夜の帳が下りたフェジテの街。夜間にも営業している酒場などが犇めく繁華街以外はすっかり静寂に包まれ、何処と無く不気味な空気が漂っている。取り分け大都市フェジテの裏の顔である貧民街は不気味を通り越して不穏な空気が流れていた。
フェジテの中心から離れ貧民街の中でも奥まった位置に居を構えていた酒場。今では潰れてすっかり不良の溜まり場と化しており、いつもなら柄の悪い不良が屯している頃合いなのだが、その日は違った。
荒れ放題となった酒場内に広がっているのは惨劇の跡。板張りの床には血の海が広がり、複数の人間だった
返り血で赤黒く染まった深緑の外套を身に纏った少年──ロクスレイは血に染まった短剣を片手に下げ、もう一方の手で空の注射器を握りしめていた。足元には同様の注射器やパイプらしき物が転がっている。
「悪ぶって薬に手を染めて、それで死んじまったら意味ないってことも分からないんですかねぇ……」
皮肉げな口調で呟き、手にしていた注射器を粉々に握り砕く。足元に散らばっていた注射器の類も念入りに処理し、ロクスレイは潰れた酒場を後にしようと踵を返す。
ふと、ロクスレイの視界に鈍く光る物が過った。荒れた店内の壁に掛けられた、割れた鏡だ。建物の隙間から差し込んだ月光を反射したらしい。
形を保っているのがやっとの鏡が写し出しているのは惨劇の店内と緑衣を纏ったロクスレイの姿。別段おかしな点はない。だがロクスレイには一瞬、鏡の中の自分がいつか精神世界で邂逅した初代ロビンフッドと重なって見えた。
「────ッ」
バリィン! とけたたましい破砕音が鳴り響く。ロクスレイが反射的に擲ったナイフが鏡を叩き割ったのだ。
音を立てて床に散らばる鏡の残骸。ナイフを放った体勢のまま硬直していたロクスレイは、肩の力を抜くように息を吐くと投げたナイフを回収する。
「……ったく、何を過剰反応してんだ。オレも疲れてるのかねぇ」
わざとらしく眉間を押さえながら酒場を出る。
外に出ると冷たい夜気と青白い月がロクスレイを出迎えた。辺りは不気味なほど静まり返っている。酒場内での不穏な空気を察知して住人達は揃って息を潜めているらしい。貧民街だからこそ、不用意に手出しをしてこないのだ。
どの道、貧民街で人が死のうと大して騒ぎにはならない。これが表の住宅街や繁華街ならば警備庁の警備官やらが介入するのだろうが、生憎と貧民街は殆ど無法地帯と変わらない。
無論、完全に放置しているわけでもないのだが、どちらにせよ対応は遅れるだろう。それまでにロクスレイは為すべきことを為さねばならない。
不意にロクスレイの懐で通信の魔導器が鳴動する。周辺に人気がないことを確認し、ロクスレイは通信に応じた。
『あら、早かったじゃない。そっちの始末は終わったのかしら?』
半割れの宝石から聞こえてきたのはロクスレイのよく知る少女の声。カリスマデザイナーとして活躍しながら貴族間の情報を探るエリザだった。
「まあな。つっても、オレが踏み込んだ時には殆どが末期で自滅、ギリギリ保ってたヤツをサクッとやるだけの簡単なお仕事さ。残念ながら、大した情報は抜き出せなかったがな」
骨折り損の草臥れ儲けとばかりに溜め息を吐く。少しでも有益な情報を得ることができれば良かったのだが、ロクスレイが現場に踏み込んだ時には既に手遅れであった。生き残りもまともに会話できる状態ではなく、後々の障害にならないよう排除する他なかったのだから。
『ふぅん、随分と薬の回りが早かったのね。それとも短期間に大量摂取でもしたのかしら』
「十中八九後者だな。洗脳されてたか禁断症状に耐えられなかったかは知れないが、酒場に残ってた薬の量からして間違いない。こっちがビックリするくらいの量でしたぜ」
『そう。フェジテにもそれだけの『
──
ロクスレイがわざわざ夜更けに貧民街の奥地に佇む潰れた酒場へ足を運んだのも、フェジテに大量の
エリザの不謹慎な発言も笑えない。連休前から既に
「そっちの調子はどうなんだよ。少しは有益な情報が手に入ったか?」
『残念だけど、今のところはいたちごっこが続いてるわ。売人やばら撒いてる輩を抑えても埒が開かない。だって連中、どいつもこいつも薬で洗脳されてるんだもの。尋問は意味なし、傀儡はいくらでも増やせる、これじゃあいつまで経っても元凶には辿り着けないんじゃないかしら?』
「それじゃあこっちが困るんですがねぇ。
薬で傀儡とされた人間を救う手立てはない。必然的に選択肢は一つ、後々の障害とならないためにその場で殺すしかないのだ。だがそれも根本的な解決策ではない。大元を叩かない限り、この騒動に幕引きはないだろう。
『分かってるわよ。帝都の惨劇を繰り返させるつもりはないわ。女王サマからも正式に依頼も入ったし、一族としても見過ごすつもりはない。全力で捜査に当たってるから、それまでは待ってなさい』
