がっこうぐらし!―Raging World― 作:Moltetra
昼食後。玄関先で冷たい井戸水を被り体を洗っていると玄関の引き戸が開かれる。生憎俺は頭を洗っている途中で、誰が来たよりかも泡が目に入る方が嫌でとりあえずひたすらに泡立てて汚れを落とそうとしていた。
「……誰だ」
近付いてくる微かな足音。恐る恐るといった感じで今の所誰の音かは判別できない。だが、その手は優しく俺の背中―――銃創がある場所へと添えられた。一応防水用の絆創膏を貼っているおかげで沁みる事はないが……
「流石に無言はやめてくれないか、肝が冷える」
「ごめんなさい、声を掛けようとしたんだけど背中を見たらなんだか……」
聞き慣れた声、悠里だ。
「何しに来た。手伝いはいらないぞ」
若干冷たく当たってしまうのは自分に余裕がないからだろうか。こうして目を閉じている間、嫌な記憶が続々と想起される。奏楽の事だけじゃない、その後も、そのまた後も、脈略のない……忘れていた記憶が次々と突き付けられる。今まで全てを忘れてのうのうと生きていた自分を戒めるかのように。
「お願い、手伝わせて? それに、皆で話してた事も伝えておきたくて」
「はぁ……それならそうと早く言え」
こうして2人きりになるのはそうそうない機会だ。ついでにこの際溜め込んでいる鬱憤も不安も、全部吐き出させてしまおう。
3回目にもなる洗髪を終えて、久し振りにさらさらの髪に戻る。今まであまり気にする余裕はなかったが……髪もかなり伸びたな。後ろ髪は服の襟まで届いてるし、前髪も両目を覆ってしまっている。まあ昔はこのくらい普通だったし特別うざったく思う訳でもないが。
「それで、話してた事ってなんだ?」
濡らしたタオルにボディーソープを付けて軽く泡立てる。悠里にはもう1枚を渡して背中を任せた。ちなみに下半身は公民館にあった奇抜な柄をした短パンを履いている。
悠里は優しく左肩を擦りながら、しばらくの沈黙の後ようやく口を開いた。
「結楽ちゃんのお家、結構大きいらしくて……塀で囲まれてるそうだしとりあえずそこにしばらく避難しないかって」
「……で、その子の了承は取れたのか」
「うん。というより結楽ちゃんの提案なの。皆でこれからどこに行くか相談してたら私のお家に来ない? ってね」
「それは願ったり叶ったりだな」
周囲が囲まれているならバリケードを敷設する手間も省ける。この人数なら本気を出せば整備など1日で終わらしてしまうだろう。
「それと……」
「なんだ?」
「昨日から胡桃の様子が少し変で……妙にそわそわしてるの」
次は胡桃か……美紀の問題もまだ片付いていないっていうのに、厄介事は次から次へとやってくる。だが、胡桃の件は無視できない。あいつは感染者だ、いくらワクチンを打ったとは言え絶対に発症しないとは言い切れない。
それは俺も同じ事で……いくら噛まれてすぐに縛って血流を止めたとしても、微量のウイルスが漏れてもおかしくはない。それに切り落としたのは5分程経った後―――その後にワクチンを見つけて接種したが……
俺が考えていると、悠里は心配になったのか俺の顔を覗き込んでくる。
「ん? ああ、大丈夫だ。出来る限り優先的に進める」
「いえ、あの……大丈夫? すごく体が冷たくなってるわ……」
「まあ、冷水浴びてるからな」
話している間にも手早く体を洗い、残るはこの短パンの下……なんだが。
「悠里、悪いが中で待っててくれるか。背中も終わったんだろう?」
「終わったけど……どうしたの?」
「これから下も脱ぐんだが」
「あっ、そ、そうよね! ごめんなさい! じゃあ私中で待ってるから!」
耳まで真っ赤になった悠里は手に泡が付いたまま光の速さで建物に突っ込んで行く。扉を開け切る前に体を滑り込まそうとしたのか、途中でどこかをぶつけたらしく「あいた!?」とか叫んでるし。全く初心な奴よ、この程度で動転してたらボロボロの服を着たあいつら相手からどう身を守るのか。
