一撃のプリンセス〜転生してカンフー少女になったボクが、武闘大会を勝ち抜くお話〜   作:葉振藩

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おかあさん

 それから、あっという間に時間が経ち、夜空も白んでいった。

 

 夜から朝へ到るまでの間、【甜松林(てんしょうりん)】と【会英市(かいえいし)】の両方の町では、眠らない驚愕と喧騒がわき続けていた。

 

 むべなるかな、というべきだろう。

 

 それら二つの町を事実上取り仕切る覇者、馬湯煙(マー・タンイェン)が御用になったという大ニュースなのだ。騒ぐなという方が無理な話である。

 

 インシェンを倒した後、ライライとミーフォンはボクとリエシンを待たせ、屋敷の一番近くにあった治安局の詰所へ向かった。そして役人たちを屋敷まで呼び出した。

 

 『尸偶(しぐう)』という、連続猟奇殺人の動かぬ証拠を突きつけられた役人たちは、もはやタンイェンをしょっぴかないわけにはいかなくなった。ここまではっきりした裏付けを見せられてもなお動かないようでは、いよいよもって法が財に屈した事を意味するからだ。虎もハエも一緒に叩けないような警察機構など、民衆は信用しない。

 

 タンイェンはその場ですぐに逮捕、連行された。いや、タンイェンだけじゃない。奴の用心棒も一人残らずお縄を頂戴した。この連中も共犯といえるからだ。一夜にして数十人もの大捕物。牢屋が足りるか心配である。

 

 しかし、その連行された用心棒たちの中にインシェンの姿は無かった。いつの間にやら、インシェンはふらりとその姿を消してしまっていたのだ。一体いついなくなったのかは分からないが、ほぼ確実に相手を死なしめる【冷雷(れいらい)】を食らってまだ動けるその体力には脱帽させられた。

 

 ……その一方で、胸を撫で下ろしている自分が心の中にいた。どういう理由があれ、人を殺す事は好きではない。インシェンが生きていた事に安心しているのだ。覚悟を決めたつもりなのに、随分情けない話だった。

 

 すでにみんなが寝静まっている時間に働かされた治安局の役人たち。けれど彼らは、その理由を作ったボクらに難色を示したりはしなかった。それどころか、もの凄く感謝されてしまった。

 なんでも、娼婦の連続行方不明事件にタンイェンが深く関わっていることは、詰所にいるほとんどの役人が疑っていた事だったそうだ。けれど、確たる証拠が無かったため、金銭的援助を受けている事への後ろめたさも含めて、うかつな行動は取れなかったらしい。

 

「なっさけない話ねぇ」

 

 そんな歯に衣着せぬミーフォンの物言いに、役人たちはそろって渋い顔をした。

 

 頬っぺたに大きな腫れ跡を作ったタンイェンを先頭にして、ぞろぞろと行進させられる逮捕者の大行列。通りかかった民家は一件、また一件と窓を開けて騒ぎ出した。それが積もり積もって大騒ぎにまで膨れ上がったのだ。

 

 驚愕以外のリアクションを取れない人。どう反応していいか分からず呆然としている人。「ああ、やっぱりね」とでも言わんばかりの済ました表情の人。野次馬の中には色々な顔が見られた。

 

 その後、屋敷の地下室に置いてあった『尸偶』は、まず【甜松林】に運ばれた。娼婦たちの身元確認のためだそうだ。

 変わり果てた娼婦たちの姿を見て、ある者は気味悪げに後じさり、またある者は知人の死を知らされて悲しみに暮れた。

 ――瓔火(インフォ)さんの『尸偶』を目の当たりにした神桃(シェンタオ)さんは後者だった。だが涙こそ多少流したものの、号泣ほどの泣き方はしなかった。聞くと、神桃(シェンタオ)さんもなんとなくこうなる事を予想していたからとのこと。

 

 身元がはっきりしない死体は、すべて無縁仏として集団墓地に埋葬されるらしい。親類がはっきりしている、あるいはその親類とツテがある友人には、その死体が返還された。特殊な薬で防腐処理が施された『尸偶』は半永久的に腐らないため、役人は「墓に埋めても、大切に保存しても、どちらでもいい」と言ってくれた。変わり果てた姿を見るに忍びなければ埋葬し、死してなおその姿を見ていたければ残す、といった感じで選択肢が決まるのだろう。

 

 ――当然ながら、瓔火(インフォ)さんの『尸偶』もリエシンに返還された。

 

 しかし、今の彼女は、埋めるか残すかの選択がまともに出来る状態ではなかった。

 

「うっ……ひぐっ……ううっ…………ぐすっ……!!」

 

 安っぽくも幅の広いベッドの上に横たわり、決して変わらない笑みで天井を見つめ続けている瓔火(インフォ)さんの『尸偶』。鎖骨から下の部分に毛布がかぶせられているのは、元々ヒトだったものに対するせめてもの礼儀だった。

 

 その傍らにしゃがみ込みながら、リエシンは絶えず嗚咽をもらしていた。

 

 泣き続ける彼女を、ボクら三人は何も言わず、いや、何も言えずに後ろから見つめていた。 

 

 お世辞にも立派とは言えない木造りの家だった。戸口と、台所や寝室といった生活空間の区切りがほとんどされておらず、入った瞬間すぐベッドと台所が目に付いた。掃除は行き届いているけれど、生活を送る上で必要最低限のモノしか置いてないひどく殺風景な空間。木製の床も弾力に富み、よく軋む。ここで【震脚(しんきゃく)】をしたら一発で床が抜けると確信できた。家主には失礼だが、「家」というより「離れの小屋」という印象。

 

