一撃のプリンセス〜転生してカンフー少女になったボクが、武闘大会を勝ち抜くお話〜 作:葉振藩
その後、ボクとリエシンは拘束を施され、ドレッドみたいな頭をした男に抱えられて地下室を出た。
嫌という程見たあみだくじ状の廊下を移動し、やがて連れてこられたのは巨大な
大きな両開き戸の正面玄関をくぐってすぐ目の前にあり、タンイェンと寝室に行く時にも通過した場所だ。カマボコ状に広がった、赤と金を主体とする絢爛豪華な装飾が施された空間。半円の弧を描いた壁の中央部には上階を貫くようにして幅広い階段が伸びており、その右隣の壁面には通路がぽっかりと空いて奥へと続いている。ボクらが出てきたのはそこからだった。
階段のすぐ前の床に放り出されたボクとリエシン。その周囲には、外を巡回していたはずの用心棒たちが輪を作って立っていた。騒ぎを聞きつけて集まったのだ。タンイェンもどういうわけかそんな仕事の放棄を注意しない様子。
【
そんな彼女の安らかな眠りを、用心棒の一人が木桶からぶちまけた井戸水が妨げる。
「んぶっ…………ぱっ……!?」
あっぷあっぷした苦しげな声を数度もらしてから、リエシンは固く閉ざされていたそのまぶたをゆっくりと開いた。
そして、寝ぼけ
何度も往復するように視線を走らせると、やがて何かに気づいたようにハッとした。虚ろだった瞳にも生気が宿る。
「しまっ————うくっ!?」
慌てて跳び起きようとして、失敗。再び地面へ横倒しとなった。
リエシンの両手両足には、肉厚な鉄製の手枷足枷がはめられていた。それによって手首同士、足首同士を密着させた格好を余儀無くされているため、立ち上がろうにもそれは叶わない。
「な……何よこれは!? どうなってるの!?」
「捕まったんだよ。君のせいで」
今更感たっぷりなリエシンの発言に、ボクは非難がましい声で告げた。
「……李星穂(リー・シンスイ)? なんでここに……いや、それはひとまず置いておいて、どういうこと? 捕まった?」
「何でそこで疑問形なのさ。最初に捕まったのは君じゃないか。そのせいで眠らされた君を人質に取られて、ボクまでこのザマだよ」
ボクは揶揄のニュアンスを込めた言葉を交えつつ、リエシンと同じ形で拘束されている我が身を視線で示した。
ちなみにボクは手枷足枷に加え、【
「眠らされたって…………あっ!」
リエシンが黙考したのも束の間。すぐにハッと何かに気づいたような素ぶりを見せた。おそらく、捕らえられた時の事を思い出したのだろう。
そんな彼女に、ボクは糾弾の言葉を遠慮しなかった。
「リエシンのバカっ。どうして付いて来たんだよっ? ボク一人だったら、まだどうにでもなったっていうのにっ」
「…………ごめんなさい。もうすぐ母の事が分かるかもしれないと思ったら、居ても立っても居られなくなって……」
済まなそうな表情を浮かべ、消沈した声で謝罪を述べられた。
おおっ、謝ったよ。あのリエシンが。ボクはそんな場合じゃないと分かっていながらも、目を丸くせずにはいられなかった。
しかし、せっかく見られた殊勝な顔もすぐになりを潜めた。彼女はジッとこちらを注視しながら、
「それで……どうだったの?私の母は……
「……っ、そ、それは……」
そんな疑問をぶつけられたボクは、思わず返事に窮する。
リエシンに真っ直ぐ向いていた視線が、自然と横へ逸れていく。
――彼女の問いに対する答えを、ボクはキチンと持っていた。
しかし、それはリエシンにとってあまりに残酷な情報だ。
この娘は人の物をかすめ取り、隠し、そのありかと引き換えに人を操るような人間だ。彼女さえ現れなければ、ボクはつつがなく帝都へ到着するはずだった。正直、気を使ってやる義理なんかカケラもありはしない。
……そう、ないはずなのだ。
しかし、ボクの握る情報は、そんな彼女にさえ同情の念を向けたくなるほど酷なものだった。心に残ったそんな良心が、ボクの口を固く閉じさせていた。
その時だった。
「――雑談は終わったか? 女狐ども」
助け船か、あるいは悪魔のささやきか、嘲笑混じりな声が降ってきた。
ボクはそちらへ目を向ける。