「あいよ、頼んますぜ……ところでエリザ、一つ頼まれて欲しいことがあるんだが」
『なに? ここ最近
やたらと棘のある態度である。事実、ここ数日はデザイナーの仕事に加え平時よりも裏の仕事に注力しているため疲労が溜まっていた。そこへ余計な仕事を持ち込まれたら誰だって嫌がるだろう。
ロクスレイは申し訳ないと思いつつも、昼間に起きたレオス=クライトスに纏わるエピソードについて簡単に説明し、その上で調査を切り出した。
『レオス=クライトス? あぁ、魔術学会でちやほやされてるおぼっちゃまだったかしら。男なんて興味ないからスルーしてたわ』
「オタクなぁ……」
いつも通りのエリザにロクスレイは呆れを隠せない。
『で、子リスがそのおぼっちゃまが気になるから調査してほしいってわけ?』
「ま、そういうことになるな。お嬢さんの勘は割と馬鹿にできないですから。それに、改めて考えてみると学会でも注目を集めている講師が、わざわざ特別講師としてうちへ来るってのも妙な話だと思ってな。ただ婚約者に会いたいがためだったらそれでいいんだが……」
もしも別の理由があって、それが
『ふぅん? ま、いいわ。片手間になるけど調べておいてあげる。感謝しなさいよ、この
「ハイハイ、いつも感謝してますありがとさんよー」
『アンタ、後で覚えてなさいよ……』
微かに怒気混じりの声音にロクスレイは微苦笑を零した。
『……そう言えば、アンタ。
「いや、お嬢さんも親友のことで頭が一杯みたいですから。これ以上、要らない悩みの種を増やすわけにもいかんでしょ?」
『ふぅん? まあ、いいけど。そういう悪い癖は治らないのね。後で何言われても
「は? おいちょっと待っ──って、切りやがったよアイツ……」
一方的に通信を切断されて魔導器はうんともすんとも言わない。やややりきれない感を残しながらもロクスレイは通信器を仕舞い、エリザの最後の言葉について思いを馳せる。
「別に他意なんざないっての。ただ……」
そう、ただ一つ。今回の一件はロクスレイが自分の手で決着をつけたかった。それだけのことだ。無論、大切な主人を無闇矢鱈と危険に近付けたくないという思いもあるが。
胸につっかえる感情を吐き出すように溜め息を零し、ロクスレイは己の仕事を果たすべく貧民街の闇へと姿を消した。
▼
グレンがシスティーナと恋仲で、そのシスティーナを巡ってグレンとレオスが決闘を行うという報はあっという間に学院中に知れ渡った。
まあ実際のところは、グレンは例によっていつもの如く調子に乗って逆玉の輿をゲットしてやると身も蓋もないことを宣いだし、レオスから提示された魔導戦術演習に向けてクラスの授業内容を急遽変更、文句たらたらの生徒達に魔導兵団戦の極意を教え込んでいる。いつも通りのロクでなしぶりだ。
そんなグレンの私情百パーセントの魔導戦術論の授業が続いたある日の昼休み。昼食を取るために生徒で賑わう食堂にて、ロクスレイは一人難しい顔を浮かべながら料理を突いていた。
ここ最近のロクスレイはルミアの護衛に
エリザも今回の一件で寝不足だと不満を零していたが、ロクスレイも十分寝不足だ。何より昼間もルミアに悟られないように気を張っているのだから休まる時がない。
洩れ出そうになる欠伸を噛み殺し、現状把握している情報の整理をしながら鹿肉の赤ワイン煮を口に運んでいると、不意に隣の席に人が座る。他にも席に空きはあるだろうにわざわざ隣に座ってきたのは誰だと横目で見れば、にっこりと微笑むルミアがそこに居た。
「お……ルミア嬢でしたか。何ですかい、オレに用でもありました?」
「うぅん、これといってはないかな。用がないと話しかけちゃダメ?」
こてんと首を傾げてルミアが問う。狙っているのか、大抵の男ならば一撃でノックアウトしかねない仕草に、まさか、とロクスレイは肩を竦めた。
「いえいえ、オレなんかでよければ幾らでもお付き合いしますですよ。ただ、いつも一緒にいるお嬢さん方はどうしたんだ?」
「えっと、システィならあっちかな……」
ちょっと困ったように笑うルミアの視線の先にはグレンへと突っかかるシスティーナの姿。逆玉の輿などとふざけたことを高らかに謳っている阿呆に今日も今日とて全力で説教かましに突撃している。
「リィエルは……ほら? こっちだよ」
そう言ってルミアが手招くと人混みの中から大好物である苺のタルトを一杯に抱えたリィエルが現れる。リィエルは手招きに従い、そのまま流れるようにルミアの隣の席に収まった。
「ね?」
「あー、なるほど。要はいつも通りってわけ」
つまるところ、いつも通り世は事もなしである。裏では帝都の惨劇再来の危機が現在進行形で迫っているが。
リィエルが両手でタルトをもぐもぐと食べる姿を一頻り眺めると、ルミアはくるりとロクスレイに向き直った。
