白い吐息が弾む。
降り出した雪に震えながら、ロッカは氷の上を走っていた。先へ進めば進むほど人気は無くなっていく。視界も寒々しく、見えるのは乱立する氷柱ばかりになってくる。
そして、その先に。
巨大な壁が現れた。
灰色の雲空に溶け込むように、分厚いコンクリートが聳え立つ。一面の白氷とひらひらと舞う雪が、一層その異様さを感じさせた。
「――ネイヴュシティ」
上陸してもまだ遠くに見える筈なのに、まるで今にもロッカを押し流そうとするようなプレッシャーが少女を襲った。
さく、と新雪を踏みしめる。
しっかりとした大地の感触。それはフローゼス・オーシャンの終点を告げる。
冷たい海風がロッカを押した。すう、と肺を冷えた空気で満たし、髪についた雪を払う。
この先は、目標の地。大きく一歩を踏み出し――。
「ふええっくしょんっ!!」
くしゃみの声が、遠い壁に反響した。
「ふええ……さむ……」
歯をカチカチと鳴らして、ロッカは雪降る道を進む。鼻水をすすりながらゆっくりと足を運んでいた。
銀雪が、全ての音を吸い込んでいく。自らの呼吸の音すら聞こえなくなるかのような錯覚。
全ての生命が凍りついたかのように思えた。目前に迫った冷たい壁を見上げ、ロッカはため息をひとつ。
「……入り口、どこかなぁ」
「おい貴様! そこで何をしている!」
「えぅっ!?」
不意に右方向から声をかけられた。怒鳴られた、の方が近いかもしれないが、静寂の中に急に発せられた大きな音にロッカは尻餅をついた。
白い雪に混じって光線が当てられる。懐中電灯の明かりだろう、眩しげに目を細め、人物を確認しようとする。
背景に溶け込んでしまうかのような白いコート。胸には特徴的なピンバッジ。
どこかで見たことのあるようなその風貌に思考を巡らせるものの、それは二つ目の怒鳴り声でぷっつりと途切れてしまう。
「何をしているのだと聞いているんだ! ネイヴュは立ち入り禁止だぞ!」
声質からするに男性だ。ずんずんと進んでくるその影に、ロッカは恐怖さえ覚えた。口を開いては閉じ、開いては閉じ。驚きのあまり声を出すことができなかった。
「答えないというのなら、こちらもそれ相応の対応をさせて貰おうか!」
まずい。嫌な予感が脳裏に走る。
風を切る音と共に投げられたのはモンスターボール。光の中から現れたのは、大きな八本足。バチバチと音を立て、こちらを威嚇している。青い四つの目はしっかりと少女を捉え、黄色の体毛を逆立てていた。
「デンチュラ、『エレキネット』!」
帯電した糸が怯えるロッカに放たれた。生身の人間が、それも本気のポケモンの技を直に浴びるとなればただでは済まないだろう。
「ら、ライム! 『きりさく』!」
無意識にも腰のボールに手が伸びていた。サンドパンは指示通りエレキネットを切り裂く。そして
ほっと安心したのも束の間、ロッカの背筋に悪寒が走った。
(……そうだ、思い出した)
モンスターボールを模したピンバッジ。そしてコートに縫い付けられたその紋章は。
「PG――〝ポケット・ガーディアンズ〟……!」
そう、ラフエル地方を代表する巨大な警備団、ポケット・ガーディアンズ――通称PG。彼女はそんな警察組織に、〝抵抗〟してしまったのだ。
(や、やば……? 逃げたほうがいいのかな……)
冷や汗がどっと溢れ出す。心臓をぎゅっと掴まれたような感覚。そうしている間にも、ロッカを捕らえようと相手のポケモンはせわしなく動く。
サンドパンを飛び越え、震える少女に覆いかぶさろうとした。サンドパンは素早くそれを追いかけ、下からアッパーを食らわせる。反撃に出たデンチュラであったが、雪の中に飛び込んだサンドパンの姿を捉えることができず『10まんボルト』は不発に終わった。
「なっ……速い……!?」
男性の声にふと我に帰る。降りしきる雪は視界を悪くするが、サンドパンの場合は。
「そうだ、〝ゆきがくれ〟」
ひらひらと舞う白銀は積もり、今にも自分たちを覆い尽くさんとしている。まだ積もりたての柔らかな雪は相手ポケモンの脚を捕らえ、思うように動かせてはくれないようだった。
一方サンドパンはというと、雪煙を上げながら相手の周りを駆け回っている。自慢の爪で雪を掻き分け、まるで幾つもの分身を作っているかのように見えた。
まさに、サンドパンの独壇場。
(そうか……天候はライムに有利……頑張れば、勝てる、かも)
バトルの最中に背中を見せるとは、トレーナーとしてあるまじき行為。
ぴしゃりと頬を両手で叩き、雪を払って立ち上がる。
「ライム! 『こごえるかぜ』!」
デンチュラの真後ろから飛び出したサンドパン。息を大きく吸って、冷気を乗せて吐き出した。