タテガミのように後ろへ逆立った頭髪に、岩のように厳つい壮年の面構え。鋭い目つきに、幾本もの皺が寄った眉間。
その男、
その隣には、さっきのドレッド男が控えていた。全く恐縮した様子の無い慣れた佇まいからして、おそらくこの男はタンイェンの側付きみたいな存在なのだろう。
「
唸るように名を呼び、降ってくる冷たい視線に睥睨の眼光を衝突させるリエシン。
対して、タンイェンは大したことが無いとばかりに鼻を鳴らし、口元を嘲笑で歪めた。
「やれやれ、懲りない女だな貴様は。ここに来るのは何度目だ? いい加減、貴様の顔は見飽きたのだが」
「母の行方を吐くまで、何度でもここに来るわ」
「熱心な事だ。まあ良い……その悪あがきも今日で終わる。詮無き問題だ」
「……どういう意味かしら」
意味深な言い回しに、リエシンは訝しげに半眼となる。
そして次の瞬間、タンイェンは耳を疑うような一言を放った。
「貴様らはもう二度とこの屋敷から出られないという事だ。なぜなら――ここで仲良くあの世に旅立ってもらうからだ」
ボクらは全く同じタイミングで驚愕を示した。
あの世へ旅立つ――遠回しに「死」を表す言い方。
その明らかな殺人宣言に対し、最初に食ってかかったのはリエシンだった。
「巫山戯ないで! いくら貴方がこの辺り一帯の事実上の覇者だったとしても、そんな事までまかり通るとでもっ?」
「通るとも。どのような罪を犯したしても、然るべき連中に知られない限りその罪は存在しないものと同義だ。貴様らは今夜秘密裏に始末する。足が付かぬよう、遺体も外には出さない」
「どうして捕まらないといけないのよ!? 私は屋敷の外をうろついていた事は認める。でも、それだけよ! なのにどうしてそこまで……」
「馬鹿めが。屋敷の周りをうろちょろされたところで、子蜘蛛が床の隅をチョロチョロ這っている程度にしか思わん。しかし、貴様が差し向けたその小娘は、見てはならないモノを見てしまった。つまりはその連帯責任ということだ。
淡々と告げられたタンイェンの言葉を聞いた後、リエシンは当然ながらボクへと視線を滑らせた。
一体何を見たの――彼女の瞳が言外にそう訴えかけてきている。
「……っ」
ボクは若干の吐き気を催しながらも、この屋敷の地下室にあった『
連ねた説明の随所で、胃の中のモノが沸騰したように暴れた。どうしてもあの『
ボクの感じた気持ちは、別に不思議でもなんでもなかった。全て聞き終えたリエシンが苦しげな顔を見せたのを見て、自分が普通の感性の持ち主であると分かり安心する。
ボクは不快感を奥歯で嚙み殺し、タンイェンの顔をキッと睨んだ。
「あの『尸偶』…………材料になったのは――【
隣から、リエシンの息を飲む声が聴こえてきた。
タンイェンに連れて行かれた娼婦たちは、皆等しく行方不明になったままだという。
その彼女達が屋敷から出る事なく『尸偶』にされているのだと考えれば、全て辻褄が合う。
そしてタンイェンもまた、ボクの言葉を薄ら笑いという形で肯定してみせた。
「まあ、これから死に行く者に対して秘めるのは無粋というものか。――正解だ。"アレ"は全て、俺が金で買った
リエシンはすっかり言葉を失っていた。タンイェンに向けていた睥睨の眼差しも、化け物を見るようなソレに変わっている。
ボクも似たような視線を送っている。しかしその中に、疑問の色も交えていた。
その疑問のまま、「どうして、あんなことを……!?」と震えた声で尋ねた。
すると、
「趣味だよ」
拍子抜けするほど、簡単な答えが返ってきた。
「趣味……だと…………?」
「そうさ。俺はな、花が嫌いなんだ。どれだけ美しかろうと、時が経てば枯れ果て、華やかなりし頃の姿など見る影もなくなってしまう。女もまた同じ。傾国の美女も時とともにその美しさを失くしていき、やがて醜い老婆となり下がる。俺はそんな美の凋落という理不尽な摂理から、女どもを解放してやったのだ」
静かな怒りの炎が、心の中に灯るのを感じた。
この男は、まるでドライフラワーでも作るかのようなスタンスで多くの女性を手にかけたのだ。その罪、決して軽くはない。
何がどうあっても、コイツには然るべき場所で法の裁きを受けさせなければならない。
