真っ白な天井材のくぼみが顔に見えることがある。これをシミュラクラ現象と言うのだが、そんな現象を八幡はベットの上で体感していた。
(あ、あのくぼみこっち見てんじゃね。恐っ!なんか恐っ!)
八幡が目を覚ましたのはほんの数分前のことである。テンポ良く響き渡る機械音、腕つながれた点滴、どこか薬品臭い部屋の中などから判断して病室であることは明らかではあったものの、肝心のなぜここに自分がいるのか、ということは全くもって理解が追い付いていないようだった。
(確か、俺は……なんかの事故に巻き込まれて……なんだったっけ……)
深く考えようとすればするほど頭が鈍く、ズキズキと痛む。八幡はこれ以上の考察を止めにした。エネルギー消費が激しい割にたいした成果が現れないと判断したからだ。
肌に触れる空気の流れがふと変わる。どうやらドアが開いたようだが、どうにも頭が重く、ドアがあるであろう方向に顔を向けることができなかった。その代わり、声を出す。
「……すいません………そこにいるのは……だれですか……」
入ってきたであろうその人物の行動が慌ただしくなる。八幡の横にあったナースコールのボタンを押し、〝佐藤先生、至急201室へ〟と呼ぶかけ、八幡に話しかける。
「比企谷さん、分かりますか。ここは病院ですよ。分かるのであれば、まばたきしてください。」
八幡は人生でこんなにしたことがないというぐらい全力のまばたきをした。
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医者が病室に来て簡易検査が始まり色々と話していく中で、八幡は今の状況を把握していく。
まず、あの道で集積していたゴミ収集車に規定の処理をせずに中身が残ったスプレー缶数本を収集したことから全ては始まる。
スプレー缶がつぶれた際、中のガスが収集車内に充満。そしてなにかのきっかけで火花が生じ引火。爆発が起こったのだ。
爆発自体は大したものではなかったものの、たまたま真横を通っていた二人はその衝撃で道のブロック塀に打ち付けられ気を失っていた、ということである。
幸い八幡自身、頭への衝撃も軽い脳震盪を起こしただけであり、早期の退院ができるとのことだった。雪乃に関しても同様に命の危険はなく、ただ疲れていたのか今も寝ているとのことらしい。
一通りの検査が終わり、医師たちが去って行くのと入れ替わりに入ってきたのは小町と平塚教諭、陽乃とその隣の和服の女性であった。
「おにいちゃん……良かったよ……なんともなくて……小町ね…ホントに心配だったんだよ。ホントによかった……」
「全く、君という男は……。無茶をして……。」
「ごめんな、小町。心配かけて。もう大丈夫だからな。それから平塚先生もわざわざすいません。授業とか大丈夫なんすか。」
「安心しろ、自習にしてきた。自分の教え子が病院に連れ込まれてじっとしてるような性分ではないからな。あ、陽乃。そろそろ紹介を。」
ややこしいことになると思って、意識的に認知を省いていた陽乃とその隣にいる女性。その出で立ちからして八幡は容易に想像がついた。
「比企谷君、こちら私たちの……」
「こんにちは、比企谷さん。雪ノ下雪乃、陽乃の母です。」
丁寧にお辞儀をする雪ノ下の母に八幡は緊張を覚える。おそらく八幡の母とは同じくらいの年齢であろうにもかかわらず、容姿は20代後半と言われたらそう信じてしまうほどの若さと美しさを保っている。ただ、その裏側にある人間的な何かを隠し、強化外骨格を身につけているのは明白であり、そこに恐怖を感じているのだ。
「妹さん、平塚先生、話したいことがたくさんあるのは重々承知しておりますが、少しだけでいいので比企谷さんと二人きりで話したいのですが、ダメでしょうか。」
唐突な提案をしてきたのは、雪ノ下母であった。
「ええ……もちろんです。では、こちらは雪乃さんの方を見てきます。二人とも行こうか。」
平塚教諭が二人をつれて出て行った病室には当然のことながら八幡と雪ノ下母が残る。
「そんな深刻そうな顔しないでください。取って食おうとしているわけではないですから。私は貴方に感謝しているんです。」
「……感謝ですか。」
「そうです。感謝です。あ、これお好きだそうで。どうぞ。」