手早く、誰かが来ない内にくまなく洗い、冷たいとかを無視して冷水を被る。そして全身に泡が残ってないか、どこにもヌメりがないかを確認してささっと水気を拭き取り服を着て……
「……なるほど、あの匂いの正体はこれか」
自分から甘い匂いがする事に違和感を覚えながらも、胡桃から借りた一式を持って戻った。だが胡桃や美紀、悠里達の前に出た瞬間髪が乾ききっていないなどと言われ、3人掛かりでストーブの前に座らされ頭をゴシゴシと擦られる事になる。
「……デカいな」
「ええ……すごく大きいわね」
「こんな大きいの初めて見ました……」
「……確かにそう言いたくなる気持ちもわかるが、やめてくれないか」
胡桃、悠里、美紀の三者三様の反応に呆れながらも、俺も同じ感想を抱く。俺の髪が乾いた後、俺達は全員で少女の家に来ていた。移動するなら早い方がいいという坂上の助言により、とりあえず全員で一気に行く状況になってしまったのは悔やまれる。時間は掛かろうと、まずは先遣隊を送り周辺の状況を偵察するのが無難だ。
とは言え、道中数体の感染者と遭遇したが難なく辿り着けたのも事実。今回は運が良かった。
「立派な門だな、これなら今まで食い止められたのも頷ける」
坂上が重厚な門を叩くと、微かに軋みながら門が開く。
「確かに、これならバリケードも最低限で問題ない。イツキ、銃を抜け。俺と坂上は敷地内の見回り、お前は悠里達を先導だ。クリアリングをしっかりな」
「了解です!」
「くれぐれも汚し過ぎるなよ」
門をくぐり、一番最後に入った胡桃が閂を掛ける。門も立派なら鍵も立派な物で、トラックでも突っ込んでこない限りは破られそうにもない。
「わからないな。何故過剰に棲み分けするのか」
「……何の話だ」
建物の中に入っていく皆を見送る坂上は、2人きりになったのを見計らってか苦言を呈する。
「全員で行けばそれだけ目も増える、戦えずとも見張りにはなるぞ。だというのにお前は戦闘班だけでまず先遣隊を派遣しようと言った」
ああ、ここに来る前の会議の事か。
「当たり前だろう。未知の場所に行くのに準備もせず猪突猛進して全滅なんてしたらどうするんだ? 男だけの一団ならともかく、俺達の男女比は目に見えて女性有利だ。仮に戦闘が出来る胡桃ですらも単純な力関係なら男に負ける」
「先遣隊が戻ってくるまでに襲撃されて全滅する可能性も考慮に入れろ。それに、今回はここまでの道を知っているのはあの子供1人だけ、子供を護ると言う意味でも見張りの目は多いに越した事はない」
「確かに一理ある。あんたが元のグループにいた時はそれが普通だったんだろうな」
少しばかり険悪になってきた、このまま立ち話する気にもなれず、俺は敷地内を左回りに歩き始める。
この中で一番の年長者は最早俺ではなく、昨日今日に入って来たこの坂上だ。だからと言ってリーダー権が悠里からこいつに変わる事はあり得ない。今回ばかりは坂上の言い分に悠里とその他の女性が賛同したからではあるが……
「効率的なのはいい事だ、それだけ無駄も減る。だがな、いい加減その自己犠牲精神と周りの気持ちを考えない行動はやめた方がいい。お前が寝ている間にあいつらはぺらぺらと喋ってくれたが、新しい話を聞く度に頭を抱えそうになった。効率主義も考え物だな」
「……耳が痛いね。生憎俺は不器用だ。いかに悠里達を護るか、一切の危険を感じさせずに生かすか。こんな世界でも……どれだけ奴らの心配をせずに済むかしか考えてない」
「その結果がこれだ。お前は常に壊れかけで、ふとした事で過去に囚われその度に奮起する。今までにどれだけ自分の命を危険に曝してきたかわかるか? 『いってらっしゃい』、としか言えない身にもなれ」
……坂上の言い分は間違っちゃいない。俺は悠里達に謝っても足りない程心配させた。じゃあどうすればよかったんだ? 悠里に、美紀に、重い物を持つにも苦労する由紀に武器の使い方を教えさせて前線に送り込めとでも?
