もちろん皇国(日本)もこの時点ではマーシャル諸島やサイパン島までを領土にしていません。
今も昔もあまり地理に詳しくない人々は(合衆国人自身を含めてだが)摩天楼が並び立つニューヨークを合衆国首都と思い込んでいる。
もちろんそれは違う。ワシントンDCが首都である。
ハイライズ── バベルの塔のような高層ビル群はなく、サーチライトで雲にサインを描く保険会社も、でかでかと船体にコピーを描いた飛行船もない。風景そのものは細部を除いて協商連合や連合王国と変わらなかった。
だが、ここを流れるパトマック川の向こう側は独立南部連合である。別にフェンスや壁で覆われているわけではないが、敵対国家であることは違いない。
国境で飛行船を飛ばすのは危険すぎる。高層ビル群は戦時にどんな面倒を引き起こすかわからない
(高層ビル群を要塞にしてしまえというアイデアもあったが)。
広い道路網──主要な軍事用道路と難民脱出道路に分類されていた。
広い公園を作って市民の憩いの場に── 戦時には両国同意の下に戦時安全地帯になる
中産階級用アパート──戦時に備えた備蓄倉庫が存在する
世界で最も優れた消防システム──すくなくとも開戦後3日間は維持される
この国の首都がホワイトハウスを中心に「古き良き合衆国」を演出しているのは南部人への当てつけと、ここが戦場になるという未来の現実からだった。
なお欧州戦争前は首都での防衛が想定されていたが、観戦武官その他が持ち帰った欧州での戦訓から、開戦3日目に合衆国大統領は臨時首都へ移動するとシナリオは書き換えられていた。それどころか、非武装地帯の設置まで議論され始めている。
※※※※※※※ ※※※※※※※
秋のワシントンは曇り空が多い。特に今年は秋の冷え込みが早くきたようだった。まだ9月の頭なのに肌寒い日が続いている。
ワシントンの大統領官邸。ホワイトハウスの一室にダイニングルームと呼ばれる部屋がある。
文字通りの意味ではなく、各国の大使と高官が雑談を行うための部屋だ。
「なるほど。貴殿は秋津洲皇国が南洋諸島を手放す事はないとお考えなのですな?」
合衆国政府のランニング国務長官は、目の前の帝国大使を穏やかに見据えながらゆっくりと問いかける。
向かい合い、腰を下ろした帝国大使は小柄で、帝国人がこれこそ外交官と信ずる肉体的美質を持っていなかった。唯一それらしいのは「皇帝よりも偉そうに見える」と言われる口ひげだけ。コメディ映画の役者と言われてもおかしくはない見た目だった。
だが、能力に全く不足はない。
リンドバーグ一派─ ドードバード海峡横断飛行の英雄を中心とした孤立主義者の一団
帝国貴族協会─ 合衆国へ移民した帝国領邦貴族の末裔たちの友好団体
などなど、親帝国系政治団体への工作によって、合衆国における親帝国世論作りに邁進していた。
彼の工作によって帝国への義勇兵派遣が達成されていたから、彼はこの戦争において帝国三軍が果たした役割よりも大きな成果を挙げているのかもしれない。
そして、今帝国大使はより大きな取引を行なおうとしている。
「さよう。そしてそれは、貴国の太平洋に於ける政策、特に西太平洋地域の中立化にとって大変大きな脅威になると考えられます」
「ほほう、なにゆえ?」
ランニング国務長官は面白がるように言った。もちろん、本気ではない。この帝国大使がどんな返答をするのかが気になるからだ。
「現在、マリアナ諸島をはじめとする帝国南洋領─ 太平洋上の我が帝国領土は、ことごとく皇国の手によって占領されております」
(大使は極東にある大陸領土と沿岸部の租借地については言わなかった。そこは現在秘密裏に大陸政府(国民革命軍政府)と秘密交渉が行われている)
言いにくそうに口ひげをもごもごと動かし、よろしいですねと続ける。
「まあ、確かにあの島々は我が帝国の領土なのですが」
ここで言葉を切り、続く言葉は一気に言った。
「ドードーバード海峡で帝国の運命を賭している今となっては、もはやどうでもよろしいのです」
何気ない一言だったが、ランニング国務長官にとっては耳を疑う一言だった。
帝国が、領土についてどうでもいい。と言ったのだ。
大金をはたいてイスパニアから購入し、連合王国との衝突さえ抱え、さりとて資源もなければ海軍根拠地も作っていないため、ほとんど負債となっている南洋領。それでも帝国の領土には違いがない。それを、どうでもいいだと?