「……お前は人の命を何だと思ってんだ。あんな事、絶対に許されないぞ…………!」
「許されない、だと?」
睨み混じりのボクの発言を聞いたタンイェンは、笑声を吹き出した。
やがて堪え切れないとばかりに、ソレは呵々大笑へと変わる。
笑いが収まった後、奴は傲岸不遜にうそぶいた。
「自分の事を棚に上げるのは止してもらおうか、
反吐が出る――奴の長々しいご高説の感想は、その一言に尽きる。
確かにタンイェンの下で働いたおかげで、経済的に助かった者もいる。
けれどコイツはそれさえも「取るに足らない事」と平気な顔で断ずるだろう。それを分かりきっているため、口には出さなかった。
「ねぇ…………お母さんはどこ………?」
唐突に、乾いた響きを持った声が耳に入った。
音源は隣。声の主はリエシンだった。
……そう。わざわざリエシンだと確認しないと分からないくらいに、さっきの声色は変わり果てたものだったのだ。
ようやく口を開いた彼女の様子は、魂が抜けたような有様だった。表情は仮面みたいに動きが無く真っ白。おちくぼんだように虚ろな眼差しは、眼前を見るともなく見ていた。
タンイェンは思い出したように目を見開いた。かと思えば、両口角を邪悪に吊り上げる。
「そういえば貴様、
それから先の台詞を予想出来たボクは、焦った声と態度で制止を呼びかけた。いずれ知られる事だと分かっていても、止めずにはいられなかった。
「ば……馬鹿野郎!! よせ!! 言うなっ!!」
「では教えようか。貴様の母親、
タンイェンはボクの渾身の声量を歯牙にもかけず、残酷な結末へ向かって言葉を連ねていく。
暗く空虚なリエシンの双眸が、ジッと奴の答えを待っていた。
「黙――――モガッ!?」
「うっせーよ。これでも食ってろや」
大声で遮ってやろうとした瞬間、何かが口いっぱいに突っ込まれた。それは、用心棒の一人がニヤニヤしながら突き出した靴の爪先。
「ん――――っ!! ん――――っ!!」
言葉にならない声をひたすら叫び続ける。体を魚みたいに振り乱して爪先を口から出したかったが、【麻穴】のせいで身じろぎ一つ起こせない。
汚らしいものに口を塞がれている間に、とうとうタンイェンは最後の一言まで言い切ってしまった。
「――『尸偶』となって、他の娼婦ともども地下室に飾られているさ」
リエシンの無表情が、これ以上無いくらい悲痛に歪んだ。
が、絶望の表情はすぐに憤怒のソレへと変わり、ヒステリックな怒号を発した。
「う、嘘だっ!! デタラメを言うなっ!!」
「嘘ではない」
「なら見せてみなさいよ!? 貴方がお母さんを材料にして作ったっていう『尸偶』をっ!! 今すぐにっ!!」
「ハァ? 馬鹿を言え。なぜ俺が貴様のような野良犬のために労力を割かなければならないのだ? だいいち、わざわざ地下から引っ張り出さずとも――貴様の隣に証人がいるではないか」
冷笑混じりのタンイェンの言葉に反応し、彼女は隣に横たわっているボクへと視線を移動させた。
それを合図にしたように、こちらの口から靴先が離れた。
「
言葉の矛先で、愉しげにチクチクつついてくる。
ボクは唇の下で悔しげに切歯し、二人から目を背けた。……とことん性格の悪い奴め。
リエシンはすがりつくように話しかけてきた。
「……
「…………」
「……何か言わないの?」
「…………」
「なんで黙ってるの? 何か言ってよ?」
「…………」
「ねぇ、何か知ってるんでしょう? この屋敷の中でお母さんに繋がる何かを見たんでしょう? ねぇ……それを教えてよ……?」
「…………」
「黙らないでよっ!! 言いたいことがあるならさっさと言いなさいよっ!! ねぇ!? 貴女は一体何を見たの!? お母さんはどこにいるの!? どこかで見たんでしょ!? 言いなさい!! 言え!! 吐けよっ!!!」
喉が潰れそうなほどの大声で喚き催促してくる。
しかし、ボクは口を閉ざし続けた。
――言えるわけがない。
こんな残酷な真実を日常会話のような気軽さで突きつけられるほど、ボクは大人でも冷血でもない。
しかし、一方でこうも思った。
このままボクが口をつむぎ続けていたら、そんな残酷な真実を、残酷な人間の口から吐かせてしまうことになる、と。
