以心伝心な二人   作:レスキュー係長

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⑩自己犠牲

 

 

薄暗い病院の廊下に置かれていたベンチに腰掛けた由比ヶ浜のもとに八幡らが到着したのは、戸塚が運ばれてからさほど時間はかからなかった。

 

 

「由比ヶ浜……」

 

「ヒッキー……どうしよう……私……」

 

 

結衣が八幡の胸に飛び込んでくる。震え、静かに泣いている結衣は優しく抱き止め、髪を撫でる。

 

 

「よく頑張ったな…それから、すまんかった……目を離したのは俺の方だ。あいつの横に居てやるべきだったのは俺なんだ。」

 

 

結衣は八幡の胸の中で首を横に振る。声にならない〝違うよ〟と共に。

 

 

「由比ヶ浜、戸塚はどうなってる?」

 

 

少し遅れてやってきた平塚教諭は結衣に問う。結衣は深呼吸してから八幡から離れ、口を開く。

 

 

「大丈夫だそうです。頭を殴られて脳震盪を起こしただけだって……すぐに目を覚ますってお医者さんはいってたけど今は安静にしてもらってます。」

 

 

八幡は拳を強く握る。自分の爪が手のひらの皮膚に食い込む。痛い。だが、心はもっと痛い。罪悪感と絶望が心の中で渦を巻き、気が狂いそうだった。

 

 

「すまなかった。由比ヶ浜。私の責任だ。」

 

じめじめとした雰囲気の中、頭を下げたのは平塚教諭だった。

 

 

「ちょ……止めてください。先生。先生は悪くないです!」

 

 

慌てて結衣が止めようとするが決して平塚教諭は顔をあげない。

 

 

「いや、助っ人を呼んでいたとはいえ学生だけにしてしまったのは私の責任だ。君たちの責任なんてないよ……」

 

 

いつの間か鼻声になっている平塚教諭にその場の人間は何もいえない。

静かな廊下に複数の足音が響き渡る。その音は遠くから聞こえていたがやがて八幡たちのすぐそばで止まる。

 

 

「しょげてる暇はないよ、しずちゃん。雪ノ下さんを取り戻す最大限の努力をまだ君はしてないじゃないか。」

 

 

平塚教諭は顔をあげ、声の方向を確かめる。身長185cmはあるだろうか。ぴっしりとしたスーツにオールバックという威圧感満載の身なりに平塚教諭以外の人々は思わず身震いしてしまうほどであった。

 

「近藤……」

 

「皆さん、こんばんは。千葉県警生活安全部少年課、近藤雄一だ。」

 

 

 

 

「なるほど。一連の流れと君の考えはよく分かった。その話ぶりだとそれらの紙以外に犯人を特定するようなものはないようだね。」

 

 

近藤、という男は部下を引き連れて八幡達の事情聴取を始めた。なんでも近藤は平塚教諭の幼なじみであるらしく、この話もちょくちょく耳に入れていたようだった。

 

 

「あ、ヒッキー。忘れた。これね、倒れたさいちゃんの横にあったんだけど。」

 

その紙は八幡が受け取った内容と全く同じ文面が書かれたものであった。

 

 

(やっぱりか。)

 

 

「……さっきお話ししたようにこれが雪ノ下を救える唯一の切り札でもあります。どうにかお願い出来ませんか。」

 

「だがね……」

 

「時間がないんです。この文章の通りなら雪ノ下の身に危険が迫っているのは明らかですから。」

 

「私からもお願いしたい。近藤頼む。」

 

近藤は顎に手を置き、考えにふける。

しばらくすると部下に指示を出し、部下二人は早々に病院を出て行く。

 

 

「しずちゃん、これは借りだ。今度、一杯奢ってくれよな。」

 

「助かる。ありがとう。」

 

 

しばらくするとドスドスと廊下の先から重い足音が近づいてくる。蛍光灯に照らされて見えたのは小林教諭である。

 

