夏の大陸西岸部の天気は普段通りになったようで、曇り空から一転して太陽がみえるようになった。
ターニャに海から引上げられたキャシディ中尉は、とりあえずの集合地点となっていた休業中のコテージに移動した。飛行には何の問題も無かったが、不時着水後に飛ぶと演算宝珠にどんな不具合があるかわからない。だから、これは訓練における通常の安全手順だった。この点は合衆国も帝国も変わらない。
怪我がないことを確認されたキャシディ中尉は、他国の軍人に言うにしても馬鹿に丁寧な口調で、おまけに全く子供らしくない口調でしばらく待機しておいてほしいという旨を伝えられたあと、建物の前に降ろされた。
あのターニャ・デグレチャフなる大隊長殿は、やはり子供ではないか? という疑念を確信に強めながら、彼はコテージの入り口へ向かった。
コテージというのか海沿いの小さな宿屋というのか、ともかく、入ってすぐのホールには下士官がおり、彼から改めて外傷がないか確認を受けるとタオルを渡され「中尉殿、とりあえずあちらで着替えて下さい」と中に案内された。
内装はフランソワらしく美しかった。規模からして家族経営のようだがオーナー一家は疎開でもしたのだろうか。などと考えてながら案内された部屋の中に入ると、妙に明るかった。
天井を見ると、見事にぶち抜かれて青空が少し見えている。
なるほど、たしかに営業再開は遠そうだ。しかしあの下士官── キャシディ中尉も流石に帝国の階級事情まで把握していなかったが、話し方から徴兵上がりだろうとあたりはつけている── 分かっていて案内したなら…… いや、帝国軍流のジョークか。
例えば誤って別の空母に着艦した艦載機にふざけたペイントをするような。偏見かな。そもそもそんなユーモアが帝国にあるのだろうか。帝国のジョークは世界一つまらないというが。
そんなことを考えながら、袋に入った服に着替える。渡された服は帝国軍のものだった。できればシャワーを浴びたいし、ブーツは濡れたままだから不快だが、今は仕方がない。
着心地は意外なほどよかった。合衆国のそれは耐久性と耐火性に優れているが、軍用ということを差し引いても着心地は良くなかったからだ。
できればこの服も持ち帰りたいとキャシディ中尉は思った。(被)撃墜記念の品というわけではない。彼は帝国軍のあらゆる装備と戦訓、訓練について吸収するつもりであったから、例えば化学繊維を使用しているのか、ならば耐火性能はどうなのだろうか。
なるべく天井の穴を意識しないように、そして半分廃墟のような部屋を意識しないようにしながら、確認しなければならないことを考えていた。
着替えてホールに戻ると、件の下士官がコーヒーを入れていた。よくお似合いです中尉殿と言いながら、こちらにカップを差し出してくる。
「少し濃い目に入れました。アイリッシュ方式ですよ」
ありがとう、と受け取ってどろりとした液体を飲んだ。舌が火傷しそうな温度だが今は心地よい。実家で飲むアイリッシュコーヒーほどではないが、かなり濃かった。
「……美味しいな。ありがとう」飲んではじめて自分が体の芯まで冷えていたことにキャシディ中尉は気がついた。夏の海でも体は思った以上に冷えていたらしい。「しかし、君、よく僕がアイルランド移民出だと気が付いたね」
「ああ、気に障ったのなら申し訳ございません。キャシディというお名前に見覚えがありましたから。自分の親戚に合衆国に移民したものがいたので…… 」
いや、そうじゃないよ。ここで国のコーヒーを飲めるのは、最高だ。そう答えながら、この下士官はなかなか出来る奴だなと思った。この男はおそらくジョークであんな半分廃墟の部屋に案内したりしないはずだが、とも思っている。
ここに座ってもいいかな、と言いながらキャシディ中尉はホールに置かれていたベンチに腰掛けた。
「失礼ながら中尉殿…… 自分は無線を確認していましたが、その様子だとずいぶんと手荒くやられたのでしょう?」
「全くだよ。やはり、銀翼というのは凄まじい。話に聞いた以上だな」
ちょび髭の下士官はそうでしょう、そうでしょう繰り返して言った。なんといっても生きてあの勲章をもらえる方は滅多におりませんから、うちの大隊長殿は素晴らしい方です。
そう言ったあとすぐに、いや、中尉殿も、です。大隊長殿とあそこまで渡り合える方はほとんどおりません。と付け加えた。
「中尉殿は「ルシタニア組」の中では一番のエースなのではないですか?」
「そうありたいと思っているよ。大隊長殿に叩き落されてから、そう言ってもらえるとなかなか嬉しいな」
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合衆国とキャシディ中尉に転機が訪れたのは欧州での戦争が始まってしばらくたってからだった。
合衆国はもはや国是となっていた「孤立主義」によってこの戦争を傍観者として過ごすつもりであった。が、どうも戦争の様相が想像と違っていた。
航空機や魔導士の運用や装備の発展は著しく、合衆国はそれを取り入れるべきではないか、いやいや、いっそ若者たちに実戦経験を積ませるべきという議論が起こったのだ。