ならば、ボクの口から言ってしまった方がマシなのではないか。
数秒間黙考し、結局「言う」という選択肢を取った。
長大で重厚な地獄の門を押し開ける心境で、ボクは開口した。
「……ボクが最初に見つけた『尸偶』の右目の下には、二つ隣り合わせに並んだ
「――――っ!!!」
遠まわしな言い方をしても、その情報の元々持つ衝撃は殺せなかったようだ。
リエシンはしゃくりあげるように大きく息を呑み、顔貌を絶望一色に染め上げた。
「あ…………ああ……あ…………!!」
怖いくらい瞳孔とまぶたが開ききった双眸の淵から、ダムの決壊のごとく涙が溢れ出す。
大粒の涙滴が頬の輪郭を伝い、顎下に降り注ぐ。一つ、二つ、三つと、あっという間にたくさん滴り落ちていく。
ボクは自分で選択したとはいえ、激しいやるせなさに苛まれた。
――そう。ボクが最初に発見した『尸偶』が、リエシンのお母さんである
右目下の黒子の存在だけではない。その顔つきも、どことなくリエシンに似ていたのを思い出す。
行方不明の娼婦が『尸偶』にされている事に気づけたのは、彼女の『尸偶』を見たからである。
殺されているだけでも十分辛いのに、その上手前勝手な理由で「死」を弄ばれたのだ。これほど酷な話があるだろうか。
タンイェンは「労力を割きたくない」と『尸偶』を持ってくることを拒否したが、今のボクはむしろそれで良かったと思っていた。あのような姿になったお母さんを見てしまったら、きっとリエシンは本格的に壊れてしまうだろうから。
パチパチと、乾いた音が響いた。
「ハハハハハハハハッ!! いいぞ、その顔! 純度の高い絶望と失意が色濃く現れているなぁ! 貴様には色々嗅ぎ回られて不愉快な思いをさせられたからな、普通に殺すより、先に大いに絶望させたかったのだよ!」
タンイェンは両手で拍手をしながら、耳障りな哄笑を上げた。
悪びれる態度が欠片も見受けられなかった。それどころか、本気で馬鹿笑いしている。どう見ても、きちんと血の通った人間の反応ではない。
「お前――」
ボクはギリッと奥歯を割れんばかりに噛み合わせ、睨み目でタンイェンを強く射た。
その先の言葉を繋げようとした瞬間、絹を裂くような叫びが先に轟いた。
「人殺しっ!! お前は最低の悪魔よ!! お母さんを……お母さんを返せェェェェェェェェェェ!!!」
聞く者の心胆をぞわっと逆なでする悲痛な響き。
タンイェンは何を言わんやとばかりに薄笑いを浮かべて言った。
「返すわけがなかろうが。『尸偶』を一人作るのに、一体どれだけ出費がかさむか分かるか? 貴様ごとき貧乏人が全財産と身包みを剥がされてもまだ届かぬわ」
聞くに堪えない奴の台詞はなおも饒舌に続く。
「そもそも、一ヶ月も戻らなかった時点で、母親がすでに死んでいることくらい察しがついたはずだ。なのに、わざわざまた探しに来るとは……ハハッ! 知恵者ぶった態度と言動を装っていても、頭の悪さは隠しきれんな! さすが、あの下賤な女の
「お母さんを侮辱するなっ!!」
「侮辱? 正当な評価を下しただけだ。俺の屋敷に招かれた時、あの女は浮かれ気味に口元を綻ばせていたよ。おおかた、ここで俺に取り入れば収入も増え、懐が暖かくなるとでも妄想したのだろう。ハハハハ! なんと即物的で浅はかな女か! これは商売女に凋落するわけだ! まるで極上の餌を前にしてぶんぶん尻尾を振る愛玩犬のような顔だったぞ!? これから飾り物になるとも知らずになぁ! 今の貴様を見て、「
胸糞が悪くなる言葉の数々。耳を塞げないのが苦痛だった。
一方で、タンイェンが並べ立てる台詞に対する異議も心の中で持っていた。
――きっとリエシンも、心のどこかで分かっていたのだ。お母さんがもうこの世にいない事が。
ボクが【甜松林】で最初の夜を超えた翌日、リエシンが口走った言葉を思い返してみるといい。
『私の母が、娼婦だった頃に名乗っていた名前を教えに来たのよ』
その中に含まれていた「だった頃」という文脈に対し、当時のボクはひどく引っかかりを感じていた。
……あれは、もうすでにお母さんが死んでいると、心のどこかで確信していたからではないだろうか?
