「お嬢様、何度言えば勝手に出掛けるのを止めて頂けるのですか」
腐った目を眼鏡で巧妙に隠し、己の主人の娘である女性をジト目で見るのは比企谷八幡。
その内容には自由奔放な陽乃を監視することも含まれ、こうして小言を言っているのだ。
「お嬢様じゃないもーん。陽乃だもーん」
しかしこの程度で治るようならそもそもこんなことをしていないだろう。幼い頃からその有り余るスペックと押さえきれない好奇心でそこらじゅうを駆け回っていたのだ。今さらこの程度の注意など無いに等しい。
「……はぁ。もう良いです」
「あれ?随分と簡単に引き下がるねぇ」
いつもと違いあっさりと八幡が引き下がったことに少なからず興味を惹かれたようで、仮面のような蠱惑的な微笑みの中に小さな、しかし確かな感情を宿し、八幡を見つめる。
「……ええ。この事をご報告させて頂くだけですから」
「ほ、報告って……お母さんに?」
「ええ。これで百七十八回目ですから納得していただけるかと」
「いやーそれじゃ八幡の首が飛んじゃうんじゃないかなー」
「お嬢様の成長に繋がるのであれば本望でございます」
「あ、あはは…………」
どうやら薮蛇だったようだ。しかし八幡とてこの程度の駆け引きは日常の一部である。そして陽乃の中に僅かとはいえ感情が見え隠れするようになり、八幡は少しだけ嬉しくなる。未だ陽乃は家族の前ですら仮面を取らず本当の感情を出さず過ごしている。なのに自分には確かな感情を向けている。そう気づき、並の男なら勘違いするであろう事実をただただ純粋に喜ぶ。それは確かに執事としての立場がそうさせてはいるのだが、中々どうして陽乃の事を妹かそれに近しい"家族"として見てしまうのである。実際のところ八幡の方が年齢的には一つ上なのでこの認識は間違ってはいない。
「……さて、明日は総武高校の入学式です。そろそろお休みになってください」
そう。明日は陽乃の入学式。千葉の中でも有数の進学校である総武高校への入学式なのだ。陽乃の学力を持ってすればさらに上の高校などいくらでも狙えるのだが、陽乃の実家の仕事の関係もあり地元の総武高校へと通うことになったのだ。
「えー、まだ八幡と話したーい」
頬を膨らませ、ぶーぶーとあざとく不服をアピールする陽乃。何だかんだ言って陽乃は八幡の事が好きなのだ。それが恋愛感情か家族へ向ける愛と同種なのかは本人にしか分からないが。
ともあれ、ほぼ人外と化した執事と、仮面を被った少女の夜は、まだもう少しだけ続く。