一撃のプリンセス〜転生してカンフー少女になったボクが、武闘大会を勝ち抜くお話〜 作:葉振藩
「いてて……まぁだ打たれた場所が痛むぜぇ……」
すでに死んだ両目の代わりに、【
【
インシェンに目的地はなかった。ただ、少しでも【会英市】から離れたかった。
――
【会英市】と【
理由は簡単。後継ぎがいないからだ。
タンイェンには妻もいなければ子もいなかった。なので、彼の事業を引き継げる人間が一人も存在しなかったのである。
関係を持った女こそ、それこそ両手両足の指じゃ足りないくらいいるだろう。けれど、タンイェンは自分の家族を持とうとは決してしなかったのだ。
さらに、その問題に次ぐ形で、もう一つ困った問題が発生した。
タンイェンの「隠し子」を名乗る子供の増加である。
タンイェンが捕まって数日後、一人の女性が屋敷に自分の子供を引き連れて「この子はタンイェンと寝てできた子だから、この子に遺産のすべてを受け継がせろ」などと言ってきたのだ。
それからはまさに雨後のタケノコ。次々と「タンイェンの隠し子」が出てきたのである。
無論、隠し子のほとんど、いや、下手をすると全員が偽物だろう。自分の子と現在の状況を利用して一攫千金を狙おうという浅ましい欲望ばかりが渦巻いている事は言うまでもない。タンイェンは色んな女と関係を持っていたため、無駄に信ぴょう性があるのがタチが悪かった。
自分が長いこと浸かってきた裏の世界では、人間の醜い部分ばかりが目立っていたため、この程度の事には見慣れていたつもりだ。けれど、ここまで面白いほど周りの状況を変えてみせたタンイェンの財力には笑えたし、恐れ入った。
さて。自分の雇い主であるタンイェンは塀の中。長い間出てこれないか、最悪、極刑もありうる。どのみち、自分に金が入る事はもうない。
どうするか?
決まっている。とっとと立ち去るのみだ。
自分はいわば、金だけで動く傭兵。動物で例えるなら、餌を与えてくれる人間に擦り寄る野良猫だ。餌が尽きてしまった家に、もはや長居する理由はない。
それに、あの屋敷にとどまっていては、自分も治安局に目をつけられかねない。
だから、立ち去る。それが唯一にして最良の選択。
「……哀れなもんだなぁ、あのオヤジもよぉ」
思わず、憐憫の響きを持った呟きがもれた。
金があれば従い、なくなれば去る。そんな人間しか、タンイェンの傍にはいなかったのだ。情を持った者など皆無。大勢の人間に囲まれていながら、本質的には孤独だった。まったくもって哀れである。
……いや、その孤独は彼自ら選んだものだった。営利目的の人間に、タンイェンは信用と信頼を置いていた。欲のある人間は、それを満たすことで思うがままに御せる。情に訴えかけてくる者の方がよほど胡散臭く感じるらしい。
あの男は、人間の中にある愛や情といったものを、一切信じようとしないのだ。たとえあったとしても、それは私欲に起因したものであるという徹底した人間不信ぶり。
以前聞いた彼の過去からして、その歪みぶりもむべなるかなと思う。
昔、タンイェンは単なる小さな店の主に過ぎなかった。生活も質素だったし、取り立てて何の特徴もない家だった。誠に信じがたいことに、本人も今のような性格ではなく、もっと純朴だったそうだ。
しかし、祖父が遺した山を受け継ぎ、その中に眠っていた大量の【
【磁系鉄】を売ったことで莫大な金が入った。そしてそれを上手いこと運用させ、事業を拡大し、最初の何倍もの利益を得ていった。元々商才があったからというのもあるが、絵に書いたような一攫千金であった。
大きな家を手に入れた。美味い飯を毎日食えるようになった。立派な服を手に入れた。でかい風呂を手に入れた。美しい妻を手に入れた。高価な美術品を手に入れた。……その他多くの、あらゆるものを手に入れた。