 ここは【会英市】にあるリエシンの家だ。受け取った『尸偶』は、そこにある二人用のベッドに横たえている。

 

 外から見ると、とても小さな一軒家だった。この家で、今は亡きお母さんと二人で慎ましやかに暮らしていたのだろう。

 

 開いた窓から、夜明けになりたての優しい日差しとそよ風が入ってきた。

 

 ボクの三つ編みが、ライライのポニーテールが、ミーフォンの下ろされた髪が風に揺らされる。ボクら三人は、いつも通りの服装と髪型に戻っていた。一度三人とも服を着替えてから、リエシンの様子を見にここへやってきたのだ。

 

 ただし、三人の総意ではない。言いだしっぺはボク。

 

 当然というべきか、ミーフォンはリエシンの事を相当嫌っており「こんな女シカトして、とっとと帝都へ向かいましょう、お姉様」と言ってきた。けれど、ボクはお母さんの死という現実を突きつけられたリエシンの様子がどうしても気になったのだ。二人とも、それについてきた感じである。

 

 しかし、わざわざ様子を見に来る必要があったのか、今更ながら思ってしまった。 

 

 ――彼女が悲しみにどっぷり浸かって泣いているなんて、確かめるまでもなく分かりきっていた事だったのだから。

 

「お母さん…………おかあさん……おがぁさぁん……!!」

 

 リエシンは硬くなった亡骸の手に頬を当て、薄い敷布団を濡らし続ける。その言葉しか知らない幼児のように、何度も「お母さん」と涙声で呼びかけていた。

 

 けれど、それに返してくれる声は決して聞こえない。聞こえるわけがない。

 

 ひたすらに涙と声を流し続けるリエシン。ボクらがこの部屋に来て、まだそう時間は経っていない。一体、彼女は何時間ベッドで泣いていたのだろうか。

 

 ボクは、そんな彼女にかける言葉が見つからなかった。

 

 泣き声とは別に、もう一つカツカツとリズミカルな音が聴こえてきた。ミーフォンが苛立たしげに爪先を鳴らす音だった。

 

 しばらくは靴を鳴らすだけだったが、やがて我慢ならないとばかりにリエシンに歩み寄り、強引に振り向かせてその胸ぐらを掴み上げた。

 

「――あのさぁ、いつまでそうやってベソかいてるつもり!? いい加減ウザいんだけど!」

 

 容赦の無い怒声が響く。

 

 それを聞いてリエシンは怯んだ顔を見せたが、すぐにキッと睨み返した。

 

「そう思うのなら、さっさと出て行ってよっ!」

 

「ああそうねそうだわ出来ることならそうしたいわよ! でもね、お姉様があんたの事気にかけてくれてんのよ! お姉様にとんでもない仕打ちをしたあんたの事を!」

 

「私はそんなこと一言も頼んだ覚えはないわよっ!!」

 

「このっ……! じゃあ聞くけどさぁ! そうやってガキみたいにわんわん泣いてるだけで、状況が良くなると思う!? なるわけないわよ! 泣いて喚いたって、白話(はくわ)の英雄が都合よく現れてあんたを慰めてくれたりなんかするもんか! あんたが今からするべきことは、その"母親だったモノ"の処――」

 

「――ミーフォン、やめなさい」

 

 続く言葉をいち早く察したボクは、語気を強めて黙らせた。心の準備期間というものが誰にでも必要なはずだ。今から無理して瓔火(インフォ)さんの『尸偶』をどうするかを決めなくてもいいだろう。

 

「でも、お姉様……!」

 

「やめなさい、って言ったぞボクは」

 

「…………はい」

 

 なおも食い下がろうとしてきたミーフォンは静かになり、力なく頷く。

 

 リエシンが我が身をかき抱きながらうずくまり、ヒステリックな声色で喚き散らした。

 

「もう出て行ってよっ!! あなたたちを陥れた事を咎めるなら後にしてっ!! 今は放っておいて!! 一人にしてよぉっ!!!」

 

 聞く者の心を引き裂くような叫びに、ボクらは息を呑んで押し黙った。さっきまで悪態を付いていたミーフォンでさえ、気圧されたような顔となる。

 

 ――今は、そっとしておいた方がいいかもしれない。

 

 誰にだって、周りの事を顧みずに泣き叫びたい時があるはずだ。そして今、リエシンはその時なのだろう。なのでここは一人にして、思いっきり悲劇に身を置かせた方が良いだろう。内に押し込めるよりも、そっちの方が心を病みにくい。

 

「……二人とも、今は出ていよう」

 

 ボクがそう静かに告げると、ライライとミーフォンも頷いた。

 

 踵を返し、戸口へ向かう。

 

「…………あっ!!」

 

 ――だが、ふとある事を思い出し、ボクの足が止まった。

 

「……シンスイ?」

 

「お姉様? 何か?」

 

 突然声を上げたボクを、ライライとミーフォンがびっくりした顔で見つめていた。

 

 そんな二人のリアクションにほとんど注意を向けられないまま、ボクはある考えに深く浸っていた。

 

 今まで、どうして忘れていたんだろうか。

 

 ボクはリエシンに、渡すべきものが一つあったではないか。

 

 ――【甜松林】で神桃(シェンタオ)さんから頂いた、リエシン宛の瓔火(インフォ)さんの手紙。

 

 あの手紙は確か、娼婦として働いていた時に着ていた薄手の連衣裙(ワンピース)の中に入っていたはず。少し破いてしまいこそしたが、高そうな服だったので、【甜松林】に来た時に神桃(シェンタオ)さんに返したのだ。

 

 こうしてはいられない。急いでその手紙を取りに【甜松林】へ戻らないといけない。

 