イツキと圧倒的な火力が手に入ってからは大分マシになったが、それでもこの混沌とした世界を生き抜くのは辛い。弾も無限じゃない、俺の体力も無限じゃないどころか人より劣る。無理に無理を重ねて、ここまで生きてきた。
「っ! じゃあどうすればよかったって言うんだ……?」
怒鳴りそうになるが、なんとか堪えて聞く。そこまで言うからにはさぞ素晴らしい考えをお持ちなんだろう。俺なんかじゃ考えもつかない、その手があったかと感心せざるを得ない手段が。
「さあな……俺にはわからない」
「ふざけてるのか」
坂上はポケットから煙草を取り出すと、ジッポライターで火をつけ深く吸う。その顔は遠目から見れば無表情だが、近くで見て、こうやって話しているとどうも哀愁が漂っていた。
「いいや、大真面目だ。個人の能力、精神力、性格。そのどれを見ても今以上にいい結果はそうそう出せなかっただろう。勿論、全問正解と言ってやれるもんでもない。今まで誰も欠ける事なく生きてこられたのは間違いなくお前と、そんなお前を支えてきた仲間のおかげだ」
改めて煙草を口に咥え、大きく吹かす。副流煙が鼻をついて少し咳き込むと、坂上は申し訳なさそうに微かに距離を取った。
「お前は人を導ける程器用じゃないし、力もない。それは自分が一番わかってるんじゃないか?」
「……わかってる、元々俺は―――誰1人として、自分すら守れない」
「そういえば忍も『あいつはどれだけ最悪な状況でも諦めず、常に最善の道を取る為に使える物はなんでも使う奴だ』って言ってたな。お前は自分すらモノとして見た訳だ」
「……何かおかしな所でも?」
「いや、むしろ称賛されるべき精神だろうな。……だが惜しい、もしお前にとって心から信頼できる人間が居ればまだマシになってたのかもしれない」
信頼できる人間……そんなもの、とっくの昔に離別している。一度の再会は叶ったとしても俺達も大分移動した、また会えるとは思えない。
「お前が求める人間は思いの外近くにいるかもな」
坂上がニヤつきながら煙を明後日の方向に吹かす。あまりにも不自然で、俺はある種の期待を込めて煙の方へと視線を送る。だが、その先にあるのは無機質な灰色の壁。そこに忍が立っている訳もなく若干落胆してしまう。
「……何もないじゃないか」
「的確に俺達の事を追ってきたらそれはそれで怖いだろ。でもこうも言ってたな、『地図を見ればあいつがどういうルートを通るかわかる』と」
「だからと言って此処がわかる訳―――」
「そうだな、わからないに決まってる。だが……手掛かりや何らかのアクションは取ってるんじゃないか。俺達も道中感染者を屠ってきたが、死体の処理はしてない。精々物陰に隠すか道端に寄せるか。それだけでも道標にはなるだろう。……無線機とかは使ってなかったのか?」
無線機……使ってたな。普段使い用と、緊急時のチャンネルなんかも決めていた。
バッグを下ろして中から無線機を取り出す。バッテリー節約の為、滅多に使っていなかったが……とりあえず電源を入れて普段使っていたチャンネルに合わせてみる。
だが勿論都合よく誰かの声を拾ってくれる事はなく、微かなノイズすらも拾わない。次に緊急用のチャンネルに合わせてみると―――
『―――こ…ら、………第3………………どう中……、…り返す、……第3警戒…せいにてこう……』
「!?」
大分酷くノイズが混じり上手くは聞き取れなかったが、頭の中で音声を何度も反復させて理解しようとする。
こちら第3警戒……態勢か? 第3警戒態勢で………行動中……? 第3警戒態勢は昔俺がノリと勢いだけで決めた符号の1つだ。大まかに分けて5つあるその中の3つめは……
「意味は分かるか?」
「第3態勢は確か……『隠密行動を維持しつつ索敵』だったか……警戒を挟むとなると……厄介なのに絡まれてるな」
「感染者じゃないのか?」
「感染者を相手にする時は第4と第5だったんだ。第3以降は……主に人間になる」
端的に解釈すれば、恐らく追われているんだろう。何かしらヘマをしたか、もしくは裏切られたかで……いや、単純に第3勢力に絡まれている可能性もある。