雪ノ下母がどこからともなく取り出したのは黄色のプリントが目立つあの飲みもの、マッ缶である。
ありがとうございます、と受け取り、プルトップを開け喉に流し込むマッ缶のあの気持ちが悪くなるほどの甘ったるい味に八幡は微かな心の安らぎを感じていた。
「さて、改めて言わせてください。ありがとう。雪乃を守ってくれて。」
「頭を上げてください。たまたまですから。」
「いえ、それでも娘を守ってくれたわけですから感謝してもしきれません。それに貴方があの子の友達になってくれたことも感謝しているんですよ。」
(俺と雪ノ下が友達……?それは……)
違う、と話すことはできなかった。今、雪ノ下の母親が思っている比企谷八幡という人間への賭ける期待に応えられないことは自分でもわかっているものの、母親として娘の交流関係を心配する気持ちを考えると「否定する」という選択がどうにも残酷に見えてしまうからであった。
「あの子……雪乃は昔から友達がいなかったの。たぶん私の遺伝なのだけれど、ズケズケと物事をはっきりと言う彼女には人が寄りつかなかったのね。友達を家に連れてくることもなく、一人で読書にふける日々。小学校、中学校……ずっと一人だった。もちろん、一人でいることは否定しないわ。ただ、親としては心配でね…いろいろと介入してしまったの。そのせいで家を出て行ってしまったのだろうけど。高校進学して部活に入り、貴方たちに出会って、彼女は変わったと思うわ。表面的にはあまり出してこないけれど、行動がまるっきり変わった。家族でない誰かにわがままを言うなんて昔なら考えられなかったもの。」
この人はどこまで知っているのだろう。雪乃の一連の依頼、もといワガママまで認識しているのだろうか。
あの……と口を開く八幡の声を遮り、雪ノ下母は話し続ける。
「私は何も知らないわ。ただ、貴方たちの空気感から察しているだけ。比企谷さん、一つお願いがあります。いつか雪乃が困ったら助けて欲しいのです。彼女は正直ではないから……」
「……善処します。というか善処してます。」
「……そう、ありがとう。比企谷さん」
親が子を想う。それは子が考えているよりもずっとずっと深い行為で、表面では計り知れない特別な行為である。その本当の意味に気づくのは子が親になった時だけかもしれない。八幡は病室の窓を眺め、ぼんやりとそんなことに考えを巡らせていた。
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八幡の部屋を出た三人は雪乃の部屋に向かったが、すでに先客がいるようでほんの少しではあるがドアが開いていた。
平塚教諭が覗くと見えたのは、雪ノ下の手を握る結衣の姿であった。
「来ていたのか、由比ヶ浜。」
「……先生、小町ちゃん、陽乃さん。ヒッキーはどうですか。」
「大丈夫。何にも異常はないとさ。今は雪ノ下のお母様と話をしているよ。じきに由比ヶ浜も面会できる。由比ヶ浜は大丈夫か。」
「わたしなら大丈夫です。心配ばっかりかける二人にはまったくこまったものですよ………なんてね。」
「結衣さん、ちょっと私とお茶しませんか。小町、病院の近くにおしゃれなカフェ見つけてたんですよ。いきましょう!」
「……そうだね。うん、いこっか、小町ちゃん。」
うまく結衣を誘導して病院から遠ざける小町を見て、平塚教諭は感心する。平塚教諭から見て、明らかに結衣は精神的に消耗していたようだった。無理もない。大好きな二人が一時的とはいえ意識不明だったのだから。
二人が出て行き、残った陽乃は八幡から受け取ったあの紙の内容についてずっと考えていた。
〝ストーカーに狙われている。情報はこちらから送る。〟
そう書かれた紙を八幡から渡された時には生意気だと思ったものだが、今はそんなことはどうだっていいのだ。
もしもこの爆発事件がそのストーカーによるものならば、自分の妹、そしてお気に入りを傷つけたその人物に対して制裁を加えなければならない、そんな復讐心が胸の中で渦巻く。
「陽乃、さっきから大丈夫か。あまり話していないが。」
「え?あ、大丈夫だよ、静ちゃん。ちょっと怒ってるだけだから。」
「お前…自分でおもっているよりもずっと感情が読み取られやすくなってるぞ。」
