「はい、もういいよ」
「ありがとうございましたー」
体操着姿の女子生徒は、救護と記された白い屋根の仮設テントを出ると、元気よくグラウンドへ駆けていった。
五月下旬、梅雨の季節に入る前のある晴れた日。吹き抜ける風が涼しく過ごしやすい気候の中、グラウンドを駆け抜ける体操着姿の生徒たちへの声援と歓声が沸き起こっている。
今日は、朱雀高校の体育祭。
故障を考慮して競技に参加しない俺は、各学年の保健委員と共に救護係を担当。グラウンド脇に設営された仮設テントの下で、ケガをした生徒の手当てを担当している。先ほどの女子生徒も患者の一人。
「よう。久しぶりだな」
「ん? ああ、
「いや、部活のことでちょっとな」
救急箱を整理していると、よく知る男子生徒――
彼は中学時代、全国大会で対戦したチームで主将を務めていた人物。読み、統率力に優れ、高い守備力を誇る鉄壁のディフェンダー。
「生徒会が、お前の動向を探ってる。
「ああ、知ってる。サッカー部に入れって話しだろ。一応、事情は話したけどね」
「
作業の手を止めて、向き合う。そいつは、クスクスと含み笑いを浮かべていた。
「あれは気づいていないな、教えてやらないのか? オレたちの本番は、
高校サッカー最大の大会は、夏のインターハイではない。冬の選手権大会こそが、高校サッカーの集大成。順調に回復すれば、右膝の完治は来年――三年の春。選手としての復帰を視野に入れた場合、基礎体力、試合勘を取り戻すのに最短でプラス六ヶ月は掛かる。つまり、順調に行けば本格的な復帰時期は来年の秋――選手権の予選にギリギリ間に合う計算。
俺は、最後の大会での復帰に向けて全てをかけている。フットサルのバイトも少しでも衰えを戻し、ミリ単位でのタッチプレーテクニックを身に付けるためのもの。店長も事情を知っているから、全面的に支援してくれている。だが、これは理想であって全てが上手く順調に行くとは限らない。
「希望的観測はダメだった時の失望感を生む。無責任なことは言いたくないだけだよ」
「まあ、そうだな。賢明な判断だな」
「
その声に顔を上げると、
「足を捻ったみたい。見てあげてほしいのだけれど」
「どうぞ」
「さてと、じゃあオレはお暇しよう。邪魔して悪かったな」
「いや。またな」
席を立ち、手を上げてグラウンドへ戻っていった。彼女には空いた席に座ってもらって、痛みが走る角度を確かめる。患部は足首、軽い捻挫。アイシングをして、テーピングで固定する処置を施す。治療の様子を興味深く観察している
――キスしたことある?
先日、
答えは「ある」。正確には“された”というのが正しい表現だけど。答えのあとも、突っ込んで聞かれた。
『相手は、
『そうだけど、それがどうかしたの』
まあ、こんな感じの受け答え。すると彼女は、やや視線を落として手を口元へ持っていき、少し考え込むそぶりを見せてから顔を上げた。
そして続いた台詞は――その時、何か変わったことはなかったかしら?
あの言葉は結局、何を意味していたのだろう。俺の視線に気づいた
「はい、おしまい。捻挫はクセになりやすいから、今日は絶対安静。明日になっても痛みが引かないようなら、病院へ行ってね」
「はーい。ありがとー」
礼を言うと、二人の手を借りて椅子を立つと、支えてもらっていた手を放して自力で立ち、テーピングで固めた足の感覚を確かめている。少し歩き難そうだけど、しっかりと自分の足で歩いているから大丈夫だろう。
「すごく手際いいのね」
「こういった類いの故障の処置は慣れてるから」
「そう。ん? なにかしら?」
「
「あん!? なんだ、
ちょうど近くを通りかかった
「
「ああ、一年の一部が体育祭ボイコットを企てやがったんだ」
俺と
「ボイコット? 理由は?」
「さーな。そいつを今、調べるのさ」
「期待しているよ、
「会長......!」
救護テントにやって来た一組の男女。眼鏡をかけた男子生徒――朱雀高校現生徒会長三年の
「
「はい。ボイコットを先導している生徒ですが、1-Fの
「
主犯格の生徒の名前には、聞き覚えがある。眉をひそめた
「
「ああ......サッカー部の新人だ」
思った通りだ。以前
「ふむ。サッカー部か......」
アゴに手を持っていった
「このままでは、サッカー部は監督不行届により連帯責任で何かしらの処分を課すことになりかねないね」
「そうですわね」