ぴしぴしと音を立てながら、長い毛が凍っていく。避けることも叶わず直撃。寒さのせいか、少し動きが鈍くなったように見えた。
「『アイアンヘッド』!」
「『かみなりのキバ』だ!」
頭突きを繰り出すサンドパンに、デンチュラはカウンターで牙を突き立てる。電流。頭から相手を引き剥がそうとサンドパンはもがくが、顎は力を緩めることはなかった。
「『つららばり』っ!」
痺れに苦しみつつも、背中から針を発射。慌ててデンチュラは顎を離し、後方へ下がって回避する。
そのまま二匹の睨み合いが続く。その隙にロッカはポケモン図鑑を取り出し、デンチュラを検索する。
表示される文字列は「未確認」。電気を操ることからして、恐らくでんきタイプということは把握できた。となれば有効打は特に無いことになる。
「当てろ、『チャージビーム』!」
「避けて!」
氷を振り払うように身震いしてから、静電気を溜め込んだ細かい体毛にエネルギーを集める。まるで光を纏ったかのように、白雪の中に電気が煌めいた。そのまま一直線に光線を発射。
サンドパンは雪を巻き上げ相手を撹乱する。『チャージビーム』は命中することなく雪の中に溶けた。
「そのまま接近! 『つららおとし』!」
デンチュラの周りを回転するように、雪煙を上げて距離を縮める。
突然右方向からサンドパンが飛び出した。氷を纏い巨大に変貌した爪を振りかぶる。未だ静電気の残る体毛に触れる瞬間。
「『ほうでん』で迎え撃てッ!!」
閃光が視界を包んだ。
「きゃあっ!」
あまりの輝きに、ロッカは目を瞑った。瞬間、ぐっと後方に倒されるような感覚。雪の上に尻餅をついたが、腕の自由が効かない。
光は収まった。ゆっくりと瞼を持ち上げ、そして自らの置かれている状況を確認する。
目の前には、静電気を纏った巨大な影。身体を締め付けるのは粘質の糸。デンチュラの背後には、同じく糸に絡まったサンドパンが転がっていた。
「……で、君は本当に、ただの一般トレーナーなんだな?」
「は、はい……!」
取調室というものは、ドラマで見ていたよりも明るく暖かい空間だった。淹れたてのエネココアで眼鏡を曇らせながら、ロッカは大きく頷いた。
「主任、トレーナーカードの情報一致しました」
「ああ、すまないな」
部屋に入ってきた職員からカードを受け取ると、主任と呼ばれたデンチュラ使いの男性は、カードと本人をまじまじと見比べ、ため息を吐いた。
「いろいろと、悪かったな」
「いえっ! 私も私でしたし……」
遡ること小一時間前。サンドパンと共に連行されたロッカは、取調べを受けていた。ネイヴュに近付いた理由や滞在期間、ポケモンのことや出身地、そして――〝バラル団〟との関係性について。
「いやはや、君のサンドパンには驚いたよ。リージョンフォーム、だったか?」
「はい! 親戚がアローラにいて、タマゴを貰ったんです。アローラの姿は、こおりのいしで進化するんですよ」
「そうなのか……まあ、泥棒されたようなポケモンだったら、あそこまで息のあったバトルはできないな」
ロッカは照れくさそうに笑う。それでもすぐに真顔に戻ると、真剣な目つきで男性に問うた。
「――あの、バラル団って……何なんですか?」
「……何と言えばいいものやら。私たちPGが君を疑ったのも分かってくれ」
男性はロッカ正面の椅子に深く座り直し、腕を組む。
「簡単に言えば、バラル団は――所謂悪の組織、だ」
ごくりと唾を呑む。
「誘拐や泥棒、金品に関しても
「そ、そんな危険なグループ……なんですか」
「幼い人間でさえ手駒にしているという噂もあるからな、最初は私も君をバラル団員だと思ってしまったんだよ」
ほう、と息を吐き出した。キッサキにいる時にも、名前だけは聞いていた存在――まさか自分がこうして疑われるとは思っていなかった。
「……シンオウ地方にも、昔そんなのがいて。見かけたことはあるんですが、なんだか別世界の人たちな気がしてました」
「シンオウ……ああ、ギンガ団か。あれもいつの間にか消滅したがな。バラル団も、そうできればいいんだが……」
ところで、と男性は椅子を立ち上がった。
「君は……アイスエイジ・ホールに用があるんだったかな」
「は、はいっ! そこでポケモンを捕獲させていただければ……!」
「悪いが――あそこは基本立ち入り禁止だ」
「えええっ!?」
思わず悲鳴が口から零れた。
突きつけられた事実。あまりの衝撃に頭が真っ白になった。
「アイスエイジ・ホールは、我々ラフエル人にとっても重要な場所でな。一般人を近づける訳にはいかないんだ……君のような
うっ、と言葉を詰まらせる。
