

 

  * * *

 

「懐かしいな、もう三年も経ったんだ」

 お粥を食べ終わり、薬も飲み終わった佳奈が布団に隠れた。

 窓を開けると、寒気が入り込んでくる。街灯がぽつりぽつりと灯り始めている。俺がここに来たのが六時過ぎ。いろいろやってるうちに二時間半も経っていた。

「なんでまたそんな昔のことを掘り返すのよ」

 布団がくぐもった声で俺にしゃべりかける。俺を非難するというよりは、我が一生の恥、とか思ってそうな色を感じ取れる。二、三日後に「告白やり直したい」なんて言い始めた佳奈の気もわからないでもないけれど。

「別にあれはあれで良かったぞ。俺としては受身みたいで情けないけど。いろいろ偶然が重なって告白に至ったわけだし。最高のアドリブ告白だったね、あれは」

 顔がにやけるのを必死で抑えて、掃除代わりに粘着カーペットクリーナーを畳の上でころころ転がす。相変わらず便利な道具だ。地味に楽しいし。

「……アドリブじゃないんだけど」

「あ、やっぱりそうだったんだ」

 布団から顔を出した佳奈がそう言ったのを聞いて、俺は三年越しの得心がいった。

「体温計の見解を語った時、なんか妙に安心したと思ってたんだよ。よくよく思い出したら、あの頃一週間おきにあった佳奈の語りが二か月くらい封印されてたんだ」

 そりゃ懐かしくもなるよな。

 佳奈はきょとんとした顔をしていたが、次第に水面の金魚みたいに口をぱくぱくさせて、しまいには俯いてしまった。

 佳奈の二か月間かけて温めた計画はおそらくこうだったのではないか。

 鍋にしろ飲みにしろ、肴作りは料理のできる俺と佳奈に任せられるはず。他三人は台所をほったらかして、勝手に騒ぎ出すだろうから放置。そして、時期を見計らって体温計の見解を語る。見解自体はいつもと変わらなかったから、普段通り思ったことをそのまま語ったはずだ。体温計をうまいこと俺が取り出すことを期待して……。

 最期の部分が曖昧なのは、最終決定だけを運に任せたかったからかもしれない。理由はわからない。そこは推測できない部分だ。本人に訊こうにも、俯いている彼女を見る限り教えてくれそうになかった。

「今だったらアンタなんて答えるのよ」

「えっと、体温計の話か」

 もし、今だったなんと答えるのか。

――体温を測るためのものに決まってるじゃない。

 きっと、彼女の見解とは同じにはならないだろう。それは彼女自身も同じのはずだ、それも、もっと冷たい方へと傾く気がする。あまり認めたくないようなことだけれど。良くも悪しくも俺たちが学生でなくなった、ということだ。

 カーテンが揺らめいて、身を切るような冷たさに襲われる。換気はこの程度でいいだろうと腰を上げる。

「冷えてきたな。布団足した方がいいか」

 声をかけ、ちらと視線を送ると、彼女がかぶりを振っていた。

 窓を閉め終わって、振り返ると佳奈はまぶたを閉じていた。

 

 

 結局、帰り支度を始めたのは十時過ぎになってからだった。

 あの後は、皿を洗ったり、もう少し念入りに掃除したり、起きた彼女の体温を測るときにひと悶着あったりした。まあ、熱もすっかり下がり、体調も良くなったのはいいことだが。