「うーん、では、こうしよう」
右手の握り拳を左の手のひらにポンっと軽く置く仕草をして、名案だと言いたげなしたり
「午後の種目を変更しよう。変更後の種目は、全学年対抗男女混合フットサル大会でどうかな? 彼もサッカー部だ、これなら出場するだろう」
「さすがは、会長。体育祭の枠を越え、球技を取り入れるなんて。素晴らしい発想ですわ」
「はっはっは、そう褒めないでくれたまえ、
「それでは、失礼いたしますわ」
秘書の
「キミは、フットサルコートでアルバイトをしているんだったね。
それだけ言って、大会運営本部前の人込みの中へ消えていった。
「わかってると思うけどよ。この騒動は全て、
「だろうね。あからさまなプレッシャーをかけてきやがった」
顔は穏やかに微笑んではいたが、あの威圧感のある目。もし出場しなければバイトはもちろん、サッカー部もろとも潰す。そんな意思を感じる冷徹な目をしていた。
――なるほど、これが
「
「
「え? ええ、確か、部員の一部が傷害事件を起こしたって聞いたわ」
「その事件の黒幕が、
「そんなことが出来るの?」
「それを出来るのが、校内最高権力を持つ朱雀高校生徒会長なのよ」
三人で話していたところへ、もうひとりの生徒会副会長の
「だけど。今回の件は、私たちへの当て付けよ」
「だろうな。
「そうね......」
事態を把握出来ないでいた
俺をサッカー部へ引き込むことも、ミッションのひとつ。
「そう。そういうことなのね」
「ハァ、さて、どうっすかね~」
腕を組んでパイプ椅子に座った
「ひとつ、方法があるわ」
「マジかよ、
「ええ。会長は、午後の競技を変更すると言ったわ。今行われている短距離走が午前最後の種目だから、お昼休みが終わる前までにボイコットを止めればいいのよ」
「なるほどな。実際にボイコットの影響がなけりゃ現行のプロローグのまま進むってことか......!」
「しかし、どうやって止める?
「やるしかねぇだろ? 見ろよ」
「策略を阻止したとなりゃ逆鱗に触れるかも知れねぇが、そう思い通りにはさせねぇよ」
「そうね。私も、こんなことで体育祭にケチをつけさせたくないわ」
「珍しく意見があったな。ここは一時休戦といくか?」
「いいわ、手を組んで上げる。でも、今日だけだからっ」
会長の座を争う二人は一時的な停戦協定を結び、協力してボイコット主導者の調査を行う約束。俺も、二人に協力を申し出る。
「俺も手伝うよ。原因は、拒んだ俺にあるんだし」
「なに言ってんだ。凄腕の救護係が居なくなったら困んだろ?」
「そうよ、私たちに任せなさい。あなたは巻き込まれただけよ、気にやむことはないわ。行きましょう、
「ああ」
それぞれ調査へ出掛けていき。救護テントの脇で、俺と
「そろそろ戻った方がいいんじゃない?」
「うん、そうね」
「すみませーん! 急患です!」
ケガ、体調不良含めて三人同時に患者が訪れた。保健教師と保健係二人が担架を使い、体調不良を訴えた生徒を保健室へ連れて行き、比較的軽傷の二人を捌くことに。
「手伝うわ」
「ありがとう。助かるよ」
擦り傷の軽いケガをした生徒を
「どうだった?」
「......シャレにならねぇ。扇動していたのは、
「それって、さっきの秘書の人だよな?」
「ええ、朱雀高校の実質No.2よ。あの人の発言力は、副会長の私たちよりも上なのよ」
「しかも、オレたちがボイコットを潰そうとしていることに気づいてやがった」
「うむ。見下すような表情で、俺たちをせせら笑っていた」
――上手いな。一般生徒が相手なら、最悪力づくという強行策もあり得たが、相手が悪すぎる。生徒会長最側近となれば強引な口封じは行えず、軽はずみに手出し出来ない。
「くそっ!」
「このままじゃ関係のないサッカー部まで......」
「くっ......」
三人とも、悔しそうに地面に目を落とした。
『体育祭実行委員会よりお知らせです。午後の競技に変更が――』
競技変更を告げる校内放送が始まった。
どうやら、選択の時が来たらしい。
「
「はあ? お前、まさか......!」
「俺が出場すれば、丸く収まるんだろ?」
「そりゃそうだけどよ」
テーピングを拝借し、救急箱の蓋を閉じる。
「いいのっ? あなた、ケガしてるから入部を拒んでたのに――」
「大丈夫だよ。期待に応えるだけだから、あの人の」
心配してくれた
――悪化しない程度にね。