「それに較べ、あの島々が皇国の手にあると言う事は貴国にとってゆゆしき事態を招きます」
大使は少し横を向くと、壁に貼ってある太平洋の地図を見た。古地図風で、枠の外には大蛸やリヴァイアサンがいるが、国境は現在のそれだ。ランニング国務長官も続けて顔を向ける。
太平洋には色とりどりの点があり─列強の植民地を示す。中部太平洋には合衆国海軍最大の拠点の一つ、ルルハワ諸島がある。
そこから西に目を向ければ、帝国南洋諸島、同連合王国王室領・海洋首長国
少し下がって下から順に、オーストラシア連邦、ヌサンタラ王国(秋津洲名インドネシア)、ボルネオ王冠共和国、サラワク王国、イスパニア領フィリッピン、連合王国領大マラヤ連合、共和国領インドシナ。
そしてフォルモサから大陸沿岸の条約都市国家郡。琉球列島、秋津洲列島へ続く。
「貴国が太平洋上に保持しておられる主要領土はマリアナ諸島のグァム、中部太平洋のハワイ諸島ですな」
正面に向き直り、帝国大使が続けた。帝国の統一によって、低地地方バタビアは帝国領になり、東南アジアにあった島嶼国家の多くは独立を果たした。帝国が統一されるときの代金と言ってもよい。
「他にもウェークやミッドウェイなど色々ありますが、とりあえずはグァムに焦点を当てて話を進めましょう」
帝国大使は確認するように続けた。このようなことは、合衆国国務長官に改めて言うまでもない。だが、ことの重大性が彼に言葉を紡がせる。
「まずグァムですが、この島を除く周辺諸島の多くは帝国の領土であり、現在は皇国軍が占領しております。もし、皇国が占領した島々に前進根拠地を設営し、グァムを攻撃したなら無防備のグァムは瞬く内に陥ちるでしょうな」
大使は小さな目をショボショボさせた。アイコンタクトを送ったつもりらしい。ランニング国務長官はうなずく。
「いかにも。むろん、それを許すことはありません。条約によってグァムは要塞化が出来ませんが、合衆国海軍は常に備えています。ですが…… 非常に無防備であることは確かです」
「ええ、そして、西太平洋の中立化は貴国にとって非常に重要なものです」
『西太平洋の中立化』現在の合衆国の太平洋戦略の基本だった。
合衆国の仮想敵国は2つ。まず、秋津洲皇国・連合王国の海洋国家同盟。そして分離した独立南部連合だった。
もちろん陸軍の主敵は南部連合であり、海軍の主敵は連合王国・秋津洲の海洋同盟である。
西太平洋の中立化は前者の海洋同盟への対抗策だった。ここで重要なのがルルハワとフィリッピンである。
まず、ルルハワを確保しているなら、東太平洋について問題はない。
問題は太平洋の西側だった。ここに合衆国は適当な基地を持っていない。ルルハワを併合(連合王国からすると軍事占領)した際の条約によって、ルルハワ以外の島々の要塞化は禁じられていた。そもそもそれ以外の小さな島は軍事拠点にならない。という理由もある。
例えばイスパニア領フィリッピンが合衆国領土ならば─ 歴史上、イスパニア・合衆国危機や領土交換などで手に入る可能性はあった。 太平洋の軍事バランスは大きく異なっていただろう。大陸市場に進出できたかもしれない。
あるいは、南北新大陸の地峡部にとあるフランソワ人が構想した運河が出来ていれば。合衆国は両洋を支配する海洋国家になっていた。
否、そもそも南北戦争が起きなければ。
全てが現在では「歴史のもしも」でしかない。
「更に皇国はフィリピンとルルハワの中間点に位置するカーリン諸島とマーシャル諸島を占領しているので、グァムが陥落すると貴国はルルハワ以外の全ての拠点を失い、東太平洋も危うくなります」
大使に言われなくとも、既に合衆国海軍の一部では対秋津洲強硬論が沸き上がっており、国長官も一抹の不安を抱いていた。
特に西海岸を基盤とする議員たちは海軍の後援者となり、盛んに海軍力拡張を唱えている。
だが、陸軍そして合衆国東海岸の諸州では相変わらず独立南部連合を主敵と考えていた。海軍の中にもこの機会に地峡地帯を制圧し、カリブ海の覇権を確立せよという一派もいる。元々あった対立が、更に深まったと言って良い。