 

「平塚先生、遅れてすいませ…」

 

「小林先生、お願いしたじゃないですか!三人を保護してくださいと……いや、すいません。急に連絡したのは私のほうなのに……」

 

 

平塚教諭が話を切り止めたのはそれが八つ当たりのように思えたからだ。自分の判断ミスを人に投げつける、そんな醜い人間にはせめてなりたくなかったのだ。

 

 

「いえ、私ももっと早く仕事を切り上げて向かえば良かったんです。あ、君は比企谷君だね。始めまして。J組担任の小林和俊です。」

 

「‥‥‥うす。」

 

「さあ、君たち。夜も遅くなってきたから早く家に戻った方がいい。」

 

「そうだな。戸塚のご両親ももうじき到着するそうだ。あとは我々と警察に任せて家に帰りなさい。陽乃、私の車で由比ヶ浜を送ってやれ。比企谷も……」

 

「私が送りましょう。家の方向が違うならそうした方がいい。」

 

 

平塚教諭は少し考え込んだ後、お願いします。とだけ話し、解散することになった。

 

 

 

 

 

病院の駐車場。そこにとめられたセダンに乗り込む小林教諭と八幡。

 

「比企谷君。今日は疲れただろう。少し寝ていてもいい。着いたら起こしてあげるから。」

 

「はあ……ではお言葉に甘えて。」

 

 

助手席で八幡は目をつぶる。

 

 

そうして八幡を乗せた車はゆっくりと動き出していった。運転席で笑っている小林教諭に八幡は気づくことはなかった。

 

 

 

 

*******************

 

 

 

 

八幡が乗って既に十五分ほどたっただろうか。

暗く、人通りの少ない道を行っていた車が止まったのは一軒家の脇にある空き地であった。

 

 

「いい寝顔だ。すぐに会えるからな。」

 

 

そう小林教諭はハンカチと瓶を取り出し、瓶の中の液体をハンカチに染みこませ、八幡の口元へと手を伸ばす。

 

 

「ずいぶん古典的な手だな。コナンもびっくりするわ。」

 

 

八幡の口が動き、小林の手が止まる。いや、止めたのだ。八幡の左手が小林の手をしっかりと掴んで離さない。

 

「なっ!」

 

 

小林は驚き、手を引っ込める。

 

 

「‥‥‥アンタだな。一連の騒動の犯人は。」

 

「どうしたんだい、比企谷君。私はただ……」

 

「こんな訳の分からないところまで連れてきて言い訳するつもりか?」

 

 

沈黙に包まれる車内。ただ、雨が車体にたたきつけられる音がするのみであった。

 

 

小林は車内ライトをそっと点ける。

 

 

「……どこで分かった。」

 

「いまここで……というのは格好つけすぎか。正確には病院でアンタが俺と二人っきりになろうとした時だ。俺はその瞬間を待ってたんだよ。」

 

 

 

八幡は席に座り直し、話を続ける。

 

 

 

 

===================

 

 

 

八幡らがららぽーとに向かっている車内まで時を巻き戻る。

 

 

八幡は先程の小暮から受け取った例の紙を眺めていた時のことだ。

 

 

 

「どうしたの?そんなにそれが気になるの?」

 

 

隣にいた陽乃が問うと八幡は静かにうなずく。

 

 

「なんで俺にわざわざ渡す必要があったんですかね。」

 

「知らせるためじゃないか?犯行予告なんだろ?」

 

「ですけど今までの行動と整合性がとれない。」

 

 

例の紙は今まで雪乃本人に渡されていた。それなのに今回に限り八幡に渡された。ここに意味があるように思えてならなかったのだ。

 

 

「……意味。これは……雪ノ下じゃない。俺への犯行予告だとしたら‥‥」

 

「比企谷君、それどういうこと?」

 