『……ちら、ウェスタ。…3警……勢…て……中、アテナ…告ぐ。…っさと迎えに……!!!』
「……ああ、忍だなこれ」
大それた符号で呼び合うのはミリオタの常だ。どこから通信しているのかはわからないが、山奥でも届く範囲となると……本当に近い所にいるな。
「こちらアテナ。今どこにいる?」
『………!? …せーぞ馬鹿……………ひどく………とも………えない』
「それはこっちも同じだ。簡潔に、今の場所を言ってくれ。現在地はどこだ?」
『……パーだ。ドラ………トアとへいせ………た……………いる』
「ノイズが酷い。だがある程度わかった。迎えに行くから待ってろ」
『対…ん…い………いよな』
最後に聞き取りづらくとも下らない事だとわかる言葉を告げて以降、無線機にはノイズすらも入らなくなった。
「……最後何て言ったんだ」
「聞かなくてもいい。まあ無意味な事は言わないだろうから頭の隅に置いておこうか」
流石に坂上も察したのか、最後のひと口を吸うと携帯灰皿に吸い殻を突っ込んで無言になってしまう。
……何故こんな時に下ネタを言うのか? そんな事は分かり切っている。これもヒントだからだ。とりあえずまた音声を頭の中で反復させて聞き取ると、ドラッグストアの併設されたスーパー、その対面にいるらしい。
「とりあえず見回りをして悠里達に経緯を話す。それから……」
「また1人で行く気か?」
「……いや、今回は2人で行く。俺と胡桃だ」
「ほう、なんでまた神崎や俺じゃないんだ?」
「まあこれは最悪の状況なんだが……客を連れてきた時用だな。銃を扱える人員を配置しておけば安心感も違う」
本当の所は他にも理由はあるが……わざわざ言うまでもない。余計な情報を与えれば場を混乱させてしまう。それより今は手っ取り早く見回りを終わらせて悠里達に報告しなければならない。
「さっさと終わらせよう」
「フッ……そうだな」
斧を持ち直し早足で、それでも入念に建物の影や塀を確認していく。塀にも穴はなく、ヒビ1つとして見当たらない。血飛沫もなく、敷地内には俺たち以外の足跡もなかった。
……ここなら当分安住できるかもしれない、そんな風に安心してしまう自分がいる。だがその安心が油断を生むのは百も承知だ。いついかなる時も警戒を解かず、最悪の状況を予測し続けなければ……いざという時にどうすればいいかわからなくて誰かを死なせるハメになってしまえば、俺は一生後悔する。
敷地を1周して、イツキ達が入っていった玄関に向かうと、中からは楽しそうな談笑が聞こえてくる。どうやら中も問題なかったらしい。
「お、戻って来たな」
靴を脱いで声のする方に行くと、皆明るい表情で出迎えてくれる。こんな顔を見たのは初めてかもしれないな。
「外は問題ない、それはそうとして……皆に相談がある」
明るい空気が一瞬でどろどろとした重苦しい空気に変わったのがわかった。それぞれが顔を見合わせ、聞いていいものかもわからずおろおろしている様子だ。
横に居た坂上が落ち着かせるために「大丈夫だ、とりあえず座ってくれ」と一言告げると、それぞれ高そうなソファに腰を落ち着かせる。俺も坂上に促されるまま、皆の正面にあったスツールに腰掛けた。
「無線機に連絡が入った。……忍がこの近くにいる」
「雅、結論から入るのはいいが言葉が足りないぞ。それだと追っ手が来ていると思われても仕方ない」
「……そうか、それもそうだな。かいつまんで話すとだな? 忍が昔俺達で使っていたチャンネルでコンタクトを取ってきた。何かに追われてるみたいでこの近辺にいるから迎えに来て欲しい、と」
自分で言ってみると、情報不足なのが痛いほどわかる。これじゃ一度は逃がしてくれた忍が気が変わってもう一度追ってきていると解釈されても仕方ない。
「それって……どうなんだ?」
案の定、胡桃が首を傾げて悠里やイツキの方を見る。2人もこれだけではなんとも判断できず、同じく首を傾げるのみだ。3秒も経たない内に、悠里がゆっくり立ち上がって俺の方に近付いてくる。
「雅さんはどうしたいの?」