ここまでの事情は帝国大使もよく知っているはずだった。むしろ、彼がそれを煽っていたのだから当然ともいえる。
「いかがでしょう?利害が一致するのであれば、我が帝国としては貴国と太平洋の領土問題について交渉する用意があるのですが。」
何気なく、しかし、鋭く切り込む大使。明らかに、雑談の領域を越えている。
帝国政府は本気なのか? 国務長官は衝撃を顔に出さぬように言葉を紡いだ。
「つまりは…… このまま『好意的中立』を続けろと?」
「さよう」
叩けば響くような、簡潔な返答
「……その見返りは?」
「南洋領の一部割譲。そして、一部先端技術を開示いたします」
「ほう!帝国が領土を合衆国に!そして技術を!」
予想外の返答であった。
帝国が、連合王国へ向けて盛んに航空作戦を行っていることは当然知っていた。
合衆国義勇兵団のレポートによれば、帝室と議会はまだ大いに乗り気であり、航空艦隊は前のめり。海軍も一連の作戦により自信を持ち始めたらしい。
だが、現実に上陸できるか?は大いに怪しい。すくなくとも、合衆国義勇兵団のレポートはそう示している。
帝国は、やはり手詰まりに陥っているのか。あるいは更に軍事援助を引き出し、上陸作戦を完遂するのか。国務長官にも判断がつかない。
「─仮に、貴国が参戦し勝利を収めても貴国の国益とはなりますまい」
国務長官の短い沈黙に対して大使は答えた。どちらで参戦するかは言うまでもない。
「どうあっても、欧州の結果にかかわらず、皇国が手に入れた南洋諸島を手放す事はないのですから。……そして、帝国にはこれを取り戻す手段はありません」
合衆国・帝国同盟─ ステイツ・ゲルマン同盟とでも言うのか。それが成立しない限り、帝国艦隊が太平洋で皇国海軍に勝つ見込みはない。
仮にその同盟が成立して、海洋同盟を打ち破れば(海軍力と太平洋での活躍から考えて)どのみち南洋諸島は合衆国のものになる。帝国・合衆国ともに意味のない仮定だった。
「恐らく連合王国は同盟のよしみで太平洋の皇国領土に反対はしないでしょう。彼らにとっても利用できる基地になりますから」
「なるほど…… 一理あります。そうすると、非常に魅力的な提案に聞こえますね」
筋は通っている。合衆国にとって損なことはない。ただ、好意的な中立を、極端な話、戦争に参加しないというだけで領土が手に入るのだ。
帝国の旗色が悪くなっても、合衆国は善意の第三者として振舞い、領土を手に入れることが出来る。
そういえば、もう一つあったな。国務長官は大使の言葉を思い出していた。
「技術の開示。とおっしゃっていましたが、具体的には貴国は何を開示するおつもりですかな?」
「……これは、最高機密に属するのですが、ロケット関連の技術になるかと」
「ロケット技術、ですか」
「ええ、少々専門的すぎて私の口からは…… ああ、ジーゲルというものに説明させます」
今度こそ、ランニング国務長官は驚愕した。
レポートにあった帝国の秘密兵器。共和国軍司令部を吹き飛ばし、更に軍港を吹き飛ばした、各国の10年は先をいく通称『ジーゲルのV兵器』。そのロケット技術だと。
合衆国との技術交流でも、建前上は存在しないことになっている超技術だった。
それを、こうもあっさりと開示する?
「国務長官閣下、皇国が太平洋へ進出することがいかに危険か。よくお考えください」
驚愕をよそに、帝国大使は畳み掛けるように言った。
この日をもって、欧州戦争におけるさらなる協力関係を含めた帝国・合衆国間の秘密協定の交渉が開始された。
高度技術関連のそれはのちに『ペーパークリップ協定』と呼ばれるようになる。
遂にあのMADな科学者の兵器が合衆国へ、というか合衆国参戦フラグがなくなります
元ネタは史実のナチスドイツの科学者をアメリカに連行した「ペーパークリップ作戦」からです。
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