「ミスリードだとしたら説明がつくんすよ。これから襲われるのは雪ノ下じゃなくて俺だ。この犯人には一つの法則性がある。それは必ず被害者本人に対して犯行声明を送っているということ。つまりこの手紙を受け取った人間がターゲットになる。」

 

「じゃあ、次のターゲットは君だと?どうして?」

 

 

運転席の平塚教諭からも質問が

 

 

「‥‥動機まではわかんないっすし、これもあくまで仮説です。でももしそうなら……俺を囮に使ってくれませんか。」

 

「何言ってるんだそんなのダメに決まってるだろう。君はどうしていつもそんな考えに至るんだ。また自分を犠牲にして、しかも今回は確実に助けられる保証もない。君も雪ノ下も両方危険に晒すことはできん。」

 

 

怒気に満ちた平塚教諭の声。しかし、八幡は怯まない。

 

 

「じゃあ、このままじっとしていろと言うんですか!それにもうこれぐらいしか早急に解決できるチャンスはないんですよ……犯人は俺と二人きりになろうとするはずです。そこを叩けば……」

 

 

平塚教諭はバックミラーで後ろをちらりと見る。その目には覚悟がしっかりと見えていた。

 

 

(全くどうすればいいんだか‥‥他に解決法もない今、比企谷の提案しか打開策はないのは分かる‥‥近藤に相談だな……)

 

 

「……なるほどな。比企谷の考えはよく分かった。………」

 

 

 

 

===================

 

 

 

「雪ノ下が連れ去られた現場にもあの紙が落ちていた、と聞いて確信した。仮説は正しいと。まあ、少し予定とは狂ったが、後は俺と二人っきりにしようとする人物を待っていたというわけだ。まあ、アンタだったわけであるが。」

 

「なるほど……これはこれは素晴らしい。ここまで付いてきたのは雪ノ下さんの居場所を特定するためか。」

 

 

いつの間にか雨も弱くなり、車体に落ちる雨粒の音も小さくなる。

 

 

「ああ。言っておくが、後ろにさっきの刑事さんがぴったり尾行してきてるし、今の会話も筒抜けだからな。いずれにしてもお前は捕まる。大人しく雪ノ下の居場所を教えろ。」

 

 

八幡は自分のスマホを小林に見せる。そこには通話中の文字が表示されていた。

 

 

「あははははははは!あははははは!面白い!面白い!」

 

 

小林は突然狂ったように笑い始める。

八幡は身構える。

 

 

「ああ、面白い。でも分かって欲しいな。僕はただ与えたかっただけなんだよ。永遠の命を。その高貴な僕の実験の第一号に雪ノ下さんと君の二人は選ばれたんだよ。」

 

 

「なにを言ってる。早く居場所を吐けよ。くだらん戯言に付き合ってる暇はない。」

 

 

八幡の言葉から滲み出る怒りをもろともせず、小林はべらべらと話し続ける。

 

 

「人間は動物だ。だからいつか老いて朽ち果てる。それは世界の理であるから仕方の無いことだよ。でもね、剥製にしてしまえばその理から外れる。永遠に生きることが出来るんだよ。雪ノ下さんはその美貌を永遠に保つことが出来る。素晴らしいことだとは思わないかい?ああ。君のことを忘れていたよ。君は雪ノ下さんへのせめてものプレゼントだよ。つがいとしてのね。君は目は腐っているが顔立ちや体格も悪くない。雪ノ下さんにふさわしいと僕は思う。君たちは永遠に愛し合えたはずなのに‥‥」

 

 

屈託の無い笑顔でそう話す小林を〝狂っている〟と思うしか無かった。なにが彼をそこまでにさせてしまったのか。様々な思いが頭いっぱいに広がるが、今はそんな暇はない。八幡は小林の胸ぐらを掴み、叫ぶ。

 

 

「どこにいる!とっとと話せ!」

 

 

 

「八幡君はせっかちだね。もう少しで〝本物〟になれたのに‥‥それより僕の実験を邪魔する奴は消さないとね。」

 