「ところでロクスレイ君、最近ちゃんと眠れてる? さっきの授業の時、大きな欠伸してなかった? よく見るとクマもできてるし……」
ずいっと顔を寄せてくるルミア。不意打ち気味の接近に、しかしロクスレイは努めて動揺を押し隠して答える。
「まあちょっとな。調べ物やら何やらで忙しいだけさ」
「それってレオスさんのこと?」
「そんなところだ。オレなりに調べちゃいるんだが、なにぶんガードが固くてな。何だってあんな警戒してるんですかねぇ……」
怪訝にロクスレイは眉を顰める。時間に余裕がある時にレオスの身辺調査を試みているのだが、如何せん警戒が強すぎて迂闊に近づけないのが現状であった。
この手の調査事は【ノーフェイス・メイキング】を使えば比較的楽に終わるのが常であった。しかし今回に限って言えばロクスレイは梃子摺っていた。と言うのも、レオスが常に自分の周囲に使い魔で警戒網を張っているからだ。
ただの使い魔如きの警戒網であれば【ノーフェイス・メイキング】を以ってすれば容易く抜けられる。だがレオスが用いている使い魔はどれも音や振動に敏感な動物ばかりで、【ノーフェイス・メイキング】を用いても気付かれずに抜けるのが難しいのだ。
まるでロクスレイのような手合いを想定した上での使い魔の布陣。さしものロクスレイも迂闊にレオス当人に近付くことは出来ず、現状はエリザからの情報を待つしかなかった。
「今分かってるのは、あの優男が家ではちょいとばかし立場が悪いってことぐらいか。貴族ではよくあるお家騒動ってヤツだが……」
「でも、それだと尚更レオスさんが
元とはいえ王族であったルミアはこの手の話には強い。貴族の勢力関係や歴史、お家騒動などの分野であればロクスレイよりもルミアの方が的確な答えを出せるだろう。
「クライトス伯爵家は元の主家筋と学院の設立で家を立て直した分家筋との対立が問題視されてたかな。レオスさんは主家筋の人なんだよね?」
「ああ。今はその主家筋と分家筋のどっちが次期当主になるかで揉めてる真っ只中だ。そんな重要な時期に、主家筋の次期当主候補殿は家を離れてこんな所で婚約者を追っかけている。訳が分かりませんわ」
理解し難いとばかりにロクスレイは頭を掻いた。
もしもレオスに次期当主となる意思があるのならば、病気療養の講師の代わりに特別講師など引き受けはしないはずだ。そんなことに時間を割くくらいなら魔術の研究・開発に注力して明確な実績を積み上げる方が遥かに有意義である。まして婚約者を賭けて決闘など阿保らしい。
「……もしかして、レオスさんはフィーベル家との繋がりがあれば当主になれると思ってるのかな」
ぽつりとルミアが零した言葉にロクスレイが片眉を上げた。
「いやいや、それは幾らなんでもないでしょ。確かにフィーベル家は魔術の名門で歴史もある家だが、だからってその考え方は短絡的が過ぎるっしょ? 第一、大きな家同士が婚姻を結ぶには色々と障害が付いて回るだろ?」
「うん。強引な結婚は貴族間の勢力関係にも影響があるだろうし、政治運営にも支障が出ちゃうから、政府からの介入もあると思う。だからシスティとレオスさんが結ばれるのはかなり難しい話なんだ……」
もしもフィーベル家を手に入れて次期当主の座を狙っているとしたら、その目論見は最初から破綻していると言わざるを得ない。だからロクスレイもルミアもレオスの意図が出来ないでいる。
二人揃って思案顔で沈黙してしまう。現状手元にある情報だけでは確実なことが言えない以上、此処で議論を続けても詮無いことだろう。何よりもうすぐ昼休みも終わってしまう。
「ま、優男殿のことはこっちでもう少し調べてみるんで、ルミア嬢はフィーベル嬢のフォローを頼みますぜ?」
会話を打ち切ってロクスレイはお盆を手に席を立つ。
「あ、待ってロクスレイ君」
そんなロクスレイをルミアは呼び止め、手のかかる弟に向けるような優しい眼差しを向けた。
「もう無理はしちゃダメだよ?」
「……えぇ、分かってますって。その辺りのリスクリターンはちゃんとしてるんで、ご心配なく。そいじゃ、お先に失礼します」
飄々と振舞ってロクスレイはお盆を返却しにその場から離れた。その背中をルミアは物言いたげに見送り、小さく溜め息を洩らした。
「私がもっと強かったら、ロクスレイ君に無茶をさせないで済むのかなぁ……」
「……ん、どうして? ルミアは十分強い」
まさか返答が来るとは思ってもみなかったルミアは、口元にタルトの食べカスをつけたリィエルを見つめる。そして思わず小さく吹き出した。
「うん、そっか。ありがとう、リィエル」
自然と花のような笑みを零しながらルミアは布巾でリィエルの口元を拭う。何故お礼を言われたのか理解していないリィエルは、きょとんとしながらルミアにされるがまま口元を拭われるのだった。