 ボクはリエシンに振り向きつつまくし立てた。

 

「リエシン!! ボクが戻るまで絶対に家を出ないでね!! 渡したいものがあるんだ!!」

 

 涙目のままキョトンとしたリエシンを置き去りにして、ボクは戸口から外へ出たのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 リエシンはただただ悲観に暮れていた。

 

 インシェンとの戦いが終わるまでは、そんな余裕が全くなかった。しかし全てが終わった後、まるで堰を切ったように悲しみが溢れ出してきた。

 

 今回の一件で、めでたくタンイェンは捕縛された。確たる証拠がある以上、極刑、良くても長期間獄に繋がれる沙汰は避けられないだろう。

 

 全ての元凶は裁かれ、母の行方と状態も分かった。過程は必ずしも思い通りにならなかったが、リエシンの目的は結果的に果たされた。

 

 そう。全てが終わったのだ。

 

 けれど――だからどうしたというのだろう?

 

 真相が分かったからといって、母に会えたのか?

 

 いや、一応会う事はできた。死体人形と化した母に。

 

 正直、シンスイ達には当たり散らしたくはなかった。けれども、感情が抑えられないのだ。悲しいという感情が。

 

 リエシンは(とこ)で横たわる母の抜け殻を見つめ、不気味なほど真っ白なその頬を指先で撫でた。人肌のなめらかさ。けれど氷のように冷たく、弾力に乏しい。

 

 紛う事なき死者の感触。

 

 それによって「母の死」という情報をさらに濃く感じてしまったリエシンは、再びガクリと膝を屈した。

 

「うっ…………あぁぁぁ……っ!!」

 

 母の片手を自身の両手で握りしめ、それにすがるような体勢で泣き崩れる。

 

 手から感じる硬く冷たい感触が、涙腺を絶えず刺激する。

 

 ――どうして、どうして、どうして!

 

 どうして優しい母がこんな無惨な最期を遂げて、卑怯者の自分が生き残るのだろう? もしも世を統べる神々が存在するのなら、そいつらはとんだ捻くれ者だ。

 可能ならば、この命を母に差し出して生き返らせたいくらいだ。

 こんな事なら、あのままタンイェンの飾り物になっていた方が良かったかもしれない。

 そして、せっかく生き残ったのに、そんな風に命を粗末にするような考えを抱いている自分自身が憎らしい。

 

 生き残ってしまった自分を憎み、そしてそんな自分を憎む自分をまた憎む。終わる事なく続く自責の連鎖だった。

 

 しかし、その連鎖を断ち切るかのように、戸口が勢いよく開け放たれた。

 

 思わずそちらへ目を向けると、シンスイの姿があった。

 

 そういえば、さっき「待ってて」と言って家を飛び出していったが、一体何をしていたのだろうか。

 

 シンスイはこちらを真っ直ぐ見つめながら歩み寄って、

 

「――これ、読んで」

 

 そう言って、何かを手渡してきた。

 

 それは、一枚の折りたたまれた紙だった。つぼみのように内側へ固定されるように折られており、外力で簡単に開かないようにできていた。

 

「え……」

 

 そしてリエシンは、その紙の折り方に凄まじい既視感を覚えた。

 

 自分は知っている。こうやって手紙を折りたたむ人を、一人。

 

 それは――

 

「まさか……お母さんの……?」

 

 呟いた途端、「どうして分かったんだ?」と言わんばかりにシンスイは驚きを表した。

 

 しかし、すぐに気を取り直した様子で表情を引き締め、言ってきた。

 

「それは察しの通り、瓔火(インフォ)さん――つまり君のお母さんの書いた手紙だ。【甜松林】にいるお母さんの後輩から、君に渡すよう頼まれた。「もし私に何かあったら、この手紙をリエシンに渡して」っていう瓔火(インフォ)さんの伝言と一緒に」

 

 リエシンのまぶたが開かれる。その目に悲しみ以外の光が宿った。

 

 気がつけば、自分はその手紙の封を解いていた。慣れ親しんだ折り方だったため、破らずにすんなりと開けられた。

 

 掌にすっぽり収まるほどたたまれていた紙は、あっという間に大きな一枚の紙と化した。

 

 見知った折り方と同じく、見知った筆跡で本文が書かれていた。その本文の下の余白に、簡単な地図のようなものが記されている。

 

 リエシンはその文に目を通し、黙読した。

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 愛する娘 リエシンへ

 

 

 

 もしもこの手紙をあなたが読んでいたなら、お母さんはきっともうこの世にはいないかもしれません。

 あなたに伝えたいことのありったけを込めて、この手紙をしたためさせていただきました。

 辛いかもしれませんが、どうかお母さんの最期の無駄話に付き合ってください。

 

 

 

 まず始めに、あなたに謝りたい事があります。

 

 ――こんなダメなお母さんでごめんなさい。

 

 お母さんは昔、擦れっ枯らしな悪い女でした。

 

 厳格な家柄に嫌気が差して家出し、雨露しのぐためにいろんな男性の寝床を転々とし、その男が酷い人だった時はその財布からお金だけ抜き取って雲隠れして…………そんな生活ばかり繰り返してきました。男の人に擦り寄らなければ生きる事もままならない……思えばこんなお母さんにとって、娼婦とは天職だったのかもしれませんね。

 

 けど、そんな生活は突然終わりを迎えました。――そう、リエシン、あなたをお腹に宿したからです。

 

 望んで妊娠したわけではありませんでした。けれど、お母さんはお腹に宿ったあなたに対して、確かに深い愛情を抱いたのです。あなたを産みたい、あなたと出会いたい、あなたと一緒に生きていきたい。そう思い、堕ろさずに産む決心をしました。