タンイェンの生活は、昔の暮らしなどちっぽけに見えるくらいにきらびやかなものとなった。
けれど、良い事ばかりではなかった。
金目当ての人間が、まるで
ある者は金をだまし取ろうとしてきたり、またある者は盗み出そうとしてきたり、様々な手段で財をかすめようとしてきた。タンイェンはそういった手合いに散々手を焼かされた。
しかし、そこまではまだ良かった。大きな金を持っていると、悪い人間も大なり小なり寄ってくる。それを分かっていたからだ。
タンイェンが本格的に壊れたのは――妻の裏切りを知った時だった。
妻は自分を毒殺し、資産のすべてを自分のモノにしようと企んでいた。それも、弱い毒を食事に混ぜて毎日少しずつ与えていく事で、徐々に衰弱させ、毒殺には見えない形で殺害するという方法。自分の体調の悪化を不審に思ったタンイェンは探りを入れ、その事を悟ってしまった。
タンイェンは妻に、そして人間に失望した。愛し合って結ばれたと思っていた妻でさえ、自分の金目当てで近づいてきた人間たちと同じだったのだから。
失望は、容易に殺意と怒りに変化した。先手を取って妻を亡き者にし、山に捨てた。
——それこそが、唯我独尊で冷酷非情なタンイェンを形成した出来事だった。
莫大な資産を手にした時に、すでに彼は破滅への道へ足を踏み入れてしまっていたのだ。
タンイェンもまた、金目当てで群がってきた人間と同じだ。金に振り回され、やがてはその金によって地獄へ落とされた。全くもって皮肉の極みである。
――だが、すでに手を切った相手。そんな事は詮無き話だった。
今の自分に求められているのは、行方をくらますこと。
治安局の連中は、自分がタンイェンの傘下に加わっているという情報を確実に掴んでいるはず。ほとぼりが冷めるまで、一切この姿を見せてはならない。
タンイェンは泥の中を進むように、ゆっくりと歩を進める。
「ぐっ……!?」
が、突如腹部の裏側に走った鋭痛に膝を屈し、中腰で止まってしまった。
体温が急激に低下する。それなのに、額には嫌な汗がぶわっと浮かび上がる。体の内外が矛盾した反応を見せた。
インシェンは腹を押さえる手に力を込める。
「……やれやれぇ、あの偽娼婦、ひでぇ事しやがるぜぇ……俺じゃなかったらとっくの昔にあの世行きだっつぅのぉ」
思わず、そうぼやいてしまう。しかしその口調は少し楽しげだった。
あの少女――
思い出すだけでゾッとする【勁擊】だった。まるで体の中に透明な刃を通されたような感覚がしたと思ったら、想像を絶する不快感が全身に押し寄せ、そのまま意識を刈り取られた。
インシェンは【気功術】の鍛錬を徹底的に行い、内面の力を強靭にしていた。それが無かったら、今頃こうして生きて歩いてはいなかっただろう。
とても散々な目にあった。おそらく、長らく過ごしていた裏の世界でも、ここまでな目に遭ったことは片手の指で数えられるほどしかない。
けれど、インシェンの口元には笑みが浮かんでいた。
久々に骨のある武法士を見つけられたからだ。
自分を敗北に追い込んだ数少ない武法士の目録の中に、新たな名が刻まれた。
そのことが面白く、そして楽しくて仕方がなかった。
この腹の痛みが、千金に匹敵する贈り物のようにさえ感じられる。
また会えるのなら、是非とも会いたい。
もしかするとこれが恋なのかもしれない、などと冗談を考えていた時だった。
道の前方右端から、バタバタと足音が近づいてくる。
そして、インシェンの前に四つの【気】が立ち塞がった。人間のものだ。
「よぉ、お兄さん。結構羽振り良さそうな格好してるじゃねぇの。よかったらさあ、俺らに有り金全部恵んでくんねぇか?」
その【気】の一つが、下卑た笑声の混じった口調で言ってくる。
