「うわああああ!?」
ポケッチのアラームが鳴り響く。最大音量に設定していただけあって、隣室まで聞こえるかのような電子音がロッカを眠りから叩き起こした。
冷や汗が噴き出す中、慌ててアラームを止める。心臓に悪い目覚めだ、音量を設定し直してため息をついた。
憂鬱な朝だな、と思う。顔を洗って鏡を見れば、眠そうな顔と爆発した寝癖が情けない。
が、そんな沈んだ気持ちもふと明るくなる。
――初めて、野生のポケモンを捕獲したのだ。新たな旅の仲間が増えたことにまだ少し実感が湧いてこないが、それでもその記憶はしっかり焼き付いている。
昨日のことを思い出すと、自然と気分も高揚してきた。小躍りしながら身支度を整えると、荷物を持って部屋を後にした。
「おはようございますっ、トレーナーのロッカです!」
「ロッカさん、おはようございます。お待ちしていましたよ」
ポケモンセンター。数多くのトレーナーが、自らとポケモンを癒しに訪れる憩いの場所。併設されている宿泊施設には、協会に正式にトレーナーとして認められた者が集まる。
受付の女性にトレーナーカードを渡す。それを読み込ませれば、預けたポケモンの一覧が表示された。そのまま背後のコンピューターを操作すると二つのモンスターボールが現れた。
「サンドパンとカチコール、お間違いありませんね?」
「はい! ありがとうございます!」
そっとボールを受け取ると、ロッカはセンター内の食堂に向かった。
大抵の街には一軒、ポケモンセンターはある。そして、食堂もある。街ごとにそのメニューや内装も違い、特色が現れているのだ。この違いも旅の一興であり、ロッカもまたそれを楽しむトレーナーの一人だった。
「はいっ、これはライムの分。こっちは……えーっと、カチコールの分ね」
紙コップに溢れんばかりに入った氷。椅子に座ったサンドパンは嬉々としてそれを受け取ると、上手く掴んでごりごりと嚙み砕く。テーブルにちょこんと乗っているカチコールは、その様子に驚きながらも、皿に出された氷を食べ始めた。それを見たロッカは、安心したように微笑む。
このカチコール、随分と臆病な性格のようだ。ボールから出した瞬間から辺りをとにかく見回し、自力では殆ど動こうとせず、ロッカに触れられるのも嫌がっていた。このまま緊張のあまり何も食べてくれないのでは、と心配していたロッカは、黙々と氷を齧っているその様子に安堵していた。
「ねえ、カチコール……あなたの名前は、どうしよっか」
返事はない。サンドパンは少しこちらを見、そして氷に夢中なカチコールに目を移す。
トレーナーは未だに心配げな顔だ。楽しみにしていた自分の朝食でさえ、手を出していない。シャルムの特産といえば、彼女の大好物であるズリの実。そんなズリの実をふんだんに使ったベリーソースのかかったホットケーキを、彼女が冷めるまで放置するのは有り得なかった。
「……それとも、元の場所に……帰りたい?」
サンドパンの口から、砕けた氷がこぼれ落ちた。――まさか、
泣きそうな顔。肩が少し、震えていた。
カチコールはゆっくりと顔を上げ、そんな彼女をじっと見据えた。
賑やかな朝の食堂に、沈黙が一つ。似つかわしくない程に冷たく重い空気は、氷の放つそれではなかった。
――突如、そんな空気を雷鳴が切り裂いた。
「うっわー! あんたのサンドパン、どえらい色してるね! ねえ、もしかして色違い? あっ氷好きなの? 珍しいねえ! 撫でてもいーい? うわっつめた~! えっもしかしてもしかして、この子リージョンフォームってやつ? どえらいねえ!」
「えっあっ、ええ……?」
きらきらとした瞳で言葉をまくしたてるのは、いきなり現れた女性。タンクトップにハーフパンツ、なんとも涼しげで活動的なファッションだ。背には大きなバックパックを背負っている。
「あっ、驚かしちゃったかな? ごめんごめん。あたし、じめんポケモンとかも大好きでさあ~」
軽快な声で笑う彼女に内心引きつつも、ロッカは「ど、どうも……」と小さく頭を下げる。
「あたし、アルナ! あんたは?」
「ろ、ロッカって言います……この子はライム、でこっちが――」
ふとカチコールの方を振り向けば、そこにあるのは溶けた氷と皿。小さなポケモンの姿はどこにも無かった。
「あ……れ? カチコール? カチコール、どこっ!?」
「えっ、ど、どうしたの!?」
「カチコールが……カチコールがっ、いないんです!」