 

 生まれたばかりのあなたは、今のような可愛らしさからは似ても似つかない、お猿さんみたいなしゅわくちゃ顔でしたよ。でも日を重ねるにつれてお母さんの面影を感じられるようになっていき、愛らしい女の子に成長してくれました。これは嫁の貰い手引く手あまただと、身内贔屓ながら思っていました。

 

 ……けれど当時連れ合っていた男の人、つまりあなたのお父さんは、良い父親にはなれませんでした。最初は優しかったのですが、年月が経つにつれて暴力的になっていき、お母さんは日に日に心を削られていきました。

 

 せっかく稼いだお金もあの人の浪費で無くなり、果てには借金を押し付けていなくなってしまいました。ここまでは、あなたも知っていますね。

 

 あなたはあの人を毛虫のように嫌っていましたね。お母さんも酷い人だと思いましたが、それなりに愛情もありました。なにより、彼がいなければ、あなたがこの世に生まれることもなかったのですから。なのであの人がいなくなった時、すごく憎かったし、けれど同時に悲しかったのです。

 

 借金を返すために、お母さんは体を売って稼ぐしかなくなってしまいました。

 

 娼婦の仕事は想像以上に辛く、苦痛ばかりでした。

 

 けれどリエシン、あなたが隣にいてくれたから頑張れました。

 

 あなたはいつもお母さんを気にかけて、家事も率先してこなしてくれましたね。そして「お母さんは休んでていい。もうお母さんは散々傷ついたんだから、これからは私が頑張る」と言ってくれました。

 

 お母さん、嬉しかったですよ。そう言ってくれる娘がいるだけでも、どうしようもないお母さんの人生にも意味があった気がします。

 

 そして、そんな言葉を娘のあなたの口から言わせてしまって、ごめんなさい。

 恵まれた家に産んであげられなくて、ごめんなさい。

 ダメなお母さんの子供にしてしまって、ごめんなさい。

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 リエシンはすでに息絶えている母へ視線を送りながら、ふるふるとかぶりを振った。両頬を伝っていた涙が輝きながら左右に散る。

 

 違う。断じて、ダメな母親なんかじゃない。

 

 母は自分の身を削って自分の面倒を見てくれた。見捨てる事だってできたはずなのに、それをせず、最後まで自分とつないだ手を離さずにいてくれた。ダメな母親だなんて、誰にも言わせない。

 

 貧困だって、借金を押し付けて消えた「あの男」が全部悪いのだ。あのゲス野郎さえいなければ、もっと良い人生だったに違いないのだ。

 

 何を謝る必要があるというのか。

 

 リエシンはそんな気持ちを強く覚えつつ、続きへ目を向けた。

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 次に、あなたに心から感謝したい事があります。

 

 ――こんなダメなお母さんに、希望をくれてありがとう。

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

「――えっ?」

 

 今度は、全く別の意味で驚いた。

 

 ――希望を与えた? 私が?

 

 ありえない。

 

 自分は母に何もしてやる事ができなかった。

 

 一応、母に代わって家事全般に取り組んだ。母が家で快適でいられるよう、努力はした。

 

 が、所詮その程度の貢献。母の頑張りに比べれば雀の涙でしかない。

 

 自分が「仕事をしたい」と言うと、母はきまって厳しくそれに反対した。娼婦は精神的にも厳しい仕事であるため、なるべく母の心を安心させておきたかった。ゆえに仕方なく母の言うとおりにした。

 

 そう。事実上、自分は何もできないお荷物でしかなかったはずだ。母はそんな事は一言も言ったことがないが、それは母の優しさゆえ。自分は紛れもなく、純然たる穀潰しだった。

 

 そんな自分が、いったい母に何を与えたというのだろう。

 

 冗談だろうと思いつつも、母の真意が気になった。

 

 さらに読み進めた。

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 リエシン、お母さんは前にあなたに「将来の夢はあるの?」と何気ない口調で問いました。

 何気ない質問を装ってはいたものの、心の中では真剣でした。当たり前です、大事な娘の未来に関わる事なんだもの。

 

 そしたら、あなたは恥ずかしそうにこう答えましたね。「医師になって、病気の人を貧富にかかわらず助けたい」と。

 

 それを聞いた時、お母さん、凄く感動したんです。なんて素敵な夢を見てくれているんだろう、って。

 

 お母さんね、表面上は平気そうに振舞ってたけど、実は【甜松林】で働く事が凄く苦痛だったんです。それこそ、あなたというたった一人の家族の存在に励まされてかろうじて続けていられている、といったほどに。もし一人ぼっちだったとしたら、お母さんは今頃自分で自分の手首を切っていたかもしれません。

 

 でもねリエシン、あなたのその夢を聞いた時、大嫌いな娼館でのお仕事に対して、かつてないほどの意欲が湧いてきたんです。

 

 別に男の人に抱かれる事が大好きになったわけではありません。

 

 

 

 ――あなたの夢を叶えてあげたい、っていう強い気持ちが生まれたのです。

 

 

 

 だって、考えてみてください。こんなダメなお母さんから生まれた子が、たくさんの人の命を救う素晴らしいお医者さんになるんですよ? (とび)が鷹を生んだどころじゃないです。鶏が金の卵を生んだのです。

 

 今はまだ妄想でしかありません。けれど、お母さんはその妄想だけで、凄く救われた気分になったんです。もっともっと頑張って、お金を稼ごうって意欲が出てきたんです。

 

 以来、お母さんは積極的にお仕事に打ち込みました。娼婦はとても体力と精神力を削られるお仕事ですが、前と違って、苦痛しかないという事が無くなっていました。

 