異臭が鼻につく。相当風呂に入っていないようだ。
セリフから察するに、追い剥ぎか何かだろう。連中の【気】も、極上の獲物を見つけた狩人のようにざわついている。
普通の人間なら狼狽えるか、もしくは警戒して身構えるだろう。
けれど、インシェンにとっては羽虫が飛んできた程度の事態でしかなかった。
「おいお兄さんよお?俺らの持ってるブツが見えねぇかな?命が惜しかったら金目のモン全部こっちに寄越——」
言い切る前に、インシェンは左腰の苗刀を抜き放った。勁力を受けた黒い刃が音速で横一閃に駆けた。
瞬間、立ちはだかっていた四人分の【気】が全て雲散霧消した。黒刃の軌道上にむせ返るほどの金属臭が咲き誇り、顔に粘度の高い液体が数滴飛び散った。
先程まであった【気】と同じ回数だけ、落下音が耳朶を打つ。そして、インシェンの爪先に何かが転がって当たった。
自分は目が見えない。だが見えずとも、この爪先にある物体が得意げに笑った表情で固まった男の生首である事は容易に分かる。
気持ち悪いので、蹴って元の方向へ押しやる。人間の頭部というのは案外重いものなのだ。
「タカる相手を盛大に間違えたみてぇだなぁ。来世を貰えたらぁもっとマシな人生送れよぉ」
喜ぶでも嘲るでもなく、無感情な口調で呟いた。
そして、人間だった肉塊の上を跨ごうとしたが、すぐにピタリと足を止める。
振り向かぬまま、後ろへ呼びかけた。
「——そこのおたくよぉ、そろそろ出てきたらぁ?」
自分はここを通る前、小さな村に寄って小休止した。その時から、自分をずっと尾行している【気】があったのだ。
呼びかけに応える形で、木陰に隠れていた人間の【気】が姿を現した。
インシェンの【聴気法】は、普通の武法士には見えない【気】の性質も観れる。【気】から男女の区別さえつくのだ。
その【気】は、女のものだった。
「——流石は【
読んだ通り、年若い女の声がそう言ってきた。
姿形や表情は、全盲であるインシェンにはさっぱり分からない。しかし彼女の存在を形成する【気】からは、攻撃の意思は見られなかった。代わりに、何か謀をしている「揺らぎ」があった。
インシェンは探るような口調で尋ねた。
「おたく、さっきの村から俺の事ぉつけてたよなぁ。もしかしてぇ、俺が何者か知ってる奴かぁ?」
「はい。貴方を【虹刃】とはっきり存じておりますわ。わたくしの手の者が「
「へぇ?「手の者」ねぇ?もしかしてぇおたく、どっかの【
「当たらずとも遠からず、といったところでしょうか」
女はクスリと含みのある笑声をこぼすと、自分の名を告げてきた。
「申し遅れましたわ。わたくし、
「お願いぃ?まぁ、聞いてやらねぇでもねぇが、その前に、出すものはきちんと持ってるんだろうなぁ?ロハはぁ嫌よぉ?」
「ご心配なく。貴方が闇の世界で暴力を飯の種のしている事は重々承知ですわ。ゆえに、これから貴方に対する依頼に相応しい報酬を用意できる当てはありますわ」
そう淡々と告げる女、
けれど、その落ち着きように反して、【気】の「揺らぎ」はなんだか変だった。
いや、別にこちらをハメようなどという考えを抱いているわけではないのだ。
まるで、長年の宿敵が落とし穴に落ちるのを今か今かと待っているような、そんな緊張と期待が渦巻く【気】。
フェイリンの真意を測りかねつつも、訊いた。
「……まぁ、ちゃんと褒美があるってんならぁ、引き受けてやるさぁ。んで?おたくは俺に何をさせてぇんだぁ?用心棒にぃなって欲しいのかぁ?それとも誰か消してほしぃ奴でもいるんかぁ?」
「貴方を雇う目的、ですか……」
女の形をした【気】は一度間を置き、そして答えた。
微かな笑声と艶っぽさを含んだ、色気のある声で。
「あえて言うならば————"国盗り"でしょうか」