「……あたしのせいかも、ホントにごめんね……」
「い、いえ……ちゃんと見てなかった、
ポケモンセンター中が大騒ぎになった。新米トレーナーの小さな小さなポケモンが、逃げ出して迷子になってしまったのだ。特にそれがこおりタイプのポケモンときた。透明度の高い結晶の身体を持つとなれば、見かけるだけでも至難の技だ。
捜索を始めて小一時間が経過している。情報は全く入ってこない。
喫茶店の席に縮こまりながら、ロッカは俯いていた。寒さか、悲しさか、悔しさか。ふるふると震える彼女の姿を見て、アルナも口を開けずにいた。
「……あのさ、ちょっと調べたんだけど」
元気付けるかのように、アルナはロッカに笑いかける。手にした携帯端末には、カチコールの画像が表示されていた。
「カチコールって、大人になるまでクレベースの上で暮らすんだってね。その後、必ず群れで生活するらしいし……捕まえられただけでも、あたしはどえらい事だと思うよ」
ぽんぽんと頭に手を乗せた。しかし、ロッカは驚いたような顔で。
「そうなん……ですか?」
「え? だって……」
「私、カチコールには一匹の時に出会って――」
「……まさか」
「迷子、だった……?」
どきん、と心臓が飛び跳ねた。
頭の中がざわざわとする。冷や汗がまるで冷水を浴びたかのように吹き出す。
――カチコールが、あんなに怯えていた理由がわかった。
「わ、たし」
カチコールに対する申し訳なさに、目の前の狼狽えるアルナの姿が歪んでいく。
大事な家族とはぐれ、見知らぬ人間に捕まえられて、見知らぬ地に連れてこられたのだ。元から臆病な性格であったにせよ、どれだけ不安で苦しいか、ロッカにも簡単に想像がついてしまった。
「ごめ、なさ……」
栓を開けたかのように、涙がぼろぼろとこぼれていく。嗚咽をあげながら泣きじゃくる彼女の震える肩を、アルナはがっしりと両手で掴んだ。
「じゃあ、余計にカチコールに会わなきゃいけなくなったね!」
「……え?」
きょとんとした顔で見つめるロッカに、アルナは満面の笑みで応える。
「ロッカがカチコールのことをどれだけ大切にしてたのかが、どえらいよく分かった。だから、カチコールに会って、ごめんなさいって謝らなくちゃ!」
「あやま、る……?」
「逃がすとか、一緒について来てもらうのとかは、その後の話。まずは、まず最初は、カチコールに会おうよ!」
大地のような、ロッカを包み込むような。温かくて力強い声。
砂漠に照る陽光は、少女の氷を溶かしていった。
シャルムからフローゼス・オーシャンへ向かう道は、今日も観光客で賑わっていた。ガイドブックを片手に歩く彼らをよそに、ロッカとアルナは草むらを駆ける。
「どの辺で会ったの!?」
「く、暗くて覚えてないです……でも、多分この辺り……!」
天気は晴れだが、残雪の間をすり抜ける風は冷たい。不安と冷気がロッカを押しつぶそうとしていた。
ざあざあと木の揺れる音。遠くから聞こえる氷海の波。強く脈打つ心臓の鼓動。
――環境音の間に、小さな悲鳴が一つ。
刹那、ロッカは声の方向に向きを変えて駆け出した。アルナも慌ててそれを追いかける。
「カチコールッ!」
異様な冷気、揺れる草むら。物怖じせず草を掻き分けて進む。一歩一歩、近づく戦闘音。
瞬間、ロッカの目にカチコールの姿が映った。
「カチコール……!」
その側に球体。青い毛皮、ぎらりと白く輝く牙。今にもカチコールを砕いてしまいそうなそのプレッシャー。再生が間に合っていないのか、カチコールの身体にはヒビや傷がいくつも入っている。
カチコールはロッカの姿を見るなり、彼女の足元へと近づこうとした。
背中を見せてしまったのが運の尽きだったか、球状のポケモンは勢いよく転がりカチコールを弾き飛ばした。
「だめっ!」
開きかけていたこおりポケモン大全を放り出し、カチコールが飛ばされた方へ走る。
大きく削られた身体。雪解け水に哀れに濡れたカチコールは、既に瀕死寸前だった。
「……ごめんね、カチコール」
震える腕でカチコールを抱きしめ、ロッカはメガネをぐいと掛け直す。
「お願いライム、『アイアンヘッド』!」
腰のボールは勢いよく投げられる。もう一度転がって突進しようとするポケモンの目の前にサンドパンが現れた。一瞬怯んだ隙にサンドパンは頭突きを食らわせる。
「ちょっとちょっと、大丈夫!?」
後方からアルナの声。ロッカは本を拾い、カチコールを抱えたまま相手ポケモンの名前を探す。