 

小林が唐突に八幡の首に手をかける。すさまじい力で首を圧迫してくる。

 

 

「死ねええええええええ!!!」

 

 

八幡もとっさにその手を除けようとするが、いかんせん力が段違いに強く、気道が圧迫される。

 

(ヤバイ‥‥‥マジで殺られる‥‥‥‥)

 

 

 

しかし、その手はすぐに離された。八幡が気づくと小林はその場からいなくなっていた。男二人に車内から引きずり出され既に拘束されたからだ。

 

近藤が叫ぶ。

 

「午後八時二四分、殺人未遂の容疑で現行犯逮捕。しずちゃん、比企谷君を。」

 

 

「比企谷大丈夫か?」

 

 

車内を覗いたのは平塚教諭であった。八幡は体中に入れていた力が一気に抜けていくのを感じる。

 

大丈夫です。と平塚教諭に話し、車から降りると近藤が小林を尋問していた。近藤の表情は獣のように険しく、普通の人間なら失禁してしまうほどの迫力だ。

 

 

「もう終わりだ。お前が連れ去った子は今どこにいる。大人しく話せ。」

 

「……お前らは僕の高貴な実験を邪魔した。応えるつもりはない…せいぜい探すんだな…そこの一軒家は僕の家ではあるが雪ノ下さんはいないぞ。安心しろ。お前らが見つける頃には冷たくなってることさ‥‥‥」

 

「お前っ!」

 

 

殴りかかろうとした八幡を近藤が止める。

 

 

「待て。こいつがガセを流しているのかもしれない。まずはその家を確認しよう。連れて行け、後で署でじっくり絞ってやるよ。俺はここに残っていくから後は頼むぞ。」

 

 

近藤は小林のズボンから無理やり鍵を取り出し、連れて行くよう二人の部下に命じる。

八幡達はそこにそびえる一軒家の敷地に入る。

 

 

「いいのか。敷地に入って。」

 

「あいつはもう被疑者だ。いずれ調べることになるだろ。まあ、いざとなったら俺が責任とってやるよ。」

 

 

近藤は玄関の鍵穴に鍵を差し込む。ガチャという音と共にその扉は開いた。

 

 

 

 

 

一軒家に踏み込んでいった四人。家の中はさほど散らかってはおらず、むしろきれいに整理整頓されていた。

 

各部屋の明かりが点くと四人は現場の捜索を始まる。

 

しかし、その部屋も人の気配はなかった。ただ、ひとつの部屋だけ妙に生活感の残る子供部屋があるだけであった。

 

 

「あんまりあさるなよ。現場保存は操作の鉄則だからな。」

 

「さっきからそこら辺の書類をあさりまくってるお前が言うな。」

 

「まあ、俺は刑事だから別に……ん?なあ。被疑者、小林って言ってたよな。さっきから年賀状見てるんだが小林なんてどこにも無いぞ。〝瀬田俊介〟ならたくさんあるが。」

 

 

八幡も確認する。年賀状、社会保険証、免許証そのすべてが〝小林和俊〟ではなく、〝瀬田俊介〟であるのだ。

 

 

一方、陽乃はその名に引っかかりを感じていた。どこかでその名を聞いた。ではどこで聞いたのか。それが思い出せず、もやもやする。

 

 

平塚教諭のポケットから着信音が鳴り響く。平塚教諭が急いで応答し、二言ほどしゃべった後、スマホをポケットにしまった。

 

 

ちょうどそのときだった。陽乃がその名の正体を思い出したのは。

 

 

「すまんが、離脱する。戸塚の意識が戻ったらし……」

 

「居場所が分かった!あのゴミ御殿よ。」

 

「突然なんだ‥‥ゴミ御殿って、あの千葉じゃ有名なあのゴミ御殿のことか?なんで急にそんなことを。」

 

