メリーさん/八雲紫の神隠しから始まる幻想譚   作:レジ袋

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第1話

「――泣かないで。またいつか、お姉ちゃんはあなたの元に帰るから」

 

 そう言ってお姉ちゃんは、涙する子供をあやすように僕の頭を柔らかく撫でた。

 いつものような柔和な微笑ではなく、太陽が沈む夕暮れ時のような、どこか憂いを感じる微笑をしている――その微笑は、あたかも恋人に別れを告げるかのようで――もう会えない苦しみを無理して笑顔で誤魔化しているような顔だった。 

  

 それは、冒頭で再会することをを誓ったお姉ちゃんが浮かべていい表情ではなかった。

 

 お姉ちゃんがそんな悲しそうな顔をしているから、お姉ちゃんのその言葉が『根拠の無い嘘』だと、まだ十歳も超えていない僕にも分かってしまって――僕は自分ではどうしようもないほどの悲しさを覚えて、洗濯したばかりの汚れの全くないカーペットを涙で濡らしてしまいそうになった。 

 お姉ちゃんは、困ったような顔をした。

 

「そんな悲しそうな顔しないでよ――ほら、この前にテレビ番組で、『可愛い子には旅をさせろ』って言葉を習ったでしょ? 我が愚弟もそう遠くない未来に家庭を持つかもしれないんだから。予行練習だと思って、ね?」

 

 僕はぶんぶんと顔を振った。

 そんなよくわからない練習なんて、したくないに決まっている――なにより、大切な人がどこか遠いところに行ってしまうのを、悲しく思えないはずがないじゃないか。

  

「お姉ちゃん。僕も一緒に――」

 

 言いかけたとき、お姉ちゃんは僕の肩をポンと叩いた。。

 いつも柔和な微笑を浮かべていたお姉ちゃんらしくない真剣な顔付きで僕を見据えた。

 

「あのね。お姉ちゃんが行こうとしているところはね、あなたのような子供が辿り着けるような安全な場所じゃないの。多分子供のあなたじゃあ、そこに着く前に命を落としかねないほど危険なところなのよ」

「そんな危険なところなら、なおさら――っ!」

「でもね、お姉ちゃんは行かなきゃいけないの。それはもう、決めたことなんだ」

「お姉ちゃん……」

 

 自分では、どこか遠いところに行こうとしてる姉を止められない。決心に満ちたその紫色の瞳を見て、僕は直感的に悟っていた。 

 

「だからそんな、悲しそうな顔しないでって――しょうがないな。いつまで経っても、姉離れができないんだから」

「うるさい。お姉ちゃんなんて大っ嫌いだ……」

「あら、それは都合がいいわね。今生の別れになるのだもの。嫌いになってもらえたほうが、双方幸せだと思わない?」

「……今生の別れって。また会えるって言葉、嘘かよ」

「ふふっ、冗談よ――またいつか、必ず会いましょう。私の最愛の愚弟。あなたが私を覚えている限り、私は絶対に、またここに戻ってこれるわ。それは、絶対なのよ」

 

 お姉ちゃんは服のポケットからある御守を出した。

 

「これは――」

「これ、日本に初めて来て神社で迷子になったときに神主さんにもらった御守。『縁結び』って言うの」

「縁結び?」

「そう。一般的には、男女の恋愛の縁を結ぶ御守なんだけど――『縁』って言うのは本来、家族とか友達とか、広い意味での人間関係のことを指すの。だからきっと、これがあればいつか神様が私達の家族の縁を結び直してくれるんじゃないかしら?」

「かしらって、そんな適当な……」

「でもこの御守、ちゃんと効果あるわよ? これを神主さんにもらってから、色んな縁が結べたからね。ま、姉からの最後のプレゼント、素直に受け取りなさいよ」

 

 半端強引に御守を渡して、姉はキャリーバッグを掴んで後ろを向いた。

 どうやらもう、『どこか遠いところ』に行ってしまうらしい。

 

「――待ってよッ!」

 

 僕は怒鳴るように叫んで、無意識にお姉ちゃんの服の袖を引いてしまった。

 

「……いかないでお姉ちゃん。僕、お姉ちゃんが行っちゃあ嫌だよ。だってお姉ちゃんが行ったら、僕はひとりぼっちじゃないか。いやだよそんなの。絶対にいやだ。お願いだから、僕とずっと一緒にいてよ……」

「…………」

 

 今まで我慢していたものが一気に溢れ出て、僕は泣き縋って姉に懇願した。

 お姉ちゃんとは、生まれてからずっと一緒だった。両親は一歳の頃に事故死しているから、お姉ちゃんは僕の母であり父でもある存在だった。

 つまりお姉ちゃんは、僕にとって『家族』そのものだったのだ。世界中の誰よりも大切で、宇宙中の誰よりも大好き。お姉ちゃんさえいれば何も要らないとさえ思ったほど、僕は一人の姉に依存していた。

