卒業式の当日は、天候にも恵まれて晴れ渡った青空が拡がっていた。
三年前の春。真新しい制服に袖を通して歩いた通学路を今では着慣れて、やや窮屈に感じる制服を着て歩く最後の登校日。
三年間通い続けた道に感慨深い思いを抱きながら、いつもよりも少し早く家を出て、ゆっくりな足取りで学校へ向かう途中の住宅街に表札を構える、三階建ての一軒家の前でふと足が止まった。塀で上の方しか見えないけど、ここ半年の間ずっと閉ざされていた雨戸が開いているのが判った。
卒業式の前日に帰ってくるって聞いたから何ら不思議じゃないけど。彼女はもう、家を出ただろうか? そんな疑問が自然と頭を過る。だけどそれは、ほんの一瞬だけで。ここで立ち止まって考えていても仕方がない。どうせ学校で会うことになるのだから。そう思い直して、再び歩みを進める。
「あっ!」
待ち合わせしていた商店街で待ってくれていた
「髪、短くしたんだ」
昨日、美容室へ行くと話していた彼女のヘアスタイルは、初めて会った時と同じボブカット。懐かしいシルエット。
「ひとまず区切りだから。長い方が好みなのかしら?」
「どっちも似合ってるよ」
「そういってもらえるのは嬉しいけど、どっちつかずは困るのよ」
本心なんだけど、乙女心というものはいろいろと複雑。なんてことない普段通りの他愛の話しをしていると、あっという間に学校に到着。正門の門柱には「卒業証書授与式」と記された看板が立てかけられ、馴染みのあるソメイヨシノよりも濃い紅色の早咲きの桜の花びらが、春の風に乗って、まるで雪のようにひらひらと舞っている。
「キレイね」
「そうだね」
まるで絵画のような、美しくもどこか物悲しさを覚える風景に足を止めて、舞い散る桜を眺めていると、背中から
「お二人さん、ずいぶん早ぇじゃねーか!」
「ハァ、最後くらいしめやかに出来ないのかしら?」
「別に今生の別れってわけじゃねーだろ」
風情も情緒もへったくれもない。まあ、
「お前も、十分早いじゃん」
「
「撃っちゃ駄目でしょ。ちゃんと迎えてあげないと」
「アイツ、テンパってんだよ。顔を合わせるのは約半年ぶりだからなー」
なにより、
「
「雨戸は開いてたけど、出たかどうかまでは判らない」
「そっか。先に来てる
「それで、当事者の
「
「そう。じゃあ、うららちゃんが来たらサポートしてあげなさいよ」
「なんだよ、お前たちは一緒に待たないのか?」
「大勢で待ち受けていたら、混乱しちゃうじゃない。
ちょっと不満混じりの悲しそうな
「それもそうだな。超研部で一番仲の良かった
「じゃあ俺たち、部室に顔出しに行くから」
「おう、また後でな」
「用事は済んだの?」
「ちょっと話しただけだ。でよ、その、
緊張半分不安半分といった感じで表情が硬い。
「まだ来てない。正門で、
「そ、そうか、まだ来てねーのか」
声が引きつっている、相当テンパってる。
「もう、ちゃんとなさいよ。大丈夫、あなたは変わったわ。ちゃんと迎えにいってあげなさい」
「......おう。よっしゃ、いっちょ行って来るぜ!」
「まったく、殿大に受かったんだから、もっと自信を持てばいいのに」
「先輩方、おはようございまーす」
フットサル部の部室に着くと、
「いよいよ卒業式本番ですね。少し早いですけど、ご卒業おめでとうございます」
「ありがとう。って言っても、校舎が変わるだけよ」
朱雀大学は、朱雀高校の真向かいに校舎を構えている。つまり、通学路も変わらない。それでも
「よかったですね、
結果から話すと、俺は、殿大には受からなかった。入試に落ちたことに多少なりともショックを受けなかったわけではないけど。元々ダメ元で受験したこと。そして何より、殿大の医学部へ進むよりももっと険しく厳しい道を進むことを決めた俺には、些細なことだった。
俺は――朱雀大学に籍を置きながら、プロの世界へ飛び込むことを決断した。
もちろん、どちらも両立出来るような甘い世界じゃない。朱雀高校入学当初の目標だったスポーツドクターの道は諦めることになったけど、自分自身の身体のケアにも役立つ「アスレティックトレーナー」の資格取得を目標に、朱雀大学医学部で専門知識を学ぶことを決めた。とてもありがたいことに学校側は、講義や実習に関して、オンライン授業などでの最大限のバックアップを約束してくれた。
「あ、そうだ。
「そうなの?」
「ちょっ!」
「どっちも先輩の役に立つ資格ですし。愛されてますねー」
「も、もう、いいでしょ!」
まるで桜の花のように頬を薄紅色に染めた
「じゃあ私は、先に体育館へ行きます。
「了解」
「またあとでね」
卒業式の最終確認のため一足先に体育館へ向かった
「
「廊下で聞いた。ちょうどすれ違った」
脱いだブレザーの上をハンガーにかけた
「
「そう、うららちゃんが来たのね。
「......話しかけようとしたが、完全にシカトされた」
浮かない
「ま、まあ仕方ないわよね? 何も覚えていないんだから」
「そうだね。もしいきなり、付き合ってた、なんて言ったらドン引きされただろうし......」
若干苦しいフォローだけど、最悪の手は引かなかった訳だから、まだ話せるチャンスは残ってる。
集合時間までダベり、体育館へ移動。
新校舎から体育館へ続く渡り廊下は、大半の卒業生が移動する本校舎からの渡り廊下と比べると、ずいぶん空いていて歩きやすい。廊下で立ち止まって話し込んでいる、
「お前たちか」
「よう、久しぶり!」
地元神奈川に本拠地を構えるクラブチームのキャンプにテスト生として同行していた
「今、ちょうどその話しをしていたところだ」
「そうなのね。それで、どうだったの?」
「おおっ、やったじゃん」
「まだ仮契約だけどな」
メディカルチェックで問題がなければ、改めて本契約を結ぶことになるそう。大学の方も俺と同じく、在籍したまま卒業を目指すとのこと。元々実家通いだから、さほど支障をきたさないし。体育課への進学も特待枠ため配慮してくれるそう。
「しかし、スポーツとは無縁だった進学校の
「いや、三人だ」
「まさか、
「そのまさかだ。オレも、アメリカでプロテストを受けることにした」
「えっ?
