「比企谷、私が授業で出した課題はなんだったかな?」
「確か、プリントの上部に書かれているはずですが?」
俺は課題のプリントを持って呆れている平塚先生の質問に、質問で返した。
正直なところ平塚先生がなにを言いたいのかは分かるが、素直に応じる気も義務も俺にはない。そもそも、こうして呼び出されたこと自体から俺はイラついている。
「そんな事は百も承知だ! それでもなお私は訊いているんだ!」
「いや、分かっているんならわざわざ訊く必要はないでしょ。それより、さっさと帰りたいんですけど」
などと、少々煽り気味な言葉を口にして見れば、平塚先生の顔がみるみる鬼のような形相へと変わっていった。
「貴様、教師を舐めているのか!」
「いやいや、舐めるわけないですよ。何を触ったか分からない他人なんて、汚くてとてもとても」
今度は顔を真っ赤にさせ本当にでっかい角が生えてきたのかと思うくらいに髪を逆立てるような雰囲気を纏いだした先生は、静かに右手を腰につけて力を溜めると撃鉄が下ろされた拳銃の銃弾のように俺の顔面目がけて放たれた。
「危ないですね、メガネが壊れたらどうするんですか」
「な、なん……だと……」
顔面に向けて放たれた拳は空を切り、勢いをつける為に立ちあがった先生は唖然としてそのまま立ちつくして俺の方に驚愕した表情を向けてくる。
まぁ、俺の運動神経が悪くない故に回避は簡単だった、と言いたいところだが実のところ思った以上に拳は早かった。ならどうして避けることができたのかと言えば、座っている人間がどんなに力を込めたとしても、立っている時に比べればその威力は下がる。それに加えて狙いが顔面ということは、避ける範囲が少なくて済む。
確か、故事というか古文に似た話があったな。えっと、弓の名手でも半身になった人間に弓を当てるのは難しいって話だったはずだ。
ああ、それと、俺がかけている眼鏡はレンズが入っていないからそこまで危なくは無い。フレームだけでも高いけど。
「先生、いきなり殴りかかるなんてのは、教師としてどうか逆に訊きたいですね」
「そ、それは、貴様の態度がきに……教師にしていいものではなかった故の指導だ」
少々苦々しい表情を浮かべながら拳を引っ込めて、椅子に座った。
おい、この教師、いま気にくわなかっただとか気にいらなかったとか言うつもりだっただろ。何でこんなのが教師としてやってこれてんだよ。
「ゴホン、話を戻すぞ。それで比企谷、お前はこんな犯行声明じみたものを書きあげているんだ? テロリストなのか? バカなのか?」
幾分か頭を冷やした先生は俺のプリントをひらひらと揺らしながらため息をつく。
「テーマに沿った作文だと思いますが?」
「これのどこが『高校生活を振り返って』になるんだ!」
机の上にプリントごと叩きつける。大きな音が職員室内に響き、他の先生たちが顔を向けてきた。ただ、俺の顔を見た瞬間すぐに納得したような表情を浮かべるとすぐに興味を失ったようで元に戻っていった。
「振り返ってますよ、高校生活。振り返った結果、こんな感想をいだいたわけです。何も間違ってはいません」
「普通、こういうものは自分の生活を省みるものだろう」
「へ~そう言うものですか。でしたら書くことは一切無いですね。白紙で出せばよかった」
「なに?」
「そりゃそうですよ。入学式に事故に遭って数週間入院して、ようやく学校に来れたかと思えばすでにクラスのグループは固定されていて、そこから俺が馴染めるわけないですよね。
それを踏まえたうえで、先生はなにを書きますか? いや、なにが書けますか?」
ま、それでなくても一人でいただろうがな。
渋い表情と青筋を浮かべて黙っている平塚先生は少し低い声で、
「小僧、屁理屈を言うな」
と、脅すように口を開いた。
「屁理屈だろうと理屈は理屈ですよ」
即答で返した俺の言葉に再び拳を握っていたが、すぐに拳を解いて胸ポケットからたばこの箱を取り出した。箱から一本煙草を取り出し、口に加えると自然な動作で火をつけ冷静さを取り戻ししていた。
「比企谷、お前は部活をやっていなかったな」
「なぜ今そんな事を聞くか分かりませんが、放課後は用事があるので部活をしている暇はありません」
「……友達とかはいるか?」
「俺の返答が聞こえているか分かりませんが、学校でという意味ならいません。ただ、学校と関係ないところではそれなりに」
なぜか、疑うような目をこちらに向けてくる。
「比企谷、そんな嘘をつかなくても私はちゃんと分かっているぞ。お前のように腐った目をしている奴に用事も、友達もいないことは明白だ」
あ?