でも、多分リエシンはそれを信じなかった――否、信じたくなかったのだ。そりゃそうだ。自分の家族が死んだ事なんて、そうそう簡単に受け止められるわけがない。
だからこそ、彼女はボクを脅して従わせるなどという暴挙に及んでまで、その仮説が嘘であるかどうか確かめようとしたんだと思う。
――しかし、彼女に突きつけられた現実は、どこまでも救いのないものだった。
「ああああああああああああああああああっっ!!! 殺す!! 殺す!! 殺すっ!! お前だけはっ、お前だけは絶対に殺してやるぅぅぅぅぅぅ!!!」
リエシンは狂ったように激しく手足を足搔かせながら、本来の声質とはかけ離れたおぞましい声で吐出した。大きく見開かれた目はいまだ滝のように涙を流し続けており、充血が亀裂みたいに白目の上を広く走っている。まるで何かに取り憑かれたかのようだった。
冷ややかな笑みを崩さないいつもの彼女は、見る影もなかった。もし手足の動きが封じられていなかったら、真っ先に短刀を構えて刺しに行っていただろう。
叫び続ける彼女の顔を、タンイェンが愉しげに踏みつけにした。
「ククク。だが貴様の母親はなかなかに床上手だったぞ? 性技は言うに及ばず、俺が腰を打ち付けるたびにメス猫のような甘ったるい声を出すという、奉仕精神に富んだ女だった。あの夜は久しく燃え上がったよ。下賤な身なれど、男を喜ばす事に関してだけは一流だったわ。貴様もその娘なら【甜松林】でひと稼ぎできたんじゃないか? ハハハハハハハハハハハハッ!!」
「ああああああああああっ!!! タンイェン!! タンイェェェェェェェェェンッッ!!!」
潰れきった叫びを上げ、陸に上がった魚よろしく体を振り乱すリエシン。その顔に乗せた足をねじ込むようにして踏みにじるタンイェン。そんな二人の様子を無反応で傍観し続けている周囲の用心棒達。
ひとしきり足裏と冷罵で
「さて、そろそろ本題に戻るとしようか。もう一度言うが、『尸偶』の事を知った貴様にはこれからくたばってもらう。だがただでは殺さん。貴様ら二人は容姿だけはなかなかに美しい。特に
最高に嬉しくない容姿の褒められ方だった。
「……が、その前にこの馬鹿どもへ駄賃をくれてやらねばならんな」
タンイェンは周囲を囲う用心棒達へぐるりと視線を巡らせつつ、そう口にした。
何を言いたいのかはっきりしない、遠まわしな言動。
けれど、舐めるような視線をボクらの体へ走らせてくる用心棒たちを見て、今までと同じくロクでもない事なのだと容易に予想できた。
そして、その予想は確信に変わった。
「お前たち――その二人の体で遊んで構わんぞ。ただし『尸偶』にする材料だ。傷は付けるな」
瞬間、周囲の群がりから野太い歓喜がどよもした。
逆に、ボクとリエシンは蒼白になって言葉を失った。
「どうしてわざわざ
うそぶくタンイェンに、ボクは気を取り直して気丈に眼光をぶつけた。
「お前、どれだけ最低なんだよ……!」
「何とでも。これから死に行く者に余計な苦痛を与えてしまう無駄な行為だが、悪く思うなよ。この連中も共犯だ。なので時々こうして餌を与えねば逃げ出されてしまうのだよ。仮に逃げ出されても始末する事ができるが、手間でな」
なんてこと考えるんだ、この男は……。頭がイカれているとしか思えない。
ボクは今まさに思い知った。この男は、こちらの掲げる道徳や倫理観が全く通じない存在なのだと。
「いやぁ、助かるわぁ。最近女抱いてなかったからよ。これでスッキリできるぜ」
「ほんと、タンイェンの旦那様々だな。しかも相手は【甜松林】の娼婦ときたもんだ。あそこの娼婦をロハで抱かせてくれるたぁ、太っ腹どころじゃねぇな」
「そういや、前にやった女も絶品だったよな?」
「前って
「あいつだよ。右目に泣き黒子が二つある女」
「あーあの女か。確かにあいつはいい体してやがったなぁ。思わず順番無視して二回連続で
「最終的にはかわるがわる俺らの相手しすぎたせいで、セミの抜け殻みてーに放心してやがったなぁ。ウハハハハ!」