初めはバラル団と疑われた身であり、いきなり他所の地方からやってきた素性の知れない一般人だ。いくらトレーナーカードの読み取りで、ロッカが一般トレーナーだということは証明できたとはいえ、悪巧みに関与していないとは断言できない。
当初の目的にばくれつパンチを食らい、ロッカは頭を抱える。冷や汗がどっと溢れ出す。長く細いため息を吐いて、決意したようにぐっと息を吸った。
ロッカには、それでも諦められない〝覚悟〟があった。
「私、どうしても行きたいんです……! ラフエルの
真っ直ぐに、純粋な瞳で。ロッカは男性を見つめた。媚びるような可愛げのある表情ではない。必死で、今にも泣きそうな程にぐっと想いを堪えていた。
誰の力の及ばない場所で。一人と
「お願いします……そこをなんとか……!」
「……そう。私の力で、そこをなんとかしようと思ってだな」
「……へ?」
男性は背後の扉を開いた。こつん、と靴音を立てて誰かが入ってくる。
すらりと伸びた細い手足。顔立ちはまだ幼く、その割に背は高い。爽やかに流れる薄青の髪。爛々と輝きを放つ金の瞳は、しっかりとロッカを見つめていた。
ぴっと背筋を伸ばし、敬礼。モンスターボールのバッジがきらめいた。
「ネイヴュシティ所属、PG隊員リンカです……ええっと?」
「……ああーっ! リンカちゃん、リンカちゃんだよね!」
ぱたぱたと駆け寄り、両手を握った。
「ロッカ!? 嘘、どうしてここに!」
「私こそ聞きたいよ~! ……でも、久しぶりだね、また会えてよかった!」
「……なんだお前たち、知り合いなのか?」
笑顔になった二人の少女に吃驚し、男性は面食らったような表情を浮かべた。
「はい! アタシたち、同郷なんです!」
キッサキ神殿。太古の伝説のポケモンが祀られている、雪と氷に閉ざされたシンオウの聖地。キッサキシティの奥に鎮座するその姿は、美しく、時に荘厳であった。
リンカは神殿を代々守ってきた一族の末裔であり、そしてロッカの友人でもあった。ロッカの三つ年下でありながらどこか大人びた少女で、ジムリーダーのスズナも一目おく存在だった。
ギンガ団がシンオウ地方に跋扈していた時、神殿を狙ってキッサキシティに襲撃をかけられたことがあった。ロッカは自宅に家族と篭っていたが、リンカたち守護者の一族は果敢にも戦っていた。その後ギンガ団は姿を消したが、リンカの姿もいつの間にか消えていた。
心配になったロッカが一族に事情を聞いたが、旅に出たと聞いたのみで寂しく思っていたのだ。
「何も言わずに行っちゃうから……みんな寂しかったんだよ?」
「あはは……ごめんごめん。思い立ったらすぐ行動したくて」
あの頃より少し成長した姿に、ロッカは安堵感も覚えていた。しっかりとした顔つきに、モンスターボールのバッジ――PGである証。ロッカもまるで自分のように誇らしく、そしてどこか置いて行かれたような気もしていた。
「ギンガ団と戦ってた時、PGの人に助けられたんだ。それで、ここにきて隊員になれば……もう一度会えるかもって思ったの」
「ああ。リンカはまだ子供だが、実力は
「わあ~、主任に褒められたのいつぶりだろう……」
なんだと、と頭を軽く小突く。まるで親子のようで、微笑ましかった。
「事情は聞いてるよ。ロッカはアイスエイジ・ホールに行きたいんだよね?」
「そうなん……だけど、主任さん、ええっと……?」
男性は大きく頷いて、少し声を潜めて言う。
「君をそこに連れて行くために、私が許可を貰ってこよう。ただし――条件付きでな」
心臓が高鳴る。無意識のうちに拳をぎゅっと握りしめていた。
「リンカにはここで警備を頼むつもりでいたが、それは取り止めだ。ロッカと一緒に、アイスエイジ・ホールに向かって欲しい」
「一応、監視……ということですか?」
「そうなるな。怪しい人物であったことには変わりない、何かおかしな行動を起こしたらすぐに拘束するように」
リンカのはきはきとした返事も相まり、ロッカの肩がびくりと震えた。
「大丈夫だって! アタシはロッカのこと、信用してるから」
不安げな様子を感じたのか、リンカは励ますように肩を叩いた。小さくロッカも頷いて姿勢を正す。
「それと――〝穴〟に向かう資格があるか。それを試させてもらう」
「――資格?」
男性はもう一度リンカの名を呼んだ。ぴりっとした空気が張り詰める。
「彼女に勝つことができたら、君をアイスエイジ・ホールに連れて行こう」
ふと、隣の少女と目があった。
リンカは微笑んで、自信ありげに頷いた。
ロッカはゆっくり瞬きし、緊張した面持ちで首を縦に振った。
窓の外には、白銀が静かに降りしきる。