まさか俺に判断を委ねると? 俺にそんな度胸はない。もし悪い方向に転べば……ここにいる全員を危険に曝す。
「……多数決で決める。勿論俺以外の全員で」
「それはそうだけど、まず雅さんがどうしたいか聞かなくちゃ。だって今まで一緒に居た仲間なんでしょう?」
それはそう……なんだが……こればかりは流石に……俺が口に出して情に訴えかけるなんて真似はしたくない。内心どうするかなんてもう決まっている。今まで生き抜いてきた親友が助けを求めているなら断る要素なんてどこにもない。
だがもし、俺を騙して捕縛しようとしているなら―――
「……俺は行きたいと思ってる。ただ、騙されたと分かった瞬間………殺すしかない」
「こ、殺すって……? 本気?」
「勿論本気だ。もっとも、既に無線機で応答してしまっている以上範囲は絞られている。……俺達がこの先も安全に生きていくのなら、忍だけじゃない―――関係するものを全部殺して回る……と言いたい所だけどな。それを成し遂げる労力を考えればいっそ俺が出向いた方がいいのかもしれない」
悠里だけじゃない。胡桃や美紀までもがほぼ同時に息を呑んだ。
「そんな……」
「考えてもみろ。俺達……いや、俺は追われる身だ。死ぬ事を前提にしても、俺1人で全員が助かるのなら……」
「ダメッ!!」
悲壮な静寂が当たりを充満する中、悠里が叫ぶ。
「そんなの……ダメ……」
今にも泣き出しそうな声色で顔を覆う悠里だが、俺の頭の中には気の利いた言葉なんか一切出てこなかった。一発で説得できる言葉も、あるにはあるだろうが……それはこの一団と共にすると決めた時のポリシーに反する。だからこそ―――俺はただ無言で泣きじゃくる悠里を眺める他なかった。
「で、でもまだ騙されてるって決まった訳じゃないんだよな!?」
咄嗟に胡桃が助け舟を出してくれる。とりあえずこの空気を変える為にも乗っかってみるか。
「ああ、確率としては五分五分だがあいつはあまり人を騙す性格じゃない。もし人質を取られたとしても、まず逃げるか死ぬかを選ぶ奴だ」
「ならまだ騙されてる可能性も低いな!!」
「……今はまあ、会ってみるまでは分からないとしか言えない。だがもし本当なら、忍が仲間になれば、俺達にとってプラスにしかなり得ない状況だ」
「本当に……大丈夫なの?」
悠里が涙声で俺の胸に縋る。子供の様に、まるで俺以外頼る存在がいないように………額を力強く押さえ付けて、絶対に放さないという意思があるような気がする。
「……嘘は言いたくないから正直に言う、五分五分だ。でもきっと……いや、絶対に一度は帰ってくる。いつも、ごめんな? だけど、俺はこういうやり方しかできない」
「交換条件……」
「……はい?」
「帰って来たら、なんでも言う事2つ聞いて貰うから」
………なんだそれは? なんでも? 言う事を2つ? ……いや、いやいやいや……いや、逆に何を言われるんだ?
頭の中であらゆるシミュレートが始まるが、殆どを理性が弾いていく。悠里が……今までの言動や思考から言いそうな2つの事……いやわからない。仮にわかったとすればそれはそれで深い関係だ。だが1つ言えるとすれば、俺達は一緒に行動し始めてそう長くはない。その中で2つの命令があるとすれば?
…………いや全くわからない。夜遅くまで起きている事の禁止? それともあれか、きちんと3食食べる事か? わからない、わからない……
「……ちなみに内容は」
「教えない。でも帰って来たらしっかり聞いて貰うから」
どうしたらいいかわからず、つい坂上の方へと目線を送る。だが帰って来るのは「受け入れろ」という思念の混じった無言の頷き。胡桃や美紀、果てに由紀までも目配せするがそのどれもが仕方ないという感じの頷きだった。というか胡桃に至ってはなんか頬を赤らめていたが……いやその今にも泣きそうな顔はなんだ?
「わ、わかった。俺に出来る範囲内の事であれば……」
「……約束だからね」
最後に小指で指切りげんまんをして、俺と悠里は離れる。それ以降、どれだけ採決を取っても迎えに行く、という賛成票が満場一致となった。