用心棒達は下卑た声色で、下卑た話に花を咲かせていた。
連中が誰の事を話題にしているのかは、言わずもがなだった。
「タンイェン…………貴方って男はどこまで腐ってるのよっっ!!!」
リエシンが憤怒の形相で金切り声を上げ、射殺さんばかりにタンイェンを睨んだ。
そんな彼女の言葉は、次のような一言でバッサリと一刀両断された。
「腐っているのは貴様だろうが」
リエシンは虚を突かれたような顔で押し黙った。
虫を見るような目でボクの隣の少女を下視しながら、タンイェンは傲然と続けた。
「【甜松林】の娼婦としてこの屋敷へ入り込み、母親の手がかりを探す――やれやれ、目も当てられないほど杜撰で運頼りな発想だな。普通に考えれば、こんな阿呆な作戦に取り合ってくれる人間などいる訳が無い。ならばこの
「っ!? そ、それは――」
頭をがばっと上げて言い返そうとするリエシンだが、途中で言葉に詰まってしまい、すぐにまた側頭部を床に寝かせた。反論ができないのだろう。本当のことだから。
「沈黙は是なり、か。いやはや、これは困ったものだ。赤の他人を不当な手段で従わせ、体を売らせ、泥棒の真似事をさせる。しかし自分は一切手を汚さずに高みの見物――さぁて? こんな輩に他人の悪事を正義ヅラで糾弾する資格が果たしてあるのかな?」
「…………っ!!」
ギリッ、という歯ぎしりの音が、隣からはっきりと聞こえて来た。見るまでもなく、リエシンが悔しげに切歯した音だ。こんな大悪人に、しかも自分の肉親を殺した男に言い負かされたことが、きっとたまらなく悔しいのだろう。
ぐうの音すら出なくなった。
とどめの一発とばかりに、タンイェンが軽蔑の語気で強く言い放った。
「――自分の行動を棚上げするなよ、
リエシンは魂を引っこ抜かれたように放心した。
表情は口を間抜けにあんぐり開けたまま、真っ白になって固まっている。目は未だタンイェンの方を向いてこそいるものの、前を見ようとする光が死んでいた。
まさしく心ここにあらずといった様子。
言葉尻を盛大に取られ、完全に論破された。
自分の目的は、母を探す事。ゆえに自分の行いに大義があると思っていたが、そんな綺麗事などなかった。むしろ、赤の他人に汚れ役を押し付けようなどと考えた時点で、自分は憎むべき敵と同じ位置に急降下していた――そんな純然たる事実を刃のように突きつけられたリエシンの今の心境は、一体いかようなものだろうか。
しかし、これだけは分かる。もう彼女は、堂々とタンイェンを糾弾することができなくなってしまったと。
抜け殻同然となったリエシンをタンイェンは鼻で笑い、告げた。
「せめてもの温情だ。貴様の骸で作った『尸偶』は母親の隣に飾ってやる。表情も喜色満面に形作ってな。良かったなぁ、これでまた親子一緒に暮らせるぞ?」
こんな悪意たっぷりの最低な台詞にさえ、リエシンはもう一言も反論しなかった。
彼女は今なお人形よろしく固まったままだ。これから起ころうとしている事を、因果応報と甘んじて受け入れようとしているように見えた。
「恨むのなら、家族愛などという幻想にうつつを抜かした己を恨むんだな。――もういいぞ。好きなだけ味わえ」
タンイェンのその発言を合図にしたように、周囲の用心棒たちは動き出した。
こちらへ向けて、一歩、また一歩と進む。まるで野ウサギをじわじわ追い詰めるかのように。
ボクらを囲う円状の人垣が、徐々に小さくなっていく。
情欲に澱んだ眼光が、いくつもボクらの肢体を照らす。
激しい危機感が、胸焼けのように腹から胸へせり上がってきた。
歯を食いしばり、必死に体を動かそうと試みる。しかし未だ麻痺した五体は、将たる心の発する指令から完全に耳を塞いでしまっている。それは気合いや根性では不可逆である、人体の生理的問題。
手詰まり――そんな言葉が脳裏を去来した。
ヤバイ。今回はマジで危険な状況だ。
打つ手が全く無い。
このまま、こいつらなんかの餌食になるのを待つしかないのか?