「よし、こうしよう。レポートは書きなおし。それと、今までの態度に対してのペナルティを与える。内容としては奉仕活動をしてもらう事になるだろうな」
「断りますよ。言ったはずです、放課後は用事があると」
「ついてきたまえ」
そんな俺の言葉には耳を貸すことなく平塚先生は灰皿に煙草を押し付けて立ち上がり、俺の腕を掴んで職員室を後にした。
ドナドナ、ふと俺の頭の中にそれが流れてきた。この光景をはたから見れば、売られていく子牛のように見えただろう。
この間、俺は必死にこの手を振りほどこうとしたが、異様なほど力が強く振りほどくことができず、ならば言葉で抵抗を試みるも平塚先生は俺の言葉を全て無視しやがりました。
時間的にもう帰らなければならない時間が迫ってきているのに、現状はどうにもできない状況に陥っている。
このままじゃ、完全に説教コースである。言葉で説教ならまだいいが、無言の笑顔は言葉より重みがあるから嫌なんだよ。
「着いたぞ」
そうこうしているうちに連れてこられたのは、プレートに何も書かれていない何の変哲もない教室の前だった。
俺が訝しげに見ていると、先生はからりと戸を開けた。
その教室の後ろには大量の机と椅子が無造作に積み上げられ、中心には一人の少女が椅子に座って本を読んでいた。
かわいいと言うよりも、綺麗と表現する方が正しい少女だった。そんな名も知らない少女が本を読んでいる光景というのは一枚の絵画のように思えた。が、そう思っただけだ。
絵になっていたと思ったことはこれまで幾度となくあったし、これもその中の一つにすぎない。特別ではなく、通常。ただ、ここでは初めてだ。
「平塚先生。入る時はノックを、とお願いしていたはずですが」
「ノックしても君は返事をした試しがないじゃないか」
「返事をする間もなく、先生が入って来るんですよ」
やっぱり、常識がねぇな。
「それで、そのぬぼーっとした人は?」
知らない人間からそんな事を言われる覚えは俺にはない。腕を掴んでいる手が解けたら今すぐにでも逃げるんだが、先生の表情を見る限り離すつもりはないだろう。
「彼は比企谷。入部希望者だ」
俺は強引に引っ張られて教室内に入った。
は? こいつなんて言った? 入部希望者? ふざけんじゃねぇよ。
「人権を無視して無理やり連れて来られて、強制的に部活に入れられようとしている二年F組の比企谷八幡です。なにが入部だ、くそくらえ」
「お前へのペナルティだ、異論反論講義質問口答えは認めない。しばらく頭を冷やして反省しろ」
職権乱用、傍若無人、自分勝手。やはり、あの人たち以外の大人は信用に値しない。
「という訳で、見れば分かると思うがこいつはなかなか根性が腐っている。そのせいでいつも孤独な憐れむべき奴だ。人との付き合い方を学ばせてやれば少しはまともになるだろう。こいつの捻くれて歪んだ孤独体質の更生が私の依頼だ。
頼んだぞ、雪ノ下……雪ノ下、どうした?」
は~ん、こいつは雪ノ下って言うのか。ってか、こいつ俺をじっと見てどうした? まさかと思うが『俺を知っている』のか?