具体的には個人の資格でパイロットや魔導師を送り込み、実戦に参加させようというものだった。装備ごと「貸与」せよという過激な提案もあった。
とくに、陸海軍の航空部隊が乗り気であった。海軍は陸軍のように常に敵と向かい合っているわけではないから、実戦経験は何としても欲しかったし、陸軍は全く逆の理由で実戦経験を欲したから、かなり積極的に運動を行った。
その実現は国内事情からかなり困難であったが、連合王国と秋津洲皇国の参戦によってこの戦争が長引くことが確定すると、合衆国は個人が旧世界での戦争に参加することを許可した。
父親からの情報により、誰よりも早く義勇兵について知ったキャシディ中尉は、ありとあらゆるコネを使い、旧世界行きのチケットを手に入れた。
後にこのパイロットや魔導師の一団は輸送に使われた豪華客船の名前から「ルシタニア・クラブ」と呼ばれるようになる。
キャシディ中尉は名誉あるクラブの一員として旧世界にいた。
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「ところで君のところの大隊長殿はずいぶんと若く見えるが──」
と言いかけて、彼はこの気のいい伍長が奇妙な顔をしたことに気が付いた。帝国人の表情を読むことに慣れてはいないが、彼は笑いを押し殺しているようだった。すみません。伍長はまた謝った。いえ、帝国人でもそう言う方が多いのです。合衆国人のあなたなら当然でしょう。
「若いなんてもんじゃありません。あなたのお国だとジュニア・ハイ・スクールも卒業していない年齢ですよ」
は?という声が出なかったのは、これが質の悪い冗談ではないということをおぼろげながら知っているからだった。帝国人は魔導師適性のある人間を片端から軍務に投入しているという話だ。だが、まだ15歳にも達していないというのは驚愕だった。
信じがたいな。と声音が冷えないように注意して、なるべく『半信半疑に聞こえるように』続けた。
「その言い方だと12、3歳だろう。たしかに魔導師の出世は早い方だが、いくらなんでも若すぎるな」
なあ、どうだろうと少し踏み込んでみたとき、伍長の目がほんの少し揺らいだ。何かを知っているようだったが、すぐ揺らぎは消えた。
「まあ、自分も詳しくは知りませんが、大隊長殿がおっしゃるには魔導師適性が高いと稀によくある話だそうですよ」
「稀によくあるねえ…… そういうことにしておくかな」
その後も迎えのトラックはなかなか来なかった。無線で連絡を取るとおかしな場所に不時着した──命に別条はない 人間を拾って大回りしてくるからだという事らしかった。
その後色々と話したが、この妙に言葉が上手い彼は陸軍の伍長で、前職は建築模型作家兼イラストレーターだったということも話してくれた。
「……大隊長殿は厳しい方ですが、芸術に関心があるそうで、自分が美術学校に落ちたと聞いて何故か親身になってくれたのです」
「意外だな(おっと失礼)アディは画家になりたいのか?」
アディ── アドルフ・ペツェル伍長は恥ずかしそうに、まあ昔の話ですといった。
そんな話をしていると、やっと迎えのトラックがきたため、キャシディ中尉は伍長と別れて、基地に戻っていった。
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203大隊と「お客様」である合衆国義勇兵団の仮駐屯地はブレスト軍港港湾からやや離れた場所にある。森に隠れてここからでは海は見えない。
全体ブリーフィングは彼と同じく海に落ちたものや、上手く付近に着地出来たもの全員を回収した後だったから、またキャシディ中尉は待ちぼうけをくらうことになった。
その間に彼が203大隊を観察して気が付いたのは、下働きの兵士や下士官が部隊規模の割に少ないということだった。基地内では掃除や洗濯を行う軍属がいたが、それ以外については士官も協力して行っていた。
基本的に帝国の航空魔導師は士官である。キャシディ中尉は帝国の士官は汚れ仕事をしないと聞いていたから、これは新鮮な驚きであった。
講堂には2種類の人間が入ってきていた。キャシディ中尉が軽口を叩ける人間と、礼儀正しく振る舞うべき人間だ。
色分けするなら、それは帝国軍の緑の飛行服と、合衆国陸海共通飛行服であるカーキ色の飛行服を着た人間だった。帝国人は緑で、合衆国人はカーキ色。もちろん、例外となる人物もちらほら見受けられた。皆キャシディ中尉と同じ海水浴組であった。
「ようジャック、ずいぶんと似合っているじゃないか」
「親切な人がいて助かったよ。濡れ鼠じゃ風邪ひいちまうからね」
大隊長殿、ご入室されます。という合図とともに、ジャック・キャシディ中尉が海に叩き落されて約3時間後、全体演習を終えての講評が始まった。
アドルフ・ペツェル伍長……アドルフ・ヒトラー、に限りなく近い人。ただしこの世界では母の姓を名乗っています。性格もまとも
「この世界で美大落ちはヤバい」というターニャの発想のもと大隊の手元に置かれています。
適当なところでパスする予定でしたが、語学に堪能なこの世界のチョビ髭は人的資源の有効活用として合衆国人のお世話役になりました。