どう考えても、ボクとリエシンだけの力で乗り切れる訳が無い。
誰か他の人の力が必要だ。もしくは、奇跡が起きるのを期待するしかない。
どちらも限りなく望み薄なのは共通している。
けど、もはやこの状況、祈るより他に出来ることが存在しない。
だからボクは、最後の悪あがきとして、祈った。
誰か助けて――と。
「だらっしゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
途端、そんな力強い叫びとともに、正面玄関の両開き扉が勢いよく開け放たれた。
若い女の声だった。それも、妙に聞き覚えのある。
ボクらへ向かっていた用心棒も軒並みその足を止め、正面玄関の方を向いた。ボクも連中の隙間から、同じ方向を覗き見る。
全開となった木の両開き扉の前には――眼鏡をかけた二人の女性が立っていた。
一人は女性というより、少女という表現の方が適切な小柄な女の子。群青色のワンピースを着ており、ミディアムショートほどの長さの髪を後頭部で束ねたポニーテール。眼鏡越しに、勝気そうに吊り上がった大きい瞳が覗いていた。
もう一人は、大人になりたての少女といった感じの似合う女の子だ。長い髪を三つ編み二本に束ね、その二束はB系ファッションのようにゆったりした長袖の肩にかかっている。スカートの丈は足首に届くほど。穏やかながら意思の強さを感じる眼差しは、さっきの女の子とお揃いの眼鏡のレンズに覆われていた。
見た事の無い風貌。
しかし次に発せられた言葉を聞いた瞬間、その正体を容易に解すことができた。
「お姉様っ!? どこですか!? いたら返事してください!!」
ポニーテールの娘が、切羽詰ったような声で大広間へ呼びかけた。
ボクは驚愕する。
聞き間違えようはずがない――その声は、明らかにミーフォンのものだった。
今一度、その二人を注視した。妙な格好こそしているが、顔かたちから分かった。ポニーテールの娘にはミーフォンの、三つ編みの娘にはライライの面影が見て取れる。
「ミーフォン!? 君なのかい!?」
その二人がここに来たという事実に驚きながらも、ボクは先ほどの呼びかけに呼応する形で声を張り上げた。
「お姉様!? お姉様なの!? どこですか!?」
ミーフォンは焦った様子で大広間をキョロキョロ見回す。程なくして、用心棒たちの間隙を介して二人の視線がぶつかった。
ボクの状態を視認できたのか、視線の先の双眸が大きく見開かれた。
そして、開かれたその瞳が鋭く細められたと思った瞬間、遠くに小さく見えていたミーフォンの姿が一気に大きくなった。
高速移動の歩法【
「「「ぐあああああああ――――!?」」」
かまいたちのようなひと振りは、最初に二人の用心棒の腹へ深々と食い込んだ。それからも鉄棍は勢いを持続させ、直撃した二人の横に立っていた者たちもまとめて横へ薙ぎ倒す。
バラバラと真横へ転がされる用心棒達。環状の人垣の一部が削り取られ、見通しが格段に良くなった。鉄棍を振り抜いたミーフォンの姿も、はっきりと目に映る。
薄く鋭く細められていた彼女の目が、再び大きく開かれる。その中に、囚われの身であるボクの姿が鏡のように鮮明に映し出されていた。
今一歩鋭く踏み出し、ボクの元へ寄るミーフォン。
落とし穴に落ちたような速度で素早くしゃがみ込むと、ワンピースのポケットの中に入っていたモノを取り出し、嬉々として見せてきた。
「お姉様! やりました! コレ!」
ミーフォンの手にあるソレを見て、ボクは心臓が止まりそうなほどの衝撃を受けた。
五指を除いた手ほどの大きさの、金属の円盤。まばゆい朱色の光沢を持つソレの表面には、燃え盛る羽毛と双翼を持つ伝説上の鳥「朱雀」の意匠が刻印されている。
まるで生き別れの肉親と数年ぶりに再会したような気分になった。涙さえ出てきそうだ。
そう。まごうことなき――【
手足が麻痺していなかったら、餌にがっつく犬猫よろしく飛びついていたに違いない。
「こ……これ、どうしたの!?」
「取り返したのよ」
ボクの疑問に対し、簡潔極まる答えを返してきたのは、ゆっくりとこちらへ歩を進めてきているライライだった。二束の三つ編みとゆったりした衣装を揺らしながら裕然と歩み寄ってきて、やがてミーフォンの隣で止まる。
「取り返したって……簡単に言うけど、どうやって?」
二度目の質問を投げる。
「そうね、ちょっとだけ長くなるけど――」
ライライはそう前置きをすると、【吉火証】を見つけるに到るまでの経緯と苦悩、そしてボクがこの屋敷にいる事を割り出した方法を、懇切丁寧に説明してくれた。
「――【吉火証】を奪還した後、私たちはあなたにその事を伝えるために、急いで【甜松林】へ赴いたわ。それで「
「……もしかして、
「そう! そんな名前だったわ。彼女からこの屋敷の場所も聞いて、全速力でここまで走って来て――現在に到るというわけよ」