 そして、借金も返し終え、身軽な体になった後も、お母さんは【甜松林】で娼婦として働き続けました。リエシン、あなたが医術を学ぶためのお金を稼ぐために。

 

 幸い、その頃のお母さんは【甜松林】でもかなり位の高い娼婦になっていたため、一晩に入るお金も結構多かったのです。さらに【甜松林】は娼婦たちの感染症や妊娠の予防を率先して手伝ってくれるため、病に倒れる事も、身重(みおも)になって働けなくなるという事もありませんでした。そういう意味では、かなり恵まれた環境なのかもしれません。

 

 リエシン、あなたは「もう借金は返し終わっているのに、どうして【甜松林】にとどまり続けているのか」と疑問に思ったはずです。分かってます。普通はそう思いますね。

 

 けど、それは【甜松林】という慣れた環境に耽溺しているわけでも、他に稼げるお仕事が無いから仕方なく続けているからでもありません。

 

 「仕方がない」といった諦めの気持ちではありません。むしろ逆です。――リエシン、あなたの夢を叶えたいからです。

 

 お母さんは、リエシンに希望を託そうと決めました。あなたにはお母さんのように曲がらず、真っ直ぐ生きて、いろんな人に愛されて、いろんな人を幸せにしてもらいたい。「聡明で、水のように澄み切った心を持って欲しい」という願いを込めた「洌惺(リエシン)」という名前のように。

 

 すでに現段階で、かなりの額のお金が貯まっています。きっと、帝都の医大学(いだいがく)で最後まで学び続けられるほどの額があるでしょう。

 

 けれど無理強いはしません。勉強のために使うもよし、生活のために使うもよし、リエシンが幸せになるなら、どんな使い方でもお母さんは一向に構いません。

 

 そのお金は、家の外壁の根元に全額埋めて隠してあります。詳しくは、この手紙の余白に書かれた地図を見てください。

 

 

 

 

 

 最後に。

 生まれてきてくれてありがとう、リエシン。

 良いお母さんじゃなかったけど、あなたの事は本当に愛していました。

 

 どうか、幸せに。

 

 

 

 

 

 高磧華(ガオ・チーホア)

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 手紙を握るリエシンの両手が、意思とは関係なく震えだす。

 

 雨のように涙滴がいくつも紙面に落ち、墨で書かれた字を滲ませ歪める。

 

 ――お母さんが、そんなことを考えていたなんて……!!

 

 自分には一言も告げていなかった母の真意が、明らかになった。

 

 まさか、自分の夢をそんな風に受け取っていたなんて。

 

 確かに、自分は昔、医師という存在に憧れを抱いていた。

 

 きっかけは、昔何度か会った医師の老婆。もう今すぐにでも逝ってしまいそうな、ひ弱そうなお婆さんだった。けれど、その頼りなさそうな細腕によって病人が救われていく様子を見て思ったのだ。まるで何かの術のようだ、と。神秘的にさえ映った。

 

 そう、それが医師になりたいと思ったきっかけだった。

 

 けれど、所詮物知らずな子供が軽々しく口にする安い言葉。母に夢を言った時の自分はそれなりに本気だったが、何が何でもなってやる、といった気概など持ってはいなかった。

 

 しかし、母はそんな自分の軽口のために身を削った。

 

 自分が「不要」と唾棄していた夢に、希望をかけてくれていた。

 

 どうしようもないほどの感謝の気持ちと同時に、凄まじい申し訳無さを禁じ得なかった。

 

 ――気づかなくて、ごめんなさい。

 

 それが、死んだ母に謝りたかった一つ目の事。

 

 もっと早く母の意図に気づいていれば、あんな無理は許さなかったのに。借金の返済が終わるのと同時に、無理矢理にでも【甜松林】から連れ帰っていたのに。自分は母さえいれば、それだけで十分だったのだから。

 

 ……いや。お金を貯めていた事を喋らなかったのは、自分が「そんなのどうでもいい! お母さんさえ元気でいられるなら、夢なんかいらない!」と答える事を前もって予測していたのかもしれない。

 

 ――こんな娘で、ごめんなさい。

 

 それが二つ目の謝罪だった。

 

 母は命をかけて尽くしてくれた。自分のために。――自分なんかのために。

 

 けれど自分はもう、そんな風に愛される資格の無い最低の人間と成り下がってしまった。

 

 そんな人間のために頑張っていたのでは、まるで母は道化ではないか。

 

 ごめんなさい。

 

 ごめんなさい、ごめんなさい――

 

「ごめんなさい…………ごめんなさい…………ごめんなさいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!」

 

 決壊した。

 

 リエシンは母の形見となってしまった手紙を胸に抱きしめながら、澎湃(ほうはい)と涙を流した。情けなく号泣した。

 

 馬鹿だ。

 

 自分はとんだ大馬鹿者だ。

 

 母の気持ちがめいっぱい書かれた手紙を読まされた事で、感謝の気持ちを塗りつぶすほどの凄まじい罪悪感が押し寄せてきた。

 

 罪悪感を洗い流そうとばかりに、涙腺が液を吐き続ける。けれども、それはいつまで経っても収まることがない。永遠に続くのではないかとさえ思った。

 

 不意に、自分の胸から背中までを何かが優しく包み込んだ。

 

 ――シンスイに抱きしめられていた。

 

「……今だけ貸してあげる。だから好きなだけ泣きたまえ」

 

 静かに、囁くようにそう耳元で言ってくる。

 

 いつもなら抵抗の気持ちが生まれただろうが、今は心がとてももろくなっていた。

 

 とても素直に、彼女の胸に顔を押し付けた。

 

「ああああぁっ……!! あああああああああぁぁぁぁぁぁっ!!!」

 