 ずいぶんと長風呂した佳奈は開口一番、明日は出勤する、と宣言した。

 もう一日休んで欲しかったけれど、そうもいかない。せめて明日も看病しに来るつもりだ。佳奈はそれを聞いて、肺活量ぎりぎりまでため息を吐いたんじゃないかな。

 俺の内側を知ってか知らずか、あからさまな態度をとっておきながら、佳奈は断ることをしなかった。

「ありがとう、助かりました」

「そうかい」

 玄関で座って聞き足から靴を履いている俺に後ろから声がかかる。清潔な服に着替え、しっかりとした足どりでこちらへ歩いてきた。

「ねえ、体温計ってどう思う」

 彼女の呟きが中空を舞う。俺は何も答えなかった。

「体温を測るためのものなんだって、私は今でも思ってる」

 そうかい、ともう一度同じ言葉を彼女に返しながら、左の靴を履く。

「皆が皆、温かい人ばかりじゃないわ。冷たい人も、意地悪な人も、この社会にはいっぱいいる」

 俺の背中に彼女の手が触れる。靴を履き終えた俺は、彼女のほうを見ずにただ、なんとなく座ったままでいた。

「だから体温計がいるの。他人の体温も、自分の体温も測るために」

 ふわりとシャンプーの薫りがした。彼女の息遣いさえ聞こえてくる。

「自分なりの体温計を持つべきなのよ、他人に、自分に期待しすぎないようにするために」

 思わず上司の顔を脳裏に浮かべてしまう。理不尽横暴は当たり前、果ては責任転嫁もこの前やってのけた男。彼が体温のある人間だ、と信じてこれからも従っていくことは、ややというよりもかなり辛い。そして、彼の理不尽の被害者を見て見ぬふりをしている自分だってそうだ。俺は果たして、今でも36度5分の人間のままでいられているだろうか。

「俺は、今でも佳奈の好きな体温の人間かな」

 彼女の手が離れた。俺は彼女の次の言葉を待った。

 何秒間か、やや不安になる沈黙が玄関を支配する。その間、玄関の向こう側をにらみ続ける。何も見えなかった。

「大丈夫よ。いまでもアンタは私にとって36度5分だから」

 遅れて返ってきた言葉は実に彼女らしいもので、笑いそうになってしまう。

 ああ、やっぱり安心するな、この感じ。帰ってきたという気分になる。郷愁というのはこんな感じなんだろう。夕焼けのみたいに寂しげな色がぴったりだ。

 佳奈の腕が後ろから回されて、背中に彼女の体温を感じる。

「アンタはどうなのよ」

「大丈夫だ、体温を感じてるから」

 即答してやると、もう、と不満そうな、それでいて、楽しげな声が俺のうなじをくすぐった。もっと言葉を尽くしたほうがいいことはわかっている。けれど、どれもこれも薄くなってしまいそうで怖かった。

 とんとん、という心音が背中から伝わってくる。とても穏やかなリズムで今彼女は生きていた。手を自分の胸に当てると、同じリズムで鼓動を刻んでいた。そこはリビドーが生まれるような雰囲気ではなくて、ただただ満たされていく空気があった。

「そういや、なんで俺だったんだ」

 急に思いついて佳奈に尋ねる。前から疑問に思っていたことだった。彼女が俺を選んだ理由。それらしいことをした覚えは全くない。ただ、毎日駄弁っていただけのような大学のサークル。そんな中でどうして俺だったのか。それはいくら推測してもわからなかった。

「アンタだけだったのよ、私の見解を語る癖についてこようとしたのは」

 なるほど、それか。彼女の答えに納得してしまう自分がいた。

「珍しかったなあ、高校までは大抵、はいはい、みたいに流されてたのに。真面目に対抗してくるんだもん」

 背中越しに彼女が肩を揺らしていることがわかった。

確かに、彼女のそれについていくのは大変だった。いつ、どこではじまるかわからなかったこともある。それに、きっと、自分の見解を示せていなかったら現在はこんな形にならなかっただろう。

「じゃ、そっちはなんで受けてくれたの」

 彼女がそう返してくる。もしかしたら彼女もずっと俺と同じことを訊きたかったのかもしれない。その声がなんだか嬉しそうな雰囲気を纏っていた。

「俺は、そうだな」

 たぶん、

「きっと」

 いや、間違いなく……。

「やっぱり教えない」

「ちょっと」

 恥ずかしすぎて言えないだろう、こんな単純な見解。

 今までの、きっとこれからの人生の中で、

 これほど驚かされたのが、

 話についていきたいと思ったのが、

 

 傍に居たいと思ったのが佳奈だけだった、なんて。

 

「ずるい。アンタやっぱりもう36度5分じゃなくなったんだ」

「大丈夫だって。佳奈から風邪をうつされない限りな」

「うっさい。なら測れ。今すぐ測れ」

 体温計でも取りに行こうとしたのか、抱擁の力が緩みかけた。俺は佳奈の細腕が離れてしまわないように華奢な手首をつかむ。

 俺の手の中で、彼女の心臓が大きく脈打った

「なら、測ってみるか」

 俺は振り向いて、彼女の瞳を、その中の俺を見た。

 そして…………

 

 

 ちなみに先ほど測った彼女の体温は、いつかと同じ36度3分だった。

 

 








読了後、読者は

おまえ、童○だな

と言う。


果たして読者はいるのか!?

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