ライライからの説明は以上だった。
今
「そ、それよりお姉様! まだ初めては無事ですか!? 姦通してませんか!?」
ミーフォンが鬼気迫る表情を近づけて訊いてきた。
いや、姦通って――そう突っ込もうとして、やめた。間近にある彼女の眼差しが、どうしようもないほどの不安感で揺れているのが分かってしまったから。ここで茶化すような事を言うのは良くない。
ボクは努めて穏やかな笑みを浮かべ、告げた。
「結構危なかったけど、大丈夫だよ。まだ綺麗な体です」
瞬間、ミーフォンの瞳の中にぶわっと透明の液体――涙がたくさん蓄えられた。
大粒の涙滴が崩れるようにいくつも目元から溢れ出し、両頬を伝い、顎先から下へ落ちる。
「よ……よがっだよぉぉぉぉぉ!!」
ミーフォンは横たわるボクの脇腹へ飛び込むように顔を押し付け、泣き叫んだ。薄手のワンピースが湿り気を帯びていく。
唐突な号泣に動揺するよりも先に、あるものに目が止まった。
遠くからでは分からなったが、間近から見ると群青色のワンピースの所々に土埃の汚れや皺が見られた。肌もうっすら汗ばんでおり、髪もややボサボサだ。その有様を見ただけで、彼女がこれまでに重ねた苦労の一端を嫌でも察することができた。
ライライと目が合う。何も喋らず、苦笑と頷きだけを返してきた。「好きにさせてあげなさい」と言わんばかりに。
「うええええええん……!! あらひ……あらひ、がんばったんれす……! おねえさま、どうなってるのか、ふあんれふあんれ……ひぐっ、それでもいっしょうけんめ、がまんひて……それへ…………ふぐっ……ふえええぇぇぇぇぇんっ!!」
ろれつの回らない言葉が途中まで続き、後は号泣ばかりが繰り返された。
胸の奥がじんわりと熱を帯びて揺さぶられるような、そんな感傷を覚える。
撫でてあげたかった。抱きしめてあげたかった。けれど今のボクは【麻穴】のせいで動けず、それはできない。もどかしかった。
「……ありがとう。二人とも」
せめて、ありったけのいたわりの気持ちを込めて、そう静かに言ってあげた。
この二人が付いて来てくれて本当に良かった。もしライライとミーフォンがいなかったら、ボクは【
――しかし次の瞬間、その気持ちは無事にこの屋敷を出られた時に抱くものであると思い知らされる。
「……外の奴らがここに大勢集まっていたせいで、屋敷周辺の警備が手薄になっていたか。おかげでとんだゴキブリの侵入を許したようだな」
頭上から降ってきたタンイェンの言葉を耳にしたことで、再び心が現状に引き戻される。
用心棒の一人が両手に持った双刀の刃同士をせわしなく擦り合わせながら、
「で、タンイェンの旦那? この女どももやっちまっていいんで? もし許してくださんなら、そっちの乳のでけぇ女がいいな」
「反抗の色を見せたら好きにしろ。もし何もしなさそうなら帰してやれ」
タンイェンは遠まわしに、ミーフォンとライライに二者択一を突きつけた。
無関係を決め込んで去るか、それともボクを連れて行くために抵抗するか、その二択を。
「
ライライが持ちかけたのは、その二択の中間ともいえるものだった。
なんとなく分かる。これは「ボクとリエシンを連れて帰る」という選択肢があるかどうかの、確認のための問いなのだと。
タンイェンは飛んできたハエを叩き落すようなニュアンスで、あっさり否を告げた。
「ダメだな」
「即答ね。どうして?」
「貴様にそれを教える義理はない。この娘共には大事な用がある。何も見なかったことにして早急に立ち去る事をおすすめしよう」
「両手両足を拘束する必要のある用って、一体どんなものなのかしらね。私気になるわ」
皮肉で尖ったライライの言動に、タンイェンが眉をピクリと動かす。
「それにシンスイ、あなたさっきから少しも体を動かしていないけど、もしかして【麻穴】でも打たれたせいで動けないんじゃないかしら?」
「う、うん。実はそうなんだ」
「――だそうよ。友達を拘束するに飽き足らず【
周囲から、いくつもの小さな金属音が多重して聞こえてきた。用心棒たちが武器を構えたからだ。
「……愚かな選択をしたな。友情などに踊らされて、前途ある若い身を火にくべるか」
無数の白刃に囲まれるライライとミーフォンへ、冷ややかな眼差しを送るタンイェン。
「立ちなさい、ミーフォン。来るわよ」
その言葉を一顧だにせず、ライライはボクの脇腹に顔を埋めているミーフォンへそう促す。
「……分かってるわよっ」
ミーフォンは腕で目元を数度ゴシゴシ擦ると、勢いよく立ち上がった。
周りには人の壁。刃の羅列。悪意の高波。
二人はそれに臆するどころか、自らを鼓舞するように鉄棍の先で、靴裏で床を叩いた。二つの音が寸分のズレもなく重なる。
二人の気持ちは今、きっと一つになった。
「「――この