 母親が大好きな子供のように、僕はお姉ちゃんが大好きだ。

 

「あの家で、一人で暮らすのはいやだよ」

「……それは大丈夫よ。神主さんに話を付けて、一緒に暮らしてもらうことにしといたから。あなたも神主さん、好きでしょう?」

「確かにあの人は信頼できるし良い人だけど……そうじゃないんだ。僕は、お姉ちゃんじゃないといやなんだ。お願いだよ。僕を見捨てないで……」

「愛されてて幸せだなぁ、私」

 

 嬉しさと悲しさが織り交ざったような表情をして、お姉ちゃんは柔らかく僕を抱擁した。

 

「うん……実を言うとね、お姉ちゃんもずっとあなたと居たい。多分辛い旅になるだろうしね。あなたと、大変だけど幸せな毎日を過ごしたほうが、絶対に楽しいだろうしね」

「だったら――」

「ううん。もう駄目なの。行きたいとか行きたくないとか、もうそういう次元の話じゃない。()()()()()()()()()()()()()()()()()

「……よくわからないよ」

「うん。実は私もよく理解してないんだ。でも、それでも――私は、そこに辿り着かなきゃいけない」

「……わからない。僕にはわからないよ」

 

 詳しい事情は何も教えてくれないから、わからない――だけど確かにお姉ちゃんは、固い意志を持って、自分の知らない何かに辿り着こうとしている。

 止められない。やはり僕には、お姉ちゃんを止めるとこができない。

 

「……そろそろ行かなきゃ駄目ね」

 

 銀色の腕時計の針が指す時刻を見て、お姉ちゃんは荷物を持って家から出ようとした。

 

「お姉ちゃん……」

 

 もう、僕にはお姉ちゃんを引き止める方法が思いつかない。覚悟を決めて何かを成そうとしている姉を、僕は止められない。

 涙目で歯を食いしばり床を睨んでいた僕の頭を、お姉ちゃんは再び柔らかく撫でた。

 

「これからは神主さんの言うことを素直に聞くのよ? あまり我儘を言わないようにね」

「……うん。わかった」

「よし、いい子いい子――じゃあ、またいつか会いましょうね。()()()()

 

 最後に僕の名前を呼んで、お姉ちゃんは僕の隣を通りすぎて家から出ていった。

 家の中は時計の針の音しか聞こえないくらい静かになった。

 狭いはず家が、平原のように広く感じた。

 

「……マエリベリー、お姉ちゃん」

 

 つい何となく、最愛の姉の名を口に出してしまった。

 十年間、ずっと一緒だった僕の姉。

 十年間、ずっと愛していた僕の姉。

 生涯ずっと隣に居るものだと思っていた姉が――ある日突然、僕の隣から居なくなってしまった。

 

「うっ、ひっく……お姉ちゃん、お姉ちゃぁん……」

 

 目から溢れ出る涙が止まらない。

 心から溢れ出る寂しさが止まない。

 

 僕は今日――母であり父でもあった姉を失った。

 

「――うわぁぁぁぁん!!」

 

 

 

 

 その日僕は、僕を引き取りに来た神主さんが来るまで大声で泣いた。

 神主さんに泣いてる姿を見られるのが恥ずかしくて、泣くのを我慢したわけではない。ただ単純に、涙が枯れてしまっただけだ。

 涙の跡が付いた僕を、神主さんは無言で抱きしめてくれた。お姉ちゃんとは違って、神主さんからは少し酸っぱい臭いをして、「あぁお父さんがいたらこんな感じなんだろうなぁ」と何となく思った。

 

 こうして、たった一人の家族を失った僕は、また新たに家族を得た。

 

 でも――姉が旅立ってから五年が経った今でも、姉がいつものように浮かべていた柔らかな微笑を、僕は忘れることができなかった。

 

 ……僕はあの日からずっと、姉に貰った縁結びの御守を、肌身放さずに持っている。

 一度切れた姉との縁を、また結び直せると心から信じて――僕はその日から真剣に神様ってやつを信仰していたのだ。

 

 だから恐らく、この奇跡は――信仰していた名もなき神様が贈ってくれたものなのだろう。

 

 学校から家に帰る途中、僕は一つの『幻想』に出逢った。

 何も無いはずの空間が断裂し、混沌よりも怖ろしい暗闇と無数の目を背景に――見覚えのある一人の家族が、驚きで尻餅を付いた僕に、透き通った傷一つない肌の手を差し伸べた。

 

()()()()()人間さん。私は八雲紫と言いますの。

 今日はこんなにも晴天なのだし、せっかくだから適当な人間を一人、私の幻想郷に神隠しさせようと思って、たまたま近くにいた貴方に会いにきたの」

 

 妖しく惹き込まれる微笑を、八雲紫と名乗るその人物は浮かべていた。

 

 その微笑は、姉の柔らかい微笑とは似ても似つかなかったけど――それでも僕は、思わず泣きたくなるような懐かしい暖かさを感じた。

 

 

 

 

 

 




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