「私あそこの所有者を調べてたんです。そしたら、前の所有者が瀬田俊介だって書いてあったんですよ。」

 

「まて。それじゃあ確実じゃなかろうよ。同姓同名の人物かもしれない。それにこの人物と小林との関係も明らかじゃないだろう。どうして断定できる?」

 

 

 

「勘よ!」

 

 

「あのな‥‥‥」

 

 

陽乃の放つその言葉には論理性のかけらもなかったが強い説得力を帯びている。しかし、残念ながら近藤はそんなことで怯むことはなく、寧ろその考えの甘さを懇切丁寧に陽乃は説き伏せ始めた。

 

 

一方、八幡は先程から頭の奥底に響いてくる声を捉える。

 

 

(‥‥いや‥‥‥出して‥‥‥せまい‥‥)

 

(‥‥‥雪ノ下っ!雪ノ下なのか!どこにいるか、自分で分かるか?)

 

(‥‥‥比企谷君?!‥‥いいえ。目覚めたらここに居て‥‥)

 

 

八幡は部屋のカーテンを開け、外の様子を確かめる。ずっと降り続いていた雨はいつの間にか止み、月の光が差し込む。

 

 

(自力で出れなくて‥‥‥どこを押してもビクともしないの。それにひどく寒い。)

 

(いいか、雪ノ下。大丈夫だからジッとして呼吸を最低限にしろ。パニックを起こすな。大丈夫だから。)

 

 

 

「‥‥‥陽乃さん、行きましょう!」

 

「ごめんね、静ちゃん。」

 

「お前ら何を‥‥‥おい!鍵を返せ!」

 

 

鍵を平塚教諭が奪い、玄関へと走る二人は決して振り向かない。

 

 

外に出た陽乃はすぐさまセダンの運転席へ、八幡は助手席に乗り込み走り去っていった。

 

 

「あいつら!」

 

「しずちゃん。落ち着けよ。既に周辺を巡回中のパトカーにゴミ御殿に向かわせている。全く。お前の教え子はロクなやつがいないな‥‥」

 

 

 

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ヘッドライトが照らす夜道は雨のせいかキラキラと照り返す。

 

 

「いいんですか、あんなことして。」

 

「いいわけないじゃない。でも雪乃ちゃんが心配だから‥‥あの子は私の妹だから‥‥‥」

 

 

陽乃はハンドルをグッと握りしめ、アクセルを加速させる。

 

 

「大丈夫です。雪ノ下はまだ生きてます。」

 

「‥‥‥何それ。もしかして勘?」

 

 

「いえ、そうじゃないんです。俺と彼女は‥‥‥以心伝心なんすよ。」

 

 

アクセルがまた加速する。

 

 

「以心伝心‥‥‥‥?比企谷君、それってどういうこと‥‥?」

 

 

八幡は彼女に問いかける。

 

 

(雪ノ下、他に何か手がかりになるようなことはあるか?)

 

(他に‥‥?この空間が私が体育座りでやっと入れるくらいだということかしら。体は動かせないわ‥‥‥)

 

 

「寒くて体育座りでやっとの空間に閉じ込められている‥‥って言ってます。」

 

 

「え?なんでそんなこと急に‥‥⁉︎」

 

 

八幡があまりにも具体的に話すため陽乃は思わずふざけているかと疑うが、八幡の目は本気そのものでありふざけているようなそぶりもない。

 

 

「‥‥まあ、本人に聞いたんで。信じてもらえないかもしれないけど。」

 

 

「‥‥‥もし、それが本当なら急がなきゃ。密閉した空間で長時間入れば、酸素はどんどんなくなっていく。酸素欠乏症になりかねないよ。」

 

 

今度は雪乃から呼びかけられる。

 

 

(比企谷君、運ばれてる途中、暫く停車してUターンした時があったの‥‥断片的だから当てにならないかもしれないけれど‥‥‥)

 

 