 絞り出すように涙と声を発する。

 

「おかあさん……! おかぁさああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!!!」

 

 もはや心の堤防は粉々に崩れ、感情がただただ瀑布のように溢れてくる。

 

 母の死んでしまった悲しみ。

 母の気持ちにずっと気づけなかった自分への腹立たしさ。

 母の名誉を傷つけるような事をした罪悪感。

 

 それらすべてを、シンスイの胸の中へ涙としてひたすら吐き出す。

 

 

 お日様のような彼女の匂いに包まれながら、リエシンはただただ泣き続けたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 リエシンがひとしきり泣いて落ち着いた後、ボクらは手紙の地図を頼りに、瓔火(インフォ)さんの遺したお金を見つけだした。

 

 戸口がある方とは反対側の外壁。そこの根元の土を足で何度か払うと、長方形の木の板がうっすらと浮かび上がった。端にある溝に指をかけてその板を開くと、木製の空洞が現れた。木箱が埋まっていたのだ。

 

 そしてその木箱の中には、膨らんだ布袋がいくつも入っていた。 

 

 袋の中身はすべて硬貨だった。

 

 リエシンの許可を得た上でそれらを数えてみる。

 入っている袋の数は二十袋。ひと袋につき入っているのは一〇万綺鉄(きてつ)。つまり――合計二〇〇万綺鉄ということだ。

 

 確かにかなりの額だ。これなら帝都にある医大学で学びきってなおお釣りが来るレベルである。

 

 戦国時代が終わって泰平が訪れた100年以上前、【煌国(こうこく)】は薬や医術を取り巻く迷信や嘘を一掃するべく、医師や薬師を免許制にした。国立の教育機関である医大学で医学を学び終え、国家試験に合格した者だけが免許を得て医師を名乗れるようになったのだ。これによって「浮気したことのないコオロギの雌雄をすり潰せば万能薬ができる」などといった迷信に騙される人が激減したが、一方で医者になるために昔よりお金がかかるようになってしまった。一〇〇年以上前は一人の医者を師とあおぎ、その技術を盗んでいくという方式だったらしい。

 

 このべらぼうな金額から、お母さんのリエシンに対する並々ならぬ想いを感じられた。

 

「……こんなバカ女の母親とは思えないほどの人格者ね」

 

 ミーフォンも、そう言わずにはいられなかったようだ。

 

 リエシンは布袋を一つ手に取り、胸に抱いた。

 

「お母さん……っ」

 

 涙混じりに呟く。

 

「ごめんね……私なんかのために……苦労させて……」

 

 ひとしきり抱きしめ続けると、布袋を再び木箱の中に置く。

 

 涙を腕でこすり取り、表情を引き締めると、リエシンはボクたちの方へ振り向いた。

 

 目の周りは泣きはらして真っ赤だったが、その中心にある瞳は決意に満ちたように輝いていた。ボクら三人の顔がくっきり映っている。

 

 そして、

 

「遅くなったけど、貴女たちに詫びさせて欲しいの。――本当にごめんなさい。私が愚かだった。私の勝手な考えで、貴女たちを振り回して」

 

 リエシンは床に両膝を付けると、手を前に置いて、その状態から床と並行にこうべを垂れてきた。いわゆる土下座であった。

 

 ボクはその突然の謝罪に戸惑いを感じたが、それもほんの数秒だけ。すぐに「人として当然の事をしているだけだ」という考えが生まれた。

 

 そうだ。この子が【吉火証(きっかしょう)】を盗んで脅してきたりしなければ、ボクらは今頃つつがなく帝都へたどり着いていたはずだ。

 

 早く事件が解決したから良かったが、ヘタをするともっと長い期間この辺で立ち往生し続けなければならなかったかもしれないのだ。もし滞在期間が【黄龍賽(こうりゅうさい)】本戦開始までの一ヶ月を超えていたなら、ボクの武法士生命は完全に終わっていただろう。

 

 リエシンが余計な事さえしなければ、すべて上手くいったんだ。

 

 この子と会いさえしなければ。この子さえいなければ。

 

 ――けど、悪い事ばかりではなかった。

 

 今回、ボクらが関わったことで、タンイェンという巨悪を懲らしめることができた。

 

 真実は残酷ではあったが、リエシンのお母さんの安否がはっきりした。

 

 ボクも、神桃(シェンタオ)さんといったいろんな人と関わる事ができた。その事も結構面白かったし、心にも残った。

 

 しかしながら、このままタダで許すほどボクは甘くない。

 

 それを察したのか、リエシンは土下座をやめ、木箱に入った布袋の数々を手で示した。

 

「せめてものお詫びよ。――ここにあるお金を貰って欲しいの」

 

 ボクら三人はそろって目を丸くした。

 

 真っ先にライライが訊いた。やや非難のニュアンスのある声色で、

 

「待って。そのお金は、亡くなったあなたのお母様が一生懸命貯めたお金なんでしょう? それをそんな軽々しく……」

 

「軽々しく扱っているつもりはないわ。何度も言う。今回、私は貴女たちにはとんでもない仕打ちをしてしまったと深く悔いている。だから、せめてもの償いがしたいの。それに…………今の私には、このお金を受け取る資格なんて無いもの」

 

 自嘲気味に微笑むリエシン。

 

 ……お母さんが、自分の願いを込めて名付けた「洌惺(リエシン)」という名前。

 

 今回、リエシンはその名前に全くふさわしくない行為に走ってしまったのだ。

 

 なるほど、そういう後ろめたさがあっての判断か。

 

 よし分かった。そういう事なら――

 

「――甘ったれるなよ、高洌惺(ガオ・リエシン)

 