「あのどえらい丸い子、こおりタイプなの?」
「この本のどこかで……見たことあるんです!」
爪と牙のぶつかる中、紙を勢いよくめくる音が混ざる。途中でぴたりと手を止めると、ロッカはもう一度相手ポケモンと見比べた。
「やっぱり見つけた、タマザラシ!」
てたたきポケモンのタマザラシ。その丸く大きな身体を目一杯に使い、転がってスピードをつけた体当たりで攻撃してくるこおり・みずタイプだった。
「特性とか、載ってないの?」
「ポケモン図鑑よりは詳しくないんです……でもこれさえわかればっ!」
サンドパンに指示を飛ばす。『つららばり』で背中のトゲをタマザラシに発射。すぐに転がられて避けられるものの、サンドパンは諦めずに撃ち続ける。
「あ、当たってないよ!? あたしも加勢――」
「大丈夫です! これは……私のバトルだからッ」
ざくざくと音を立てながら、霜でぬかるんだ地面に深く突き刺さる氷。相手の転がる攻撃を上手くかわしながら、サンドパンは円形に移動していく。
「ライム、今ッ!」
大きく飛び上がり、針を一本撃ち出した。タマザラシはまるで余裕ありげに転がるが、瞬間あることに気づいた。
タマザラシは、氷の檻に"閉じ込められていた"のだ。
無駄撃ちと見せかけていた『つららばり』だが、針は確実に檻の座標を捉えていた。四方を窮屈な氷柱に囲まれたタマザラシは、身動きできずに狼狽える。転がって壊そうにも、助走をつけられるほどの余裕が無かった。
「『メタルクロー』!」
上空からの強烈な一撃が、タマザラシを深く切り裂いた。悲鳴をあげて、そのまま動く気配は無くなった。
すかさず空のモンスターボールを投げる。光に包まれたタマザラシはボールに吸い込まれると、ゆらゆらと揺れ始めた。その場にいた全員が、固唾を飲んで様子を見守る。
軽やかなスイッチ音。ぴたりと止まったボールを檻の中から拾い上げ、ロッカはほっと溜息を吐いてへたり込む。
「わ、ゲットおめでとう……!」
「……え、えへへ……ありがとうございま――」
言い終わらないうちに、少女のくしゃみの声が静かな道路に響いた。鼻水をすすって、サンドパンを撫でる。しかし、サンドパンは不安げな表情でロッカの腕を見つめていた。
「どうしたの、ライム……?」
「ろ、ロッカ、あんた……腕、どえらいことになってるよ!」
ロッカの腕は、凍っていた。
ピキピキと音を立て、腕の形の氷は次第に大きくなっていく。中心にはカチコールがおり、身体を震わせて冷気を漂わせていた。
それを見たサンドパンは、鋼の爪をぎらりと尖らせる。ロッカはそれを優しく制すると、カチコールのことを優しく撫でた。
「大丈夫……カチコールは、傷を治してるだけだから」
冷たくないの、とロッカは首を横に振ってみせる。どうやら腕が凍っているのではなく、腕の周りに氷が張っているだけらしい。深い傷はあれど、小さな欠けは既に治癒されていた。
そのままゆっくり地面にカチコールを降ろして、目をじっと見つめながら口を開いた。
「……あのね、カチコール」
深呼吸。カチコールは動かずに、じっとロッカのことを見つめ返していた。
「――ごめんなさい」
沈黙。さわさわと響く葉擦れの音。
「私、捕まえることに必死で……あなたのこと、考えてなかった。知らなかった。だから、たくさん怖い思いさせちゃって、本当にごめんなさい。けど――」
言葉が詰まる。溢れ出そうな涙をぐっと堪えて、大きく息を吸い込んだ。
「けどっ、もし……もしも、私と一緒に来てくれるなら……この、ボールに入って欲しいの」
寒さか緊張か、感情の昂りに呼応するかのように震える手で、カチコールのボールをそっと目の前に置いた。
心拍の音が加速する。カチコールはゆっくりとボールに目線を移し、そして静かに見つめる。
――カチコールは、一歩前へ踏み出した。
こつん、とその透明な身体をスイッチに預ける。カチコールはボールの中に静かに吸い込まれていった。
「ロッカ……!」
「あり、がとう……ありがとう……!」
大粒の涙を零して、ロッカはボールを抱きしめて泣きじゃくった。サンドパンもアルナも、彼女らの様子を見て微笑む。心なしか、タマザラシの入ったボールも揺れていた気がした。
「……それじゃ、帰ろっか!」
「は――ふぇっくしょん!!」
返事の代わりに、もう一度大きなくしゃみ。アルナは高らかに笑いながらロッカの背中を叩く。サンドパンも楽しそうに、二人の後をついて行った。