セダンが急激に減速する。フロントガラスからは工事の看板が立てかけられ、既に数台が並び軽い渋滞が発生していた。

 

 

「くっ!工事なんて!あと少しなのに!」

 

 

陽乃はクラクションを鳴らすが状況は変わらない。時間は残酷にも過ぎ去り、絶望を連れてくる。

 

 

「比企谷君、降りて。歩行者ならここを通り抜けていけるし、走っていける距離よ。Uターンするよりもそっちの方が早いはず。」

 

「陽乃さんは‥‥」

 

「私のことはいいから早く行って!雪乃ちゃんを見つけてきて!」

 

 

陽乃の言葉に背中を押され、八幡は走り出す。工事現場を抜け、ただひたすらに足を動かす。

 

 

(比企谷君‥‥‥ごめんなさい。貴方を巻き込んで。)

 

 

走りながらも流れ込んでくる雪乃の意識が薄く感じる。それをどうにか繋ぎとめるために話しながら彼女と心を通わせようとする。

 

 

(今更何言ってんだ。大体俺は巻き込まれたなんて思ってねえ。全部自分で決めたことだ。)

 

(‥‥‥羨ましいわ。私にはそんなことできないもの。いつも誰かに決めてもらってばかり。)

 

(‥‥‥そんなことはねえ。オープンキャンパスの件はお前が自分で決めてやったことだろうが。お前が決めて、お前が実行した。お前は変わったよ。)

 

 

既に心臓に酸素がいってないように感じる。苦しい。それでも八幡は走るのだ。

 

 

(比企谷君。私、眠たくなってきたわ。体もだるくって‥‥)

 

 

(雪ノ下、寝るな!いいから話を続けよう。いや、もう目の前なんだ。ほら、着いた。雪ノ下、雪ノ下!)

 

 

プッツリと張りつめていた糸電話を切られたかのように彼女の意識が途絶えた。既に八幡の目の前には御殿の門がある。

 

 

「クソッタレが!!」

 

 

 

 

八幡の慟哭がかすかに彼女の意識が反応しているように感じる。

 

 

(やはりここにいる!どこだ!狭く、開けられず、寒い場所‥‥冷蔵庫‥‥‥)

 

 

車庫に入る八幡は置いてある無数の冷蔵庫を開ける。しかし、どれもこれも彼女の姿はない。

 

 

(落ち着け、俺。寒いということは電源が入っているはず。コンセントから辿れば‥‥‥)

 

 

車庫の脇にあるコンセントについているコードを辿る。その先にはいつの日か八幡が見た外国製と思しき年代物の冷蔵庫に繋がれていた。

 

(これだ!頼む!)

 

 

その冷蔵庫のラッチを外す。

 

 

 

 

冷蔵庫の中では雪乃が体育座りのまま、意識を失い倒れていた。

 

 

「雪ノ下!」

 

 

八幡は冷蔵庫から雪乃を抱え、呼びかけるも返信がない。唇は青紫になり、体も冷たく氷のようだった。

 

とにかく温めるために八幡は自分のきていた制服の上着を着せ、横にする。

 

雪乃の左手をとり、脈を確認する。

 

 

(脈はまだあるのか?分からんが心臓マッサージやらねえと‥‥)

 

 

八幡は気道を確保し、雪乃の胸に手を置き、いつの日かテレビでやっていた心臓マッサージ講座を思い出しながらも始める。

 

時折、人工呼吸を織り交ぜながら意識の確認をするが反応がない。

 

(頼むから戻ってこい。戻ってこい。)

 

 

「戻ってこい!頼むから‥‥戻ってきてくれ‥‥‥雪ノ下!」

 

 

八幡の叫びが車庫内にこだまする。

 

 

パトカーや救急車のサイレンの音が近づいてくるのが耳に届いてくるが手を休めることは決してしない。

 

 

 

 

雪乃が救急隊員によって病院に運ばれたのはそれから1分もかからなかった。


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