 ――なおのこと、受け取るわけにはいかない。

 

 ボクの答えを聞いたリエシンは、キョトンとした顔でこちらを見てきた。

 

 その視線を受け、ボクはさらに続けた。

 

「この大金を、しかもお母さんの遺産でもあるこのお金を差し出すことで、少しでも罪の意識から逃れようって魂胆かい? 甘い。甘すぎるよ。それに金で解決しようとしてる感じがしてすこぶる不愉快でもある。いいかい? ボクはね、君のせいで女として大切なものを失いそうになったんだよ? その事をちゃんと理解してるよね。それを「お金払いました。許してください。はいさようなら」なんて済ませようって? ボクの事まだ心の中で馬鹿にしてるでしょ? 正直に言っていいよ」

 

 ことさらに不快げな口調でまくし立てる。

 

 リエシンは慌てたような態度で、

 

「違うわ! そんな事少しも思ってない! 私は本当に――」

 

「別に君から恵んでもらわなくても、ボクの家はお金に不自由してないんだよ。だからこんな額渡されても正直邪魔でしかない。それだと罪の意識が晴れないっていうんなら、安心して。君にはとっておきの罰を用意してあるから。謝罪したいっていうのなら、それを甘んじて受けてもらう」

 

「何……かしら」

 

 緊張の面持ちで訊いてくるリエシン。

 

 そう。彼女に一番ふさわしい罰は、このお金を手放す事じゃない。

 

 彼女自身が不幸になる事でもない。

 

 むしろ、逆だ。

 

 ボクは大きく息を吸い、そして答えとともに吐いた。

 

 

 

 

 

「リエシン――君の夢を叶えてみせろ」

 

 

 

 

 

「……え」

 

 あっけにとられたような顔で押し黙るリエシン。何を言っているのか分からない。そんな感情が容易に読み取れる。

 

 ボクはさらに訴えかけた。

 

「その手紙に書かれてた通り、君は将来医師になりたかったんだろ? なら、その夢を叶えてみせろ。お母さんが用意してくれたこのお金があるんだ。できないとは言わせないよ」

 

「え……でも……」

 

「でももカモもない。せっかく君のお母さんが命を削ってその機会(チャンス)を与えてくれたんだ。君はそれを活かさないといけない」

 

 そう。ボクがこの世界に転生し、健常者として生きるチャンスを手にしたように。

 

 ボクはそのチャンスを掴み、武法士として生きている。

 

 彼女にも、そのチャンスを捨てずに掴んで欲しい。

 

 リエシンは、太陽を見ているような眩しげな眼差しでこちらを見ながら、

 

「……いいの?」

 

「いいんだ。っていうかやりなさい。ボクらは君をこうして生き残らせて、そしてお母さんにも会わせてあげた。つまり、この機会を使えるようお膳立てをしたのはボクらだ。だから、ボクらに対して本当に謝意があるのなら、それを活かしてみせろ」

 

 ボクは真っ直ぐリエシンを見て、そうはっきりと告げた。

 

 そして、自分の胸を叩き、笑いながら言った。

 

「ボクもね、今回【黄龍賽】で勝ち残らないと、武法を続けられなくなっちゃうんだ。だから、これは約束だ。ボクは必ず勝ち残る。そしてまたいつか君に会いに行く。いつになるか分からないけど、いつか来る。その時に備えて、君は立派なお医者さんになってなさい。どうだい、守る気があるかい?」

 

 そこで一端、言葉を止めた。もうどう答えるか分かりきっているが、リエシンに考える余地を与えたのだ。

 

 彼女は眩しい目でこっちを見たまま、彫像のごとく動かない。

 

 だがしかし、みるみるうちに表情を明るくしていき、

 

「――うん! むしろ喜んで守らせてもらうわ」

 

 やがて、そう言って笑ってみせた。

 

 ……今まで彼女が見せた笑みの中で、ダントツで素敵な笑顔だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ボクら三人は、広葉樹林の中の一本道を進んでいた。

 

 道の左右には、広葉樹や雑草がいくつも乱立している。幅広い枝葉の塊が天蓋のように上部を覆い、朝の木漏れ日の混じった影絵のような日陰を作っていた。

 

「――お姉様、あの金受け取っても良かったんじゃないですか?」

 

 ボクの隣を歩いているミーフォンが、そんなことを言ってきた。

 

 首を横に振り、

 

「ううん。いいんだよ、あれで。元々あれはリエシンのためのお金だ。それに三人ともこうして五体満足で生きてるし、ボクの貞操も無事。失ったものは何もないんだ。だから、この話はこれでおしまい」

 

「……まあ、お姉様がそうおっしゃるなら……」

 

 なんか納得いかない、とばかりに唇を尖らせながらも、もう突っ込むのをやめるミーフォン。

 

 そこで、ライライが台詞を挟んできた。

 

「いえシンスイ、失ったものはあったと思うわ」

 

「ええっ? まじで? 何さ?」

 

「変装するための衣装を買うのに使ったお金。おかげでただでさえ風通しのいい財布がさらに殺風景になったわよ。この分だと、帝都に着いたとしても野宿になるかもしれないわ」

 

「う……そ、それはごめん……なんか、苦労をかけたね」

 

 ボクは弱った顔でそう謝る。ライライはクスクス笑声をこぼしながら、

 

「ごめんなさい、意地悪言って。決してたくさんとは言えないけど、まだお金は残ってるわ。【会英市】で出費こそしたけど、【滄奥市(そうおうし)】から帝都に向かう道中ずっと野宿だったのと、シンスイが山菜やら魚やらを採ってくれたおかげでだいぶ節約できてたから。まあ、使い切ったらその時はその時ということで」