そんな時だった。雪乃の部屋のドアが勢いよく開く。
現れたのはスーツを着たやせ形の男、そしてやや小太りの制服を着た青年であった。
「平塚先生、お疲れ様です。」
「小林か……私が付き添うから来なくていいと言ったのに。」
「いやいや、これでも一応J組の担任ですから。来ないわけにはいかないでしょう。あ、お姉さんですか。私、J組の担任をしております小林和俊と申します。」
小林はベットで横になっている雪乃の顔を確認する。
「良かった……怪我はしてないみたいですね。」
「ばかか、お前は。怪我してないわけあるまい。爆発の衝撃でいくつか捻挫だったり、むち打ちになったりしているそうだ。もう少し考えて発言しろ。」
「いえいえ、私は〝あまり怪我していない〟という意味で使ったんですよ。ただ、お気に障ったのなら謝ります。すいませんでした。」
平塚教諭の様子が攻撃的であったことがやや陽乃からしては気になったが、それよりも小林と一緒にいる青年に目がいく。
女性は視線に敏感だ。だからこそ、この青年がさっきから雪乃の寝ている姿をジロジロと観察するように眺めていることが感覚的にわかる。
「それで小林先生。そこの丸っこい青年は。」
「ああ、紹介が遅れました。彼は小暮正樹と言いまして、J組のクラス委員なんですよ。実は二人が爆発に巻き込まれた時、警察や救急車を呼んだのは彼なんです。何か問題でも?」
「小暮です。二人が爆発に巻き込まれたことが気になってしまい来てしまいました。すぐに帰りますので私のことは気にしないでください。」
陽乃は小暮正樹に気持ち悪さを感じていた。まるで自分と同じように強化外骨格で本物を隠しているようでだったからだ。とにかく、彼はヤバい人間だと頭の中で完全に認知していた。
「そういえば、もう一人の方は大丈夫だったんですか。雪乃さんと一緒に登校していた彼は。」
「大丈夫よ。容態は安定しているから。申し訳ありませんがそろそろおかえりいただいてもいいでしょうか。妹もまだ目覚めていないことですし、また後日いらしてください。」
「これは失敬。まあ、元々今日は顔を見るためだっただけですから。また来ます。それではいきましょうか。小暮君。」
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「で、なんなの?あの人達。」
「いや、なんなのと言われてもJ組の担任だ、としか……。まあ、彼とは一応同期だがあまり馬が合わなくてね。ただ、生物の分野では優秀な奴で来月、アメリカの大学の研究員として迎えられるらしい。昨日、同期同士の飲み会というか送別会もどきをやったんだが終始話が合わなくて困ったよ。」
「ふ〜ん。じゃあ、小暮とかいうガキは。」
「雪ノ下雪乃と同じクラスメイトぐらいに認識してないからな。なんとも言えん。」
「失礼するわ、先生。陽乃少し手伝って。」
雪ノ下母が連れてきたのは八幡であった。点滴スタンドを持ち、頭に包帯を巻いている姿は怪我人そのものである。
「お母様、比企谷くんはまだ安静にしてないと‥‥」
「陽乃さん、俺です。俺が頼んだんです。」
陽乃に支えられ、スタンドを持ちながらもベッドの横にある椅子に腰掛け、八幡は雪乃の寝顔を見る。
(全くいつまで寝てるんだか‥‥寝坊助め。)
「‥‥‥‥比企谷君。寝坊助って誰のことかしら‥‥‥私のことなら許さないわよ‥‥‥」
うっすらと目を開ける雪乃。蛍光灯の光が眩しく、しばらく場所の把握ができないほどだった。
「目が覚めたのか。雪ノ下。ちょっと待ってろ、先生呼ぶから‥‥痛で!」
(無理しないで。焦らなくても先生ぐらいすぐ来るわよ。ちょうど今、姉さんがナースステーションに行ったようだから安心して。)
「そうか‥‥焦ったわ、マジで。」
(貴方は大丈夫?包帯を巻いているみたいだけど。)
(安心しろ。ちょっと脳震盪起こしただけだから。このまま帰宅できるぐらいだ。)
「そう‥‥安心したわ。」
「なあ、比企谷に雪ノ下。お前ら、大丈夫か。雪ノ下と‥‥その、だな、話が、噛み合ってないぞ。」
「先生何言って‥‥‥‥え?」
(そうよ、ちゃんと会話して‥‥‥ないわね。)
(は?どういうことだよ‥‥わけわからん‥‥‥)
混乱から混乱が生まれる、そんな瞬間であった。