「当然さ。お前たちがプロへ行くのなら、オレも行く」
「けどお前、いつか、外資系投資銀行のCEOまで登りつめてやるって......」
「そうだな。だがそれよりも、お前たちと共に世界の化け物を相手に頂点を目指して戦う方が面白いと迂闊にも想ってしまった。どうやら、オレの心の奥底には多少なりとも未練が残っていたらしい。オレもバカだ。今になって、気づくなんてな」
自虐的に、そして平然と言ってのける
* * *
卒業式は滞りなく終わり、教室で担任から卒業証書を受け取って、自分の席に戻る。そして最後のホームルームが終わった。これで、この使い慣れた机も今日で最後......なんてことを考える暇もなく、
「ちょっとちょっとっ」
「ん? なに?」
「なに? じゃないわよっ。あんたも、ちょっとは協力しなさいよっ」
いったい何ごとかと思ったら――。
「え? まだ話せてないの?」
「そうなのよ~。
「アルバムは?」
「
「なるほどね」
だけど、協力としろっていわれても、
「あれ? 今、避けられた?」
「あんた、何かしたの?」
「いや、何もしてないけど。まともに顔を見たのも、今のが初めてだし」
「怪しいわね」
「いやいや。式の前は、部室へ顔出してたの聞いてるでしょ?」
「まあねー。とりあえず、うららちゃんと話してみるわ。ねぇ、
フォトアルバムを片手に
「ちょっと寒いわね......」
「そうだね」
昼休みや放課後によく来ていた、校舎の屋上へ来るのも今日で最後。暦の上では春、だけどまだ寒さの残る冷たい風が吹き抜ける。進路を決めた時と同じように、日が当たる校舎の温かい壁に背を預けて並んで座る。
「うららちゃんの様子は、どうだった?」
「やっぱり何も覚えてないみたい。今は、
「そう。ねぇ、どうしてうららちゃんは、代償を支払ったんだと思う?」
“はじまりの魔女”の代償――望み通りの学校生活を過ごせる代わりに、卒業と同時に全校生徒の記憶の中から自分の存在を喪失する。
「サッカー部が全国大会で優勝すれば私たちみたいに、
そんなこと考えるまでもない。答えは、簡単。
きっと
「覚えてて欲しかったんだよ」
もし、
だけど、
――ほんの一瞬でも、一緒に過ごした日々を忘れて欲しくなかった。
例え自分が忘れてしまうとしても、一番大切な相手にだけは、ずっと覚えていて欲しかったんだ。もう一度出会える、その時まで。
「そうよね」
穏やかな声で言って、肩に預けてくれた体の温もりを感じる。
「
やっぱり、写真が効いたかな。
「けど、やっぱり戸惑ってるみたい。ヘルプ頼まれたわ」
「一緒に行く?」
「ううん、いいわ。女子同士の方が話しやすいと思うし」
「そっか」
「そうよ。じゃあ行ってくるから、あとで連絡するわね」
校舎へ入って行く
この三年間、登校してきた日にはほぼ毎日のように見てきた景色。入学当初はなかった建物も増え、日に日に姿を変えていく街並み。変わり行く街をここから眺めるのも今日で最後、見納め。
ただ道路を一本隔てた向かいの校舎へ移るだけなのに、この屋上から見る景色が最後だと思うと、少し切ない気分になった。
――そうか。俺にとって、この学校は特別な場所だったんだ。
「ん?」
キィ......と背中越しにドアが開く音が聞こえた。
この空気を先に破ったのは、
「さっきは、ごめんなさい」
「え? あ、ああー、気にしないでいいよ」
「そう......」
会話が、途切れてしまった。
入学当初のことを思い出した。あの頃も、こんな風に辿々しい拙い会話だった。何だかとても懐かしくて、笑ってしまいそうになった。
「あの......」
「ん?」
途切れてしまったと思ってた会話は続いていた。
うつむき加減だった
「ありがとう」
思いもよらない言葉だった。
「もしかして、魔女のこと覚えてるの......?」
「......知らない。でも、どうしてか分からないけど、教室であなたを見つけて、伝えないといけないって想ったの。だけど、どうやって話しかければいいのか分からなくて......」
それで、顔を背けたのか。だけど、どうして
「......足のケガは、もういいの?」
――ああ......そうか、そういうことだったんだ。
「もう、大丈夫だよ」
「そう」
この学校は、俺にとって特別な場所。
最高の仲間たちと出会い、過ごした場所。
大切な人と出会えた場所。
「
「あっ、ありがとう......」
そして、初恋の人と再会した場所。
三年間を過ごしたこの学校は、かけがえのない大切な想い出を残してくれた、本当に特別な場所だった。