 

「そっか。もしお金無かったら言って。できる限りおごるから」

 

 期待してるわ、と笑いかけるライライ。

 

 それからもボクを中心にした三人横並びで歩きながら、とりとめのない会話に花を咲かせた。

 

 ボクは会話を楽しみつつ、左手に握られた方位磁針に逐一目線を移す。きちんと北へ進めているようだった。

 

 あの後、リエシンとは程なくして別れた。

 

 そしてボクらはすぐに各々の荷物を手にして【会英市】から立ち去った。

 

 【藍塞郷(らんさいごう)】の前にある石橋前に来てから、真っ直ぐ北上。そして現在、リエシンの仲間に【吉火証】を奪い取られる直前までいた山道の中を進んでいる。

 

「でも……宿を取るよりも先に、ちゃんとしたお風呂に入りたいわ……」

 

「……そうね、同感だわ。あたしもいい加減水浴びには飽きてきたし」

 

 ライライの切実そうな呟きに、ミーフォンが力強く同意する。

 

「ボクは【甜松林】でしょっちゅう入ってたなぁ、お風呂。すっごいいい匂いがするやつ」

 

 思い出を懐かしむようにのほほんとした口調で言う。すると、ライライがやや不満げに見つめてきた。

 

「……羨ましい。私なんてほとんどまともなお風呂に入ってないのに……いい加減臭ってないか心配だわ」

 

「い、いや、平気だよ? 別に臭くないよ? それに帝都に着いたらお風呂付きの宿を見つければいいじゃないか」

 

 うー、と小さく唸るライライ。やはり女の子としては死活問題なのだろう。ボクも他人事じゃないが。

 

「あああああああああ!?」

 

 ミーフォンが突然、何か思い出したような叫び声を上げた。

 

 ボクとライライは思わずビクッとする。

 

「ど、どうしたのさミーフォン? 何か忘れ物でもした?」

 

「は、はい!! あたし、かなり大変なことを忘れていたみたいです!!」

 

 マジか……まあでも、まだ【会英市】からそんなに離れてないし、今から戻っても十分間に合うか。それじゃあ、忘れ物を取りに戻――

 

「――昨日、お姉様がしてた娼婦の格好、よく見ていませんでしたっ!!」

 

 ――らなくていいか、うん。このまま進もう。

 

 ミーフォンは鞄を持たない空いた手で頬っぺたに触れ、うっとりしながら、

 

「ああ! いつもは可憐かつ快活なお姉様ですけど、昨夜のお姿は普段とは一八〇度変わりつつも違う魅力にあふれていましたわ!! いつもよりも露出度が高く、布地も透明度が高いという非常に攻めた格好! ほんのり鼻腔をくすぐる桃の香り、「ふんわり」と広がった長い髪、これらの魅力要素も喧嘩することなく上手いこと噛み合って、愛らしさの中に凄まじいバブみを内包した甘ったるい雰囲気にあふれていました! もしも非常事態じゃなかったら、この紅蜜楓(ホン・ミーフォン)、我を忘れてお姉様に飛びかかっていたかもしれません!!」

 

「いやいやいや、何が「よく見てない」だよ!? ものすごく正確に観察できてるじゃあないか!」

 

「何を言います!? 今言ったのは大まかな魅力に過ぎないです! もっと細部までは見ていませんでした! お姉様、今からでも遅くありません! 【甜松林】に戻って昨夜の服を貰ってきてください!」

 

「君はボクが娼婦になるのを反対してたんじゃなかったのかい!?」

 

 ダメだこの娘。早く何とかしないと。

 

 そんな風にわいわい騒ぎながら道中を歩き続けていると、ふとあるものが目に入り、思わず進む足が止まった。

 

 真ん中にいるボクの影響を受ける形で、二人も歩くのをやめた。

 

「これって……」

 

 ボクは呟きつつ、目に入った原因をさらに凝視する。ちょうど右にある広葉樹の近くにいくつも伸び連なった、雑草。

 

 雑草が生い茂っているだけなら他の場所と変わらないが、視線の向く先に生えたソレらは、一部の区画が真っ赤に染まっていた。

 

 さらに周囲の樹の配置を見回して、ようやく思い出す。

 

 ――【吉火証】を取られた場所だ。

 

 ここでいきなり黒ずくめの男が出てきて、怪我人のフリで油断させてボクの鞄をひったくったのだ。雑草の一部が赤く染まっているのは、血に似せた液体が滴り落ちたからだろう。

 

 また出てくるかもしれない、とほんのちょっと警戒しなくもなかった。

 

 しかし、流石にもう誰も飛び出してくる様子はない。

 

 ボクらは顔を見合わせ、微笑みながら頷き合う。

 

 ――思えば、今回のとんでもない寄り道はここから始まったのだ。

 

 陰謀の標的にされ、操られ、ひどい目にあいそうになった。ある意味、忘れられない体験をさせられた。

 

 けれど、酷いだけの数日ではなかった。

 

 普通なら滅多に体験しないような出来事を色々と味わった。

 

 それはきっと、時間の経過によって美化された思い出かもしれない。

 

 けれど、それでいい。

 

 今、こうして無事でいて、なおかつ帝都へ再び進み始める事ができているのだから。

 

 まさに、終わりよければすべてよし。

 

「――行こう!」

 

 雑草から目を離し、前を向いて歩を進める。

 

 ボクが執着すべきは、通過点ではない。【黄龍賽】の優勝という終着点のみ。

 

 それまで、決してこの足は止めない。

 

 その止まらない足取りで、再び帝都への長い道のりを歩き始めたのだった。




次回に幕間を一話置いて、道中編は完結となります_φ(・_・

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