「雪ノ下!」
「……はっ。分かりました。その依頼承りましょう」
「そうか! なら、後の事は頼んだぞ」
そう言って平塚は教室を出ていった。もう先生とかつけるほどの人間じゃねぇし、明日にはどうなっているか分からないだろう。
さて、それよりも、だ。今、俺が直面しているこの状況は俺にとってはいささか望ましくない。足音が遠ざかっていく音が聞こえたから平塚はいない。そして、こんな学校の端にある教室に寄りつく人間はいないと考えることができるから、雪ノ下というこいつと俺以外はこの付近にはいないだろう。
ならばこれから起こる事と言えば、
「比企谷君、一つ聞きたいことがあるのだけれど、いいかしら?」
「ああ、良いぜ」
「なら、聞かせてもらうわ。あなた、フィギュアスケートをやっていたわよね」
こういうことだ。
フィギュアスケート
まぁ、言わなくても分かるがそれでも説明しよう。
フィギュアスケートとは、スケートリンクの上でステップ、スピン、ジャンプなどの技を組み合わせ、音楽に乗せて滑走する競技だ。
俺がフィギュアを始めたのは親の影響が強い。親、と言ったら両親だと思う奴がいるな。
言い直すとしよう。
俺がフィギュアを始めたのは育ての親の影響が強い。
簡単に言えば、俺は血のつながった両親に捨てられた。まだ小さかった頃、真冬の寒い時期に捨てられ凍死しかけたところを拾われた。
そこからは、まぁ、よくある流れだ。養子に入って、親に連れられてフィギュアを知って、憧れて、恩を返したいと思った。それだけだ。
ジュニアまではいろんな大会に出場していたが、シニアに上がってすぐにそうした大会に出ることはなくなった。
目立ちたくなかった、目立つと見つかる恐れがあった。
ジュニア時代は海外を中心に活動していたし、日本で映るとしてもそこまで大々的じゃなかったから自由に滑る事ができた。だが、シニアに上がるとテレビの露出が格段に多くなる。それに少なくとも高校くらいは出ておきたかったから、それも含めて目立ちたくなかった。
それが功を奏したのか、すぐに人の記憶から、噂から、何もかもが無くなっていった。
でも、こうして、覚えている人間は、いる。
「……否、と答えても信じねぇよな。そんな目をしているし」
「ええ、私はすでに確信しているわ」
俺は小さくため息をついてレンズの無い眼鏡を外し、髪を掻きあげた。これが、俺が競技をしていた時の格好だ。さっきまでのはちょっとした変装で、意外とばれない。
「そう、やっぱり」
雪ノ下はどことなく嬉しそうな表情を浮かべた。
「つか、どうして俺の事を知ってんだよ。日本じゃ、そこまで活躍してなかったぞ、俺」
「ええ、私があなたを見たのは日本じゃないわ。アメリカよ」
「あ~なるほど」
ロシアを中心で活動していたが、アメリカも結構行っていたからな。
などと少々頭を抱えていたが、唐突に震えるスマホに気がついてポケットから取り出した。
「……げっ」
画面には相手の名前と、今の時間が表示されていた。
「すまん、ちょっといいか?」
「ええ、どうぞ」
俺はスマホの裏を見せて、一旦教室の外に出て通話ボタンを押した。
「もしもし」
『やぁ、八幡。俺を待たすなんてなかなかだね』
「それがちょっと教師に捕まったんだよ。んで、色々と厄介な事になったから帰ったら説明する」
『ふ~ん、まぁ内容次第かな』
「了解。んじゃ、できるだけ早く帰って練習に合流するわ」
『はいは~い。急いでね~』
はぁ、結局間に合わなかったか。
俺はため息をついて教室に入ると、一直線に俺に目を向ける雪ノ下と目があった。
「用事があるのでしょ、帰っていいわ」
「いいのか?」
「ええ、いいわ」
ほう、意外と話しの分かる。
「じゃ、お言葉に甘えて帰るわ」
俺は鞄を手に、開けっぱなしのドアをくぐろうとして立ち止まった。
「あら、どうしたの?」
「いや、お前の名前聞いていなかったと思ってな」
「……そう、私は雪ノ下雪乃よ。
それと、私もあっちであなたと同じ大会に出たこともあるのよ」
なんとも、偶然ってのは怖いな。
俺は学校を出ると急いで家に帰り、道具をひっつかんですぐに家を出た。向かったのは、今お世話になっているリンク場である。結構広めのリンクは全力で滑ると気分がよく、シャワーが完備されて練習終わりのシャワーは格別だ。
「すいません、遅くなりました!」
「あ、八幡君よかった。ヴィクトルから聞いていたけど事故が無くて」
「こっちこそ、遅れてすみません勇利さん」
優しい顔で迎えてくれた俺の親代わりである、勝生勇利さん。そして、
「うん、八幡も無事にきた事だし、始めるよ勇利。八幡はしっかり準備運動から入るように」
「ああ、分かっているよヴィクトル」
そして、もう一人の親代わりであるヴィクトル・ニキフォロフ。
これは、俺がフィギュアスケートで本物を見つける物語である。